名馬であれば馬のうち

読書、映画、ゲーム、その他。


読書、映画、その他。


ORGANISM という未来の廃墟に行った。ーーVRChat紀行

 
 
 廃墟というのは裏返しの未来にすぎない。
        -ウラジミル・ナボコフ

 

 

 
 
 
 
 

 エメラルドの鹿に導かれて電話ボックスから出ると、そこは誰の記憶にもない中庭だ。

 暗い。異様に暗い。団地なのか、マンションなのか。陰鬱とした空気に憑かれた高層住宅に四方を囲まれ、上を見ると建物が渦をまいて白く輝く空の穴に吸い込まれている。

 出口はない。

 心細くなっていると、柔らかな表情の球体関節人形、八十年代から復活してきたかのようなウサギめいた謎電子生物、リトルグレイ、黒い天使、黒い少女、ワンピースの少女、黒いペスト医師などが出迎えてくれた。

 これからいっしょに ORGANISM を攻略しようという。

 ORGANISM ?

 眼の前にそびえる建物は有機体というよりは、どうしようもなく無機物であるようにおもわれた。仲間たちに疑問をそのままぶつける。

 どういう意味なの?

 それをこれから見に行くのさ、と電子生物は長い耳を揺らしていった。

 

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 ORGANISM は DrMorro なる人物が創造した VRChat 上のワールドだ。あらゆる地獄がそうであるように数ステージの階層からなり、ステージごとにテーマとなる舞台が異なる。容量は400MBほど。VRCのワールドのなかでは大きめの部類だが、ずばぬけたサイズというわけでもない。

 最初のステージは集合住宅だ。

 黒電話と謎の信号を映したブラウン管テレビの置いてあるエントランスから短い螺旋状の階段を上ると、吹き抜けになった一角へと出る。そこの壁には長方形の銀色の口が無数にあるいは無限に並んでいて、これはなんだろうといぶかしんでいると、

「郵便箱ですね」

 と同行者のひとりから声があがる。

 なるほど、郵便箱。集合住宅の出入口付近にあるのだし、理に適っている。

 郵便箱そのものに触れてもインタラクションは生じない。遊びに来たのだからなにかおもしろい仕掛けはないものかともう一度あたりを見回す。

 壁沿いに備え付けられた階段とタラップに気づいた。望めば天国まで届きそうなほどの高さまで続いている。

「あっ」とふいに電子ウサギが声をあげた。「エレベーターがありますよ」

 エレベーター。エメラルドの鹿がエレベーターについてなにか警告していた気がする。ここでははぐれると合流が難しい。不審なものにうかつに触れたり乗ったりすると変な場所に飛ばされ、もとの地点へ戻るのに苦労する。

 止めなければ、と思ったときには好奇心旺盛な電子ウサギは全速力で走り出していて、いきおいのままに昇降ボタンを押し、瞬時に消失する

 声をかける間もない。

 そのさまを見ていた別の同行者と目が合う。

「……あれは死んだものと思いましょう」

 建物に侵入してから十分も経っていない。こういう映画を、むかしに観た気がする。おろかで脆弱な人間どもが武装して《ゾーン》を探索へ向かうが、ひとり、またひとりと静かに無残に退場していく。あれに似ている。

 果たして二時間後にどれだけのものが生き残っているのか――

 などとおののいていると、空から何かが音もなく墜落した。さっきの電子ウサギだった。

「エレベーターはかなり上の階につながってるみたいでした」

 階段を登るのが億劫な人のために設置されたショートカットらしい。わざわざショートカットがあるということは、そこが正規のルートなのだろうか。

 われわれは上へ登るのを後回しにし、廊下から通じている別の部屋を探索することにした。

 なかはいかにも古いマンションといった具合で、黒いゴミ袋がダストシュートのまわりに投棄されていたり、複数の電気ボックスが階段状にならんでいたり、『インセプション』みたいに空間が螺旋状にねじれた廊下があったり、廊下の壁ぎちぎちに詰まった列車の前にリトルグレイが立っていたりした。

 

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 中庭もあった。最初も中庭だった気もするが、ここは比較的狭く囲われた場所だ。中庭というよりは窪みに近い。積もった雪かなにかがシェードのついた電球の上方にある何かの吸引口に吸い込まれている。積もっている白いものは『エルデンリング』のローデイル城(後)のような起伏を生じさせていて、赤々としたライティングといいどうも不吉だった。

 長居するような場所ではないと判断してみな階段から戻ろうとする。が、アバターが階段の天井にひっかかって出られない。背をかがめて一歩ずつ段をあがっていき、なんとか脱出する。ひとりだけ、リトルグレイがどうしても上れずに、白い底でさびしく立ち尽くしていた。

 

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 造られたときから廃墟となることを運命づけられた風景、それが VRChat のワールドだ。VRChat のワールドには基本的に人がいない。ひとけのあるワールドも存在するが、そこにいるかれらもまた訪問者であり、その世界に棲むために創られたものではない。だれもがひとりでやってきて、ひとりで去っていく。

 

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 ウンベルト・エーコによれば、「十六世紀から十七世紀末にかけて、人びとは失われた文明のイメージを廃墟にみてとり、そこに人間の命運のはかなさに対する教訓的な思索の糸口を得ていた」(「芸術における不完全なかたちについて」)

 十八世紀的な廃墟とは「精神的な一貫性を欠く断片のコラージュ(イタリアをちょっと、中国をちょっと))」(高山宏)なのだが、ORGANISM は断片でありながらもどこか一貫している。

