名馬であれば馬のうち

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かわいいゾウさんを撃つーー『It Takes Two』について

*本記事には『IT Takes Two』についてのネタバレが含まれています。*1


しかし私はその象を撃ちたくなかった。草の束を膝に叩きつける象を私は見つめた。象は何かに没頭している老婦人を思わせる雰囲気を持っていた。象を撃つことは謀殺のように思われた。


   ーージョージ・オーウェル「象を撃つ」(Haruka Tsubota 訳)



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ゾウは忘れられない


 2021年度の The Game Awards でゲーム・オブ・ザ・イヤー(作品賞)に選ばれた It Takes Two は、ゲーム史に残る邪悪なトラウマをプレイヤーに刻んだゲームでもあった。
 ゾウを殺すのである。
 ただのゾウではない。
 この世の純粋無垢を具現したような愛らしい、思いやりのある、かわいいゾウ、しかもぬいぐるみのゾウをプレイヤーは手にかけなければならない。
 プレイヤーに拒否権は事実上ない。ストーリー進行の要請としてゾウさんをひどいめに合わせねばならず、どうしてもやりたくないならゲームをそこでストップする以外の方法はない。
 一連のイベントシーンを乗り越えたプレイヤーたちは誰もが頭を抱えて、あるいは天を仰いで、こうつぶやく。
 ーーどうしてこんなことに。


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どうして……?


 It Takes Two は世にも珍しい二人プレイ専用のタイトルだ。
 仲が冷え切ったすえに離婚を決断した夫婦が離婚を悲しむ娘の涙の力によって、魂を人形に囚われてしまい、元の肉体へ戻るために協働して奮闘する、という内容。プレイヤーは夫婦のうち、どちらのキャラを操作するかそれぞれ選んでプレイする。
 基本的には3Dのフィールドでパズルをときながら進んでいくプラットフォーマー・アクションだが、途中で多彩なミニゲーム(だいたいは明確な元ネタあり)をこなしていったりもする。
 相棒となるプレイヤーと、ときに励ましあい、ときに罵りあい、ときに煽りあって進行していくプレイはゲーム内の物語そのものともシンクロしており、豊かなゲームデザインとあいまって、約12時間前後の共同作業がまったく苦にならない。たしかにゲームオブザイヤーの名に恥じない、2021年の新作タイトルでもマストな一本といえるだろう。


 だが、ゾウを殺さなくてはならない。


 問題となるのは Cutie という名前のゾウさんと対峙するシークエンス。
 自分の身体を取り戻すにはもう一度娘に涙を流させればいいのではないか、と考えた主人公夫婦は、彼女のお気入りだったぬいぐるみを壊すことで娘に悲しみに追いこうとする。そのターゲットとなるぬいぐるみが Cutie だ。
 そんな企みを露も知らない Cutie はアポもなく現れた夫婦を歓迎し、ハグをしたり、クッキーを薦めたりする。夫婦が自分を殺そうとしていると知ったあとでさえ、穏やかに説得してやめさせようと試みる。
 Cutie は本編でプレイヤーたちの言い訳になるような悪事を一切働いていない。ひたすら、いい子だ。
 プレイヤーたちは命乞いをしながら逃げ惑う Cutie を追い回さなければならない。傷つけなければならない。殺さねばならない。
 その殺害過程は凄惨のひとことに尽きる。とても文字では描写できない。詳細を知りたい場合は本編をプレイするか、あるいは youtube にアップされた動画を観てほしい。


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 上の動画のコメント欄には嘆きと後悔が渦巻いている。「Cutie にこんなことはしたくなかった」「インディーゲームでここまでの罪悪感と絶望と悲しみを抱いたことはかつてなかった」「このシーンを見た後、セラピストへ会いに行きました」「泣いた」「あらゆるゲーム・映画を通じて最も心打ち砕かれるシーンだ」……
 実際にこのパートでプレイを止めたと告白するものさえいる。 
 Steam の不評レビューでもっとも評価を集めているのも「ゾウさんがかわいそう」*2と書かれたものだ。ちなみに二番目に人気を集めている不評レビューは「クリアするより前に彼女からフラれたので(オススメしません)」だ。
 

 Reddit のある投稿者*3は「俺はこれまでゲームを通して色んな存在を殺してきた。悪魔から空港の一般人まで、あらゆるものを。そういうことについて、あまり深く考えてこなかったといえる。だが、慈悲を請うなにかを苛み殺す経験は、俺と俺のガールフレンドをすさまじく不快にさせた」。


 この投稿で言及されている「空港の一般人」とは一人称視点シューティング戦争ゲーム『Call of Duty』シリーズ6作目『Modern Warfare 2』(2016年)に出てくるあるステージを指す。そのステージではプレイヤーはテロリスト*4に扮し、ロシアの空港で丸腰の市民を虐殺することになる。*5
 ビデオゲームの歴史において最も論議を呼んだ場面のひとつだ。*6
 

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 そんな悪趣味の極致とされるゲームよりも Cutie 惨殺はむごい体験だった、と彼はいう。

 このようにゲーム中に道徳やタブー、法律、そして個々の感性の境界を踏み越える体験をビデオゲーム研究者のモーテンセンヨルゲンセンは〈逸脱 transgression 〉と呼んだ。*7
 逸脱的な体験はときに殺人のような社会規範にもプレイヤーの道徳理念にも反する行動を強いるけれども、基底現実でそのような行動を取るよりはプレイヤーに耐え難さを催させない。なぜなら、プレイヤーは、実際の行動と結果が生じているゲーム内世界から身体的に切り離された空間におり、文脈的にも隔絶している。要するに、画面のこちら側でボタンを押すことと画面の向こう側で銃を撃って人を殺すこととのあいだには、地続きの感覚として認識するにはかなりの距離がある、というわけだ。*8
 

 逸脱にはある種の美的経験をもたらす効果がある。*9 戦争ゲームをメタ的に解釈した Spec Ops: The LIne (2016年)に代表されるように逸脱を明示的に批評的な文脈で用いるゲームも多く存在する。しかし、CoD:MW2や純粋な無差別殺戮を追求したと謳ったポーランドの Hatred(2015)などは多くの人々に火遊びの快楽を超えて嫌悪を催させた。*10
 そして、It Takes Two はそれ以上の拒否反応を招いた。
 現実世界において、ゾウのぬいぐるみをめちゃくちゃにすることは、無抵抗の市民を虐殺するより残酷な行いだとはまずみなされない。ここに顛倒がある。なぜだろう。
 
 
 ひとつには、Cutie が顔を持ったキャラクターとしてよくデザインされていることだ。Cutie が劇中で登場してから退場するまでは数分程度しかないものの、そのあいだに彼女のやさしさ、愛らしさ、無垢さがわずかな会話や行動で十全に提示されている。
 感情移入するにあたり、対象を一個の存在として認識することは重要だ。たとえば、ひとは「○○という国の子どもたちが飢えて苦しんでます。あなたの寄付で救えます」という情報を見せられても、なかなか簡単にそうした子どもたちの窮状に対してアクションを起こそうとはしない。ところが、「○○という国にすむ△△ちゃんは今晩食べるパンすらありません。彼女は毎朝家族のために10キロ離れた井戸まで水を汲みに……」などと具体的なストーリーを提示されると急に寄付へとつながりやすくなる。*11
 創作の分野においてキャラクターの重要性が説かれるのもつまりはそういうこと。どうでもいいキャラが死んでも読者にとってはどうでもいい。
 そして、Cutie のキャラは声といい振る舞いといい、かなり幼く設定されている。ここが特に制作者の悪辣なところだ。まるで何もわからない子どもを手にかけているような感覚に陥ってしまう。 外見も幼児向けのぬいぐるみであり、実際主人公の娘の大事なおもちゃという設定もあるため、容易に「=子ども」という連想が働いてしまう。
 子ども殺しの描写は全世界的にエンタメコンテンツで忌避されている。『Skyrim』のようにNPCを無造作に殺害できるようなゲームでも、子どもだけはその対象から外されていることが多い。前述の CoD:MW2 でさえ、空港の虐殺シーンに子どもは出していないのだ。
 そうした点において、It Takes Two はタブーに踏み込んでいるといえる。逸脱の度合いが高い。
 
 
 もうひとつには、主人公夫婦の行動原理に共感できないこと。
 すでに書いたように主人公夫婦は「娘の涙のせいで自分たちが人形になってしまったのだから、もう一度娘を泣かせばきっと元に戻れる」というロジックで動いている。いかなる理由があれ、自分たちの娘を泣かせるつもりで行動する親がいるだろうか。*12
 実際、このあたりの物語運びに強い拒否感を抱いたプレイヤーは少なくようだ。ある Steam ユーザーは「こいつらに子供を育てる資格はない」*13と断言し、英語圏のあるユーザーは「『こいつらはサイコパスだ』と感じてプレイを止めた」という。
 もちろん、主人公夫婦はこのあと娘に対するおもいやりを取り戻すわけだが、それにしてもいくら切羽詰まった状況で多少のためらいはあるとはいえ、「自分の子どもを傷つけようとする親」が描かれるというのも考えてみれば、いくらギャグであるとはいえ、異質だ。
 

