名馬であれば馬のうち

読書、映画、ゲーム、その他。


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フィギュアスケートまんがにおけるジャンプ時のコマ送り表現について。

 フィギュアスケートまんがを読んでいると、どの作品にもある演出が共通して描かれることに気づきます。
 それが「ジャンプ時のコマ送り」。

(『メダリスト』つるまいかだ 『アフタヌーン』連載)

 このようにジャンプの回転を連続写真のように、ひとつの画面の中におさめ、表現する手法です。
 これがまあフィギュアスケートまんがには必ず一回は出てくる。確定で出てくる。確定演出ってやつですね。
  フィギュアスケートの見せ場としてジャンプがいちばん盛り上がるのはわかる。ジャンプの回転表現としてはもうひとつ「((💃))」的なエフェクトをつけるものがありますが、これではタテ、ヨコ、回転の三つの運動を兼ね備えたジャンプの迫力を伝えるには足りない。それを読者に伝えるにはコマ送りで表現したほうがよい。それはわかる。
 では、どのくらい昔からある表現なのか。気になりますよね? 気になりませんか? ならない? あっ、そう。わたしは気になります。気になるので、さかのぼって調べてみましょう。

2010年代

(『氷上のクラウン』タヤマ碧 『アフタヌーン』連載)

・キャラの色合いの濃淡で時間経過を表現しているのがニクいですね。カメラの角度にも少し工夫がされています。着氷時のキャラを読者の目の前にこさせることで迫力を出そうという意図か。本作は特にカメラの位置が意識されていて、既存のフィギュアスケートまんがに対するチャレンジ精神が垣間見えます。

(『キスアンドクライ』日笠希望 『週刊少年マガジン』連載)

・見ての通り、日笠希望はいい絵を描くんです。『キスアンドクライ』はかなり早い段階で打ち切りになってしまって残念でしたが、それ以降名前を聞かないのが心配。

2000年代

(『くるりんぱっ!』今井康絵 『ちゃお』連載)

・これも奥行きを意識した迫力のある構図。奥→手前→奥となっているのは珍しい。

(『ブリザードアクセル鈴木央 『週刊少年サンデー』連載)

・ベタの濃淡で時間経過を表していますね。同じ画面にジャンプを見ている人の後頭部も収められているのが印象的。他のジャンプ描写では「ジャンプを見て驚いている人の顔」も入ってたり、本作はとにかく表現面でのバリエーションが楽しいです。

1990年代

(『ワン・モア・ジャンプ』赤石路代 『ちゃお』連載)

・これはちゃんとコマを割って目撃者の反応を描いているパターン。なにげにコマ割りもジャンプの軌道に沿って流線的になっている。『ちゃお』はフィギュアスケートまんがのメッカですね。

(『ドリーマー!!』武内昌美 『少女コミック』連載)

・ほとんど角度のついてないところからジャンプをとらえた珍しい構図。

1980年代

(『虹色のトレース』田中雅子)

・見開きでジャンプをダイナミックに描きつつ、同時並行で主人公(驚いている人)とライバル(怜花と呼ばれている黒髪)のやりとりを展開することで、ジャンプの時間経過をも表現するというかなり大胆な手法。画面はかなりうるさいですが。

1970年代

(『銀色のフラッシュ』ひだのぶこ 『週刊少女コミック』連載)


『恋のアランフェス』→『愛のアランフェス』槇村さとる 『別冊マーガレット』連載)

・槇村、ひだはフィギュアスケートまんがの開拓者。このころから「キメゴマとしてのジャンプ」「ジャンプを目撃した人間たちのリアクションも同ページ内で描く」「フィギュアスケートの立体性」が意識されていたことがわかります。

始祖はだれか。

 と、いろいろ見てきたわけですが、どうも五十年前から存在している表現のようです。
 本邦におけるフィギュアスケートまんがは1970年代から、もっといえば札幌五輪(1972年)以降から始まりました。*1なので、これ以上は遡れないということになる。入手しうる最古のフィギュアスケートまんがの『ロンド・カプリチォーソ』(竹宮惠子、1973年)ですが、厳密にジャンプのみにフォーカスした表現とはいえないものの、コマ送り表現が出てきます。
 




