名馬であれば馬のうち

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ハロウィンの季節 ーー『魔女の子供はやってこない』を読むための六夜(3)

第三話「雨を降らせば」

 

地獄にスノードームで勝算はあるのか? ーー『魔女の子供はやってこない』を読むための六夜(2) - 名馬であれば馬のうちのつづき

 

 このエピソードより、「ねがいとは何か」が主題として掘り下げられていきます。

 

 

地獄の季節 (岩波文庫)

地獄の季節 (岩波文庫)

 

 

 


 夏子たちがてづくりのカメラでの撮影に興じていると、夏子の幼稚園児代の友人Mが泣きながら通り過ぎていきます。あとから聞かされたところによると、Mの父親が急死したそう。
 夏子はMの父親を魔法で生き返らせてあげよう、と提案します。が、ぬりえは浮かない顔。

 

「安藤さんはお金って好き?」
「お金?」私は繰り返しました。「好きだよ。小遣いは少ない」
「そっか。私はたまに作るのお金」「お金を作るの?」「すごい難しい牛乳パックみたいもんだよ」「なんで作るの?」「お願いされるからお金欲しいって。十億下さいとか、百億下さいとか」「へえ、すごい」億万長者だなと私は思いました。「え、何の話?」
「やめといた方がいいんじゃない」ぬりえちゃんは困ったように笑いました。「それさ」


  ぬりえちゃんに十億くれ、と要求したのは第一話のうぐいすさんです。死者の蘇生も第一話に出てきた魔法ですね。ぬりえは「そういうこと」を要求されて、夏子の目の前でどういう事態が展開されたよくおぼえていて、それとなく夏子に警告します。覚えていない身の夏子にしてみれば、お金が無限に沸いたり死んだ人が生き返るのは善に決まってる。
 翌日、学校で担任の先生が「明日嫌なイベントがあるとして、自分に雨を降らせて中止に出来る力があったらどうする?」と生徒たちに問いかけます。
 生徒の一人は「水をまく程度なら人も死なないだろうし、いいだろう」と主張します。が、先生は、できた水たまりで滑って転んで死ぬこともある、と説きます。原因が自然や神に属する事象なら問われない罪でも、人の自由意志が介在した時点で罪になる、と。ヒューム的な議論です。
 そして先生は人間の力を超越したことは人間が決定に関わるべきではないと諭します。

 

「プラスの面のあること、しょっちゅう目にすること、他の人なら許されること、しかし自分はやってはいけない、そういうことってあると思うよ。しかし誰かがやった日には悪い都合もあり。毒とかサリンじゃないただの水でもさ」
 みなぼけっと先生の話を聞いていました。何の話か私は掴みかねていました。
「神様しかしちゃいけないことってあるんだと思うよ」そう先生がまとめました。

 

 かたや、先生の訓話を伝え聞いたぬりえは「偉けりゃやってもいいんだったら、私は黙ってやるけどな」とうそぶきます。怪力乱神を操る彼女は神など信じません。同時に彼女自身はあくまでねがいごとを叶える手段でしかなく、ねがう責任、意志する責任はどこまでもねがう側にあります。
  依頼者が引いた線を魔女はぬりつぶして色づけするのです。
 
 だから、「よく叶うためにはよく願うことが必要があるんじゃない」とぬりえちゃんは言います。依頼者にはそのための「体力がいるのかもね」と。ふたりはMの家に「やってき」て、母娘にMの父親を生き返らせる意志があるかどうかを問いにきますが、母娘はほとんどショック状態にあって自分の願いを描くだけの体力はない。
 死んだ人に生き返ってほしいと願うのは単純なことであると夏子は思っているようなのですが、第一話の惨劇を記憶しているぬりえはねがうことの複雑さを理解している。ここでぬりえが長セリフで問いかけるジレンマは、もちろん第一話の反復です。

 