 さらにもうひとつ。以上このイベントが作品の見てくれから期待されていなかったことだ。
 物語はおとぎ話みたいで実際、物語全体通して見ればハートフルといえるし、キャラクターデザインもかわらしく仕上げられている。まさに子どもといっしょにプレイするにふさわしい感触だ。
 そのゲームの外見や事前情報から想定される期待のフレームを外れたとき、プレイヤーは衝撃を受ける。それは「裏切られた」という感情へ、ときにいい意味で、ときに悪い意味でつながる。
バイオハザード』を購入して遊んだプレイヤーが「まさかゾンビになった人間を銃で撃つハメになるとは……」とショックを受けることはまずない(「まさか、あんな屋敷のなかであんな謎パズル解かされるだなんて……」とショックを受けることはあるかもしれない)。戦争ゲームであるCoDで一般市民を虐殺することは予想しないかもしれないが、しかし兵士やテロリストを射殺することは期待するわけであるし、そこにおいて一般市民を巻き込むことをまったく想定しないかといえばそうではないだろう。
 だが、It Takes Two においてかわいいゾウさんをさんざん追いかけ回して追い詰めたすえに殺すことは誰も希望しないし、想像もしない。ゲームジャンルと地続きになっている展開でもない。
 わたしたちはまったく無防備な状態で、強烈な一撃を喰らう。


 わたしたちはゲームで体験したことを語りたがる。なかでも衝撃的だった体験を語ろうとする。Cutie the elephant のくだりが It Takes Two のネタバレにおいて最も語られるシークエンスであるのは、そういうことだ。
 開発者のジョセフ・ファレスはインタビューで「あれは美しいシーンだった。自分は大好きだ」と述べたうえでこう続けている。「ゲームはプレイを通してプレイヤーの感情を惹起します。みんなよく取り違えるけれども、いい気分が引き起こされたのであればもちろんそれはよいことですし、悪い感情が引き起こされた場合でもそれはゲームのストーリーテリングにとってはよいことなのです。」*14
 

【おまけその1・ボリート*15としてのヴィデオゲーム】


 ヴィデオゲームにおける強制力について書きたい。あるいは、steam や YoutubeReddit でかれらがそうしているように、自分の体験についてわたしは語りたい。


 Cutie 殺害がショッキングなのは、プレイヤーたちが一挙手一投足をもってその行為に加担しなければならないからでもある。本作のストーリーは一本道であり、繰り返しになるが、Cutie を殺さないという選択肢はゲームの停止以外ありえない。
 しかし、本当に自らの道徳規範や嫌悪の感情に忠実ならば、ためらいなくそこでゲームを中断できるはずだ。*16


 でも、わたしはしなかった。わたしたちは、そうしなかった。


 ジョージ・オーウェルのエッセイ「象を撃つ」をおもいだす。当時英領だったインドに駐在していたオーウェルが、地元民を殺害したゾウを射殺するように依頼される話だ。オーウェルとしては気が進まない業務だったのが、ふと気がつくと地元民の注目が自分に注がれており、宗主国民としての責務を果たすようにみえない力で強制されているかのような心地になる。そして、彼は象を撃ってしまう。
 ヴィデオゲームは自由なあそびであるけれども、不自由なあそびでもある。ゲームはときどき無意味なようにおもわれたり、プレイヤーの意に沿わないようなことも強いてくる。強制は明確な指示として文字や声で命じられる場合もあるし、
そうするしかない流れになる場合もある。それはゲームの作品世界がひとつの系であるからだし、独自の法則によって形作られているからだ。
 しかし、RPGで経験値を得るためにザコ敵を狩ったり、しょうもないミニゲームをやらされたりするならともかく、あきらかに間違っている感覚をおぼえるものを間違っていると断定できないままにやらされる体験は希少だ。これはわたしたちたちの倫理、すなわち現実がフィクションの世界に優越しているという事実のひとつの証左なのだろうか?


 この前遊んだ Spec Ops: The Line では「吊るされた民間人か兵士かのどちらかを撃たねばらない」という選択を突きつけられた。うんこ味のカレーか、カレー味のうんこか、みたいな二者択一だ。それはゲームにおける選択の無意味さについての批評のようでもあったけれど、プレイヤーとしてはどっちに転んでも最悪な分、むしろ撃つのが気持ち楽だった。
 だが、たいていのゲームのたいていの場面は選択肢を提示しはしない。ゲームには目的があり、(ものにもよるが)ストーリーやプロットが設定されている。その終端に達することで、わたしたちはようやく「ゲームを遊んだ」といえるようになる。
 ゲームのメディアとしての特性は受け手の関りかたの能動性にある。もちろん、小説にだってページをめくるという行為に能動性は宿り、それを利用して「物語を読みすすめる読者と物語内で起こる悲劇の共犯関係」をメタ的に描いたミステリだってあるけれども、かなり抽象的だ。「おまえがページをめくったせいで作中の人物がひどいめにあいました」と言われても、ハア、そうッスか、という気分にしかならない。
 ビデオゲームの操作系とインタラクションの機序も現実に比べれば抽象的にすぎる。とはいえ、選択や行動について覚える能動性はそれでも他メディアと比較にならない。
 自分の意志がそこにあるような気がするし、実際プレイヤーの意志を反映してプレイヤーキャラは動く。
 だが、実際には物語に、ジャンルに、作品ごとのシステムに、ゲーム機の性能に、コントローラのボタンの形状や数に、あるいは数々のなんとなしな了解によってわたしたちは縛られていて、その範囲内でしか意志することはできない。


 ゲーム研究者のイェスパー・ユールは『The Art of Failure: An essay on the pain of playing video games』*17プレイヤーが回避しえない意図せざるゲーム中の悲劇の例として、『レッド・デッド・リデンプション』とボードゲームの『Train』*18をとりあげている。
レッド・デッド・リデンプション』の終盤では(ネタバレになるので詳細は伏せるが)とあるプレイヤーの意志に反するであろうあるキャラについての悲劇を強制的にあじわわされる。しかし、一方でその時点では当該キャラは「プレイヤーの代理」としての役割から解放されているので、プレイヤーの感じる負担は少なくなる。人形夫婦が「プレイヤーの代理」としての役割を負わされたまま Cutie の殺害に加担する It Takes Two とは対照的だ。
 どちらかといえば It Takes Two のフィーリングに近いのは『Train』のほうかもしれない。

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Train


 このゲームは人間の形をしたフィギュアを貨物列車に詰め込んで輸送するゲームだ。プレイヤーはできるだけ貨物列車にフィギュアを満載しようとする。そうして、列車がマップの端に到達すると、プレイヤーは伏せられたカードの山からカードを一枚引く。そのカードには目的地の地名が記されている。なぜか、どういった地名なのかはプレイヤーに事前に明かされていない。


 一番乗りで山札から引いたあなたのカードにはこうあるーー「アウシュビッツ」と。


 その他のカードにはこうだ。「ヘルムノ」「ダッハウ」「トレブリンカ」……。
 いずれもナチスドイツの建設したユダヤ絶滅収容所の代名詞となっている地名だ。


 プレイヤーはゲームに勝つために進んで”ポイント”を輸送していたつもりが、知らずして虐殺に加担するはめになっていた、というわけだ。「Train」がウォール・ストリート・ジャーナル紙で二度とプレイしたくないゲームとして取り上げられたのは当然だったろう。最も一点ものとして開発され市場に流通しなかったので、一般のゲーマーには触れる機会もなかっただろうけれど。*19
 しかし、「Train」の全体像が明かされたあとも積極的にプレイを続ける向きは少数だろう(「いったん始めた以上は他のプレイヤーもいることだし仕方ない」としぶしぶ続けるか、最初からそういうゲームとして悪趣味に楽しむかする人たちは別にして)。
 かたや、It Takes Two には奇妙な魔力がある。わたしたちは不快な行為をやらされると判明したあとでも、罪悪感に苛まされながらネチネチとゾウさんを追い回す。その罪悪感には拒絶の感情だけでないなにか別のものが宿っているのだろうか? だとすれば「それ」はなんだろう? ユールはその問いには明確な答えを与えてはくれない。代わりにこう述べる。
「これらはすべて、ゲームが悲劇と責任の探求という意味で最も今日陸なアートフォームであることを示しています。私たちは、どのように犯罪を犯すか、またどのようにそれを隠すかを実際に考えさせられました。ゲームは隠れる場所を与えてはくれません」*20


 そう、わたしたちには逃げ場がない。
 窮極的には、わたしたちの行動はデザインされたものだ。クリボーを踏まないマリオはいないし、スライムを真っ二つにしない勇者はいない。わたしたちはほかのなにかを殺すようにコントロールされている。そしてそのことに呵責を覚えない。かつてなく自由な時代なはずなのに、アイヒマンみたいな毎日。
 ゲームで強制される逸脱的なシーンは、そんなわたしたちの不自由さを確認させてくれる。ゲームを遊ぶという行為とはいったいどういうことであるのか、その根源を問うてくる。
 だからこそ、わたしは It Takes Two のゾウさんの場面が心に残っているのかもしれない。オーウェルが象を撃つことによってコロニアリズムの奇妙な権力関係を発見したように、物事には顛倒や凝視によってしか届かない領域がある。
 ゲームであることの良い点は、わたしの行為によって現実のゾウさんが死ぬことはないし、Cutie もエンディングでは修復されて元気になっているということだ。


 

