名馬であれば馬のうち

読書、映画、ゲーム、その他。


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ゴールマウスにでも住むつもりかい?――『REMATCH』について

 小柄な少年や下手くそや臆病者がゴールキーパーになり、両側に二十人から十五人ずつゴールラインの幅いっぱいに広がって立たされた。「怖じ気づいた」プレイをしたり、頑張りが足りないとみなされるとすぐゴールラインに追いやられ、その試合中はもちろん、その後も長い間フィールドに戻ってこられなかった。


    ――H.C.Bentham, “Football at Westminser School”*1



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 オンライン対戦ゲームをあまりやらない。
 特に複数人でチームを組んでやるものは。まともに遊んだことがあるのは『APEX LEGENDS』、『スプラトゥーン』の2と3くらいだろうか。その乏しい経験からいうのなら、オンラインのCOOP、それもチーム対戦ゲームのプレイヤーはおそろしい。

 その印象は主にSteamのレビュー欄とTwitterの見知らぬひとたちのツイートによって形成されたものだ。かれらは「野良」を憎む。なぜなら、かれらは自分だけは完璧なプレイングをキメているのに、「野良」どもはその努力を台無しにし、連携への理解せず、和を乱し、チームを惨敗へと追いこむ。真の敵は敵チームではなく、味方の「野良」である。「野良」の多くは中国人ないし韓国人であるけれども、まれに日本人だ。「野良」を憎むプレイヤーたちは、ゲームの購入を考えているひとびとに向けて「チームを組むときはボイスチャットの可能な、戦術を熟知した知り合いとやろう。野良とはやるな」と呼びかける。そうしないと、そのゲームの楽しさは味わえないのだ、と。
 つまりは、こうだ。「野良」は下手くそである。「野良」とは他者である。「野良」は害悪であり、その存在はゲームの価値を貶める。
 そして、「野良」とはわたしのことだ。


『REMATCH』はオンラインサッカーゲームだ。プレイヤーひとりにつき選手ひとりの操作を担当し、5対5*2に分かれて6分間戦う。ファウルはなし。オフサイドもなし。タッチラインなし。ゴール以外のアウトオブプレーは存在しない。
 細かいところではゴールごとにポジションの初期配置が変わる、攻撃時の操作には特にエイムを要求されるためにTPSっぽい、とかあるのだけれど、まあだいたいそんなところだ。難しいところはなにもない。だいたい、あなたの想像するとおりのゲームが出てくる。
 そして、あなたの想像するとおりのプレイヤーたちと出会うことになる。
 ぜったいにパスを出そうとしないチームメイト。ゴール前に張り付いて、なにがなんでもハーフラインから手前に戻ろうとしないチームメイト×4。ボールを要求するエモートをやかましいくらい連発するくせに実際ボールを渡すとすぐにロストするチームメイト。コールドゲーム寸前になるとやる気を失って自陣のゴールにボールを蹴り込むチームメイト。回線を切断するチームメイト。あらゆる点で自チームより優れている敵チーム。
 あなたは最初、ランクをすこしあげるだけでこうした魑魅魍魎たちのるつぼから抜け出すことができるとおもうかもしれない。ランクマッチなのだから、同ランク帯、あるいは近いランク同士でマッチングするものだろうと。そうではない。仮に最高ランクに到達したとしても、ランクマで最低ランク帯のプレイヤーとマッチングすることは大いにありえる。そういう仕様だ。しかも相手チームや味方チームの構成メンバーがどうであれ、勝ち負けで増減するランクポイントは変わらない。勝ったらプラス20ポイント。負ければマイナス20ポイント。格下や格上という概念はない。そういう仕様だ。どちらかのチームから脱落者がでて数的不利(5人しかいない試合ではひとりの欠員が致命的な不利を生む)をこうむったとしても、負ければマイナス20ポイント。そういう仕様だ。
 察しのよい読者にはもうおわかりかもしれない。こんな闇鍋において、フレンドたちで固定したチームを組まず、ソロで、「野良」でランクマッチに挑むというのが、どういうことか。





 数時間遊ぶうち、奇妙なジレンマに取り憑かれていく。自分がMVPクラスの活躍をした試合にかぎって負け、自分が最低の貢献しかできなかった試合で勝つ。数十時間後、いまだにゴールド帯(下から三番目のランク帯)でもがき苦しんでいる頭にこんな想いがもたげる。
 自分は、味方にとって不要なプレイヤーではないのか。
 シュートは外す。パスはミスる。タックルは交わされる。気がつけば、だれもあなたにボールをよこさない。
 不要どころか、害悪ですらあるのではないか。
 味方の「ナイス!」エモートが皮肉のように聞こえ始める。ネットに溢れる「野良」への罵詈雑言がすべてあなたを指しているように見えだす。有名な高ランク帯実況者が配信で「この味方は使える」「この味方は使えない」と試合中に選り分けている姿を見るたび、自分はきっと後者にカテゴライズされるのだと泣いてしまう。

 
 ポジションが次第に後退していく。いつしか、ゴール前に出なくなる。それは単に多くの試合で他のチームメイトたちが守備をしないためでもあるが、なにより自分が臆病なためでもある。
 拠り所になるのは子どものころの記憶だ。けっして、アスリートとはみなされなかったあの日、休み時間のミニサッカーで仕方なしに「あまりのポジション」であるゴールキーパーを任された。そこであろうことか、好セーブを連発し、一夜にして学年一のゴールキーパーと称えられるようになった、あの甘美な成功体験。
 そうやって、最終的に後じさりつづけた足はゴールラインの手前へ行き着く。最後方からならすべてが見え、おもいがけない瞬間におもいがけない方向からボールが飛んでくることもあまりない。99人が決められる決定機を外してしまう例外的な100人目となることもない。
 ゴールマウスは臆病者にとっての最後の砦、やさしい繭だ。
 人種としてのゴールキーパーに着目した奇妙な名著、ジョナサン・ウィルソンの『孤高の守護神 ゴールキーパー進化論』にはこうある。

 ゴールキーパーは得てして内向的で、過ぎたことをくよくよと思い悩み、なぜ自分のせいではないのに自分だけがこんなに酷い目に遭うのかと悩む。常にマイナス思考で最悪の事態ばかり想像する暗い人間がゴールキーパーになろうとするのか、それともゴールキーパーというポジションが人をそんな人間に変えてしまうのか?


