(On the Milkyroad, エミール・クストリッツァ監督、セルビア、2017)
*注意:オチまでネタを割っています。
男は厩舎で女と邂逅する。ぎこちなく、けれど自然に数語がやりとりされる。
男は言う。
「僕の名はコスタ。きみは誰だ?」
女は返す。
「昔は女の子だったわ、今はもう違うけれど」
「僕といっしょだな。もう男じゃなくなってしまった……」
「どんな『男』だったの*1?」
「僕がかつてそうだったような男さ*2」
エミール・クストリッツァ監督最新作!『オン・ザ・ミルキー・ロード』予告
動物たちの小芝居を再演する人間たちよ
冒頭のシークエンスに二時間のストーリーラインがまるっと予告されている。
岩場にたたずむ二羽のハヤブサ。つがいだろうか、と勘ぐる間もなく片方のハヤブサが飛び立って、内戦*3の再開をまつ兵士たちを旋回しながら鳥の眼で俯瞰していく。
ぼんやりハヤブサの視線を追っているうちにカメラは地上で群れるアヒルたちへとバトンタッチされて、彼らのかたわらを豚が屠殺人によってある一軒家へとひきずりこまれていく
。やがて屠殺人が血でたぷんと膨らんだ革袋を持って出てきて、玄関先に設置してあったバスタブに中身をぶちまける。なみなみと揺れる豚の血のプールを見るや、アヒルたちは我先にとバスタブに飛び込んでいく。白い羽毛が真っ赤に染まる。
ただ動物の眼から見た即物的な狂騒が描かれていてなんとも居心地の悪くなっていたところに、戦闘用ヘリコプターが現れる。この機械仕掛けの飛行体を契機に戦いのひぶたがふたたび切って落とされて、そこかしこに銃弾が飛び交う。
ヘリは戦闘域を脱しようと奮闘する。が、おりあしく高速で向かってきたハヤブサと正面衝突、操縦室は鳥の血まみれに……なったかと思いきや、それは夢で、夢の主である主人公コスタ(エミール・クストリッツァ)がハッと冷や汗をかいてベッドから飛び起きる。
だが、画面から銃声はやまない。戦争そのものは夢ではなく、現実のようだ(ここでようやく演者のクレジットが表示される)。
彼は窓にハヤブサがとまっているのを見て、名を呼ばわり、リズミカルなパーカッションで出迎える。なるほど、このハヤブサがコスタの分身なのだな、と合点するのはまだ早い。
そうして、彼は日常の業務を開始する。前線の兵士にミルクを配達する仕事だ。彼はロバに乗り、黒い傘をさし、まるで『エル・トポ』みたいな風体で砲火をくぐる。まるで命など惜しくないか、あるいは戦争など起こっていないかのように、泰然とロバを走らせる。
ロバに乗るコスタは、いついかなるときも地に足をつけない。横着にも脚をロバの首にそって伸ばしてくつろぐことさえある。傘を翼のようにひろげて太陽を拒み、常時肩にハヤブサを従えて空と地のはざまをゆく彼はさながら鳥のよう*4。
なんとなれば、彼は望遠鏡を持っている。そのレンズを通して、陰からさまざな対象を観察する。ときにそれは人であり、彼のこぼしたミルクをすする蛇でもある。蛇。蛇は重要だ。でも、言及はあとにしよう。
とりあえずコスタは鳥だ。そう措定したい。
コスタをハヤブサと断定しないのは、彼が途中で別の鳥に変わるからだ。
ゼウスがレダを誘惑するために白鳥へと変身したように、彼もまた性愛のために水鳥へと変わる。ただし、白鳥ではなくてアヒルに、だけれども。
彼はとある事故から片耳が切り離されてしまう。それを元の通りに繕ってあげる女性が出てくるのだけれど、彼女がモニカ・ベルッチ演じるヒロインの「花嫁」だ。
彼女はもともと難民キャンプに身を寄せていたセルビア人とイタリア人のハーフだったのだけれど*5、その美貌をコスタの住む村の英雄ジャグ(クストリッツァ作品の常連ミキ・マノイロヴィッチ)に見初められてキャンプから誘拐同然にひきずりだされ、むりやりジャグの婚約者にされてしまったのだった。