 おそらくそれは DrMorro*1 というひとりの作者の夢と記憶に由来しているからかもしれない

 DrMorro のワールドを訪れた経験があるものは多いはずだ。一時期、常時「人気のワールド」欄に表示されていた大規模ワールドである Olympia には、わたしも右も左もわからない Vistor 時代に訪れ、その広大さに感銘を受けた。初めて VRChat の可能性を感じさせてくれたワールドでもある。

 Olympia はヘレニズム的な雰囲気をたたえている。一方で、DrMorro のワールドにはもうひとつのラインがある。

 Moscow Trip シリーズがそれだ。「Moscow Trip 1952」と「Moscow Trip 2002」のふたつが現状公開されており、そのタイトル通り、1952年と2002年のモスクワの風景が再現されている。「1952」に入ると当時のロシアの典型的な集合住宅でスポーンし、外に出て公園で遊んだり、遊覧船に乗って偉大なるスターリズム建築の世界を愉しむことができる。ここの公園で『同志少女よ、敵を撃て』の読書会を開いたのはわたしにとってのソ連時代のよい思い出だ。

 

www.youtube.com

 VRChat で印象的なのは、自分たちの生活圏を再現しようとする人々だ。ロシア人と韓国人に多い気がする。どちらもこの三十年で劇的な変化を経験した国だ。かれらはチェーンのスーパーや実在する鉄道駅や集合住宅の一室を VRChat の世界に復元しようとする。

 

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(*これは ORGANISM とは別の、韓国の駅を再現したワールド)

 

 それらの施設はどれも使い古されていて、さびしく、しかしどこか懐かしい。異国人であるわたしはそうした原風景を記憶に持っていないにもかかわらず、そう感じてしまう。「アメリカ映画を見て郷愁をおぼえるすべての観客は〈アメリカ人〉」*2であるように、1950年代の集合住宅*3の壁紙の質感に、ロシア人の気持ちになってしまう。その懐かしさが実際のロシア人の抱くものとおなじであるかは関係がない。なぜなら、その世界はロシア人を欠いている。ただひたすらの廃墟。一個人によって夢見られた世界がその世界と接続していなかったはずの誰かの記憶を浸食していく。それは『ゆめにっき』で行われたことだ。『Undertale』で行われたことだ。Vaporwave の世界で、Liminal Space の世界で、インディーやアンダーグラウンドと冠されるあらゆる芸術の領域で行われてきたことだ。 自分の幻想で他人の脳を塗りつぶすためには、ある程度まとまった規模の世界を用意する必要がある。「Moscow Trip」シリーズは愛らしくも強固な世界観を有していたが、それはVRの旅人たちの祖国を乗っ取れるほどに巨大ではなかった。そのモスクワは組織されているようで、やはりばらばらの断片の寄せ集めだったのだ。

 断片をつなぎあわせるための糸を物語と呼ぶ。

 

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 ORGANISM には物語があった。

 VRChat のワールドには人間を含めた生物がいない。オルガニズムが不在なのだ。

 ハーバート・スペンサーやリリエンフェルトらが提唱した社会有機体説では、社会は生物有機体に擬せられる。部分は部分同士で相互に依存しあい、分解して戻しても機械のようにはふたたび機能しない。全体でようやくひとつの単位なのだ。

 ORGANISM でも一見脈絡のないあらゆる要素が分かちがたく絡み合っている。ある種のイメージやオブジェクトは反復され、その反復が複数の趣の異なるワールドをつないでいる。

 

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 わたしたちは輝く液体で満たされたタイル張りの水槽を見るだろう、廊下に放置されたベッドを見るだろう、八方から飛び出してくる電車の運転席を見るだろう、だれかのささやきを聴くだろう、頭上を照らすまばゆい光を見るだろう。

 それらはおそらく簡単なプロットに言語化しうる。だが、それはわれわれの物語ではない。物語の解読をすること自体は実は重要ではない。いや、あるいは重要なのかもしれない。物語を読み込もうとすると自然、細部を凝視せざるをえなくなる。イメージが脳に焼き付く。世界が乗っ取られてしまう。その過程の罠に誘うために物語は必要なのかもしれない。

 驚くべきは目に見える場所にはだいたい行けること。AAAのオープンワールドRPGのような開かれた自由さがここにもあらわれている。この自由さが細部への耽溺を可能にもしている。

 ORGANISM は未来の廃墟だ。二十一世紀のわれわれは廃墟を造り出すために他人のイメージを必要としなくなった。いまや他者は攻め落とされるべき目標としてのみある。創り出さないわたしは蹂躙されるしかない。

 ORGANISM を訪れてからもう二日、あの世界のことばかり考えている。

 

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 ユルスナールはピラネージの《幻想の牢獄》を「人工的でありながら不吉な現実世界、密室恐怖症的でありながら誇大妄想狂的な世界」と評した*4。どう見ても虚構なのにリアルに感じられ、狭苦しくありながらも無辺であるという感覚はまさに ORGANISM そのものだ。ピラネージといえば、スザンナ・クラークの幻想小説『ピラネージ』では、ピラネージの絵画のような館に住む語り手の生活が描かれていて、後半で実はある「方法」によって基底現実からその世界へ送り込まれていたと判明するけれど、われわれはもはやピラネージ的な廃墟へ跳ぶためにそのような魔術を必要としない。

 Oculus Quest 2(現在は Meta Quest 2 という呪われた名を背負っている)は37180円で売られており、VRChat は基本無料だ。三途の川の渡し賃はかつてないほどリーズナブルになっている。