 ペーター・ハントケのデビュー小説『不安』を映画化したヴィム・ヴェンダース監督の『ゴールキーパーの不安』では、かならずしもサッカーが主題とはいいがたいプロットにもかかわらず、そうしたキーパーの性情が的確に撮らえられている。冒頭でいかにも憂鬱そうな顔つきのキーパー、ブロッホ(アーサー・ブラス)が試合中に暇を持て余してゴール裏でグローブをつけ直したのち、ゴールマウスに戻ると、「オフサイド!」という味方の抗議の直後に画面外からボールが飛んでくる。ブロッホは微動だにできずに得点をゆるす。ブロッホの憮然とした表情。それは、わたしたちが「サッカー」と聞いてイメージする歓喜や興奮の顔からは隔絶している。かれはサッカー選手らしくない。 
 ゴールキーパーはそもそもサッカー選手の定義から外れる運命にある。ゴールというゲームの目的であり快楽を妨げるという点で、ゴールキーパーは本質的にアンチ・フットボーラーだともいう*3
 だからだろうか、サッカー草創期のゴールキーパーたちは魅力的な反逆者が多かった。


ウィリアム・”ファッティ(太っちょ)”・フォルク


 たとえば、一八九〇年代から一九〇〇年代にかけて活躍した名ゴールキーパー、ウィリアム・フォルク。かれは「マンモス」とも形容される巨躯で知られ、一時は体重が百八十キロ近くにも達したというが、動きは誰より俊敏で、そして無頼だった。味方チームが不甲斐ないと憤慨して勝手にフィールドを離れることもざらだったし、試合中に自分を削ってきた(とフォルクがみなした)相手フォワードの足を掴んで逆さ吊りにして頭から泥にぶち込んだこともあった。
 第一次大戦中に三十六歳の若さで戦死したリー・リッチモンド・ルースは、ゴールマウスにずっと棒立ちしているだけだった当時のキーパーの常識を破り、ペナルティエリア外へ飛び出してディフェンスに参加した。ときにはゴールを決めることさえあったという。ホルヘ・カンポスの先祖みたいなキーパーだ。
 フォルクもルースも、稀代の名手であり、かつ破格で気難しい人物だった。かれらのような選手がゴールキーパー史に多いわけについて、ウィルソンはこう分析する。「ゴールキーパーほど運命の気まぐれに恒常的に向き合っているスポーツ選手はほかにいない。曲がってくるボール、イレギュラーするバウンド、一陣の突風、瞬間的な判断ミス、爽めるしかない見事なシュート、そんなものが試合中の彼の奮闘を一瞬で帳消しにする。結局ゴールキーパーは、考える時間を与えられ、一人で思い悩む選手なのだ……」。


 そう、勘違いしてはならない。フィールドに安全地帯などない。ゴールキーパーに落ち着いても、「野良」でありつづけることの恐怖は依然として残りつづける。なんでもないボールをファンブルするし、相手のシュートとは逆方向に飛んでしまう。失点後の味方の「ナイス!」エモートは、励ましだろうか、冷たい皮肉だろうか。


 『Rematch』でキーパーとして熟達するのはさほど難しいことではない。フィールドプレイヤーと違って、細かい操作技術(それもチュートリアルで教えてくれないテクニック)を必要としないし、飛び出しとジャンプのタイミングさえ見誤らなければまず失点しない。*4特に、真正面からシュートを打ってきがちな低位〜中位ランク帯においては。
 比較的まともなキーパーと雀の涙程度の守備意識のあるフィールドプレイヤーがひとり、そのふたりが両陣営にいるだけで点が入らなくなる。それは、もうびっくりするほど点が入らない。
 『Rematch』の延長戦には制限時間がない。ゴールデンゴール(Vゴール)方式で、決勝点が入るまでは終わらない。いつまでも、終わらない。

地獄のエクストラタイムのはじまり

 ある試合で0-0のまま延長戦が15分続いたことがあった。通常の試合時間を含めれば計21分。あまり長い時間ではないようにおもわれるかもしれない。けれど、それはフィールドに立ったことのない人間の感覚だ。延長戦での時間は伸延されていく。一秒一秒が一時間や一日にひとしい。過ぎた時間はそのままそのチームの賭け金になる。勝者総取りで、敗者にはなにも残されない。試合中のスーパープレイや華麗な連携、そしてそれらを通じて積み重ねられたプレイヤー同士の友情がたったひとつのミスで無惨にも打ち砕かれるのだ。賭け金は秒ごとに倍々になっていく。それはそのまま全プレイヤーの緊張感へと変換される。凡ミスのリスクと発生率が上がっていく。エクストラタイムが五分も経つと息が詰まってくる。十分経つと冷や汗が止まらなくなる。十五分では? 現実が崩壊する。自分がやっているのは、もはやサッカーでないのでは、という錯覚に陥る。首に縄をかけられた状態で処刑台につま先立ちしているようなものだ。心臓がみぞおちの底まで沈んでいきそうな圧をおぼえる。生きた心地がしない。
 ゴールデンゴール方式の衰退とともにあまり耳にしなくなったが、かつては延長戦のことをサドンデスとも呼んだ。すなわち、突然の死。
 その試合、わたしはキーパーではなく、フィールドプレイヤーであることに感謝していた。ご存知のように0-0の試合は互いのフィールドプレイヤーにすべての責がある。キーパーにとっては理不尽な罰を受けているもおなじだ。自分はこの場でだれよりも最善を尽くしている、現に最高のプレイヤーであるはずなのに、この場にいるだれよりも苦しんでいる。
 断言してもいいけれど、実際にはそのキーパーが前線に出ても状況は好転しない見込みが強い。結局のところ、5人でひとつのチームであり、その膠着状況も味方の5人と敵の5人で作り上げた共同制作品だからだ。このどんなランク帯が混ざるかわからない闇鍋のランクマッチで、同程度の実力のへたくそ同士が10人揃ったときにだけ起きる奇跡みたいな喜劇。だが、仮にそれを言えたとしても、自分でわかっていたとしても、キーパーの抱える不条理な感覚は拭えなどしない。

 試合時間が21分と30秒ほど過ぎたとき、われらがキーパーは発狂した。キャッチしたボールを持って踵を返し、自陣ゴールへと蹴りこんだ。
 味方チームはだれも何も言わなかった。ボイスチャットで罵倒するものもいなかったし、皮肉のこもった「ナイス!」のひとこともなかった。
 みな、キーパーの苦しみをよく理解していた。『REMATCH』で、0-0の延長戦でのキーパーの立場に立たされたことのないプレイヤーなどいない。敵チームですら、決勝点の決まった喜びや延長戦の泥沼から解放された安堵よりも、うちのキーパーに対する同情がまさっただろう。
 あんたは優秀な守護神だったよ。
 だが、わたしたちチームメイトの慰めと称賛がキーパーに届くことはない。そのひとは、ペナルティエリアの孤独に囚われつづける。

 サッカーのプレイヤーは囚人だった。比喩でなく実際にあったことだ。十四世紀のイングランドでは野蛮な「フットボール」を行ったものは国王の名において獄へ投ずる、というお触れがでた*5。1942年8月にナチス占領下のウクライナで催されたキエフパン工場代表チームとドイツチームとの試合では、キエフチームの選手たちは空気を読まずドイツチームを打ちのめした咎で後に全員ゲシュタポに逮捕処刑されたという。ローラン・ビネの歴史小説『HHhH』では(ほかのあらゆる場面同様)、キエフチームのキャプテン兼ゴールキーパーの処刑シーンを劇的に切り取っている。「……ニコライ・トルセヴィッチは首筋に銃弾を撃ち込まれる前に、かろうじて「赤軍のスポーツはけっして死なない!」と叫んだ。*6
 当時の報道によるとトルセヴィッチのファーストネームはニコライではなくミコラ*7で、幾分の真実を含むとはいえ「死の試合」もまるごと伝説通りではない*8ようなのだけれど、ここで重要なのは真実よりイメージだ。サッカーのプレイヤーは、フィールドという檻に閉じ込められ処刑を待つ罪人であること。
 