【おまけその2・ジョセフ・ファレスというひと】

開発者はレバノンスウェーデン人のジョセフ・ファレス(Hazelight Studios)。元は映画監督で、兄である俳優のファレス・ファレス*21を主演にした長編を撮ったこともあった。
 2010年代からゲーム業界へ転身し、『ブラザーズ:2人の息子の物語(Brothers: a Tale of Two Sons)』(2013)で成功を収める。同作はコントローラーの左右で主人公となる二人の兄弟を別々にあやつる、一人協力プレイともいうべき操作系のゲームだった*22
 二作目となる A Way Out(2018、日本語版未発売*23)では、さらに過激化して完全な二人協力プレイ専用ゲームとして発売。テレビゲームなど孤独な陰キャのオタクのやるもの、という偏見を覆し、発売二週間で100万本を売った。この A Way Out の発売前年にファレスは時の人となる。といえば、聞こえはいいが、つまりは炎上した。
 2017年の The Game Awards にゲストとして出演したファレスはパブリッシャーであるEAのゲームにおけるルートボックス要素(ものすごく噛み砕いていえば、ガチャ)を批判。のみにとどまらず、全世界へ向けての生放送の真っ最中に中指を立てて「Fuck the Oscar(アカデミー賞なんかくたばっちまえ)」などと発してしまう。

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 日本なら出禁ものの大失態だ。だが、フィル・フィシュ*24や Notch*25といった札付きの問題児を見てきたゲーム業界はファレスの放言程度はかわいいものだと判断したのかもしれない。*26 A Way Out は翌年のTGAで部門賞にノミネートされ、さらに It Takes Two では最高賞となるゲーム・オブ・ザ・イヤーに輝いた。受賞のスピーチで、ファレスはこう述べた。「2017年にこのステージ上で『アカデミー賞なんかくたばれ』って言ったけれど、まあある意味で、くたばったよね。The Game Awards のほうが良くなってきているもの」。
「Fuck the Oscar」ミームIt Takes Two の作中でもイースターエッグとして仕込まれている。


*1:でも、あなたが本当はそんなの気にしないことをわたしは知っている。

*2:https://steamcommunity.com/id/Sirecia/recommended/1426210/

*3:https://www.reddit.com/r/Games/comments/mqp8zl/comment/h45jhkg/?utm_source=share&utm_medium=web2x&context=3

*4:正確にはテロリストの仲間を装ったスパイ

*5:ステージの前には警告が出され、ステージをスキップするかどうかを選べる。日本語版では市民を射殺するとゲームオーバーという仕様に変えられている。

*6:https://ja.wikipedia.org/wiki/No_Russian

*7:‘The paradox of transgression in games’

*8:ちなみにゲームを通じて発生する認知的不協和を説明するタームとしては Ludonarrative Dissonance という概念もある。こちらはプレイヤー自身の倫理観によって引き起こされる不協和というよりは、ゲーム全体としてのテーマと部分としてのシーンが齟齬をきたしたときに起こるものっぽい。http://www.fredericseraphine.com/index.php/2016/09/02/ludonarrative-dissonance-is-storytelling-about-reaching-harmony/   https://twitter.com/zmzizm/status/1169122687026978817?s=20

*9:モーテンセンヨルゲンセンはカントの「崇高さとは自分より大きいものに出会ったときの経験である」ということばを引き、逸脱にはそうした感覚と出会う可能性があると示唆している。

*10:もちろん、MW2の空港ステージを心から楽しんだプレイヤーもたくさんいただろう。それは犯罪ではない。

*11:たしか行動経済学でこういうのに名前がついていたはずだが忘れた

*12:ここにはプレイヤーがゲーム内の操作キャラクターを常に自らのアバターとして考える「アバター・バイアス」の問題も絡んでいる。プレイヤーにとってゲーム内の操作キャラクター(代理行為者)とはなんなのか、という問題については松永伸司の『ビデオゲームの美学』(慶應義塾大学出版会)の第六章と第十一章でもふれられているが、私は議論をよく理解できている自信はない。ある日いきなり『ビデオゲームの美学』をすべて理解したイケメンが白馬に乗って現れてわたしにわかりやすく解説してくれないかなあ、と願っているがその日はいまだに訪れない。だれか助けてくれ。

*13:https://steamcommunity.com/profiles/76561198850470927/recommended/1426210/

*14:https://www.pushsquare.com/news/2021/04/exclusive_josef_fares_discusses_the_infamous_elephant_scene_in_it_takes_two

*15:コーマック・マッカーシーの戯曲とそれに基づく映画『悪の法則』に出てくる自動処刑装置」

*16:カイヨワ曰く、自発的でないかたちでプレイされるゲームはゲームではない

*17:邦訳タイトルは『しかめっ面にさせるゲームは成功する 悔しさをモチベーションに変えるゲームデザイン』ボーンデジタル

*18:よくにた名前のボードゲーム、『Trains』とは別物

*19:本作をデザインしたブレンダ・ロメロはこの他にもプレイヤーが奴隷貿易業者に扮する The New World や強制移住を余儀なくされた19世紀のネイティヴ・アメリカンたちの「涙の道」と呼ばれる死の行進を題材にした One Falls for Each of Us などのシリアスゲームを制作したらしい。

*20:p.88, 『しかめっ面にさせるゲームは成功する 悔しさをモチベーションに変えるゲームデザイン

*21:ベースはスウェーデンだが、アラブ系の役柄でアメリカの映画やドラマに出演することもたびたびある。有名どころだと『ローグ・ワン』や『ウエストワールド』にも出演。

*22:2020年にSwitchへ移植された際にはコントローラーを分割できるSwitchの特性に合わせてローカル二人プレイも実装された。しかしゲームの演出上には一人プレイのほうが想定されている

*23:現状英語版すら Steam だと日本では購入不可能となっているが、Electronic Arts の販売プラットフォーム Origin で購入できる

*24:Fez』で知られるゲームデザイナー。個性的な言動で炎上しまくったあげく(有名どころではあるゲーム開発者のカンファレンスで放った「今の日本のゲームはクソ」発言)、現在はゲーム開発から引退。

*25:Minecraft』の開発者。あらゆる方面への差別発言を繰り返したあげく、マイクロソフトに売った『Minecraft』のクレジットから名前を消されてしまった。あまりの素行の悪さにマイクラファンからも忌避され、「マインクラフトは初音ミクが作った」というミームが一時期流行った。https://knowyourmeme.com/memes/hatsune-miku-created-minecraft

*26:余談になるけれども、SF小説の界隈で起こったサッドパピーズ騒動で差別主義的団体ラビッド・パピーズを創設した Vox Day も90年代はPCゲームの開発者だった。フィル・フィッシュとかはまた違ってくるけれど、”問題児”を生んでしまう土壌みたいなものは界隈には確実あったようで、これが2010年代にゲーマーズゲートを引き起こし、現在立て続けに起こっているキャンセル騒動につながっているわけだけれど、今回は関係ないので省きます。

2021年の新作映画ベスト10+α

 昨年は一昨年に輪をかけて映画を観られなかった気がします。やっぱり映画館行かないと観ないひとなんですよ、あたし。
 そんな状態で出すトップリストって公益性はあんまりないわけですけれど、まあそもそもが全体的に公益性なんてないブログなのだし、備忘録としては結局必要になるのだし、結局は出さざるをえない。
 というわけで参りましょう。2021年に公開された新作映画マイベストです。


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画像はイメージです


新作映画ベスト10

1.『キャッシュトラック』(ガイ・リッチー監督、米英)


 なんかこう長らく映画館に行けなかった時期があって。そうなると映画の愉しみを忘れてしまうんです。もう映画ってなにがおもしろかったのかわからない。
 それでひさびさに映画館で観て、ああ映画っていいなあ、って気持ちが蘇ったのが『キャッシュトラック』でした。ガイ・リッチー映画ですよ。そんなガイ・リッチーって好きじゃなかったのにね。
 どこが「いいなあ」だったのかって、暴力が常に上位に来るわけですよ、この映画。
 いちおう、ジャンル的にはクライムだかノワールだかだったり、プロット的には割と凝った風の構成を取ったり、スパイ探しみたいな要素もあったり、でもそういうのが全部暴力の前に雑におざなりに吹き飛んでしまう。スパイ探しなんて、なんか唐突に犯人がおもむろに自白しだしますからね。あたかもミステリ要素なんてなんでもないかのように放り投げる。だってこれは暴力の映画だから。原題なんて Wrath of Man ですよ。いまどきスーパーヒーロー映画以外で Man なんてタイトルにつけないでしょう。しかも、Wrath ときている。アホなんじゃないの。
 とにかく銃弾が飛び交って、一瞬の差で人が簡単に雑に死んでいく。ほぼみんな死んじゃう。ステイサムだけが生き残る。理由なんてないんです。ステイサムだから生き残っている。

 特に感動した場面があります。
 ジョシュ・ハートネットの演じるイキリヘタレキャラが幸運にも修羅場から五体満足で脱出する。みんな死ぬような映画で生き残れるポジションに入りかけるんですよ。でも、向こうで鳴っている銃声に魅入られるようにして、フラフラとキリング・フィールドに舞い戻って、結局なにをするというわけでもないまま無様に死んでしまう。
 なんだかよくわからない高揚に当てられて、灯下の虫にようにふらふらと飛んでいって焼かれてしまう。そこにコンプレヘンシブな言語なんて介在する余地はなくって、ただ熱と光だけがある。映画を観るって、そういうことなんじゃないんでしょうか。