 入口はそこに用意されている。

 入ってしまえば、出口はない。

 

 

 

 

ファンムービーを作った人。すごい。

 

  

vrchat紀行その一はこちら。

 

[追記:5月25日]

エメラルドグリーンの鹿さんこと TerrieH さんのステージごとの読解。あくまでTerrieHさんの「深読み」とうたわれているけれど、背景にあるソ連史やモチーフと絡めて読み解きで納得感がある。ネタバレ注意。

https://terriehashimoto.info/archives/20220524/

 

 

 

Amazon 

 

*1:PAUL.A.Kという名義で画家としても活動している

*2:管啓次郎コロンブスの犬』

*3:こんにち我々がロシアのオタク界隈でよく見るフルシチョフカ的な団地より以前のものか

*4:須賀敦子ユルスナールの靴』

『文体の舵をとれ』合評会の運営についてのメモと、人類の進歩と調和

 昨夏から『文体の舵をとれ』の課題を Discord 上で集まってわいわいやっとりました。
 本書は『ゲド戦記』などで知られるファンタジー・SF作家のル=グウィンがあなたの文体を鍛えてくれる創作指南本であり、全十章からなる課題をクリアすると最強の文体が手に入るとも、ル=グウィンが闇のパワーを得て復活し、あまねく蒼穹を竜と恐怖のもと支配するようになるともいわれています。こわいですね。
 つねひごろから文章をダシに他人とワイワイしてえな〜〜というよこしまな欲を抱いていたわたしは、twitter などで知り合ったおたくたちを招き、Discord で文舵サーバを爆設しました。これを【Aサーバ】と仮称しましょう。
 まもなく別のツイフレさん(ツイッターフレンドのこと)が独自に文舵サーバを激設きました。わたしはスパイ活動を兼ねてそこにも潜ることにしました。これを【Bサーバ】と呼びましょう。
 そうして【Aサーバ】では主催・運営者として、【Bサーバ】では一参加者として、それぞれの立場から舵をとる機会を得たわけです。
 以下、箇条書き。箇条かな? 書いてて退屈だったので嘘の項目を一つ混ぜました。

序の補足

 ……というかんじではじまるはずだったのですが、その前に。
 先日、わたしも参加していた文舵サーバ(先述のBサーバ)の主催・大戸又さんが文舵会運営について明快でまとまった記事を出されまして。
walkingchair.medium.com
 そういえば、自分も文舵会まとめみたいなのを書こうとして途中で放り出してたよな……一ヶ月くらい……とおもいだして読み返してみたら、意外と量があった。これがそれ。
 ろくに整理もされてない状態ですが、捨てるのももったいないので、以下に投げておきます。
 大戸さんのとことかぶってる箇所もあれば、言ってること全然違えみたいなところもあるかと存じますが、気にしすぎない方向でお願いします。
 これが作者編ルールその4違反です。

『文体の舵をとれ』の効能について

・文体の舵をとったら、本当に文体が良くなるんですか? 文章うまくなりますか?
 →わ、わかんないっピ……🐙
 →すくなくとも、文の構成や句読点の打ち方を手とり足とり教えてくれるタイプの教本ではありません。課題をこなすだけで一朝一夕に文章がうまくなりはしない。
 →これは【Bサーバ】の主催である大戸さんがよく仰っていることなのですが、文舵とは「文章の筋トレ」です。普段使わない文章を筋肉を一時的に酷使することで鍛える。いい例えだと思います。
 →質問に寄せるのであれば、わたしは野球の素振りのようなものだと答えるでしょう。素振りは漫然と一万回繰り返すだけではバッティングの上達につながらないといいます。逆にちゃんと目的意識と工夫があれば、百回で十分だったりする。これはクロマツテツロウの『ベー革!』というまんがに描いてあったことなので、文句のある方は小学館のほうまでお願いします。
 →素振りしてみて自分のフォームの欠点を認識するのも重要です。
 →筋トレとしてみるなら、文舵の課題は二つのカテゴリに分けられると思います。ひとつは指(文章技巧)の筋トレ、もうひとつは眼(視点)の筋トレです。
  第一章はストレッチのようなものとして、第二章〜第五章までは指の筋トレ。第六章〜第八章は眼の筋トレ、といったかんじ。
  指(文章技巧)の筋トレとは、「ふだんなら書かないような特殊な制限を課して行われる課題」です。第二章では句読点のない文章を数百文字分書かねばならず、第三章では同じ長さの短文だけで段落を構成し、七百文字の語りを一文で作らねばなりません。第四章では語句や行為の過剰な反復。第五章は形容詞・副詞の使用禁止。いずれも普段文章を書いている分にはまずしないことです。
  眼(視点)の筋トレは、視点や人称に関わる視座を養います。第六章では複雑な時制の統御、第七章では異なる視点(POV)のレッスン、第八章では視点の切り替えの意識。
  第九章は指の筋トレ的でもありますが、より実践的です。第十章は実践そのもの。なにせ、先生曰く「プロ作家になったときに必要な技能」なのですから。
 →筋トレは筋トレなので、ホームランやヒットの打ち方を具体的に教えてくれるわけではありません。文章の書き方がわからない、あるいは伝わりやすい文章の教授を求めているのなら、文章指南本を読みましょう。
 →個人的な意見ですが、たぶん一問あたり三回くらいは短い期間に繰り返してやるのが理想なんだとおもいます。エルデンリングかな? 繰り返し体に覚え込ませることで課題ごとに問われている焦点にやっと意識をフォーカスできるというか。全十章をのんべんだらりと一通りやるだけだとすぐに何やったか忘れるし……。
 →とおもってたら、大戸さんが二周目に入りました。すごい。