あるときの松永成立


 ひたすら野良でランクの昇降格を繰り返していたある日、慣れない通知が届いた。チームアップの誘いだった。どうも、前の試合でたまたま調子よく好セーブを連発していたところを見込まれたらしい。フレンド同士でチームを組んでいるのかとおもっていたら、どうも「野良」の寄せ集めらしい*9
 参加を承諾する。試合が始まると、キーパーポジションのプレイヤーがエモートを叫びながらゴールマウスを離れていった。このチームはキーパー専業を求めているんだな、と読み取った。

 頼られている、と実感するのは快い。

 期待に応えた。二試合連続のクリーンシート(無失点)。二試合連続のMVP。この煉獄の最下層で、ついに在るべき居場所を見つけた気がした。
 デイヴィッド・ピースは『The Damned Utd』でこんなことを書いている。「最高のチームとはクリーン・シートで試合を終えるチームのことだ。クリーン・シートには良いキーパーが要る。良いキーパーとは、キャッチングが安定しているキーパーだ。」
 作中でリーズの監督を務める主人公ブライアン・クラフが、キーパーのデイヴィッド・ハーヴェイに対してかけたことばだ。リーズ史上最速での監督退任記録(44日)を持つクラフは、このセリフの41日後にチームを逐われる。
 何事にも永遠はない。ホイッスルはいつかは鳴るのだし、キーパーはいつか失点する。汚点のつかないシートなどない。わかっていたはずだった。おまえは「良いキーパー」ではない。
 神話は早くも三試合目で崩壊した。飛び出しをミスっての失点。しかも二点分。


 子どものころのトラウマがフラッシュバックする。学年一のゴールキーパーに祭り上げられた数日後、またミニサッカーの試合に呼ばれた。今度はトップ指名だ。自信にみちみちてゴール前に立った。
 だが、その日はなにもかもうまくいかなかった。大量失点。チームメイトたちは「今日は調子がわるかったみたいだね」と声をかけた。
『REMATCH』でも物言わぬ味方チームメンバーのシャープなポリゴンの顔に、子ども時代のクラスメイトたちの顔が重なった。やさしく柔らかな失望。かれらの期待に、わたしは応えられなかった。羞恥に焼かれそうになりながら、試合後、そそくさとチームを抜け、ゲームを閉じた。もう二度とかれらと会うことはない。わたしのユーザー名はかれらには「期待外れのゴールキーパー」として記憶される。
 キーパーが記憶されるのは常に失点の瞬間だ。何百回チームを救おうと関係ない。われわれ網膜に刻まれているのは自陣にボールを投げ入れる南雄太であり、ゴールポストに持たれて唇を噛むオリバー・カーンであり、味方からのバックパスをキックしようとして空振りし、そのボールの行方を振り返ることなく固まって立ち尽くすポール・ロビンソンだ。ヒトの眼はボールを追う。だれもキーパーを追わない。だから、みな目撃している。すべてのキーパーが破滅する瞬間を。
 死にたくなどなりはしない。だれかの信頼を裏切ったことで死にたくなるのは二十歳くらいまでだろう。その歳をすぎると、大体の人間はだれかの期待を裏切ることに慣れきってしまう。悔やんだり、申し訳なくおもっても、死にたくはならない。それがゴールマウス前の人生というものだ。



 だからといって、つらくないわけでもない。憂鬱だ。打ちのめされている。もう二度と『REMATCH』を立ち上げる気にならない。

 オンラインマルチゲームとオフラインゲームの違いは、単に画面の向こうに人間がいるかどうかではない。みずからの有用性を常に証明する義務があるかどうかだ。刹那ごとに離散集合する能力主義者たちメリトクラッツの宴。
 こどもたちが『カウンターストライク』をプレイするとき、擬似的に経験されているのは戦争などでなくて、もっと普遍的でおぞましい、わたしたちも知っているなにかの極限だ。


 あるいは生活をたてなおす良い機会かもしれない。『REMATCH』ばかり遊びすぎた。この世に存在するゲームは『REMATCH』だけでなく、なんならサマーセールで積んでいるものが増えている。
 無限に遊べるゲームは、もういいよ。二、三時間で終わるものがいい。ナラティブの効いた、小品ながらも、心に、人生に残る体験が欲しい。深甚で普遍的な問いかけを内に宿したもの、あるいはジャンルの歴史をリスペクトしつつ上質にデザインされたもの。そうしたゲームたちのほうがゲームとして芸術として「上等」で、プレイに値するのではないか。『REMATCH』を50時間やることと、『Balatro』を50時間やることのあいだに本質的な違いはない。相手がSteamに存在を保証された(おそらく)人間であるか、イカれた乱数によって生成されたピエロか、くらいの差だ。

proxia.hateblo.jp

 だから、ここに誓おう。『Balatro』のときのように。
 わたしはもう二度と『REMATCH』をやらない。Steamランチャーの「プレイ」ボタンを押さないし、ランクマッチのマッチング開始ボタンを押すこともない。数十秒でマッチングして、「ベータテストやリリース初期に数分かかったのが遠い昔のようだ」などと感心したりはしない。そうして始まった試合で、先程抜けたばかりのチームのメンバーの名を見つけて気まずくなったりはしない(そう、「もう二度とかれらと会うことはない」なんてことはない。クロスプレイに対応していない現状の『REMATCH』においては、うんざりするほど同程度の実力のいつメンに再会しまくる)。そうやって、また勝ったり負けたりを繰り返したりなどはしない。開始三十秒で味方チームの力量を見切って「今回は絶望的だ」などと嘆いたりしない。そのチームが予想外に活躍し、むしろ自分など置いてけぼりで勝利をもぎとったりすることもない。その逆で、開始時に期待したチームが無惨にボロ負けしたりすることもない。ああ? そりゃあ、わたしだって期待はするよ。信じもするさ。人間だぜ?