2.『偶然と想像』(濱口竜介監督、日)

 アクセルしか踏まないキャラしか出てこない。そしてそういうキャラクターのエンジンによってのみ物語が駆動しているところがすごい。

 基本的に濱口竜介はことばのひとです。ことばを発することそのものにアクションがある。そういうと非映画的な監督なのだとネガティブに受け取られそうだけれど、まあそういう勘違いはほうっておけばよいのです。
 で、そういうことばのバランスが稀に崩れてただアクションだけが先行する瞬間があり、たとえば『寝ても覚めても』のレストランで東出昌大と入れ替わって東出昌大が現れる場面は問答無用にエキサイティングでした。
寝ても覚めても』には『ハッピーアワー』にも『ドライブ・マイ・カー』にもない快楽がありました。それはなにかといわれるとなにかはよくわからなくて、起因するとしたらある種のジャンル映画っぽさなのかと推測したりはできるのだけれど、やっぱりよくわかんない。
ああいうのがまた観たいなあ、と願いながら『ドライブ・マイ・カー』を観にいき、ああ、こういう方向に洗練されていくのか、と映画自体の評価とは別に、失望のような諦めのような感情を抱いて映画館を出たのが夏のこと。もう二度と濱口竜介の撮る身体にゾクゾクさせれることはなくなった、そうおもいました。
 ところが『偶然と想像』で再会できたんですね。第三話。あれこそもう奇跡みたいなもんですね。

3.『ライトハウス』(デイヴ・エガーズ監督、米ブラジル)

「2人の男性が灯台のメタファーとしての巨大な男根像に残されたとき、良いことはなにも起こり得ません」という監督のことば以上に的確な評言もないとおもう。ちいかわみたいなもんです。

4.『プロミシング・ヤング・ウーマン』(エメラルド・フェネル監督、米)

 チャーリーXCXの Boys から始まる映画がおもしろくないわけない。
 ええっ!? マジでここで終わるの!? という突き放した感じがすさまじかった。これが世界なんだよ、と言われたような気がして、呆然とした。まあ、ここで終わんなかったわけですが。
 あとでインタビュー読んだら監督的にはあそこで終わらせたかったらしい。そうだろうよ。あそこで終わらせられなかったのは結局のところ映画が夢を語る装置としての役割を強いられているからだと思います。そこのあたりは実はハリウッドは黄金期のころから、もちろんニューシネマ時代にあってさえ、変わらなかったわけですけれど。

5.『恐怖のセンセイ』(ライリー・スターンズ監督、米)

 『ベスト・キッド』と『ファイトクラブ』をかけ合わせたような最高のトキシック・マスキュラリティ映画。
 ジェシー・アイゼンバーグAORを聞き、フランス語を習い、ダックスフントを飼っていることを聞いた空手のセンセイが「男の音楽はメタル! フランスの歴史は妥協の歴史、語学ならロシア語かドイツ語! イヌを飼うならジャーマンシェパードを飼え!」などと言ってくる。

6.『マリグナント』(ジェイムズ・ワン監督、米)

 マ〜〜〜〜〜ジでバカ。

7.『劇場版 少女☆歌劇 レヴュースタァライト』(古川知宏監督、日)

 テレビ版のときはああ清順とかイクニとか好きなのねってくらいでたいして面白いとおもわなかったんですけれど、映画はヤバかった。死ぬかとおもった。たぶん、演劇とおなじで密室での鑑賞体験だからこそなのだとおもいます。

8.『悪なき殺人』(ドミニク・モル監督、仏独)

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  • ドゥニ・メノーシェ
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 チャプターごとに視点人物が切り替わる系のミステリ作品なんですが、切り替わるごとに謎が収束していくというより、エッ!? こんなとこ飛ぶの!? という驚きが連続してどんどん加速していく。なんか真面目っぽい顔して、そうとうアホで良い映画です。
 いや、まさかさ、フランスの片田舎で起こった主婦の行方不明事件がコートジボワールの黒魔術師へと行き着くなんて誰も想像しないでしょう。
 あとファーストカットが強烈でいい。映画ってファーストカットでヤギをおんぶした人を自転車で走らせてもいいんだ。

9.『ヴェノム:レット・ゼア・ビー・カーネイジ』(アンディ・サーキス監督、米)

 コロナを経てMCUのあらゆる面での過剰さにもう疲弊しきってしまったわけですが、そこに一服の清涼剤として現れたのがど根性ヴェノムさんの二作目。
 なにがいいって、雑なんですよ。話の展開とかカットとか割と「これでいいや」って感じで雑に切る。他のマーベル映画ならあとひと手間ふた手間かけているところをハイ次ってかんじでサクサク進行させていく。それで驚きのランタイム実質90分。
 内容もひたすら痴話喧嘩だし、なんならロマンティック・コメディのパロディみたいなシーンさえやる悪ノリっぷり。
 極めつけはラスト。
 あそこまでとってつけた感のあるラストはひさびさに観ました。とってつけた感しかないんですよ。ほんと。そこがすばらしい。
 MCUって全部意味じゃないですか。コメディよりのやつであったとしても、すべてつながっていてひとつの大きな流れのなかにある。でもヴェノムは孤高かつナンセンスなんです。なくてもいいんです。ストップ・メイキング・センスってかんじです。その軽さに救われる。
なんて思っていたら、ちゃんと『スパイダーマン:ノー・ウェイ・ホーム』につながっていてびっくりした。やっぱり特に意味はなかったんですけど。

10.『PITY ある不幸な男』(バビス・マクリディス監督、ギリシャポーランド

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  • ヤニス・ドラコプロス
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 不幸な状態に依存してしまうことって人間あるよな〜という点では『愛がなんだ』に通じているんですけれど、脚本がヨルゴス・ランティモスの長年のパートナーであるエフティミス・フィリップなので万倍ひどい。撮り方はまあなんというか……ランティモスってやっぱりギリシャのクレムデラクレムだったんだなって。
 イヌがすばらしくいいです。

他に言及したいもの

『ミラベルと魔法だらけの家』(バイロン・ハワード監督)

 ディズニーひさびさのミュージカル。アンチプリンセスものとしての意識がけっこう明確に出ていて、たとえば「動物と意思疎通ができる」というのは典型的なディズニープリンセスの権能であったのだけれど、それが目の前で別のいとこに”とられる”というシーンがあったり、他にもアナ雪のエルサを意識したキャラにクィア的なイメージ*1を暗に付与していたり。ミュージカルシーンの出来もわりかしよかった。『ズートピア』以降で一番好きなディズニー/ピクサー長編かもしれない。
 やっぱりアメリカ人はミュージカルのつくりかたがわかってるよね。それにしても最近のアメリカはミュージカル多いですね。半分くらいはリン・マニュエル・ミランダのせいでは。

『最後の決闘裁判』(リドリー・スコット監督)

 リドスコはSFとかより時代劇のほうが好き。あんまり顧みられてないけど『キングダム・オブ・ヘブン』とかそれこそ『ザ・デュエル』とか。クソ重そうな甲冑着てクソ重そうな剣を振り回すシーンを撮る時の気合の入れようは半端なくて、本作の決闘シーンはリドスコ史上でも抜きん出ているのじゃなかろうか。『グラディエーター』とかよりもずっと。*2
 あとイヌを中心に動物がいっぱい出てきて、それぞれのシーンでパッと見で寓意がわかるのもよい。

ピーターラビット2』(ウィル・グラック監督)

アメリカ人が作るイギリス映画」という奇妙なポジションが2では特に炸裂していて、ピーターがメンターを得てストリートでヘイストしたりする。

『クルエラ』(グレイグ・ギレスピー監督)

 親殺し映画としては最高なのだけれど、『101匹わんちゃん』の前日譚としては最悪というなんともアンビバレンツな気持ちに苛まされる。まあ『マレフィセント』のラインだろうし、ベースになってるアニメから外れてなんぼのもんってノリなんだろうけど。
 でも、いちばん許せなかったのはクルエラが擬似家族を作ってたところだったかな。
 クルエラってそもそも「家庭」とか「家族」的なるもののアンチとして出てきたキャラなんですよ。原作小説では毛皮商の妻ってことになっているんだけどかなり好き勝手やって「わたしの一族はわたしが最後だから、夫をわたしの姓に変えてやったわ」なんて言い放ったりする。”良妻賢母”であるパディタと対置されているわけです。
 これが『101匹わんちゃん』ではもはや何やってるかわかんない無から生まれた女*3みたいになっていて、ただ純粋にダルメシアンの子どもを盗んで毛皮にしようとするヤバいひとになっている。
『101匹わんちゃん』は飼い犬同士が縁を結んで飼い主同士も結婚して、幸福なご家庭を作ることが核になっている映画で、狂った孤独な女であるクルエラは子どもを奪って家庭を崩壊させる悪の象徴なんですね。
 これが実写版の『101』になるとさらに加速して、ヒト(飼い主夫妻)とイヌ(ダルメシアン夫婦)の妊娠と出産が完全にシンクロするというグロテスクなプロットになる。一方でクルエラにはファッションデザイナーという地位が与えられる*4。自分の会社でデザイナーとしてのセンスを開花させた部下のパディタに惚れ込んでいるんだけれど、あるとき「結婚するからデザイナーやめます」と告げられて激怒する。90年代の映画なんですけど、「いくら才能があっても結婚すれば家庭におさまるのが女のしあわせ」という価値観がアメリカでもふつうにまかり通っていたんですね。で、パディタを取り戻そうとする仕事人間であり成功者であるクルエラが”悪”とされてしまう。
 クルエラがパンクなのだとしたら、それはファッションや後ろで流れるBGMがパンクなのではなく、そのあり方や生き様がパンクなんです。だって、ディズニーの女性ヴィランってだいたい魔女か女王かその両方なのに、『101匹わんちゃん』のクルエラってただただイカれてる一般人(主人公の元同級生)なわけですよ。すごくないですか?
 わたしはクルエラにその狂気をつらぬいてもらいたかった。パンクでありつづけてほしかった。キャラの福祉を考えたら、そら擬似家族的なコミュニティを形成できたほうが幸せだよね、って話なんですけれど、クルエラにはそういうものを超越してただ突っ走ってほしかった。
『クルエラ』には”悪役であること”を引き受けるくだりがあって、そこはクルエラマインドがあったんですけどね。まあ単体の映画としては好きです。