 では、竹宮惠子が始祖なのでしょうか。うーん。

 と、なんとなく釈然としない気持ちで竹宮惠子の自伝『少年の名はジルベール』を読んでいたら、72年に竹宮や萩尾望都山岸凉子とヨーロッパ旅行へ行くくだりが出てきました。山岸凉子はいわずとしれたバレエまんがの大御所。当時は『アラベスク』という意欲的なバレエまんがを連載していた時期にあたります。
 ん? バレエ……? そういえば、フィギュアの選手はバレエの練習もするものと『メダリスト』で読んだような……?
 直感が働いて早速キンドル版の『アラベスク』一巻(1971年)を購入。
 すると、



 

 はい、勝ち〜〜〜〜〜〜〜。
 山岸と交流の深かった竹宮が一定程度『アラベスク』の表現を取り入れた可能性はあるし、そうでなくとも影響力が強い作家・作品でしたからここからフィギュアスケートまんがにも波及していったのは全然考えられることです。
 いやあ〜〜〜〜こういう偶然の導きと勘と経験がマッチして何かを掘り出したときって脳汁がヤバいですね〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜というわけで、「フィギュアスケートまんがのジャンプコマ送り表現の起源はバレエまんが」ってことで雑調査はおしまいです〜〜〜〜〜〜〜〜いかがでしたか?〜〜〜〜〜お役にたったかはどうあれ、わたしは楽しかった〜〜〜〜〜。

バレエまんがにおけるジャンプコマ送り表現

 いや、待てよ。じゃあ、バレエまんがでのジャンプコマ送り表現ってどうなってるんだろう……?
 『テレプシコーラ』読んだことあるくらいで、ぜんぜん知らないジャンルだし一からディグりなおすのも……と悩んでいたら、いるものですね、救世主というのは。バレエまんがの歴史をまとめてくださっている note 記事がありました。


 非常に勉強になる良いジャンル史概説です。ありがとう。インターネットに感謝。

 
 で、70年代編の記事ではなんとバレエでのコマ送り表現に触れられています。天恵かな?
 この記事では、バレエのジャンプコマ送り表現は「70年代だけに顕著に見られるバレエシーンの表現」であるとされています。白いカラスがいないか自分でもいつか検証してみたいところですが、とりあえずはこの記述を信用したい。
 してみると、「バレエにおけるジャンプコマ送り表現は早々に絶滅したが、遺伝子を受け継いだフィギュアスケートまんがでは半世紀を経た今でも主流の表現として生き残っている」ということになります。
 ロマンがあるストーリーですね。自分でいっといて、ホンマかいな、とおもわないでもありませんが*2、とりあえずのところはうつくしいままで今回の調査を終えましょう。


 ところで、上の記事を書かれたせのおさんはコマ送り表現の起源として石ノ森章太郎説を唱えておられます。特に理屈の説明とかなされていませんが、これはありそう。石ノ森章太郎は男性作家のみならず女性作家にも多大な影響を与えていたというのは1970年前後の女性漫画家シーンを活写した『少年の名はジルベール』や『一度きりの大泉の話』でも描かれています。*3日本まんががアニメーションや映画に影響を受けて発展してきたことを考えると、コマ送り表現に限定すれ石ノ森以前にもありそうな気もしますが、これも調べようとすると手間だな……いつか、いつか、ね。


おまけ:『メダリスト』のジャンプコマ送り表現

 すっかりフィギュアスケートまんがのトップランナーの地位を固めた『メダリスト』ですが、ジャンプシーンにもさまざまな工夫が凝らされています。



・ジャンプ中に表情が変化するまんがはめずらしい。これに限らず、『メダリスト』は競技中の表情にフォーカスしているところがあたらしさのひとつであります。




 
・コマ割りされた画面のひとつ上にレイヤーを足してそこにジャンプを置く。上で見た『銀色のトレース』にも似たかなり複雑な画面ですが、情報自体は整理されているのでさらりと読めてしまう。

  

・伝説の第十八話。複数の選手の演技を同時並行でシームレスに描くというとんでもないエピソードなのですが、ジャンプでも「ひとつらなりのジャンプを割って三人の選手を描く」という発想の勝利みたいなことをやっています。