 わたしはこれ以上、「野良」でいない。あなたがたを失望させることはないし、あなたがたに失望させられることもない。だが、もし。もしも、なにかの間違いで、「野良」のあなたが「野良」のわたしに会うことがあるのだとしたら。


 約束しよう。


 わたしたちは互いを赦し合う。

『REMATCH』からのログアウト後、チームメイトからフレンドリクエストが届いた。。


*1:ジョナサン・ウィルソン、実川元子・訳『孤高の守護神 ゴールキーパー進化論』より引用

*2:ランクマッチでは固定。フリーマッチでは3対3や4対4もある。

*3:フランシス・ホッジソン"Only Goalkeepers to Beat”

*4:それでも届かない場合は「仕方なかった」といさぎよく諦めがつく。

*5:F・P・マグーン『フットボールの社会史』岩波新書

*6:『HHhH』東京創元社

*7:ニコライとは同語源ではある

*8:https://en.wikipedia.org/wiki/The_Death_Match

*9:同じマッチに参加したプレイヤー敵味方問わず、過去の履歴からsteamのプロフィールを確認できる。このとき、チームリーダーは一人を除いてチームの誰ともフレンドではなかった。

2025年上半期の良かった新作インディーゲーム10選



 いそがねばならぬのは、滅びの支度なのだ。
  ――中井英夫「百科事典とコンピュートピア」


地獄ですね。
言い間違えました。夏ですね。
ある統計によれば、今年の1月から6月までにsteamでリリースされたゲームの数は9000本以上におよぶそうです。この調子でいくと年末には2万本弱に達するでしょう。だいたい、昨年と同水準です。
そのなかでみんなの心に刻まれる作品となるとせいぜい4,5本程度。ビデオゲームというのは産業的にはともかくミクロ的にはなんと不経済なエンタメであることか。
かくいうわたしも今年はなんだかぼんやりするのに忙しく、あまり大作・話題作をプレイしていない。『Kingdome Comes II』、『Split Fiction』、『真・三國無双 ORIGINS』、『アサシン・クリード:シャドウズ』、『Clair Obscur: Expedition 33』、『NIGHTREIGN』、『マリオカートワールド』……あと、『DEATH STRANDING 2』? PS5持ってないねんな。なんか、ないならないで生きていけるし……。
そうだ、みんなゲームをやめろ。こんなの人生と資源の浪費でしかない。もっと意味をやれ。悟りを開け。地球と衆生を救うのだ。そんな壮大な覚悟でわたしは先週の週末にバスに乗り込んで田舎の山へと向かい、寺でありがたい阿弥陀仏を拝んだあと、雨上がりで湿気た山道で山蛭に噛まれて大量出血し、いまは全身筋肉痛でなにもかもがダルい。やはり部屋から出るべきではなかった。この世の悲劇はすべて人間がそこでじっとしていられない、という事実に起因するのだとパスカルだかモンテーニュだかもいうてはった。
となれば逆にゲームこそが救いです。ゲームはいいことづくめです。山に登らなくてもいい。神仏に祈らなくてもいい。ヒルにも噛まれない。ともすれば、あなたの精神を健康に保ってくれる。
ところで、Steamのサマーセールの起源は捨魔施会(しゃませえ)にあるといわれています。
捨魔施会とは、仏教における法会のひとつで、三毒のうちのひとつである貪(「とん」と読む。際限ない各種の執着、この場合は物欲のこと)を悔い、それを魔や異怪の仕業に見立てて祓う儀式です。どのように祓うかといえば、浄財、すなわち寄付であり、あえて不要な品を大量に買い込むことで罪業を贖うわけですね。Valve創業者のゲイブ・ニューウェルは捨魔施会にヒントを得て、恵まれない開発者たちに恵みを与えつつ、罪深いゲーマーたちの魂を救うという一石二鳥のアイデアとしてSteamでのサマーセールを考案したのだそうです。深甚な徳行であるといえましょう。
そうだ、みんなゲームをやれ。これこそ意味であり、人生だ。
そういうわけで、上半期によかった新作ゲームを10本ほど簡単にけだるく紹介していきましょう。
順不同。これら10本(+1)以外はまた別の機会に。

The Roottrees are Dead

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1990年代を舞台にネットでヤフり(検索)ながら遺産相続問題に揺れるある富豪一族の家系図を完成させていき、その過程で一族に隠された秘密に触れていくネットストーキング系ミステリゲーム。系統としては、 『Return of the Obra Dinn』や『The Case of the Golden Idol』あたり。このあたりの系統は個人的に今いちばんホットなジャンルであるとおもっているので、年内にまとめて語っておきたいですね。*1
やることは簡単。富豪一族の一員とおぼしき人物に関係しそうなキーワードをひたすら検索サイトの検索欄に入力していき、見つかったページでまた使えそうなキーワードをコピペして再検索……を繰り返すだけ。そうやって、当該人物の名前、職業、富豪一族の家系図上におけるポジションなどを見定めていきます。
『The Roottrees are Dead』を特徴づけているのは、作中に出てくるテキストのバリエーションです。だいたいまあ50年代から90年代くらいまでの「テキスト」、すなわち、書籍、雑誌、新聞記事、そしてウェブサイトから片言隻句を寄せ集め、未知の人間たちの輪郭を塑造していく。だいたい百年ぶんで、四、五世代くらいの子孫たちが出てきては、それぞれの人生を生き、おもわぬところで交錯したり、しなかったりしていく。それらがすべて文字の上で起こる。
イーヴィルでなかったころのGoogleがかつてわたしたちに教えてくれたインターネットの原初の快楽が、ここにはあります。すなわち、情報を探して繋げる愉しみ。ワールドワイドなウェブを渡り歩くことで、自分の中にも情報の蜘蛛の巣ができあがっていく喜び。
インターネットが好きな人にオススメです。

Type Help

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その『The Roottrees are Dead』の作者の新作が最近発表されました。それが『Type Help』のリメイクです。

『Type Help』もまたObra Dinn系のフォロワーであることを公言している作品です。
嵐の夜にカントリーハウスで起こる謎の連続死事件……というクラシカルな舞台立てに、とある現代的なギミックを仕込んだストーリーももちろん面白いのですが、なにより感動的なのはそのデザイン。
Obra Dinnの功績のひとつに「ミステリ(推理)ゲームをテキストから解放した」というのがあるわけですが、本作は逆に「Obra Dinn的な快楽をいかにテキストで可能にするか?」というともすると無価値かもしれない問いにあえて挑み、見事に意義深いゲームにした(おそらく作者にはそんな父親殺し的な意図はなく、単にほかに好きな推理ゲームであるHer Storyやunhearedを組み合わせたら自然にそうなったのでしょうが)*2
『Roottrees』や後に言及する『Blue Prince』にもいえることですが、ミステリゲームやパズルゲームで重要なのはプレイヤーに課すタスクの切り分けです。『Type Help』はその切り分け作業自体を推理の快楽に組み込んでしまった。たいしたものですよ。これでしかも無料。

ところでわたしが本作をプレイした四月時点では、当時のわたしの確認しうるかぎり遊んでるひとがほかに二、三人しかおらず*3、「このまま日本人はこの名作を知らずに死んでいくのか……」と日本という国家の文化的零落を想い、儚くなっておりました。が、その翌月にその「二、三人」のうちの一人であったフマノさんが本作の日本語版をてがけ、日本の文化的零落とはなんだったのかという感じになった。みなさん、「二、三人」のなかにわたしのような自分本位の怠け者ばかりでなく、志の高い人物が混じっていた幸運に感謝しましょう。すべての翻訳とその担当者たちに感謝しましょう。日本の翻訳文化の豊かさのせいで忘れがちですが、翻訳が供給されることはあたりまえの幸せでないのです。