「事故で死んだんだねMさんのお父さん。ただの事故ならよかったけれど。例えばそれが自殺だったら、ただ生き返してもまた死んじゃうかもしれないね。死にたくなった理由も消してあげなきゃ。仕事なら探してあげて、喧嘩なら仲直りさせて、愛されないなら長所をあげて、病気で死んだなら治してあげるの。原因が一つでなきゃ全部直しといてあげるの。車が原因なら新車買ってあげなきゃ。疲れ溜まって事故ったのなら毎日マッサージしてあげなきゃ。恋人死んで後追った人を生き返らせようとしたら、本人も恋人も生き返らせるのかな。恋人の病気も治して。お父さんもお母さんも、お爺さんでもお婆さんでも? ただ巻き戻せばただ繰り返すよね。やり直せば今度はうまくいくのかな。死んだ家族とまた暮らすの。お殿様みたいに。またおいそれと死なないように」
(中略)
「自分からこれしてくれと、いってくるなら簡単なことでも」左折車が停まるのを待って、彼女は会釈しました。「こっちからどこまで何をしてあげるのかというのは、難しいような。遠ざかるような。私の願いじゃないものだから、上手に線をひきかねてしまうよ。願いにくいタイミングもある、いいとか駄目とかじゃなくて、強い願いほど難しい気する。ただ成功しないって話。事故の多い道って話」

 

 しかしそれでもMに何かしてあげたい。そう思ったふたりは「元気になる薬」を飲んで「元気」になり、翌日の通夜に参列しようとおもいつきます。葬儀となったら喪服が必要、というわけでおしゃれと天狗の聖地であり綿棒の特産地でもある原宿へ降り立ちます。
 そこからはケイト・アトキンソンの「シャーリーンとトゥルーディーのお買い物」*1とマシスンの「魔女戦争」*2と『ダンボ』のサイケシーンと原宿を混ぜてガーリーにジャパナイズしたような、ウルトラスラップスティックなトリップが展開されます。
 読むだけならナンセンスのかたまりみたいなシーンですが、「服を買う」というところに物語としての一貫性が隠されている。服を着る、あるいは皮をかぶることで別の誰かになるのは第二話以外のすべてのエピソードに出てくる要素です(第六話は服も皮も出てきませんが、夏子が「魔女を装う」という意味では該当します)。
 この話にも装いがあります。ふたりは十月も末日ということでハロウィンの衣装に身を包み、厳粛な雰囲気に包まれるM家の通夜会場に乱入し、あらんかぎりの傍若無人をはたらく。
 Mはふたりの姿を見て、魔女の仮装をしているとおもい、ぬりえちゃんから「願い事を叶えてあげるよ」と言われてすんなり受け入れます。
 
 願う側に努力が必要なら、願われる側にもある程度努力が求められます。占い師や呪術師が派手なみてくれをしていることが多いのはシャーマニズム的な理由よりも、「そうしたほうが皆信じてやすいから」なのかもしれません。Mはふたりを見てコスプレだとおもったわけですが、それでも魔女の格好は魔女と信じさせるのに効果がありました。そうして、Mも何を願えばいいのかをやっと決められるようになったのです。

 

 

 雨、服、カメラ。第三話における三つの重要アイテムです。これら三つを密*3に絡めて語るテクニカルさは本書でも随一です。
 そもそも夏子がMのお父さんを生き返らせようと言い出したのは、自分が葬式に行きたくなかったからで、なぜ葬式に行きたくなかったといえば「着ていく服がなかった」からです。それがぬりえちゃんとの原宿ショッピングを通過して、はからずも「着ていく服」を手に入れ、葬式に参列できてしまった。そういう心理を読者にはずっと伏せて旧友に対する同情や親切心だとミスリーディングを施した上で、葬式が終わったタイミングで「着ていく服がなかった」のが嫌だったと自白させました。矢部嵩はこういう情報の出し方が実に上手い。Mの願いを叶える話だと思わせておいて、事実そうだったわけですが、夏子のねがいを叶える話であった、という転倒です。ちなみに夏子に喪服がないのは序盤で夏子のお母さんの口にから語られています。フェアですね。