・小説以外の文章にも応用できますか?
 →基本的には小説向きの技法書だと思し召しあそばせ。形容詞や副詞の効果をひとつ引いた視点から実感してみるとかはまあ使えないでもないだろうけど、別に視点とか気にしてもしゃーないしなあ……。
  
 

合評会の運営

合評会の公式ルール

・大戸さんの記事とかぶりますが、以下は本書で述べられているル=グウィン式の合評会ルールを独自にまとめたものです。

〈作者編〉
一、合評の対象となる物語の作者は、会合の前も最中も、沈黙しなければならない。
二、合評の対象となる作者は、沈黙しなければならない。
三、合評の対象となる作者は、沈黙しなければならない。
四、前もって言い訳や説明するのも禁止。
五、質問された場合のみ、その返事を他の参加者全員も聞きたいかどうかを確認した上で、できるだけ簡潔に述べる。
六、論評されているあいだはできるだけメモを取ること。
七、論評してもらったら「ありがとう」と感謝をまず伝えること。
八、論評が終わり、作者から発言したいのであればしてもよい。ただし、a.手短に b.弁解しないこと。
九、自作について質問したいことがあれば尋ねても良い。
十、自作は(可能なら)音読する。

〈評者編〉
一、簡潔に、
二、誰からの横槍もなく、
三、作品の重要な点に関することに限って(ささいな間違いの指摘は原稿への書き込みで済ませて)、
四、人格攻撃をしない。
五、他者の論評を挑発しない。
六、他者の論評を笑わない。
七、他者の論評をやりこめようとしない。
八、他人の発言を復唱しない。
九、他人の発言に賛同したいなら、そう言う。不同意の場合は、根拠をちゃんと言う。
十、どんな素朴だと思った意見でも、感じたことはあまさず伝える。
十一、否定的なことを言うよりも、改善の可能性を提示する。
十二、作者に対して、作中の事実関係を〈はい・いいえ〉で直に訊ねてみてもよい。あるいはグループ全体で問いを共有してから、尋ねていいか全員の同意をとれた場合にのみ訊く形にしてもよい。(長い弁解や説明を必要とする質問はしないこと)
十三、アナロジーで語ってはならない。「○○に似てる、△△を思い出した」などと言ってはいけない
十四、その作品が何を扱っているか、何をしようとして、何を実現しているのかをちゃんと見定める。
十五、合評会はあなたのアピールの場ではない。「伝えるのは本人に対してであって、他人ではない」。

・ユニバーサルにデザインされた規則集だとおもいます。文舵以外でも、たとえば文芸サークルの小説の合評会なんかでも十分通用するのではないのでしょうか。1930年代のウォルト・ディズニー・スタジオのストーリー部門では、ちょっとでもダメな脚本を書いてきた人には合評仲間たちから罵声を浴びせられ、ウォルト・ディズニーその人が脚本*1をビリビリ破るといったことが行われていたらしいですが*2、そんなパワハラじみた集まりよりは百倍いい気持ちで研鑽できるとおもいます。

公式ルールの運用

・完璧に守るのはやはり難しいです。特に作者編の八、評者編の十一と十三は意識しないとつい破ってしまう。
・それと長いスパンで会をやっていると気持ちがダラけて、ルール遵守もグズグズしだしてくる。
・とはいえ、ガチガチにルールを固守するよりは、ある程度までは柔軟に対応していったほうがいいのではないでしょうか。
・人は自分がルールを破るときは無意識にやってしまうものなので、そういうときに他の参加者から気軽に指摘できる雰囲気も重要でしょうか。気づいても、責めるようで言い出しにくいものですから。
・作者編の七もさりげないことで忘れられがちですが、重要な項目です。いい感じの雰囲気にしていくこと。それが合評会では大事です。忌憚なく指摘するほうが大事、といわれる向きもあるでしょうが、逆です。いい感じの雰囲気だからこそ忌憚なく意見を交わしやすくなるのです。
・アナロジーで語るなという部分はあくまで評者を鍛えるためのルールです。出来合いの言葉を安易に使うな、ということです。これはアナロジーに限らない。
・とはいえ、あまりにあんまりな文を出されると人は「これは◯◯だろ!」とつっこみたくなってしまうものです。参加者のなかには、この抗い難い衝動を誘発させルール十三をやぶらせるためにワザと何かの二次創作みたいな文を提出する待ちガイルもいます。気をつけましょう。
・評者編ルール十三については「特定の作品名だけでなくジャンル(ホラーなど)について言及してはいけない」と解釈している参加者もいました。「文体」を評するという意識からすれば理解できる枷です。でもまあ個人的にはあまりに厳しすぎるのではないかと思います。

合評会における人と時間

人数

・5〜7人でやるのがちょうどいいかもしれません。厳格にタイムキープできる自信があるなら10人までいけるか。
・感想(作者応答含)をひとりあたり3〜5分×6人×6作品で100〜180分くらいのイメージ。合評会はかなり時間を食います。解散予定時刻から感想に使える時間を逆算しましょう。
・やってくうちに人数が減るものなので、いきなり5人スタートでやっても立ちいかなくなるかも。8人くらいで始めたほうがよいのかな。大人数の場合は合評形式(後述)を輪番ではなく挙手制にしたほうがよいです。
・ある程度言語化能力を信頼できて作品にバリエーションを出せそうなメンツを集められるのであれば、4人がベストという感触がある。ただまあそんなグループはまずありえない。
・よほどの理由か自信がないかぎり、10人以上と3人以下はやめておいたほうがいいかも。