Nubby's Number Factory

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ボールを発射するだけというシンプル操作のパチンコ*4ローグライト。なにより特徴的なのはそのルックで、在りし日の2000年代インターネットの「ホームページ」っぽさ、Windowsにデフォルトで付属していた諸種のゲームっぽさがマーベラス。ゲーム自体の良い意味での凝らなさもあいまって、ほんとうに2000年代に存在したかもしれないノスタルジックなリアリティにみちみちております。*5
ところで、『幸運の大家様』が確立し『Ballionaire』や『Balatro』で花開いたノルマクリア型脳死ギャンブルローグライト*6ですが、このサブジャンルのコアは単純さにあります。面白くしようと元となるゲームのルールに手を加えすぎるとじゃあふつうにSlay the Spireライク方面に行ったほうがよくない? という話になる。しかし、あまりに手を加えなさすぎるとおもしろくなくなる。去年からいくつか出ていた『青天井』などの一人麻雀のローグライトはこのあたりのジレンマに苦しんでいたようにおもわれます*7。『Nubby's』はその点への気配りが行き届いています。演出もいいですね。脳死ギャンブルの要点は、ギャンブルマシン的快楽だということを熟知していること。
気がついたら一日に一回は起動してプレイしてしまいますね。

REMATCH

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5vs5*8のルール無用のサッカーゲーム。ゲームオーバーになるごとに歳を取るという斬新なシステムで話題になったカンフーアクション『Sifu』の開発チームの新作だけあって、喧嘩っぱやそうなアクション性が高い。「選手一人ごとの操作をプレイヤーが担当して対戦するオンラインサッカーゲーム」ってわりと昔からあって、いってみればサッカーゲームの夢みたいなところあったとおもうんですが、まあ11v11でまともに「チームスポーツとしてのサッカー」を再現するって不可能だよね、という温度感だったとおもうんですよね。
そこのあたりをどう成立させるかで脳みそを絞り、『Rematch』ではファウルなし! オフサイドなし! 5v5! ラインアウトなし! でもフィールドはフットサルより広いよ! チームプレイは大事だけど個人技も適度に許容するよ! という破壊的なノリになった。
その結果、Co-opFPSに近い感触のゲームになった。そうですね、『スプラトゥーン』のホコですね。収斂先がどうあれ、ジャンルを新しく定義しようという気概は好ましいものがあります。
ふだんオンライン対戦ゲームはあんまりやらないほうですが、rematchはすでに遊びすぎてコントローラーを壊してしまいました。

Faceminer

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ちかぢかちゃんとまとめておきたいな〜とおもっているジャンルがふたつありまして、ひとつはウォーキング・シミュレーター、もうひとつはクリッカー/インクリメンタルです。どちらも既存ゲームへの批評的意図が先行してできた珍しいジャンルであり、その出自故に裡に「『ゲーム性』とはなにか?」という問いを抱えてきた。
で、『クッキークリッカー』に代表されるクリッカー/インクリメンタルですが、最近はわりとはっきりいくつかの潮流に分かれてきていて、そのなかでも『Faceminer』はナラティブ重視の流れにある作品のひとつです。
ナラティブ重視である以上*9、「クリックという行為や数字の指数関数的増大」をうまく物語に組み込むことが要求される*10わけで、『Faceminer』はずばりAIと(わりとスケールの大きな)資本主義というテーマを扱うことでよい滋味を出している。「数字を増やしていく」こととは、この社会に究極的にどういうことであるのか。それを命じるものとはなにか。数時間のプレイにギュッとシャープに詰まっています。短編クリッカーはプレイ時間を絞る反面グラフィックやギミックをリッチにすることで満足度を補うわけですが、そこのあたりもちゃんと行き届いていてよいですね。


StarVaders

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シミュレーションRPGというジャンルをハードコアかつソリッドに突き詰めたのが『Into the Breach』であるとするならば、『StarVaders』はそれをよりカジュアルに、万人が楽しめるように仕立てたゲームです。民主化というやつですね。
『StarVaders』の慧眼は『Into the Breach』を介してSRPGからノックバックの快楽といいますか、敵味方の挙動を管理することの快楽を発見して抽出したところにあるでしょう。かぎられたグリッドでSRPGのコンバット感を出すには単純な攻撃や防御だけでなく、むりやりに敵を動かして能動的な回避を行うのがよい。ローグライト由来の敵側の行動事前予告もこのシステムによう合います。

Keep Driving

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ローグライトはリニアな一本の物語を語るには向かない手法かもしれませんが、逆に人生における偶然を切り取るのに向いているのではないか。そうおもわせてくれるのが『Keep Driving』です。
90年代のアメリカで名もなき少年(プレイヤー)が実家からオンボロ中古車を何千キロも駆ってサマーフェスの会場へ向かうという、そんなんゲーム化できるんだというセッティングだけでもクールなんですが、途中で出会うヒッチハイカーたちも個性豊かかつバックストーリーがよく練られている。助手席やバックシートに乗ったかれらはとりとめもなく色々な話を語ってくれます。拾った場所から目的地までの一期一会的な邂逅ですけれども、そんな見知らぬ人間たちとのなんでもないような会話に「人生」が沁み出しており、まさしくロードムーヴィの趣です。一プレイ、というか、一ステージがやや単調で長く感じるのが難点といえば難点ですが、一気呵成にクリアするのではなく途切れ途切れにダラダラと遊ぶのが作品のテイスト的にもマッチするのではないでしょうか。
ビジュアル、戦闘、音楽、イベント、キャラクター、ギミック、メカニック、あらゆる要素が「あの夏の思い出」という主題のためにデザインされていて、その方面での上質な体験に仕上がっています。

NO-SKIN

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ホラーローグライトRPG
最近のインディーゲームは良くも悪くも洗練されており、洗練されていないものは粗が目立つというよりたんに出来の悪いことが多い。
「トンガっている」とされているものも、その形のトゲはどこかでもう見たよ、という気持ちです。
『NO-SKIN』とてもちろん無から生じた狂気ではなく(そもそも狂気の創造力とはありきたりで退屈なものです)、むしろ『ゆめにっき』から続く由緒ただしいインディーの狂いかた*11をしている。しかし、その美学をコモディティに堕さずにあのときの粗さを心地よく体験させてくれるという点ですばらしい。こうした不吉さとの偶然の出会いがあるところがSteamクロウルのよいところ。

Blue Prince

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Myst』系っていうか、まあ『The Witness』とかもそうなんですけど、3Dのパズルゲームにがてだな〜〜〜解けないな〜〜〜という意識があったんですけれども、それってたぶん諦められないせいだったんですよね。デザイン上はまあ別に諦めていいよってかんじではあるんですけど、でも、なんかこう、うまく区切りをつけられない。すべてがゆるやかにつながっており、すべてがわたしを苛む。
『Blue Prince』は『Myst』系の探索ミステリにローグライトを混ぜたものだとよく言われます*12。そのことについての意義を、ひとはさまざまに論じ、さまざまに理屈づけている。
わたしは『Blue Prince』のローグライト要素がもたらしてくれたものは「諦め」だとおもいます。時間的な制限や部屋のくじびきの運があることで、今日はここまでしかできない、という線を引いてくれる。「次」でどうにかしようという気になる。
この諦めの強制が『Blue Prince』を最後まで遊ばせてくれた。そんな気がします。そういう話をいつかするでしょう。

Ropuka's Idle Island

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クリッカー/インクリメンタルのもうひとつの潮流、デスクトップアクセ×チル系。代表例は『Rusty’s Retirement』とかですね。でも意外に忙しいあれと違ってこのゲームはほんとうに放置する以外にやることがありません。カエルくんが自動で草刈りを行っていって貯まるマネーを消費して、カエルくんの住居やらアクセサリやらを買っていく。それだけです。
草刈りの効率を上昇させる強化要素的なものはだいたいフレーバー程度で、基本的にはカエルくんがせっせと働いたり休んだりしているのを愛でるのみ。かわいい、というのはそれだけで人間を幸せにしますね。

デモ版がよかったで賞

MINDWAVE(DEMO)

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ストーリーつきのメイドインワリオミニゲーム集。とにかくアートとアニメと音楽がよい。この勢いで正式リリースされたら覇権になるとおもいます。



今読んでる。

*1:去年もそんなこというてなかったか?

