名馬であれば馬のうち

読書、映画、ゲーム、その他。


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トレヴェニアン、江國香織・訳『パール・ストリートのクレイジー女たち』(集英社)

 いわゆる自伝的小説を読まされる際に作者作品における虚実の距離をいかに測るかという難問がありまして、基本的にはそういうことを考えだすとめんどくさい。いっそ、各々が感じる「それっぽさ」で測ればいいと思います。

 妹と母と僕は、ノースパールストリート238番地の家の前の階段にならんで腰をおろして、馴染みのない都会の喧騒に圧倒され、気後れしていた。階段のわきには、寝具や服や台所道具の詰まったダンボール箱が、紐で縛られたまま積んであった。まわりにはがらくた同然の家具があり、容赦のない昼の日ざしのなかで、荷物はどれも古ぼけてみすぼらしく見えた。その日は聖パトリックデイで、三月半ばの日ざしはうららかだったが、日陰には冬のつめたい空気がまだひそんでいた。一九三六年、僕は六歳だった。妹は三歳、母は二十七歳で、僕たちは新しい生活を始めようとしていた。


p.9


 須賀敦子の『遠い朝の本たち』に続けて、老大家の絶筆、それもWWII下の銃後で過ごした少年少女時代の思い出を書き綴った本を続けて読んでしまった、そう、まったく無作為に読んでしまったわけで、終戦記念日を一ヶ月後に控えた被曝国民の血がおそろしい。
 よくよく自伝じみた小説ですけれども、須賀敦子のエッセイと違い、トレヴェニアンはいちおう小説の体裁で書いています。
 あくまでいちおうなんで特に大した山があるわけでもオチがつくわけでもありません。人生は不条理と不可解の連続だッ! みたいなストーリーであって、まあしかし同時に描かれるのは生き(てい)た人間でもあるので積み重ねられるエピソードになんとなく一貫性みたいなものが備わっていて、どうやらそれを何がしかの物語的結構を帯びているようなのです。


 アメリカで本書が出てから十一年、トレヴェニアンが亡くなってから十年。
 読む前には、さしあたって、なぜ江國香織なのかという疑問があります。なぜトレヴェニアンなのかという疑問があります。トレヴェニアンを担当してきた訳者はてんでバラバラだったわけで、伏見威蕃が訳そうとよしもとばななが訳そうと勝手じゃねえか江國香織はいちおう訳者としてもやってるわけだし、かとやけっぱちに無視してもよさそうな疑問ですが、ただでさえ分厚いこの小説を前に、なるべくなら万難でも一難でも排しておきたい。そして検索などかけてみると、思ったとおりどうやらこの国では江國香織が訳をやるということが、円城塔舞城王太郎のときほどでないにしろ何かしら特別なイベントであると見なされているらしく、インタビュー記事がみつかってしまうわけです。
 http://shukan.bunshun.jp/articles/-/5115
 よくわからない。私は透明な翻訳に徹したので、ただトレヴェニアンの遺作として受け取れということでしょうか。たしかに読みやすい。伝わってくるのは江國香織の少女時代など混じらない、完全な1930年代のニューヨークの下町の風景です。
 

 
 直情的で頑固で病弱な母親がいて、シャーリー・テンプルに憧れる妹がいて、心優しいユダヤ人の大家がいて、その妻である怪しげな占い師がいて、一族内で交わる悍ましい大家族がいて、戦傷で呆けてしまった老人を介護して暮らすひとりぼっちの老婆がいて、初恋のシスターがいて、ラジオがあって、空想に長けた少年がいる。となれば、マキャモンで育ったこどもならずとも、なにかしら魔術に満ちたジュブナイルを期待してしまうところです。
 しかし、トレヴェニアンは夢想家であると同時に妙に冷めたリアリストでもある。リアリストであると同時に、ときどき妙に夢想家でもあります。1930年代のノースパールストリートには、幻想と現実が混在していたけれども、それはちょっとビターな現実よりの生活でした。週に七ドル二十七セントの生活補助手当で賄える範囲の夢で我慢しなきゃいけない。ラジオを手に入れるとなると、もう大騒ぎ。
 生まれつき賢い少年には母親から多大なる期待がかけられています。パールストリートの狂ったどんぞこから自分と娘をつれだしてくれるのではないか。自分たちを捨てたろくでなしの父親を何年も思いつづけているこの夢想家は、息子が自分たちをひきあげてくれるのではないかと夢見ます。夢がなければ生きられない女性なのです。息子が医者になる、タップダンスを修得した娘が第二のシャーリー・テンプルになる、新しい恋人と農場を持って幸せに暮らす、自分を捨てた夫がいつか戻ってくる。そして、そのどれもが叶わないと知る度に傷ついて、切なくなって、暴れてしまいます。
 少年は母親の巨大な期待におしつぶされそうになります。家の財政事情から自分が医者になるための大学へ進めないことも、16歳になったら働きに出て母と妹を養わねばならないことをうすうすわかっていて、そうした未来に絡め取られるまいと、空想をフルに爆発させてごっこ遊びにふけります。
 母も息子も似たもの親子で、互いに愛し合っているわけですが、同時に憎みあってもいる。そういうクレイジーな日常を営むパワフルな母子家族の話です。
 どこにも決定的な瞬間がないようでいて、あらゆる瞬間が決定的であるようにも思われる。なぜ回想記だとか、エッセイだとか、自伝的小説を読むのかといわれれば、そういう試しの機会のやわらかさが魅力なのかもしれません。


パールストリートのクレイジー女たち

パールストリートのクレイジー女たち