メンツ選び&集め

・集合できる時間帯が重なる人にしておきましょう。
・知り合いを集めたほうがいいのか、ワークショップみたいに知らない人同士がいいのか。
・知り合いすぎてもよくないかもしれません。出される文章のジャンルが似通いがちだし、打ち解けすぎてタイムキープがルーズになりがちだし、その人の文章に対してある種の先入観を持ってしまいがちだし。
・逆に知らなさすぎても遠慮が生じて合評がいまいち盛り上がらない恐れがあります。それにリスク管理という点ではどうしても不安定になってしまう。
・サーバAではミステリ・SF寄り、サーバBではSF・ファンタジー寄りのメンツが集まったのですが、それぞれで提出文に異なる偏りが出たのは興味深かったです。たぶん、集めるメンツで「この設問にはこういう回答が出がちだよね」という傾向がかなり違う。
・文舵のみを目的にして募集をかけ、SNS上でですら知らん人同士でやった場合にどういう具合になるのかはわかりません。
・上のルール集自体、知らん人同士でやることを想定していると思われるので、ルールを厳正に適用すればなんとかなるのかもしれません。

期間

・サーバA Bともに基本隔週で課題をこなしました。全十章ですが、一回でこなすには多すぎる章は複数回に分けたり、参加者の諸事情によって延期することがあったりして、結局半年から十ヶ月はかかったでしょうか。長丁場です。一緒に長く過ごして不快にならない相手を選びましょう。ただ、主催者はメンツを選べますが、他の参加者同士の相性はどうしようもなかったりする。わたしは幸い他の参加者に恵まれました。*3


合評会の流れ

テキストの執筆と提出

・問題文をよく読みましょう。書く前に二回、書いた後に二回、書き直したあとに二回読めばよいです。わたしはたまに全面的に問題文を読み違えて恥ずかしいおもいをしました。
・それでもどう書けば良いのかわからないこともあるかもしれません。そういうときはネットで課題文を公開している先輩諸氏の文を読んでみましょう。どのような方向性ぐらいかは掴めると思います。
・提出。discordの場合。サーバAでは一枚のGoogleドキュメントを各自で編集してベタ貼り。サーバBではテキストファイル形式でDiscordに投稿しました。提出においてはどちらでもさして不自由しないです。後者のファイル投稿を取る場合は、discord 上で直に展開できる.txt形式で提出した方が良いでしょう。Mac使いの方は特に注意してください。
・締切は開催前日以前に設定しておいたほうがよい。サーバBでは開催日の二日前に提出締切をセットしていたでしょうか。ただ、合評会の最中にテキストを読むスタイルをとるのであれば、締切を開催日時にもってかえてもよいでしょう。オススメはしませんが。
・ただ、人間は締切までに原稿を出すとはかぎりません。

提出されたテキストを読む

・提出されたテキストは合評前にかならず目を通しておきましょう。気づいた点はメモをとりましょう。
・読むのは意外と重労働。この点は文舵会を始める前には気づきにくい問題です。
・他人の文章って読むのめんどくさいからね。しかも分析的に読まないといけないとなるとなおさら。
・あんまり前に読んでも細部を忘れちゃうからなるべく開催近くで読みたいし……(わたしは開催二時間前くらいにバーっと読んでました)
・サーバAでは合評会でのそれぞれの作品の合評前に5分程度時間をとって読むスタイルをとりました。これなら確実ではあります。ただ問題も多い。
 ・まず馬鹿みたいに時間を喰う。6人いてそれぞれ5分読書時間をとったとして、全部で30分。時間が限られている会の場合はこのロスは痛い。限られていなかったとしても30分の気力が消費されるわけですから、そのぶん会がタルみがちになります。
 ・設問によっては数分程度では読みこめない。「目を通せた」と「読んだ」は違います。もちろん、リーディング時間を延長することもできるのですが、「5分経ちました。読めましたか?」と訊かれると人は読めてなくても「読めてません」とは言い出しにくいもの。合評のために集まっているのに、そこがおざなりになるようでは何の会なのかわかりません。
・「読む時間が取れない問題」は提出側にも責任がある場合があります。締切をちゃんと守りましょう。ハイ……。
・回答文のどこに目を向ければいいのかは『文体の舵をとれ』の各課題の末尾に示されています。主にはこれを参考にすればよいでしょう。一方で、自分なりの問題意識を掘り当てることも大事です。時間が許すなら、それを会の同席者に問うてみましょう。
・時間的精神的余裕があれば音読してみましょう。

集まる場所

ル=グウィン先生が想定されているのは直接対面の場だとおもわれます。
・ただこういう御時世なので、ネットを介してボイスチャットツールを使うのが現実的です。
・こういうご時世でなかったとしても、自分の生活圏内で参加者を五人も六人も集められるのか????
・テキストチャットだけで完結させることも不可能ではないでしょう。めんどくさそうですが。

司会

・居た方が円滑に回せます。
・基本的にはタイムキープが仕事。評者の評言に相槌をうつのも重要です。
・挙手制の場合は発言希望者を指名したり、希望者がでない場合にむりやりランダムに指名するのもこの人の役目です。