 

『セイント・モード』(ローズ・グラス監督)

セイント・モード/狂信

セイント・モード/狂信

  • モーフィッド・クラーク
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 たまにホラーでキリスト教テーマというかイカれた狂信者ものなのがあって、あーこれ書いてて今フラナガンの『真夜中のミサ』の続き観なあかんなー、と考えているわけですけど、『セイント・モード』はかなりそのへんソリッドといいますか、必要なことしか詰まってない。ファナティシズムとナーブスリラーみたいな要素がうまいこと絡まっていい出汁が出ております。プロットは百合。ラストはかな〜りいじわる。

『パッシング 白い黒人』(レベッカ・ホール監督)

(ネトフリ映画)

 俳優が監督業に手を出すのは太古の昔からあるわけですけれど、近頃は映画技術の向上のせいか打率が上がっている気がする。『パッシング』はかなりルックが練られた作品で、主題となっているのはタイトルにもある人種的パッシング、つまり、肌の色が薄い黒人が白人を装って社会に溶け込むという昔の黒人の生き方で、主人公もそういうひとなんですけれども、これをモノクロで撮る。しかも、やや昔っぽいライティングで撮る。するとどういうことになるかといえば、主演の黒人俳優の肌がやや薄くなって、いかにもブラックって感じじゃなくなる。この手法がかなりスリリング。
 そして、主人公が自宅のあるハーレム(黒人地区)に戻るとそれまで白が基調だった画がガラリとかわって黒が基調となる。
 あざといといえばあざとい演出なんですけれど、うまいなあ、とおもうわけです。

サウンド・オブ・メタル』(ダリウス・マーダー監督)

 めちゃめちゃがんばっているわりに報われている感の少ないリズ・アーメッドですが、今回もめちゃめちゃがんばりました。音を通じて世界を覗く映画っていくつかありますけれど、これは手堅くできていますね。原案がデレク・シアンフランスですが、っぽいといえばっぽい気がする。

孤狼の血 LEVEL2』(白石和彌監督)

 イヌが人間になる映画。

『サイダーのように言葉が湧き上がる』(イシグロキョウヘイ監督)

 わたせせいぞうみたいな画面もよいんですが、なんといってもSNS描写。「インターネットをポジティブに描写する」っていうのはこういうことなんですよ、誰にとは言わないけど。

『花束みたいな恋をした』(土井裕泰監督)

 あれだけコスっといてこういうところで言及しないのも不実だなあって。
 

『ユダ&ブラック・メシア 裏切りの代償』(シャカ・キング監督)

 潜入スパイものってそれだけでおもしろい。映画の最後に、エッ、このひと21歳だったの!? ってビビったけれど。

『ファーザー』(フロリアン・ゼレール監督)

 演劇的な手法がよく効いていておもしろい。わたしも忘れっぽいのでアンソニー・ホプキンスに全力で感情移入しました。

ダヴィンチは誰に微笑む』(アントワーヌ・ビトキーヌ監督)

 アート業界はまじで魑魅魍魎の巣窟なんだな……とおもわせられる山師ばかり出てくるドキュメンタリー。再現映像を本人にやらせるのがしょーもなくてよい。ドキュメンタリーだと他にも『コレクティブ』とかよかったな。ドラマシリーズだと『殺戮の星に生まれて』。

犬映画オブ・ザ・イヤー

☆『犬は歌わない』
 『最後の決闘裁判』
 『恐怖のセンセイ』
 『PITY ある不幸な男』
 『カラミティ』
 『孤狼の血 LEVEL2』



今年はPTAとウェス・アンダーソンの新作を愉しみに生きていきます。

*1:虹色がキーカラーとなる

*2:最近ジョエル・コーエン版の『マクベス』も観ましたが、やっぱりリドスコとは気合が違う

*3:いちおうパディタの元同級生という原作からの設定は継承している

*4:この設定が『クルエラ』では引き継がれる

2021年のマンガ新作ベスト10+5+7+5

「死体が喋っている」

 ――藤本タツキチェンソーマン』


まんがは無限の沃野であり、そこにはすべての物語が埋まっています。
知的障害者の恋愛の話はないだろうって? 
『初恋ざらり』(初恋、ざらり(1) (コルクスタジオ))を読みなさい。

女性刑務所の日常もの?
『ごくちゅう!』(ごくちゅう!(1))を読みなさい。

白鵬引退の真相を知りたい?
白鵬本記』(白鵬本紀: 白鵬のいちばん長い日 (2) (トクマコミックス))を読みなさい。

 うんちが大好きな少年がおじいちゃんの家でぼっとん便所へ落下して便器と下水の狭間にある糞世界(いせかい)へ転生し、便器と一体化したヒーローとなり、巨大なとぐろを巻くウンコの御神体を祀るうんこ人たちを守って敵対する洗剤人と戦うウンコファンタジー
『水洗戦記タケル』(水洗戦記タケル (1) (リイドカフェコミックス))を読みなさい。


想像しうるすべてがそこにはある。
想像しえないすべてがそこにはある。


などとてきとうこいてたらもう一月も半ばをすぎててびっくりした。
いまさら年間ベスト記事もないもんだ。

 というわけで。


msknmr.hatenablog.com


 去年と同じようにまず村長の年度ベスト記事の紹介から始めます。今年はみなさん読まれましたね。『ガールクラッシュ』は最高のカッコ良(よ)まんがなので読みましょう。わたしも去年読んでたらベストに入っていたとおもいます。


以下、2021年の1月から12月までに刊行された漫画が対象です。

先に同様のレギュレーションで上半期の新刊まんがをまとめた記事もありまして、そこで取り上げたまんがについては「もう書いただろ」ということで言及のカロリーが低めです。

proxia.hateblo.jp


【2021年に第一巻が発売された継続連載作】

ベスト10

『ちいかわ なんか小さくてかわいいやつ』ナガノ

 ちいかわのあらすじ:21世紀に新しく契られた原罪。

 わたしたちは気づいてしまった。ちいさくてかわいいものがたいへんな目にあっているとうれしい、という感情に。それはキュートアグレッションやしぃ虐の記憶とは似て非なるもの。嗜虐心にも庇護欲にも近くて遠い、おぞましい感情。
 そこに触れない『ちいかわ』評はすべて嘘をついています。的外れなのではなく、嘘をついている。だって、もう気づいているはずだから。
 まだ間に合うはずだろうって? 人類はそこまで堕ちていないって?
 ハハハ、いやもうダメです、手遅れです。
 今朝のめざましテレビは観ましたか? なにが映ってましたか?
 この世はでっかいちいかわのリプライ欄になってしまうんですよ。だって、みんながそう望んだから。領域はしずかにしたたかに拡大しつつあります。

 以下で紹介するまんがは外形的には『ちいかわ』と全然似てはいません。しかし、魂の形はすべて『ちいかわ』のバリエーションです。

『FX戦士くるみちゃん』原作・でむにゃん、作画・炭酸だいすき

 2014年、大学生の福賀くるみは20歳になると同時にFXを始める。ただ金儲けのためではない、五年前、リーマンショックによりFXで大損をこいた末に自殺した母の復讐戦だった。当初は順調に資産を殖やしていったくるみだったが、そこに壁が立ち塞がる。そう、かつて母を死に追いやった仇にしてラスボス、「オーストラリアドル」である……というお話。

 クラッシュの瞬間が見たいのだろうか? 全速でコーナーへ突入した車輪が携挙のように地から離れ、破裂しながら宙に舞う、その破滅を見たいのか? 魂の断末魔を聞きたいのか?
 違う。わたしたち自身がクラッシュしたいのです。わたしたちが四散する車体になりたいのです。
『FX戦士くるみちゃん』はギャンブルにおける絶望の快感を同時に追体験させてくれます。
 目の前の現実にただ圧倒され、自分の思考が掬った砂のように滑り落ちていくときの虚脱感。破滅に至るレールに乗せられて何もできないでいるときの昏い興奮。何もかもが終わってしまったときの、世界から自分だけ見捨てられてしまったかのような悲しみ。
 五分で常人の給料の一日分が稼げる。一晩で地獄の底を覗ける。数百ページに人一人の一生が詰まっている。
 マンガとして、かわいいキャラクターとして最大限の糖衣に包んでようやく呑みこんで恍惚とできる楽園の果実。それが『FX戦士くるみちゃん』というまんがです。
 生の映画を観ているようなもんさ……。
 