ちなみにコスタにミルクを卸しているジャグの妹(スロボダ・ミチャロヴィッチ)もコスタに惚れていて、戦争が終結した暁には兄妹揃って結婚式をあげようと画策している。この妹というのも変わり者で、ひとつ印象的なのが実家に設置してある大時計に執心している点だ。
大時計は毎日故障を起こして狂いっぱなしなのだが、彼女は取り壊したり交換したりは絶対にせず大きな時計をいつも苦労して修繕する。おそらく戦争という狂った時間が終われば、幸せな日常=コスタとの結婚生活がやってくるという彼女の信仰がそうさせるのだろう。「たとえ明日で世界が終わったとしても、結婚式は開くわ」
ともあれ、いわば未来の義姉弟の関係になるはずのコスタと「花嫁」は互いに惹かれあっていく。初めは厩舎の窓越しに会話をするだけだった二人の関係は、井戸という水辺でコスタの耳を継ぐ肉体的接触を経て、何かが大きく動いてしまう。
そして戦争が終わる。ジャグと妹はクストリッツァ名物である盛大な結婚式を執り行う。ところが、祝い事に沸く村に多国籍軍の特殊部隊が唐突な襲撃をしかけてくる。なぜ? 事前に提示されていた伏線だけれども、「花嫁」は多国籍軍の将校のもとから逃げ出してきた来歴を持ち、その将校が「生死を問わず」彼女を取り戻してくるよう部隊を村に差し向けたのだった。
丸腰の村民たちは虐殺され、村は焼かれる。ジャグと妹も死ぬ。皆死ぬ。家畜たちも逃げ惑う。火だるまになりながら羽ばたこうとするアヒルのショットが観客の網膜に焼き付く。
将校の指令はこうだ。「蝶一匹残すな」。
とある幸運から虐殺を回避したコスタは、白無垢のウエディングドレスを羽織ったままの「花嫁」と共にあの井戸に身を潜める。井戸に貯まった水に潜る。めざとく井戸をのぞき込んで貯水の下をさぐる兵士たち。だが、そこに蝶々があらわれて、兵士たちを翻弄する。指令の遵守が仇となり蝶々に気をとられている兵士たちを尻目に、コスタたちは村から遁走する。手と手とをたずさえて。暗いトンネルの先にある光明へ向けて走り去るふたりの影は、まるで蝶々の両翅、あるいは鳥の両翼のようだった。
ハヤブサの羽だろうか。いや、水をくぐって生まれ変わったふたりはもうアヒルだ。
その証拠に、もはやコスタは徒歩しか移動手段を持たない。彼を地上から遠ざけていたロバは虐殺事件の巻き添えになって殺されてしまった。彼はアヒルみたく不器用に地を這うしかなくなる。たとえ、嵐の中で樹上に身を隠しながら愛し合うことで天上へ昇ったとしても、それは『ラ・ラ・ランド』のプラネタリウムよろしく二人の脳内だけで繰り広げられるファンタジーなのであって、アヒルの飛行のように一時的なものにすぎない。
ふたりはハネムーンみたいに甘く愛を交わしながら逃避行をつづける。川辺に家まで建てる。「花嫁」はコスタへの愛の証としてジャグから押しつけられた花嫁衣装を川に投げ捨てる。ふたりは幸福だった。
だが、兵士たちの追跡は執拗だ。
ふたりはついに彼らに捕捉されてしまう。マシンガンを抱えて迫りくる兵士たち。運の悪いことに、「花嫁」は魚用の罠にひっかかっておぼれかけている。
彼女を必死で探すコスタは、捨てられた白い花嫁衣装(彼が運んでいたミルクのイメージと重なる)の導きで「花嫁」を見つけ出したものの、そこで兵士の一人とかち合い水中でのとっくみあいに発展する。
コスタを助けるため「花嫁」はナイフを取り出し、兵士の首につきたてる。鮮血が水にぶわりとふきだして川のながれにそよぐ。冒頭の屠殺シーンが再演される。豚である兵士の血をアヒルであるところのコスタと「花嫁」は浴びてしまう。
ふたりは追い詰められていく。川を下り、滝壺へと身を投げ、ついにクライマックスの舞台である牧羊たちが群れる地雷原へとたどりつく。