合評の形式

・輪番制と挙手制があります。前者は参加者全員が順番に感想を述べていくスタイル。後者は発言希望者が何らかの手段で発言意志を示し、指名を受けて感想を言うスタイル。
・輪番制の利点。全員が発言できる。どんな些細なことでも言わざるを得ない羽目になるので意外なバリエーションが出やすい。共通の見解みたいなものが醸成されて書き手が応答しやすくなる。
・輪番制の欠点。とにかく時間がかかる。感想がかぶりやすい。後になればなるほど言うことがなくなる。流れみたいなのができるとそれに逆らうのが難しくなり、感想が均質化されてしまう。
・挙手制の利点。(特に大人数の時に)時間の管理がしやすい。感想がかぶりにくい。
・挙手制の欠点。誰も! 手を! あげないのである! なんだかんだ感想をいう順番が固定化されがち。全体を通じて感想をまったく言わない人が生まれてしまう可能性。
・人数が少ないなら輪番制、多いなら挙手制の方がやりやすいかもしれない。挙手制はステルスの人が生まれてしまわないように、司会と会全体でうまく調整していかねばなりません。

評者タイム

・ルールを守りましょう。これに尽きます。ルールさえ守っていればル=グウィン先生もニッコリです。毎回始める前にルールを確認するタイムを設けてもいいぐらいかもしれません。
・ルールをやぶるときは「これはルール違反なのですが」と前置きしましょう。多用は控えましょう。
・前述の通り、だいたいの合評は毎課題の末尾についているル=グウィン先生の提案に沿えばつつがなく運びます。
・輪番制でル=グウィン先生御謹製の論点が喰らい尽くされてしまった! という場合は自分なりのプラスアルファを探してみましょう。ない場合は「ありません」でも大丈夫です。
・気を使いすぎもよくないのですが、攻撃的な態度にならないように注意しましょう。自分以外は手のひらサイズのかわいいウサギさんだとおもって接してください。
・「自分は自分なりの着眼点や切り口を持っている」と自己暗示をかけるのもよいかもしれません。自分が文章や小説の何にオブセッションを抱いているのか、考えてみましょう。
・文体の舵をとっているのですから、困ったときは文体や視点に注目してみましょう。
・できれば(これがむずかしいのですが)質問を作者にしてみましょう。作者応答のときの指針になります。
・見落とされがちですが、提出文のあらすじ(どういう話か)を把握しておくのは大事です。合評の時にここのあたりは無意識に避けられがちです。自分が「ちゃんと読めていない」のかもしれないとおそれるためです。
しかし、だいたいの文は描写の断片です。どういう話やシチュエーションなのか、一読しただけではわかりづらいのは当然。誤読や読み落としを恐れず、「これはこういう話なのだと思いますが〜」と自分なりの解釈を披露しておくと、他の評者や作者との認識や着眼点の違いがあぶりだせて、結果的には会全体の利益に資するとおもいます。

作者の応答タイム

・ルールを読むと、先生は作者の応答タイムを基本ないものとして想定されているようにおもわれます。
・とはいえ作者と読者とコミュニケーションがあっての文章なのではないか。個人的にはあったほうがいいとおもいます。その提出文に対する一種のまとめの時間にもなりますし。ルールを墨守しろとはなんだったのか。以下、やる場合について書きます。
・1.質問に答える。2.評者の反応を掬い取りつつ、作意を説明する。基本的にはこのふたつをやるだけで時間は潰れます。
・気持ちはわかりますが、言い訳は時間の無駄です。どうして羞恥心を発散させたいのなら、執筆意図の説明に巧みに忍び込ませしょう。
・狙った効果が得られなかった場合は、読者の読解力不足より自分の表現力不足を疑いましょう。
・まあでも伝わらなかったといってあんまりクヨクヨするのもよくない。文章の九割は伝わらないのが普通です。
・各課題の焦点になっているとこさえ伝われば、という気持ちでやると訓練的にもいいかもしれません。

感想の保存法

・A.録音。i.e. 大戸さんの記事で触れられているdiscord用アプリの craig くんによる録音。
・B.各参加者ごとに自分に向けられた評言を自分でまとめる。ルールにもそう書いてある。
・C.【Aサーバ】では、「司会が共有されたドキュメントに直に各自の感想を書き込む」という形式を後半から取っていました。一覧性と網羅性という点では有効です。
  →難点その一:ぼんやりしてると参加者の言ってることを聞き逃してわけがわからんくなる。深夜にはキツい。
  →難点その二:話しながら書くことは無理なので自分の感想が一覧から抜け落ちてしまう。これはあらかじめ論点を文字にしておくことで対処可能。ただ、それでも「自分の提出ターン時の作者応答フェイズ」は無理。


 

ル=グウィン先生の仰る事がわからない場合

・あらゆる教典がそうであるように、たまにル=グウィン先生の御言葉は曖昧だったり矛盾しているように見える箇所を含んでいたりします。
・見解は会ごとに出せばいいとおもいますが、いちおう会内では見解を統一しておきましょう。次回の課題を話し合う場で解決できればよいですが、実際に書いてみないと気づけない部分もあるかと思います。仮にあなたが主催者で、無限の責任感を持つ神の如き存在であるのなら、一回分の合評会が終わったらすぐに次回分の課題をやり、その身をもってつまづきやすい点をあぶりだしましょう。
・英語をある程度解し、かつ原語版を持っている人がたまに降臨するかもしれません。神です。崇めましょう。もっとも、神にだってわからないことはあります。

・その日の文舵会が終わったらみんなで歌を歌います。歌う曲はみんなで選びましょう。いちばん盛り上がったのはアジカンの「リライト」と映画『ヘアスプレー』の「You can’t stop the beat」でしょうか。