*2:言及されてはないが、もしかして『クルード』も混じってる?

*3:ちなみに自分の発見した経緯は、『Roottrees』おもしれ〜、もっとこういうのをやりたいぞ、となる→パズル・ミステリーゲーム紹介サイト「thinky games」 https://thinkygames.com で似た様なのを探す→知ってるゲームばっかだな……いや、でもこのtype helpっての知らないぞ? フリーゲーム?→遊ぶ、といったかんじ

*4:正確にはプリンコ https://en.m.wikipedia.org/wiki/List_of_The_Price_Is_Right_pricing_games#Plinko

*5:ちなみにリリースノートなどを見る限りでは作者は大学生っぽい。つまり、2000年代のPC世界を直接に経験していないであろう世代なわけで、それなのにここまでそれっぽい世界観を作り上げるコトができているのは驚愕に値します。

*6:プリンコとオンラインカジノで人気の遊びらしい

*7:このなかでいちばんよくできていたのが『雀魂』の期間限定イベントである「青雲の志」だったとおもいます。

*8:ランクマッチ以外のフリー対戦では3v3や4v4もある

*9:まあクッキークリッカーもかなり物語性のあるクリッカーなのですが

*10:そのなかでも最高傑作が『Universal Paperclip』です

*11:『Strange Phone』をオマージュしてその血統を誇示さえします

*12:インタビューによると作者は別にローグライトだという意識はなかったそうですが

一生自分で自分の機嫌をとっていきなSciFiのゲーム――『The Alters』について

ふたつの可能性が存在する。ひとつは、この広い宇宙でわたしたちはひとりぼっちであるかもしれない、という可能性。もうひとつは、そうでないかもしれない、という可能性。どちらもおなじくらいに恐ろしいのではないか。
   --アーサー・C・クラーク*1

諷刺の絶滅した時代について

 あなたがとっくに聞き飽きたお話からはじめましょう。
 わたしたちは文明の袋小路にいる、という話です。

 そうですね、SFは……といってしまうとジャンルファンからお叱りを受けるので、さしあたって射程を広げておきます。殺人を隠蔽するには殺戮を行えばよいのです。というわけで、主語は「フィクション」になります。そのあとにこんな題目をつらねてみましょう。

 ”フィクションはもはや、現代資本主義を戯画化できない。”

 ちょっと前に『ミッキー17』を観ました。ポン・ジュノはやはりメルヘンの作家なのでした。
 先月は『マウンテンヘッド』を観ました。『サクセッション』で四十時間かけて二〇一〇年代におけるテレビメディア帝国とアメリカン・ファミリーのたそがれを描いたジェシー・アームストロングも、その夜の狂騒を二時間に切り取るのは手に余るようでした*2
 先週は『メガロポリス』を観ました。わざわざ、副題に「A FABLE(ある寓話)」と銘打った作品です。コッポラもなにやら現代資本主義について一家言あるようでしたが、どうも『摩天楼』のランド主義をさらに劣化させたにすぎないもののようでした。

(「こんな変なハンマーどこで売ってるの?」と言ってたら、ほかのひとから「これハンマーじゃなくて製図用の定規だよ」と教えられました)

 これらの諷刺作品のつまづきは、なにも個々の作家の力量や錯誤によるものではありません*3アンブローズ・ビアスのいうところの「諷刺の精髄である機知と寛大な思いやり」*4は、わたしたちと同時代の作家たちにも十分に具わっているようにおもわれますし、それを表現できる場にも欠いているわけでもない。
 だというのに、諷刺は死んでしまった。なぜか。今、わたしたちの目に見える世界そのものが十分に戯画的になってしまったせいです。
 本来、諷刺や寓話は、複雑でおとなしいはずの現実を単純化し、そこから切り取った特定の部分を過剰に膨らませることで機能します。しかし、いまある現実が十分過剰で非現実的であったなら? もっといえば、フィクション的であったなら?

 またも映画を例に出しましょう。
バトルランナー』というSFがあります。スティーブン・キング*5の小説を、一九八七年にアーノルド・シュワルツェネッガー主演が映画化したものです。経済難のアメリカ政府がメディアと結託して、出演者の生死を賭した残酷極まるリアリティ・ゲームショウを流している……という設定です。当時は荒唐無稽なアクション映画として受け取られましたが、「リアリティ番組の司会者が強大な政治的な権力を有している」ことをはじめとしたアメリカのテレビ文化の諷刺画として、今日では時代を超えた強度を帯びるようになりました。爾来、デスゲームものはつねにコロッセオ的な残酷さを消費する視聴者やそれを使って大衆を飼いならそうとする権力と切り離せない要素となってきたのです。

(『バトルランナーのきんぴかシュワちゃん

 そんな『バトルランナー』のエドガー・ライト版リメイク公開を控え今年、あるいは映画版『ハンガー・ゲーム』最新作を翌年に控えた今年、アメリカ政府が移民が米市民権をめぐって競うリアリティー番組の制作を検討しているというニュースが報じられました。
 官製デスゲームが現実のテレビで流れているときに、スクリーンのなかのデスゲームは現状追認以上に何になれるというのでしょう?
 諷刺や寓話は現実から適度に距離を取るつつましさによってようやく広く読まれるようになるもので、二分間憎悪を国民に課すようになった世界では、『一九八四年』もうんざりするようなバッドエンドの陳腐なロマンス活劇です。そうした世界では、より明瞭で直接的な主張を含んだ表現のほうが好まれるようになるでしょう。いまのわれわれがそうであるように。

 もはやフィクションで安全に傷つくことのできなくなった世界でなおSFを扱おうとする、というのは勇気ある行為といえるでしょう。なぜなら、多くの場合、ある程度の長さを持った心あるSFとは社会を描くものであり、社会とはつまり生活であり政治であるからです。*6