『メダリスト』のエポックなところは他にもいっぱいあるのでいつか書けたらいいですね。

  

*1:最初期のフィギュアスケートまんがである竹宮恵子の『ロンド・カプリチォーソ』(1973-74年)やひだのぶこの『銀色のフラッシュ』(1976-78年)では、札幌五輪の女子シングル銅メダリスト、ジャネット・リンに言及されています。ジャネット・リンという人は当時の日本ではアイドル的な人気を博したようで、CMやテレビ番組でひっぱりだこだったそう。フィギュアスケートの受容史について手頃な本が見つからなかったのでなんともいえませんが、彼女が日本におけるフィギュアスケート人気の土台を築いたのはありそう。

*2:note の記事中でも『絢爛たるグランドセーヌ』あたりにそれっぽい表現がある

*3:特に竹宮惠子は「石ノ森先生の『マンガ家入門』を15歳のときに読んで、マンガ家になりたいと決心した日から、信用できる大人は両親のほかにはまず石ノ森先生だった」(『少年の名はジルベール』)と書き「実際に弟子として働いてはいなくても、気持ちは弟子です」と熱烈に私淑していたそう

第94回アカデミー作品賞候補作の(ほぼ)全所感。

 今年に入ってから映画の感想をブログに残していないことに気づいたのでよくないなーとおもったので、時期も時期もだし、アカデミー賞の作品賞候補になっている十作品のうち、日本で公開済みの九作品についての感想を書いておきます。正直、そこまで興味持てなくて関連情報も掘ってない作品ばかりなので、表層的なことしか言えませんが。以下、好きな順。

『ナイトメア・アリー』(ギレルモ・デル・トロ

 フリークショー(見世物小屋)映画とペテン師映画のハイブリッド。デルトロ作品のなかではベストではないだろうけど、いちばん好きかも。
 とにかく前半の見世物小屋描写が最高で、カーニバルの夜の陰気ないかがわしさも昼の陽気な愉しさも両方ともたっぷり描いてくれます。これはリメイク元である『悪魔の往く町』にはなかったところ。*1ウィレム・デフォーウィレム・デフォーしているのも見所。
 ただまあ、これは主演のブラッドリー・クーパーの映画ですよね。最初は寡黙でひょろりとした正体不明のあんちゃんとして現れたクーパーがマジシャンの弟子になり、やがて口先という天分を見つけて都会でペテン師として成り上がっていく。その過程が「ギーク*2というカーニバルの見世物*3に重ねられているのが痺れるといいますか、わたしの好きなタイプのプロットです。これがクーパーによく合うんです。
 ラストのある場面でクーパーは「Mister, I was born for it.(そのために生まれてきたんです。)」と言います。このセリフは原作には存在せず、『悪魔の往く町』では「I was made for it.」でした。 made ではなく born 。どちらも意味的には代わりません。*4
 しかし、どこまで行っても身ぎれいで、顔立ちや瞳に強さを宿したタイロン・パワーはたしかに「作られて」そこに在るのかもしれないけれど、どんなに男らしく強権的に振る舞っていても眼からフラジャイルさが消えないクーパーの場合は「生まれた」ときの運命から抜け出せない。ささやかでありつつも、極めて重要な変更点です。まだあんまりうまく言語化できないのでこれから考えていきたい。
 こういう生まれ持った宿命に呪われて抜け出せない系の物語によわいな……。クリント・イーストウッドの言うところの「運命に後ろから追いつかれる」的な。
 

『ウエスト・サイド・ストーリー』(スティーブン・スピルバーグ

 同名のミュージカル映画(1961年、ロバート・ワイズ監督)のリメイク。
 ミュージカルっていうよりは映画なんだけど、やっぱりミュージカルでもある。ふしぎな作品です。映画的な制約の要請としてミュージカルを映画的に撮らざるをえない窮屈な作品は多いというか、実写のミュージカル作品ってそういうものばかりなんですけれど、これはスピルバーグが映画的に撮りたいからそう撮っているという感じがする。
 たとえば、終盤のレイチェル・セグナーとアリアナ・デボーズが言い争う場面で、ふたりとも歌いながらなのに普通のドラマのような顔どアップの切り返しでカットを割っていて、これが成立するのスピルバーグくらいでしょう。
 主役二人が恋に落ちる体育館での集団ダンスシーンもバッキバキに決まっていて最高で、ある映画評論家が「歌だけじゃなくてコレオグラフも含めてのミュージカル」って言っていたけれど、まさにそれが体現された快楽的なシーンだとおもいます。
 今年去年とミュージカル映画がやたら多いですけれど、この調子でどんどん増えていってほしいですね。好きなジャンルなので。といっても、新作で自分に完全にフィットするものは少ないのですけれど。『シラノ』(ジョー・ライト監督)なんかも曲はよかったんだけど……。