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他のことなど

・以上の文を書いてから一ヶ月かそこら放置してたら、他にどんな論点について書きたかったのかわからなくなってしまいました。
・文舵会においては評者が一番重要です。良き読み手になるのは難しいことかもしれませんが(下手な課題文かいたときより、うまく評をできなかったときのほうが落ち込みます)、善き読み手になる道は万人に開かれています。明文化されているわけですから。
・序盤にも書きましたが、【サーバA】と【サーバB】で出てくる感想や課題ごとの空気が結構異なっていたのはおもしろかった。「これはこういう課題だな」という見立ては実は一定でないのかもしれない。
 →あたりまえだけど、人の文章に対する感覚や基準って個人個人や帰属しているジャンルごとに違うんですね。「文章の最善ってこうだろ」みたいな意見が、あるコミュニティでは同意を得られても、別のコミュニティではまったく前提として理解されない。たとえばミステリファンが中心となっている場所とSFファンが中心となっている場所の「良い文章」って違うわけですよ。もしかしたら、いちばん根っこの部分では共通している美意識みたいなのはあるのかもしれませんが。2つのサーバに参加してよかったな、っておもうのはそこらへんの差異をなんとなく肌で実感できたことでしょうか。
・ほかに何が書きたかったんだっけ……。そうそう、各章の課題ごとの留意点と攻略法。
 →忘れてることも多いし、無理だな……。
 →とおもってたら、hayanelさんがええまとめ書いてはった。これ、いいです。
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*1:実際にはストーリーボード、いわゆる絵コンテ

*2:『アニメーションの女王たち』より

*3:他の参加者のみなさまの恵みとなれたかは自信がありませんが……。

フィギュアスケートまんがにおけるジャンプ時のコマ送り表現について。

 フィギュアスケートまんがを読んでいると、どの作品にもある演出が共通して描かれることに気づきます。
 それが「ジャンプ時のコマ送り」。

(『メダリスト』つるまいかだ 『アフタヌーン』連載)

 このようにジャンプの回転を連続写真のように、ひとつの画面の中におさめ、表現する手法です。
 これがまあフィギュアスケートまんがには必ず一回は出てくる。確定で出てくる。確定演出ってやつですね。
  フィギュアスケートの見せ場としてジャンプがいちばん盛り上がるのはわかる。ジャンプの回転表現としてはもうひとつ「((💃))」的なエフェクトをつけるものがありますが、これではタテ、ヨコ、回転の三つの運動を兼ね備えたジャンプの迫力を伝えるには足りない。それを読者に伝えるにはコマ送りで表現したほうがよい。それはわかる。
 では、どのくらい昔からある表現なのか。気になりますよね? 気になりませんか? ならない? あっ、そう。わたしは気になります。気になるので、さかのぼって調べてみましょう。

2010年代

(『氷上のクラウン』タヤマ碧 『アフタヌーン』連載)

・キャラの色合いの濃淡で時間経過を表現しているのがニクいですね。カメラの角度にも少し工夫がされています。着氷時のキャラを読者の目の前にこさせることで迫力を出そうという意図か。本作は特にカメラの位置が意識されていて、既存のフィギュアスケートまんがに対するチャレンジ精神が垣間見えます。

(『キスアンドクライ』日笠希望 『週刊少年マガジン』連載)

・見ての通り、日笠希望はいい絵を描くんです。『キスアンドクライ』はかなり早い段階で打ち切りになってしまって残念でしたが、それ以降名前を聞かないのが心配。

2000年代

(『くるりんぱっ!』今井康絵 『ちゃお』連載)

・これも奥行きを意識した迫力のある構図。奥→手前→奥となっているのは珍しい。

(『ブリザードアクセル鈴木央 『週刊少年サンデー』連載)

・ベタの濃淡で時間経過を表していますね。同じ画面にジャンプを見ている人の後頭部も収められているのが印象的。他のジャンプ描写では「ジャンプを見て驚いている人の顔」も入ってたり、本作はとにかく表現面でのバリエーションが楽しいです。

1990年代

(『ワン・モア・ジャンプ』赤石路代 『ちゃお』連載)

・これはちゃんとコマを割って目撃者の反応を描いているパターン。なにげにコマ割りもジャンプの軌道に沿って流線的になっている。『ちゃお』はフィギュアスケートまんがのメッカですね。

(『ドリーマー!!』武内昌美 『少女コミック』連載)

・ほとんど角度のついてないところからジャンプをとらえた珍しい構図。

1980年代

(『虹色のトレース』田中雅子)

・見開きでジャンプをダイナミックに描きつつ、同時並行で主人公(驚いている人)とライバル(怜花と呼ばれている黒髪)のやりとりを展開することで、ジャンプの時間経過をも表現するというかなり大胆な手法。画面はかなりうるさいですが。

1970年代

(『銀色のフラッシュ』ひだのぶこ 『週刊少女コミック』連載)


『恋のアランフェス』→『愛のアランフェス』槇村さとる 『別冊マーガレット』連載)

・槇村、ひだはフィギュアスケートまんがの開拓者。このころから「キメゴマとしてのジャンプ」「ジャンプを目撃した人間たちのリアクションも同ページ内で描く」「フィギュアスケートの立体性」が意識されていたことがわかります。

始祖はだれか。

 と、いろいろ見てきたわけですが、どうも五十年前から存在している表現のようです。
 本邦におけるフィギュアスケートまんがは1970年代から、もっといえば札幌五輪(1972年)以降から始まりました。*1なので、これ以上は遡れないということになる。入手しうる最古のフィギュアスケートまんがの『ロンド・カプリチォーソ』(竹宮惠子、1973年)ですが、厳密にジャンプのみにフォーカスした表現とはいえないものの、コマ送り表現が出てきます。
 