『ムシ・コミュニケーター』ムネヘロ

 森白百佳は孤独な中学生。学校ではいつもひとりで行動している。そんな彼女にも日々の話相手がいた。虫たちだ。チョウやアリ、ハエといった存在と、彼女は今日も交信する。

 野生の虫の死は日常茶飯事であり、かれらと関わるということは死と常に在ることです。百佳の出会う虫たちはかなりの頻度でその日のうちに死んでしまい、彼女はそのあっけなさに麻痺してしまっています。
 なんとなれば「プリンにたかられた」という理由で、ハエにトンボをけしかけて殺しさえする。
 彼女は人間とも虫とも長期的な関係を築くことを諦めており、その諦念が物語全体を冷たく貫いています。
 ですが、心の底では諦めたくない。ほんとうは人とも虫とも仲良くしたい。でもどうすればいいかわからない。そんなぎこちなさがそのままコマの構成をも侵食している。
 思春期の離人症的な孤独と焦燥を生のまま抉りとった怪作です。『麻衣の虫ぐらし』以来の虫ものの傑作でもある。*1

『すぐに溶けちゃうヒョータくん』戸倉そう

会社勤めで心身を磨り減らしていた女性、しきみ。彼女はある日、勤め先の冷凍倉庫で凍っている男性を発見します。しきみはそれを衝動的に家まで持ち帰ってしまい、一晩明けてびっくり。解凍された男は生きていていたのです。男はふだんは人の形をしていますが、少し熱を加えると溶けて液体になってしまう氷人間。記憶も名前もない彼をしきみを「氷太郎」(ヒョータ)と名づけ、その日からちょっと異常な同居を始めることに。

 しきみは氷太郎を「ペット」と呼び、自分に触れようとする彼を「しつけ」と称してライターであぶり溶かします。面白半分でスイカを食べさせて体色を真っ赤に染めたり、製氷皿で成形して麦茶にいれて食べたり。
凄惨ともいえる扱いを受けている氷太郎ですが、しきみのことが大好き。少しでも暑いと溶けてしまう彼は室内でしか行動できず、しきみに介護されないとまともに生活できません。
 しきみもしきみで氷太郎にねじれた愛情を抱いており、自分のすべてを無条件に受け入れてくれる彼に依存しきっています。
 端的に言ってしまえば、共依存的なDV関係の寓話です。まっとうな愛し方がわからない人の愛の話です。そんなトキシックな寓話があるか、というご意見もあるのでしょうが、逆に寓話でなかったらどこで吐き出せばよいのでしょう。

 本作がヘビイすぎるなら同じ(?)庇護欲ラブコメ路線で『矢野くんの普通の日々』などいかがでしょう。美男美女の絵がマジでいいんですよね、コレ。

『ディノサン』木下いたる


 恐竜の生き残りが発見されたことをきっかけに繁殖し、恐竜園が動物園なみにありふれた存在になった現代日本。主人公・須磨すずめは幼いころからの夢を叶え、「江ノ島ディノランド」という恐竜飼育施設に飼育員として就職する。「怖いだけじゃない恐竜の魅力をみんなに伝えたい」という志を抱くすずめ。果たして彼女の夢の行方は……というお話。
 
「現実に動物園で恐竜が飼育されていたら」というシンプルなアイデアを徹底的にリアリスティックに突き詰めたお仕事もの。動物園の飼育員ものというサブジャンルは昔からあり、最近では水族館といった動物園とは違った分野を扱ったものや、妖怪や怪獣などの空想生物ものも見かけたりします。*2
 お仕事ものとしての動物園まんがは主として 1. 動物園の動物たちのリアル(知識面での快楽をもらす) 2. 動物園経営のリアル(だいたいツラい) 3. 動物園で働く人たちのリアル(たいがいキツい) の三要素から成り立っている(いま考えた)わけですが、その点でいえば、三要素揃い踏みのオーソドックスなまでの正統派な動物園まんが。その正道に一点「恐竜」という大ウソを溶け込ませ、読者に「もしかして現実に存在するのでは?」と錯覚させるレベルで磨き上げる。よくできたSFっていうのは、こういう仕事を指すのだとおもいます。
 お仕事もので他に良かったのは岩田ユキの『ピーチクアワビ』。最近よく見かけるAV制作ものですが、エロよりかはクリエイターとしての葛藤や矜持の物語がメインであり、さわやかに読めます。ベストリストに入れるか最後まで迷った。*3

『ムサシノ輪舞曲』 河内遙


10歳上のお隣のお姉さん(作中では「おばさん」呼び)兼バレエの師匠・武蔵原環が好きな阿川龍平25歳。6歳のころから知る彼女に幾度となく告白してはフラレてを繰り返すうち、すっかりスレて諦めムードになっていた……のだが、そんな折に現れた環の弟の同僚・衣笠に環が一目惚れ。新たな恋に浮つく環の姿に諦めたはずの気持ちがまたグツグツと煮えたぎってきて……というBSS三角関係もの。

 日常的な色恋沙汰に、バレエのしなやかな動きやスタイルを過剰なまでに取り入れた画は読んでるだけで弾むような心地になる。昨年惜しくも六巻で完結した『スインギンドラゴンタイガーブギ』や『ガールクラッシュ』を初めて読んだときのような軽やかな印象が本作にもあります。
 細やかな心理描写やユーモアあふれる言語センスも見どころですが、やはりまんがとしての画の力がすごい。
 環が初めて衣笠の自宅マンションに招かれた時にある「モノ」の異質さとファンタスティックさ、そしてそのモノに宿る重たい過去の影はインパクトとモチーフ性を両立していて、これだけでストーリーテリングのうまさがわかる。
 河内遙と同じく20年選手の女性向けまんが新連載作だと久世番子の『ぬばたまは往生しない』(花とゆめコミックス)も連作として手堅く良く出来ていて、ベテランの自信と威風が窺えます。
 隣のお姉さんが好き系まんがとしては、今年は『隣のお姉さんが好き』の単行本第一巻が控えてますね。今もっとも卑劣かつ誠実なラブコメです。*4

『ブランクスペース』熊倉献

 高校生の狛江ショーコはクラスメイトの片桐スイに想像した物体を具現化できる能力(他人からは透明に見える)を持っていることを知り、それをきっかけに親しく付き合うようになる。おとなしいスイが鬱屈をためこんでおり、いつ爆発するともしれないと知ったショーコは、「彼氏を作る」ように彼女に助言するが……という話。

『春と盆暗』から奇想青春ものの描き手として注目されていた熊倉献ですが、まさか暗黒青春ホラー/スリラーにも適正があったとは、と驚かされた逸品です。
 スイは視えるけれどショーコには視えない、というのがそのまま彼女たちと世界との関係や二人の部分的な断絶にもつながっていて、ここがひとつアイデアだなあ、とおもいます。
 基本的に視えない側のショーコ視点で描かれるのもいいですね。ホラーの作法ではあるんですが、視えないぶんショーコの想像が広がっていき、それが幻想と現実の入り交じる世界観に即しています。
 設定に沿って徹底的に練ってあるんだな、気付かされるのが、とショーコとスイの(作品内での)ファーストコンタクトの場面です。大雨のなかをスイが視えない傘を持って立ち、雨粒がその傘の形にそって滴りおちている。ことばでの説明の前にまず「画」で読者を納得させる。全編がこのような丁寧さに貫かれている長編はめったに見かけません。
 幅広い読者層に受けているのも、むべなるかな。  
 

『泥濘の食卓』伊奈子

 バイト先のスーパーで店長と不倫していた捻木深愛は、唐突に別れ話を切り出される。理由は鬱を患った妻を支えるため。憔悴していく店長を助けたいと願う彼女は支援団体のカウンセラーを装って店長の妻に接触し、信頼を得ていく。深愛と店長と店長の妻の嘘まみれた奇妙な関係。そこに深愛に憧れる高校生ハルキと、ハルキに恋心を抱く同級生のちふゆまで絡んできて、物語はどんどん泥濘へと落ち込んでいく……という話。

 こうしてあらすじに起こすと救いのないドロドロの愛憎劇っぽくて、実際救いのないドロドロの愛憎劇なのですが、奇妙な軽やかさがあるのは主人公のマインドがポジティブなせいか。といっても、こわれたポジティブさで、彼女のせいで事態がどんどんドロドロしていくわけですが。
 ほんとうにもうどうしようもないんだな感が絵柄、キャラ造形、人間関係、物語の随所に柔らかく染み渡っており、そういう印象は『ヒョータくん』にも通じているかもしれない。
 2021年の新人王。

『地球から来たエイリアン』有馬慎太郎

 ときは2220年。人類はワープ航法の発明により何百光年も離れた太陽系外にも進出するようになっていた。朝野みどりは地球から160光年離れた日本の植民惑星「瑞穂」で生物管理局の職員として、現地の生物たちの調査管理の業務にあたることに。そこで待っていたのはみどりの想像以上にクセの強い異星の原生生物たちと同僚たちであった……というお話。