複製技術時代の生存法

 ポーランドは11 bit Studiosの新作、『The Alters』もそんな勇敢なSF作品のひとつです。
 あらすじはこう。
 主人公のヤン・ドルスキは巨大総合テック企業から無人惑星に派遣され、そこで特殊な鉱石ラピディウムを採掘することになります。ところが惑星に向かう途中で事故に遭い、彼以外のクルーは全滅。惑星の過酷な環境下では、採掘はおろか、ひとひとり生き残るもの絶望的です。
 そこで企業側のスタッフはヤンに「ラピディウムの力を使って自分の複製を作り、マンパワーを増やして生存と任務達成を図れ」と命じてきます。
言われるがままにクローニングを行うヤン。しかし、そうして生まれた〈アルター〉は、ヤン自身の過去から分岐した存在、すなわち「あり得たかもしれない自分の可能性たち」だったのです……。

(だいたいこんなゲームかもしれない)


 ストア紹介文で謳われているコンセプトを引用しましょう。

「SFストーリーが好きなら」「心を揺さぶるストーリー」「答えのない実存的な問い」
「プレイヤーがヤンとして向き合うことになるのは、人生の根本的な問い「人が運命を決するのか、それとも運命が人を導くのか」」

 いかがですか。なんと陳腐な売り文句か、とおもいませんか。
 クローンや意識の複製による実存のゆらぎも、過去にあり得たかもしれない可能性への感傷もフィクションにおいては使い古されたテーマです。あなたはそういうものをいくつも読んできたし、わたしもそういうものをいくらか観てきました。そうですね、『リック・アンド・モーティ』とかね。その経験からいえば、ここは枯れた井戸です。ピーター・ワッツやテッド・チャンに脚本を書かせるか、あるいはポーランドの会社なのだからレムを甦らせるかでもしないかぎりは到底新鮮味を期待できない。

 ところが『The Alters』を実際プレイしてみると、どうもなにやら、現代資本主義社会に生きるわたしたち自身の隠喩としてすぐれている。

 それはストーリーではなく、プレイに顕れます。
アルター〉たちは、リーダーであるオリジナルのヤンの指示のもと、日々の労働を分担して行います。根っこはおなじ自分同士とはいえ、十代や二十代で分岐してそれぞれの三十五歳現在にいたった身でありますから、性格や好みも違ってくる。当然、〈アルター〉同士でソリが合わない、という状況も生まれてくるわけです。
 たとえば、ある〈アルター〉は効率性第一を至上とし、通常一日九時間労働のところを、十二時間に延長するクランチを提案してきます。そんなもん、とうぜん他の〈アルター〉たちの精神衛生には悪影響です。〈アルター〉のなかには、労働組合の委員長にまでなった闘士さえいます。かといって、提案を却下すれば、提案者の機嫌に悪影響が出てしまう。
 ほかにも、〈アルター〉たちはささいなことですーぐぶつくさいいます。食事が毎日BASE BREADみたいなやつばかりだというので不満が溜まる。自分の仕事場が電磁嵐の直撃でぶっこわれてしまっておもうように進捗しなくなったというので不満が溜まる。クローン時の脳の変性により自分たちが数日中に死んでしまうかもしれなくて不安だといって不満が溜まる。

(腕を切り落とすやつまで出てくる。腕を切り落とさないでほしい。)

 そんなクッッソどうでもいいことでブーたれまくった末、ストレスが極に達すると、〈アルター〉たちは反乱を計画しはじめます。蜂起までにかれらを鎮めないとゲームオーバーです。
 鎮める方法はかぎられています。この無人惑星には賃上げやベースアップという概念は存在しません*7。自分を殴りつけるわけにもいきません。ひとりひとりに話しかけ、かれらの欲求を満たし、不満をなだめ、ケアしていくのです。*8

(〈アルター〉たちのご機嫌はつねにモニターされている)


「自分の機嫌を自分で取る」。
 ちかごろ、よく聞くようになったフレーズです。わたしの観測範囲だと、コラムニストのジェーン・スーがラジオの人生相談で頻用していますね。彼女自身はこのフレーズの用法に慎重で、あくまで「わざと不機嫌な態度を取ることで他人に自分の機嫌を取らせようとするひとびと」に対するアンチテーゼとしていっているようにおもわれますが、しかし、ことばというのは一度手元から離れてしまうと勝手にほっつきあるくもの。ネットで独り歩きしつづけた結果、「自分のメンタルは自分で管理すべきだ」というネオリベ的な自己責任論へと逢着してしまった。
 そうなってしまったのは、メンタルの自己管理が社会の要請に即したものであるからです。哲学者のミシェル・フーコーは十七世紀に監禁施設へと収容された「狂者」たちはいずれも資本主義社会にプレイヤーとして参加できないひとびと(物乞いなど)であったと指摘しましたが、つまり、資本主義がイコールで社会になってしまった現し世に参画しつづけるには「壊れ」ないでいつづける必要がある。二〇世紀以降はだれもが起業家*9です。身体と心は文字通りあなたの資本であり、それらの維持は義務であり責任です。*10
 自由市場そのものと化した社会で個人の抱えるストレスもまた「民営化*11」されると説いたのはマーク・フィッシャー。彼は臨床心理学者のデイビッド・スメイルの提唱した「魔術的自立主義*12」の概念を援用し、ストレスやメランコリーへの対処法と新自由主義の関係を暴きました。

……認知行動療法のようなセラピーは、人生の早い段階に焦点を当てること(つまり一種のお手軽な精神分析)と、個人こそが自身の運命の支配者になりうるのだという自助の教義を組み合わせたものだと言える。スメイルは、「セラピストやカウンセラーの専門的な助けを借りれば、あなたは最終的な分析においておなた自身が責任を負っている世界を変えることができ、結果としてそれによって苦痛を感じることもなくなるのだ」という見解に対して、魔術的自立主義という、実に示唆に富んだ名前を与えている。
   ――マーク・フィッシャー「ストレスの民営化」*13

そして、鬱病とはこの「魔術的自立主義」の裏返しに他ならない、とすれば? つまりはこうだ。鬱病の原因はいつだって自分にあり、自分の不幸の責任は自分にしかなく、それゆえその苦しみを受けるに値する、と。再帰的な悪循環と無能感。ここから、また別の自己責任が招来してくる。貧困、機会の喪失、失業、それらもまた自分自身だけの責任であり、その境遇を受け入れなければならない。
   ――木澤佐登志『失われた未来を求めて

(そんなどうでもいいことで悩むな、働け、といいた気持ちをこらえて、話をちゃんと聞いてあげるのが大事)


『The Alters』における〈アルター〉たちのストレスの管理は、まさしく自己に対するセラピーです。ある〈アルター〉は過剰に怒りっぽく、アンガーマネジメントを必要とします。ある〈アルター〉は放って置くと働き過ぎですぐ身体を壊してしまいます。
 主人公であるオリジナルのヤン(=プレイヤー)は、そうした〈アルター〉たちの「精神的な欠点」の原因をカウンセリングしながらつきとめ、取り除いてやることで、理想的な労働者に作り変えていく。そして、それは自分の人生を点検し、自分と和解していくプロセスでもあります。まさしく、セルフケア。〈アルター〉とはオリジナル(端的に、人生に失敗した人物です)の影であり、かれらに見出される困難は実はオリジナルも抱えている問題なのです。自分自身と対話していくことで自分を客観視できるようになる。そうしたメタ認知的視点はトラウマ克服に有効な手段のひとつです。 