 では、竹宮惠子が始祖なのでしょうか。うーん。

 と、なんとなく釈然としない気持ちで竹宮惠子の自伝『少年の名はジルベール』を読んでいたら、72年に竹宮や萩尾望都山岸凉子とヨーロッパ旅行へ行くくだりが出てきました。山岸凉子はいわずとしれたバレエまんがの大御所。当時は『アラベスク』という意欲的なバレエまんがを連載していた時期にあたります。
 ん? バレエ……? そういえば、フィギュアの選手はバレエの練習もするものと『メダリスト』で読んだような……?
 直感が働いて早速キンドル版の『アラベスク』一巻(1971年)を購入。
 すると、



 

 はい、勝ち〜〜〜〜〜〜〜。
 山岸と交流の深かった竹宮が一定程度『アラベスク』の表現を取り入れた可能性はあるし、そうでなくとも影響力が強い作家・作品でしたからここからフィギュアスケートまんがにも波及していったのは全然考えられることです。
 いやあ〜〜〜〜こういう偶然の導きと勘と経験がマッチして何かを掘り出したときって脳汁がヤバいですね〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜というわけで、「フィギュアスケートまんがのジャンプコマ送り表現の起源はバレエまんが」ってことで雑調査はおしまいです〜〜〜〜〜〜〜〜いかがでしたか?〜〜〜〜〜お役にたったかはどうあれ、わたしは楽しかった〜〜〜〜〜。

バレエまんがにおけるジャンプコマ送り表現

 いや、待てよ。じゃあ、バレエまんがでのジャンプコマ送り表現ってどうなってるんだろう……?
 『テレプシコーラ』読んだことあるくらいで、ぜんぜん知らないジャンルだし一からディグりなおすのも……と悩んでいたら、いるものですね、救世主というのは。バレエまんがの歴史をまとめてくださっている note 記事がありました。


 非常に勉強になる良いジャンル史概説です。ありがとう。インターネットに感謝。

 
 で、70年代編の記事ではなんとバレエでのコマ送り表現に触れられています。天恵かな?
 この記事では、バレエのジャンプコマ送り表現は「70年代だけに顕著に見られるバレエシーンの表現」であるとされています。白いカラスがいないか自分でもいつか検証してみたいところですが、とりあえずはこの記述を信用したい。
 してみると、「バレエにおけるジャンプコマ送り表現は早々に絶滅したが、遺伝子を受け継いだフィギュアスケートまんがでは半世紀を経た今でも主流の表現として生き残っている」ということになります。
 ロマンがあるストーリーですね。自分でいっといて、ホンマかいな、とおもわないでもありませんが*2、とりあえずのところはうつくしいままで今回の調査を終えましょう。


 ところで、上の記事を書かれたせのおさんはコマ送り表現の起源として石ノ森章太郎説を唱えておられます。特に理屈の説明とかなされていませんが、これはありそう。石ノ森章太郎は男性作家のみならず女性作家にも多大な影響を与えていたというのは1970年前後の女性漫画家シーンを活写した『少年の名はジルベール』や『一度きりの大泉の話』でも描かれています。*3日本まんががアニメーションや映画に影響を受けて発展してきたことを考えると、コマ送り表現に限定すれ石ノ森以前にもありそうな気もしますが、これも調べようとすると手間だな……いつか、いつか、ね。


おまけ:『メダリスト』のジャンプコマ送り表現

 すっかりフィギュアスケートまんがのトップランナーの地位を固めた『メダリスト』ですが、ジャンプシーンにもさまざまな工夫が凝らされています。



・ジャンプ中に表情が変化するまんがはめずらしい。これに限らず、『メダリスト』は競技中の表情にフォーカスしているところがあたらしさのひとつであります。




 
・コマ割りされた画面のひとつ上にレイヤーを足してそこにジャンプを置く。上で見た『銀色のトレース』にも似たかなり複雑な画面ですが、情報自体は整理されているのでさらりと読めてしまう。

  

・伝説の第十八話。複数の選手の演技を同時並行でシームレスに描くというとんでもないエピソードなのですが、ジャンプでも「ひとつらなりのジャンプを割って三人の選手を描く」という発想の勝利みたいなことをやっています。


『メダリスト』のエポックなところは他にもいっぱいあるのでいつか書けたらいいですね。

  

*1:最初期のフィギュアスケートまんがである竹宮恵子の『ロンド・カプリチォーソ』(1973-74年)やひだのぶこの『銀色のフラッシュ』(1976-78年)では、札幌五輪の女子シングル銅メダリスト、ジャネット・リンに言及されています。ジャネット・リンという人は当時の日本ではアイドル的な人気を博したようで、CMやテレビ番組でひっぱりだこだったそう。フィギュアスケートの受容史について手頃な本が見つからなかったのでなんともいえませんが、彼女が日本におけるフィギュアスケート人気の土台を築いたのはありそう。

*2:note の記事中でも『絢爛たるグランドセーヌ』あたりにそれっぽい表現がある

*3:特に竹宮惠子は「石ノ森先生の『マンガ家入門』を15歳のときに読んで、マンガ家になりたいと決心した日から、信用できる大人は両親のほかにはまず石ノ森先生だった」(『少年の名はジルベール』)と書き「実際に弟子として働いてはいなくても、気持ちは弟子です」と熱烈に私淑していたそう