 そもそも本ブログが年末に第一巻開始まんがをまとめるようになったのは、有馬慎太郎の『四ツ谷十三式新世界遭難実験』の一巻打ち切りがきっかけでした。あれから四年、有馬慎太郎は戻ってきた。この事実一点をもってしても日本のまんが界にまだ希望が残っていることの証明になります。

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 有馬式の変人キャラ描写は健在。主人公こそ、理想主義的でまっすぐな、いかにもお仕事ものの主人公といった好感の持てる造型ですが、二巻からは本格的に一癖二癖ある人間たちが出てきてなお愉快になっていきます。
 異星生物SFとしてのスケールもデカく、最初のエピソードから「人間がルールと異なる生き物と折り合うこと」の難しさとエグさが突きつけられてきます。このレベルでやれるひともなかなかおらんのじゃないかな。
四ツ谷十三式〜』はモロに『レベルE』だったわけですが、本作ではより洗練されたぶん、作者が『レベルE』のどこの部分が好きだったかがより浮き彫りにされていて興味深い。


『ダンジョンの中のひと』双見酔

 腕利きのシーフ・クレイは行方不明となった父を探すため、ダンジョンの深層へ挑んでいた。ところがモンスターの戦闘中に壁が崩れ、そこからダンジョンに不似合いな少女が……。「ダンジョンの管理人」を名乗る少女は、クレイをダンジョン運営の従業員として雇いたいと申し出る。

 JRPGベースの、いわゆる異世界ジャンルにおける最大の利点は、世界創造のコストが低いことです。最小限の手間で「そういう世界」だと読者に飲み込ませる。異世界ジャンルがメタや脱構築に溢れているのもそのためです。誰もが型を知っているからこそ、型を外したときの驚きや新鮮さが生じる。昔は『忠臣蔵』とかの時代劇がその役割を担っていたんですが、今は漠然とした「JRPGっぽさ」の概念に継承しています。
 ところが、『ダンジョンの中の人』は異世界ファンタジーの提携をある程度までは踏まえつつも、作者独自の世界を構築する努力を忘れない。細部をきちんと理屈で突き詰める。良くも悪くも大振りなのが多いジャンルなので、こういう繊細な仕事に出会うと沁みます。
 あれ、この話、前回の紹介のときにしたっけな。まあいいや。
 なろう系的な異世界ファンタジーの作法にしたがった作品だと、ほかにおもしろかったのは若槻ヒカルの『エルフ甲子園』でしょうか。といっても若槻ヒカルは若槻ヒカルなのでファンタジーも野球もなくて、あるのはむき出しの暴力なんですが。
 あと、『くまみこ』の吉元ますめまで異世界転生もの原作のコミカライズに駆り出されてたのは驚きましたね。真鍋譲治も。オリジナル連載持ちでも並行できる余裕がある作家は投入されていく感じ。

+15選

『まじめな会社員』冬野梅子

 菊池あみ子。三十歳。独身。彼氏いない歴五年。契約社員マッチングアプリで婚活中ではあるものの、いまいち身が入らない。そんな彼女はほのかに憧れていた今村という書評系ライター兼書店員とお近づきになることに成功する。あわよくば……と浮かれていた彼女だったが、現実は厳しい。今村にはすでに恋人がおり、その恋人はなんとあみ子の職場のオシャレな同僚だったのだ……。

 インターネットは、まんがの欲望が快楽や感動だけでないことを発見しました。かさぶたのように膿んで乾いた、人間の醜い部分やどうしようもない部分を剥がしつづけるような背徳が本作には存在します。ネットでの反応を見るに、読者の一定数はあみ子にキレている。キレつづけながら、読んでいる。ふしぎなことです。人は不快であるとわかっているものをふつうは読まない。なのに読む。自傷としての読書がここにあるわけです。
 渋谷直角などと似たような文脈で受容されている感がありますが、留意しておきたいのは意外にあみ子がサブカル的なコンテンツをまっすぐ衒いなく摂取していることです。他者との差異化を目的としては使っておらず、ある本について「自分だけの読み」を発見することは単調で代替可能な日常に風穴をあけて呼吸するための手段です。
 その自由への脱出口が即座に他者とつながりたい欲に、そして色恋沙汰へとスライドしてしまうところが人間の悲しい性ですね。どんなに反発して皮肉ってみたところでわれわれの頭上から押し寄せ、飲み込んでしまうもの、それが社会。
 まんがのなかのあみ子は(地の文において)多弁です。常に状況や人物を分析し、常に精緻に読者へプレゼンします。しかし、その思弁が彼女自身を救うことはない。ここに描かれてある生活は『FX戦士くるみちゃん』と正反対でいるようでいて、根底では同じものです。われわれはその瞬間主観には過剰なまでに思考を巡らせる一方で、中長期的には実は何も考えておらず、ただ死に向かって走っている。違いは死までの到着速度くらいでしょうか。

『ニックとレバー』ミヤタキョウゴロウ

 日本で暮らす外国人、ニックとレバーの奇妙でオーバーアクト気味な日常を描くギャグまんが。

 おもしろガイジンネタってレイシズムであるだけでなくもはや陳腐極まってるよなー、と正直テンション低いかんじで読んでいたんですが、十話目あたりからギアが変わってくる。
 かっぱえびせんを夢中で食べているうちに部屋にあったものを全部食べてしまったり、化石を発掘しようとするうちに地下文明にいきあたったり……一〜数ページの話なのでそこまでぶっ飛んだレベルにまではいかないのですが、ハマったときの良さがすごい。
 個人的なお気に入りは、断捨離を極めた末に”無”の空間を生み出してしまう回(第五十六話)と「紙を43回折ったら月に届く(長さになる)」という都市伝説を実行する回(第十七話)。特に後者は一ページ四コマで壮大な奇想を表現しています。*5
 絵柄もまんがではあまり見ない濃い絵柄なのですが、それがなにげない一コマをエモさを高める(第24話の花見の席取りをする一場面は本当になんでもないのになぜか感動的)のに貢献している。
 これがデビューとなるミヤタキョウゴロウは『くるくるくるまミムラパン』の関野葵ともども、ガワの印象以上にポテンシャルのある描き手です。 
 今年の新作ギャグ漫画だと、仲間りょうの『高校生家族』が今のジャンプ全体でも上位の安定感。

『るなしぃ』意志強ナツ子

 いじめられっ子の地味な高校生*6、郷田るなは実家の鍼灸院で”火神の子”としてカルト宗教の中核を担っていた。クラスの人気者、成瀬健章は彼女の信者ビジネスに惚れこみ、るなに入れこんでいく……というお話。『小説現代』という文芸誌で連載されている異色作*7

 意志強ナツ子は、いつも似たような意匠で攻めてくるくせに毎回フレッシュである、という特異な作家性を持っています。
 本作もそうで、いちおう、るなと健章とるなに想いを寄せるスバルの三角関係がベース、といえばそうなんですが、そこに妙に地に足のついたカルトビジネス描写や、貧乏ゆえに「早く大人になること」を焦るあまりヤバいビジネスに憧れてしまう若者などといったなんともいえない要素が絡まり、代替不能のユニークネスが生じてしまいます。
 カルト信仰をギミックに使った新作で他に印象的だったのは、豚箱ゑる子の『毒を喰らわば彼女まで』。かなり荒削りで人には薦めづらいですが、読者に爪痕を残そうとする画作りの根性は忘れないでおきたいです。

『サイコの世界』原作・井龍一、漫画・大羽隆廣

 超能力者が全世界の人口の三割を超えた世界。日本は超能力者たちによって牛耳られるようになり、能力を持たない残り七割の人間たちは離島や僻地に強制移住させらていた。
 そんな非能力者の島のひとつ、風川島に駐在する警官・犬棒守は超能力者を隠して島で暮らす少女・災原リコにあることで協力を持ちかける。昔、超能力者に殺されたと思しい死に方をした少女・由良の殺害犯をつきとめ、復讐を果たそうというだ。あくまで復讐の道具としてリコをてなづけようとするする守だったが、一方のリコは守にガチ惚れしていた……という能力バトルまんが。

 一巻目からまあ人が死ぬ。このレベルで人が死んでいいのってくらい凄惨に死ぬ。それでいて、リコのヤンデレ具合を中心にギャグのテイストも強くて、その落差がいい味を出しています。お話は全然違うけれど『ゴールデンカムイ』を想起させるテイストです。同じ原作者が『爆笑頭』で鍛えたセンスも注入されているのかもしれません。まだどう転がるかは未知数ですが、少なくともツカミは好感触。
 現在最も多忙なまんが原作者のひとりである井龍一は伊藤翔太とのコンビでの『親愛なる僕へ殺意を込めて』で有名ですが、伊藤翔太と再タッグを組んだ『降り積もれ孤独な死よ』も去年の新作。こちらはいかにも講談社系サスペンスってかんじのツカミでビビらせてきます。

『スノウボールアース』辻次夕日郎

 地球を襲ってきた銀河怪獣軍団との最終決戦に挑むため、戦闘ロボット・スノウマンに乗り込んだ流鏑馬鉄男。しかし多勢に無勢で追い詰められ自爆を余儀なくされる。決死の覚悟だった彼を救ったのは唯一の親友であったスノウマンのAI「ユキオ」だった。自爆直前、ユキオは「地球に帰還したら友達をたくさん作って」と鉄男と約束を交わし、コックピットを切り離す。そうして十年ぶりに地球に帰還を果たした鉄男だったが、そこは以前の地球ではなかった。雪と氷に覆われた「スノウボールアース」になっていたのだ――というお話。