 タイトルにもなっている雨は、「雨が降ればとつい願うのは予定を堰き止めたいからで、どうせ全部が過ぎていくなら嫌な日も最初から来なければいいのにね」というぬりえちゃんの言のとおり、モラトリアム延長への漠然とした希望の象徴です。先に取り上げた先生の倫理たとえ話もここに関わってきます。モラトリアムに永遠はないわけですが、人はそれを願わずにはいられない。進むのが怖い日だってあるでしょう。
 Mもまた雨を願った人間の一人でした。通夜の会場でふたりに出会った彼女はこんなことを言います。

 

「私もこんなの着たくないし、あんまやりたくないもん葬式。今日中止になればいいのにって思ってた、雨超降って、洪水とかなってさ」「へー」
「雨が降っても中止にならないね。やりたくなくてもするんだね葬式は」

 

 父親との思い出を何も持てないまま葬式が終わってしまったら、父親と自分とのあいだにあったはずのものがほんとうに何も残らなくなる。漠然とそうした不安を抱えていた彼女は葬式の中止を願っていたのでした。
 雨が降っても中止にならないイベント。それが葬式であり、死であり、別れです。第三話は読者に「別れ」を意識させる役割も果たします。
 別れがさけがたいことをうすうす予感しているからこそ「いつか来る日で来ないで欲しい日、洪水を待つ他に出来ることってあるかな」とぬりえちゃんは空に向かって投げかけます。
 イベントを延期させるために雨を降らせることが人間に許されないのならば、永遠に別れないこともまた罪になる。彼女たちが地獄に行かねばならないのは、一面ではそういうことです。原宿で本来は堰き止めるためのはずの雨を、流すために使ったのはぬりえちゃんなりの反逆宣言ではなかったのでしょうか。

 

 カメラ。永遠を保存するため人間に許された数少ない技術のひとつです。第三話は牛乳パックを材料に工作したカメラでふたりとブルースが写真を撮ろうとするところから始まります。
 特にフィクションを騙ろうとでもたくらまないかぎり、写真や映像は常に過去を物語ります。記録は映っている風景や人物が実在したことの強力な証拠となり、それが残されたものたちにとっての思い出のよすがとなるのです。
 たとえばグレッグ・イーガンの『ゼンデギ』にこんなシーンがあります。妻を事故で失った主人公のマーティンが一粒種であるジャヴィードの夜泣きに悩まされる。マーティンは息子に妻との思い出の旅行写真を見せる。すると息子はみごとに泣きやみます。

 

 母親の人生は自分がいま知っているのをはるかに超えた過去に続いていることの証拠であるこの写真が、失ったものの小さな一部をジャヴィードに取り戻してくれたかのように。母親がずっと存在しつづけているという感覚、その泉は決して枯れることがないという感じ。
(『ゼンデギ』早川書房) 

 

 ジャヴィードと違い、Mの手元にはお父さんの写真が一枚もありません。そのために魔女にねがうことになるのです。故人が実在した証拠さえ、思い出の確信さえ手に入れば、死を受け入れていきていける。アルバムとはそのために存在します。
 ちなみにこの時点では、ぬりえちゃんに「時間を操作する」魔術は使えません。「プロい魔女」しか扱えない高等魔法であるため、見習いのぬりえちゃんに時間をさかのぼったりするのは無理なのです。彼女が変装などもっぱら現在を粉飾・捏造する技術に終始するのも、そうした制約のためでしょう。時間魔法を使えない事実はラストへの伏線にもなっています。

*1:東京創元社『世界が終わるわけではなく』所収

*2:早川文庫NV『運命のボタン』所収

*3:三つだけに