『パワー・オブ・ザ・ドッグ』(ジェーン・カンピオン

 アートハウス~~~~~ってかんじ。
 最初、カンヌのコンペにノミネートされたときは「えっ!? まさか、ドン・ウィンズロウの映画化!?」と興奮しましたけれど、違いました。いちおう、ウィンズロウのカルテル三部作もFXでのドラマ化が進んでいるらしいです。最初はリドリー・スコットで撮る予定だったらしいけど、どうなるのやら。
 それはさておきつ、ジェーン・カンピオンのほうの『パワー・オブ・ザ・ドッグ』。弟を子持ちの女にとられて嫉妬で狂うカンバーバッチがいいですよね。弟役のジェシー・プレモンスもあいかわらずいい。カンバーバッチと比べてどっちがインテリ感あるかっていうとカンバーバッチのほうなんですが、モンタナにいそうな男感はプレモンス。っていうか、カンバーバッチは英国人だしね。コディ・スミット=マクフィーもオスカーの助演男優賞ノミニーに値する存在感。
 こうして見るとなんかウジウジした男ばかりで、『パワー・オブ・ザ・ドッグ』とはアメリカの田舎のウジウジした男たち映画だったのかもしれません。アメリカ人はアメリカのうじうじした男映画が大好きなので毎年ひとつはその風味のある映画が作品賞候補に入っているものですが、受賞となると『ムーンライト』以来?

 

『コーダ あいのうた』(シアン・ヘダー)

 毎年オスカー候補に一作は入ってる系のふつーにいい話だなあ、っていいますか。ふつーにいい話だなあ映画ってそんなきらいじゃないですよ、わたしは。『ニュー・シネマ・パラダイス』に感動するタイプの人間なので。
 他人に感想を述べるなら以上でおしまいなんですが、それだけだと他に比べてバランスがわるいか、そうですね……。
 主人公は、耳が聴こない家族のなかで唯一の健聴者で、ある種の通訳者として家族と地域社会との橋渡しを担っている。タイトルにもなっている「コーダ(CODA)」とはこうしたひとのことです。両親が仕事を行う上でも彼女の存在は欠かせないわけで、家族としては高校生の娘に依存して生活しなければならない、といういびつな状況に陥ってしまっています。しかし大学進学を控えた主人公にも将来の夢ややりたいことはあるわけで……という、このジレンマの作り方がうまい。「親も子も互いのことを大事に思っているし好きなんだけれど、関係としてはトキシックになってしまっている」という悪人のいない悲劇的なシチュエーションは最近だとピクサーの新作『私ときどきレッサーパンダ』もそうでしたね。毒親ものが増えてきた今だからこそのバランスというのもあるのかな。
 