そこで大スペクタクルが繰り広げられる。
ああいう感動は実際に観た者にわからず、観た人間であれば忘れがたくその印象を記憶しているはずなので、ここでは顛末を簡潔にそっけなく記すにとどめたい。
要するに、大量の羊たち(もちろんそれは大量の白でもある)と兵士が地雷によって吹っ飛び、「花嫁」も命を落とす。
それから15年後を描いたラストのパートも書くに及ばないだろう。
「花嫁」は”天国”にいる。コスタはミルクの代わりに白い瓦礫を運んで彼女の没地に敷き詰めることに余生を費やしている。彼はつばさを取り戻せなかった。
彼は丘の上に座って、空を旋回するつがいのハヤブサたちを見やる。あれは「花嫁」だ。うたかたのように消えた彼女との幸福な日々だ。もはや二度と届かない幸福が、「昔と違えてしまった」彼の頭上でうつくしく舞っている。
聖書の蛇の再評価
さて、本作ではさまざまな動物が印象的に使われていますが、とりわけ蛇は重要でしょう。誰が観てもわかると思いますが、『オン・ザ・ミルキーロード』はアダムとイヴの楽園追放のモチーフをプロットの基底部に明確に据えてあります。
劇中で蛇はコスタと「花嫁」に一回ずつ襲いかかり、体にねっとりと巻き付いて身動きをとれない状態してしまう。一見、攻撃行動のように見えますが、実はそれはむしろ死地を踏みかけていた彼らを救う行為であったと判明します。*6
蛇はどうやらふたりを守護する存在のようです。キリスト教色がところどころに垣間見える本作の文脈にあっては、どうも矛盾しているように見えますね。
劇中でも、ある村人が蛇についてこう言います。「蛇の誘惑に乗ってしまったばっかりに、俺たちはこんな世界に降りてくるはめになっちまった」
別の人物がこうも付け加えます。「蛇もいっしょにな」
クストリッツァの意図は何か。実は日本語メディアのインタビューで、聖書的なモチーフに関してはっきりと回答しているのです。*7
クストリッツァ:彼らは、旧約聖書に出てくるアダムとイブのようなカップルなんだ。そして、アダムとイブについて考えるとき、私はいつも思いを馳せることがある。彼らは、蛇にそそのかされて木の実を食べてしまったために楽園を追われることになったが、それ以前の彼らは、どう過ごしていたのだろうか? それを今回の映画で、描こうと思ったんだ。だから、この話はある種の神話だ。
……(中略)……
この映画は、「エデンの園」の物語に対する、私なりの回答なんだ。「エデンの園」では、アダムとイブをそそのかした悪者のように描かれている蛇だけど、古代メソポタミア文明をはじめ、かつて蛇というのは、神の一種であったという記録もある。新約聖書において、蛇は必ずしも悪者として描かれていないんだ。そして、さらにエデンの園の物語をよく読んでみると、アダムとイブをそそのかしたのは確かに蛇だが、そのあと蛇は彼らと一緒に楽園を追放されているんだよ。つまり、蛇は人類と運命を共にしたんだ。そういう意味で、蛇に感謝を示したかったというのがひとつあった。あと、もうひとつは、アフガニスタン紛争中にあったという、「牛乳好きな蛇に、ある男が生命を助けられた」というエピソード。それらを取っ掛かりとして、私は今回の物語を考えていったんだ。
たしかに蛇にそそのかされて、人類は大変な流浪を強いられたのかもしれません。ですが、追放者という点では彼らもまた苦汁という名のミルクを分かち合う仲間だったのです。
なにより、蛇がいなければ人類は性愛を知ることはなかった。
クストリッツァにとって蛇とは、人類を導いてくれる賢いけものなのです。
- 作者: エミール・クストリッツァ,田中未来
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