(一時険悪な仲となった〈アルター〉と、お袋の味であるピエロギ(東欧の餃子的な食べ物)を共有することで和解していくさま。)


アルター〉たちの分岐した人生の道程は〈マインドレコード〉と呼ばれるシステムによってたどることができるわけですが、皮肉なことに、その〈レコード〉はヤンの雇い主である企業がヤンから無断で(精確には煩雑な契約書に紛れさせることで)収奪した個人情報に基づきます。その「人生の早い段階に焦点を当てた」データを会社のアセットである量子コンピュータと組み合わせることで、〈アルター〉たちが可能となり、ヤン(たち)をラピディウム採掘のために使役することができる。*14

 酷な搾取です。しかし、その搾取はたがいに生存するための唯一の術でもあります。〈アルター〉はメンテナンスされるべき壊れすい自分でもあると同時に、資源そのものでもある。タイムリミットを設けられた本作のサバイバルにおいて、すべての作業は工数に置き換えられます。採掘用のマシンを作るのに、任意の〈アルター〉ひとりと六時間がかかる。ステージクリアに必要な研究を完了するまで、専門の〈アルター〉ひとりと十時間がかかる。そして、狂った太陽がパーティを滅ぼすまで、あと七十二時間。そんな状況下では、すべての〈アルター〉は電子レンジや洗濯機のように目的達成までの時間を削っていく機械としてしか映らなくなる。ところが、その機械をメンテするために話しかけたときには暖かみを持った、共感的な存在として立ち上がってくる。
 この人間-非人間の印象の反復横とびを、プレイヤーは強いられていきます。あなたが目の前の自分をケアするのは、それが壊れたら困る作業機械だからでもあるし、感情的に親しみやすい友人だからでもあり、そもそも自分自身だからでもある。こうして、あなたは労働と資本主義へと狡猾に回収されていく。
『The Alters』の秀抜な点は、「自分の機嫌を自分で取ること」がゲームクリアに必須であり、それがプレイの機構に組み込まれていることにあります。このメカニクスに比べれば、別れた妻、死んだ母や父、生い立ちの不幸、暗躍する会社のお偉いさん、会社からの命令、ヤンの人生についてのあらゆる悔恨などといった脚本に書かれた物語はすべて*15些末なことです。すべての他なる自分自身をなだめ、それでいて核となる「本物の自分自身」はいくら(まったくの自由意志によって)長時間労働しても(みずからの選択として)精神的負荷をかけられてもめげない、ぶれない、鋼のたましいの持ち主であること。これが現代社会における人間の条件です。いかなる環境にあっても独力でサバイブできる人間離れした人間だけが人間なのです。

(〈アルター〉たちのカウンセリングを通じて自らもまた「圧倒的成長」を遂げていく。)


 そう、どうすれば生き延びられるか。ディベロッパーとしての11 bit Studiosは過去に『This War of Mine』や『Frostpunk』といった極限状況下で難しい資源管理や過酷な選択をプレイヤーに強いていく作品を世に問うてきましたが、三人称的な語りの印象が強かった既作*16に比べて、ぐっと一人称の物語に近づきました。そうした視点の変更も、『The Alters』には必然のデザインであったようにおもわれます。そうしたスタジオのカラーにおいて、あるいは生存の思想としてのゲームをいままでもっとも高度に達成したのは本作であるのかもしれません。なぜなら、『The Alters』におけるサバイバル状況は、戦時下の地域(『This War of Mine』)や資源枯渇極寒統制社会(『Frostpunk』)よりももっと広範な場所で起きている。そう、ここ、日本でも。
  ことによると、諷刺や寓話はまだ死んでいないのかもしれません。それを読もうとする意志*17を持つならば。



余談:関連してそうな書籍と関連していない記事

『The Alters』のレビューではよく「『ミッキー17』(『ミッキー7』)×『オデッセイ』(『火星の人』)!」みたいに評されている。実際やってみるとこの二作とけっこう印象が違う。

「エクストラ」。イーガンのわかりやすい意地悪コメディ。

ゴーレムを下敷きに自分のクローンを自分の代わりに使役している社会の話。いまにしてみると『ミッキー7』とちょっと設定似ている。ストーリーはよくおぼえてないけど、結局ドンパチアクションになってた気がする。

複製意識の自己同一性問題とかを諦めた映画。『ミッキー17』よりおもしろいよ。

realsound.jp
昨日書いた。LapwingというVRChatのアバターと『ブレードランナー2049』のライアン・ゴズリングと『her』と『ブラック・ミラー』の話を主にしています。SFですね。

明日出ます。ウィリアム・ギブスン特集ということで『カウント・ゼロ』のブックガイドを担当しています。あれのあらすじを約1500字に要約するという偉業を成し遂げました。成し遂げたのか? 君の目で確かめるんじゃ。



次は『Blue Prince』かカオマンガイの話をしたいですね。

*1:http://clarkeinstitute.org/arthur-c-clarke/quotable-arthur-c-clarke/

*2:ウォール・ストリート・ジャーナル』の報道によると、18のテレビネットワークにおける2020年大統領選のプライムタイムの視聴者数はおよそ5690万人だったが、2024年には4230万人と約25パーセント低下した。ちなみに2016年の選挙では約7100万人であり、そこから数えると10年足らずのあいだに40パーセント近くも視聴者が減った計算になる。https://www.wsj.com/business/media/new-media-social-media-presidential-election-591b0644

*3:まあ、まったくないとはいいません。

*4:西川正身・訳『新編 悪魔の辞典』、岩波文庫

*5:出版当時の名義は別ペンネームであるリチャード・バックマン

*6:そして、パラドキシカルではありますが、諷刺や寓話が死んだのは、現実が過剰に複雑になってしまったせいでもあります。アルゴリズムが監視資本主義的にわたしたちを収奪する仕組みをわたしたちはどう物語化できるというのでしょう?

*7:福利厚生はある。ビアポンとかね

*8:各〈アルター〉の「感情管理」が数値的なパラメータではなく、あくまで漠然とした言葉によって説明されるインターフェースは特筆すべきでしょう。インタビューよれば、これは〈アルター〉ひとりひとりをプレイヤーから人間扱いしてもらうために意図されたデザインです。https://www.thegamer.com/the-alters-interview-tomasz-kisielewicz-katarzyna-tybinka/

*9:an entrepreneurial self

*10:会社法における資本維持の原則ってやつね

*11:privatisation

*12:magical voluntarism

*13:『マーク・フィッシャー評論選集 自分の武器を選べ――音楽・政治』

*14:かぎりなく出生時のヤンに近い〈アルター〉を「タブラ・ラサ」と呼ぶのは興味深いことです。ジョン・ロック的な認識論の観点にもとづけば、人間の認識はすべて経験からかたちづくられていくわけですから。

*15:資本主義のジレンマを問いかけるような会社とのやりとりでさえ

*16:『Frostpunk』は文字通り三人称視点でしたし、『This War of Mine』は複数キャラの操作を要求される

*17:誤読する蛮勇、と言い換えてもいいかもしれません