ベルファスト』(ケネス・ブラナー

 北アイルランドベルファストのある通りに住む少年と家族を描いた、ブラナーの自伝的作品。
 冒頭からその通りに対して覆面の集団が襲撃をしかけてきて、なんだと思ったらマジョリティであるプロテスタントがマイノリティであるカソリックを追い出そうとしているんですね。そんな地域で主人公である少年家族はプロテスタント、という少々呑み込みづらい設定。しかし複雑な設定であるからこそ、差別的な対立の恣意性や不毛さが際だつのかもしれません。主人公と近所のお姉さんが「プロテスタントっぽい名前とカソリックっぽい名前の違い」を並べあうシーンは皮肉かつ象徴的です。
 俳優は全員がんばっていて魅力的。
 ただ正直、この題材ならもっとおもしろく撮れたんじゃないかな。そうならないのがブラナー的というかなんというか。モノクロで撮っているところなんかさしづめアルフォンソ・キュアロンの『ローマ』で、無垢な少年が差別的な社会のまっただ中に放り込まれるさまは、タイカ・ワイティティの『ジョジョ・ラビット』なんですけれど、キュアロンほどの格もワイティティほどの愛嬌もブラナーにはないんですよね。そこが最近は好ましくも感じられるんですけれど。
 作品としてはともかく(今やってる『ナイル殺人事件』のほうが好き)、ブラナーの個人史としてはなかなか興味深い。というのも、後年ブラナーが映画として撮ることになる「ケネス・ブラナー少年が大好きだったもの」がちょくちょく映り込んでくるからです。観ていると、ああ『オリエント急行』をああいうオープニングにしたのは少年時代にこういう状況を体験したからなのだなあ、とか、請負仕事でやっていたとばかり思っていたけど意外と『マイティ・ソー』に思い入れがあったんだなあ、とか、微笑ましい気持ちになれます。 

 

『ドライブ・マイ・カー』(濱口竜介

 去年の映画鑑賞まとめにも書いたんですけど、『偶然と想像』のほうが好きなんですよね。わかりやすくおもしろいから。むつかしい映画はわからん。
 まあしかし、いくらいけすかねえな~とおもってても濱口作品を観られてしまうのは、そのキッチュな部分、つまり人間のどうしようもなさ(主に痴情のもつれ)とそのヤバさを確実に見せてくれるからです。*5
 特に西島秀俊岡田将生演じる東出昌大東出昌大ではない)とある共演者が一緒にいるところに出くわしてしまう場面のアチャ~感はすごい。「通りすがってしまい、そのまま通り過ぎざるをえない」という点で、車の特性を他のシーンよりもよほどうまく利用していたのではないでしょうか。
 基本的にはコメディの人なんだとおもいますが、シリアスであればあるほどコメディ部分が際立つので、塩梅がむつかしいですね。また『寝ても覚めても』みたいなのを撮ってほしいですが、ここまでのクラスになってしまうと無理なのかな。
 

『DUNE 砂の惑星』(ドゥニ・ヴィルヌーヴ

 デュ~~~~~ン、ってかんじの映画でした。
 ヴィルヌーヴのSFに感心したことってあんまりないかもしれない。重いもん。でもまあ、『メッセージ』なんかと比べるとその重たさに向いた原作だったかもしれません。


 

『ドリームプラン』(レイナルド・マーカス・グリーン)

 女子プロテニスのレジェンド、ウィリアムズ姉妹を育て上げた父親を主人公にした映画。
 アメリカンドリームを追い求めるゆがんだ狂人を題材にした映画は好きです。なのですが、本作に関しては無理にホームドラマ的な側面も盛り込もうとしたからか、どっちつかずになってしまった印象。あれはもうたまたまうまくいっただけの毒親だろ。
 姉妹たちに『シンデレラ』を観せ、ひとりずつ学んだ教訓を真剣に訊ねていく場面は狂いっぷりという点で好きです。


『ドント・ルック・アップ』(アダム・マッケイ)

 好ましい部分は多々あるものの、他者を見下して徹底的にバカにせずにはおられないアメリカンリベラルの悪癖が悪い形で作用していて(『バイス』とかはまだ調和が取れていたと思う)なんだかな~~~という気持ちになる。
 ティモシー・シャラメティモシー・シャラメ役と以外形容しようがない天使みたいな役回り(お祈りするシーンで中心になるし)で出ているのはウケた。あの最後の晩餐のシーン、シャマランの『サイン』っぽくありません? ない?



 こうしてみたら十作品中四作品がリメイクというか映画化済作品なんですね。こんな年はあんまりない気がする。単にスピルバーグ、デルトロ、ヴィルヌーヴといった巨匠たちが懐古趣味に走っているだけといえばそうなので、映画界全体の潮流とむすびつけるのはどうなのかな。
 そうして、ずばぬけて面白い作品も、どうしようもないほどつまらない作品もない。ようするにいつものアカデミー賞候補作って印象。ここに並んだ作品よりはいまやってるマイケル・ベイの『アンビュランス』のほうが好きです。あれはいいですよ。自分はもしかしたら銀行強盗ものにかんしてはあんまりあたまよくないほうが好きかもしんない*6
 予想ですか。オスカーは『コーダ』が獲るんじゃないんでしょうか。そんなことはどうでもいいから、『リコリス・ピザ』を今すぐ公開してほしい。

*1:1947年版との比較はここに詳しい。 Nightmare Alley (2021) vs. Nightmare Alley (1947): What Are the Differences? | Den of Geek

*2:字幕では Geek という語に「獣」という字が当てられています。辞書的にはただしくありませんが、この映画に関してはフィットしていると思います

*3:特にアメリカでは本来「ギーク」といったらこのカーニバルのギークのことで、「おたく」などの意味はあとからつけられた

*4:まさかブラッドリー・クーパーが監督主演した『アリー スター誕生』(A Star is born)にかけたわけでもなかろうが

*5:おなじキッチュさでもクラシック音楽づかいのダサさは『偶然と想像』でもどうかとおもいましたが……。

*6:ここでいう「頭のいい」はマイケル・マンとか『ザ・タウン』とかであり、「頭がわるい」には『キャッシュ・トラック』とか『アンビュランス』が入ります

2022年1月の新作まんがベスト10+5

 あけましておめでとうございます。
 以下は、2022年の一月に第一巻が発売された新作まんが10選と、同じく2022年に発売された単発長編・短編集5選です。
 基本的にはおもしろいと感じた順にならんでいるものと思し召しあそばせ。


 よくある質問:
 Q.来月もやるの? マンスリーでやるの?
 A.わからない。これまでの経験からいえば今月っきりになる可能性が高い。

【2022年1月に第一巻が発売された連載もの】

1.『とくにある日々』(なか憲人)

 今月のベスト。なかよしの高校生ふたりを中心に展開されるオフビートな学園コメディ。単純に奇想コメディとしてめちゃめちゃ笑えるんですけど、画的としてエモーショナルな瞬間が何度もあって謎の感動を呼びます。panpanyaテレンス・マリックに撮らせたみたいな。


2.『桔香ちゃんは悪役令嬢になりたい!』(原作・相馬康平、作画・日下氏)

 アニメの影響で悪役令嬢を目指すイタい小学生桔香ちゃんとそれぞれの思惑と成り行きから彼女の下僕として侍ることになった仲良しグループの四コマギャグ。要するにまあみんな大好きな「本物になりたいニセモノ」の話であって、それは”悪役令嬢”に憧れるけれど空回りすることでもあるし、彼女よりもキャラの濃いメンツに囲まれているということでもある。姉フィクとしても優秀。


3.『百合の園にも蟲はいる』(原作・羽流木はない、作画・はせべso鬱)

 名門女子校に赴任してきた男性教諭・円谷。なんとなく馴染めなさを感じていたところにクラスでいじめ疑惑が浮上し、彼はそれを解決しようと乗り出すが……という教師ものの学園コメディドラマ。『女の園の星』とは異なり、生徒たちのダークでラジカルな面を見せる……というとよくあるまんがのようだけれど、主人公もなかなかキレているところがおもしろい。イカれたキャラしか出てこないまんがはよいまんが。キレどころのタイミングもよい。

 

4.『艦隊のシェフ』(原作・池田邦彦、作画・萩原玲二

 池田邦彦に対する認識が変わったのは『国境のエミーリャ』を読んだくらいからでしょうか。連作短編をまとめる技量が抜群にすごい。第二次世界大戦中の日本海軍の駆逐艦で烹炊兵と呼ばれた料理係たちの奮闘を描くお料理グルメ×戦争まんがである本作でも、綿密な取材に裏打ちされた人情ありスリルありの人間ドラマが分厚く発揮されています。っていうか、スパイものが好きなんだなあ、池田先生。

5.『おいしい煩悩』(頬めぐみ)

 グチャグチャに泣きはらしてる人間の顔は好きですか。大好きなあなたには、コレ。『おいしい煩悩』。一話に一ページぶちぬきでグッチャグチャに泣いて許しを乞うている主人公が見られます。ノリとしては黒崎冬子から品の良さを抜いたような印象でしょうか。引き出しがあまりなさそうなのが今後の不安。
 

6.『夜嵐にわらう』(筒井いつき)

 私たちの筒井いつき先生はいまも世界のどこかで暗黒百合を描き続けている。そう思うだけで勇気がもらえる気がするんです。このまんがでは生徒たちから陰湿ないじめを受けている教師が、突然登校してきたやべー不登校児に執着されたことから、クラスがめちゃくちゃな暴力教室になっていきます。そう、いつもの100パーセントの筒井先生です。

7.『ミューズの真髄』(文野紋)

 ドアマットみたいな人生を送ってきた主人公が一念発起してやりなおす、という物語は類型としてさして珍しいものではなく、そういうもののなかではシチュエーションがあまりにも『凪のお暇』と被りすぎだろう(女性向けまんがのフォーマットの範疇かもですが)とは思います。しかし、ディティールに乗っている情念というかパッションみたいなものはオリジナルで迫力がある。


8.『天使だったらよかった』(中河友里)

 ずっと仲良しでやってきた夏瑚(女)、泰星(男)、憂奈(女)の高校生幼馴染三人組。しかし、ある日、泰星と憂奈がつきあいはじめて、主人公・夏瑚は疎外感をおぼえだす。複雑な気持ちを抱えていた夏瑚だったが、ある時、憂奈が想像を絶するサイコパス野郎と判明し……という三角関係BSSNTR返しメフィストフェレスまんが。キャラや展開はめちゃくちゃ濃いのだが、まんがとしてはするりと飲める喉越しのよさが匠の業前。


9.『目つきの悪いかわいい子』(ハミタ)

 属性一点賭けシチュエーションラブコメ(俗に言う高木さん系)と見せかけておいてシリアスな話をやる、というのは、特段珍奇というわけでもないんですが、これはそのなかでも手続きが誠実な印象。
 

10.『花は咲く、修羅の如く』(原作・武田綾乃、作画・むっしゅ)

 京都の高校で放送部やるやつ。『響け!ユーフォニアム』の放送部バージョンと理解すれば早い。第一巻ではキャラや設定紹介止まりといった印象ですが、その時点ですでに厚みがあり、今後の地獄が楽しみです。
 

【2022年1月に発売された単発長編・短編集】

1.『苦楽外』(宮澤ひしを)

 エグみを抜いた前期五十嵐大介といった印象の海棲怪奇譚。奇譚という表現がしっくりくる温度感。


2.『リボンと棘 高江洲弥作品集』(高江洲弥)

 『先生、今月どうですか?』でプロップスを高めつつある高江洲弥の天才性と全方位に満遍ない嗜好が遺憾なく発揮されている短編集。死体を埋める百合ならぬ埋められた死体百合の「ある日森の中」と、小学生が人喰い植物人外の力に溺れる「誘い花」が特にマーベラス。読んでいると、人はハルタ作家として生まれるのではなく、ハルタ作家になっていくのだなあ、とおもいます。


3.『黄色い耳(((胎教)))』(黄島点心)

 異才・黄島点心の黄色シリーズ?第三作(だったとおもう)。中編が二篇載っており、前半の方では黒ギャルが友達とDV彼氏を山に埋めてもう一回その山に行ったら謎の耳キノコの化け物と出会ってセックスして恋仲となり耳たぶに耳キノコの子を孕む、といういつもの文章にしたら気が狂っているのかな? という勢いのあるストーリーでまあこういうのに関しては読んでくださいとしか言いようがない。
 

4.『絶滅動物物語』(うすくらふみ、今泉忠明・監修)

 主に人間の手によって絶滅した動物(正確にはアメリカバイソンなどギリギリ絶滅しなかったものも含む)にまつわる物語。動物関連書籍でよく名をみかける今泉忠明監修。リョコウバトやステラーカイギュウ、ドードーといったわりと有名どころを扱いつつ、人間の業をえぐります。現存しない動物たちの生きていたころの姿を再生する、という地味に難業をクリアした力作。


5.『SUBURBAN HELL 郊外地獄』(金風呂タロウ)


 郊外で気の狂ってしまった現代人の姿を描くサイコホラー短編集。きちんと「土地と人間」の呪いに落とすところがホラーとして端正。