 怪獣とロボの戦闘を軸に組み立てられた氷河期SF。実に清々しくて豪快かつリッチな作品です。さまざまな点でポスト『進撃の巨人』っぽさがありますが、そういう流れのものがこういう全面的に洗練された形で出てくるのが新世代の感ですよね。買っておきたいルーキーの一人。
 こういう「一回終わってしまったあと」から始まるジャンルものが最近増えた気がします。

『フール・ナイト』安田佳澄

「転花」。それは人間に「種」を植え込んで「霊花」という植物に変える技術。陽の光が無くなってほとんどの植物が枯れた世界で、「霊花」は貴重な酸素供給原として必要不可欠となっていた。
 そんな世界で社会の底辺としてどん底の生活を送っていたトーシローは自分をとりまくすべてに絶望し、国の機関である国立転花院で「転花」の処置を受ける。「転花」完了までは二年。ひょんなことからトーシローに本来は聞こえないはずの「霊花」の声が聞こえる力があることを知った転花院の職員ヨミコは、その残り二年間を転花院の臨時職員として働かないかと誘う。彼に頼みたいことがあるのだ、と……。

 SFの新作が元気な2021年度を代表する一作。
 第一話で貧困*8から始まって食事に救われそして年上女性の誘いで公務員にリクルートされるながれはあきらかに『チェンソーマン』なわけですが、ヨミコはマキマと違って100%善良なパンピーなので安心してください。
 人間の死やボディパーツがある種の経済論理に組み込まれてしまうことの最も直接な形にはたとえば臓器移植などがありますが、でもまあ究極的には労働だってそうでしょう。『フールナイト』では死を持ってが換金可能なものとして描かれ(「転花」すると国から1000万円が支給される)、そこにドラマが生じます。換金可能な道具としての人間の形が極まった世界といえなくもない。そういう世界の話は前からありましたけれど、今後はもっと増えていきそう。
 コマ割りでの時間の緩急が堂にいっていますね。いかにも『アフタヌーン』的な操作という印象。連載元は『スペリオール』ですが。
 物語的には一巻でわりとストレートな人情ものをぶつけきたなと思ったら二巻では連続殺人捜査で、まだまだどう転がるかは断定できません。テーマ的には「親子」というところで一貫しているようには見えます。
 今年は(今年もというべきか)SFの新作が豊作でしたね。箱いっせの『AURORA NODE』も見逃してはおけないあたりか。

『あんじゅう』幾花にいろ

 百合ルームシェア日常もの。

 幾花にいろは欲望の輪郭を正確に測ることができる。
 わたしたちの心臓は幾花にいろに握られている。

『九条の大罪』真鍋昌平

ヤミ金ウシジマくん』の真鍋昌平の新作。半グレなどのアウトローを主な顧客として抱え、他の弁護士から蔑まれている九条間人の全仕事。
 
 暴力(直接的でないものも含む)の質感という点では真鍋昌平に比肩するものはいません。暴力シーンを描くだけならうまい作家はなんぼでもあるけれど、”暴のにおい”をここまで濃厚に放つことができるのは……。
 なぜなら真鍋先生はキャラに人間味を持たせるのがうまい。あそこまで突き放したネームやセリフでなぜここまで人間臭くかけるのかってくらい説得力があります。
 本作に出てくるひとたちは法的な観点から言っても人倫の面からいってもまあアウトな悪人ばかりで、ぜってえ関わりたくないんですが、そんなひとたちもわたしたちと同じ時代の空気を吸っていきているんだな、とフッとおもわせられる瞬間があって、たとえば、老人ホームで老人を虐待しながらその遺産を騙してむしりとっている半グレが出てくるんですが、そいつが言うんですね。老人が抱え込んでたマネーをぶんどって終わってる日本なんか捨てて海外で暮らすんだって。ここに設定されている「日本終わるけどどうする?」みたいなテーマは、どうしようもない半グレからグローバルエリートに至るまであらゆる階層の人間が直面している問題であって、そこに同じ屋根の下で暮らしているんだなという気持ちになれます。
 時代を反映したグレーな行為を扱った作品としては『テンバイヤー金木くん』もありましたね。題材が題材であるためか、二巻以降は転売を行う主人公へのヘイトコントロールに汲々としてしまっているのが少し残念。

『アフターゴッド』江野朱美

 IPOーーいわゆる「神」と呼ばれる存在によって北日本と関東の大部分が制圧された日本(首都は広島)。佐賀からある目的のためにはるばる状況してきた少女、神蔵和花は「神」を研究し撲滅することを目指す対神科学研究所の職員・時永からリクルートされる。

 SCP的な趣きを持つ伝奇バトルまんが。
 それまでは短編レベルではちらほらあったポスト藤本タツキを感じる作品群ですが、2021年後半になってから単行本でも見かけるようになりました。わけてもモロだなあ、とおもったのは江口侑馬の『野苺少女殺人事件』とかですけれど、総合的な期待感でいったら『アフターゴッド』ということになるでしょうか。
 見栄を切ることのできる画をかける作家はほんとうに希少です。

『さよなら幽霊ちゃん』sugar.

 もともと所属していた部活にいられなくなった高校一年生のみき、めぐ、とうこ。そこにもうひとり、幽霊のゆうが加わって、今日も空き教室で溜まってだべる。

 きらら系のまんがが自分にヒットすることはあまりないのですけれど、これはよかった。最初はゆるい日常コメディが続くのかな、とおもっていたら、一巻後半からややシリアスめなトーンになって、直前のギャグ回に張られていた伏線が物語的に回収されるという展開に。この切れ味にやられました。*9

『フォビア』原作・原克玄、作画・ゴトウユキコ

 すきま、自己臭、高所、集合体、閉所……世に存在するさまざまな恐怖症をテーマに描くホラー連作短編集。

 原作と作画が高度なレベルでマッチする事例は多くはなくて、だからこそ、そうした事例に出会うと幸福な気持ちになります。
 それがこころざわつかせるホラーまんがであったとしても。
 ゴトウユキコのまとわりつくような生々しさや性嫌悪的なニュアンス、そしてキャラの柔和そうでありつつも底のしれない印象のタッチが、原克玄の現代的なホラーとよく噛み合っています。
 これを読んでいるとゴトウがコミカライズ担当だった『夫のちんぽが入らない』もホラーだったのでないか、と思い返されさえする。
 一巻の白眉は「集合体」。「人間の形をした人間でないなにかがスパゲッティを食べる」表現としてはヨルゴス・ランティモスの映画『聖なる鹿殺し』に比肩します。

『MINI 4 KING』原案・武井宏之、漫画・今田ユウキ

 
 工藤モー太はミニ四駆を愛する13歳。母親の仕事(温泉の仲居というのがいかにも武井節)の都合で熱海の中学に転校してきた。彼は幻のミニ四駆パーツLASERを巡ってミニヨンギャングのヨンクダムやミニ四駆開発者のタミ子と関わるうち、クラスメイトのグリスと熱海最高峰のレース、熱海ミニヨンフェスを目指すことに。

 ついに『なかよし』にまで『シャーマンキング』ユニバースの版図を広げたとおもったら、今度は本家『コロコロ』も制覇*10。2021年も武井宏之の快進撃が止まりません。
 驚くべきか、予想通りというべきか、武井宏之のテイストがコロコロのホビーまんがにハマるハマる。ケレン味の効いたキャラクターたち、やたら壮大っぽい世界観、ツッコミを許さないフルドライブの展開、少年まんが王道のどこまでもまっすぐな主人公、フォルムの美しい車すなわちミニ四駆、迫力のレースシーン。
 なにより、ちゃんと「ミニ四駆のまんが」としてロジックを作って貫いているところに武井先生の愛を感じます。
 これが『コロコロアニキ*11などの「かつて子どもだった大人たちへ向けたノスタルジー商売」などではなく、コロコロ本誌で連載されているのは武井先生の現役感の証明ですね。
 

ハイパーインフレーション』住吉九

 ガブール人の少年ルークは地元を蹂躙搾取するヴィクトニア帝国(大英帝国がモデル)に反発し、かれらに対して贋金を売っていた。だがある日、ヴィクトニア人に使嗾された別のガブール人たちによって村ごと奴隷狩りに遭ってしまう。村の巫女だった姉ハルと引き離されそうになったルークはガブール人の神であるガブール神と邂逅し、身体からヴィクトニア帝国の紙幣を自由に噴出できる能力を与えられる。果たして奴隷商人にさらわれた姉を助けることができるのか……というお話。

 カネを軸に欲深い曲者たちと騙し騙され殺し殺されを繰り広げるコンゲーム冒険もの。
 シャープでシリアスな本筋にキッチュでオーバーアクト気味なギャグ、そしてアクがかぎりなく強いキャラたちをシームレスに通す架空歴史劇は、なにより『ゴールデンカムイ』を彷彿とさせ、作品の可能性も引けを取らないものを感じさせます。
 単にその場のインパクト重視ではなく、構成も練られていて、ある場面で行われた駆け引きが別の場面の別の文脈で伏線として効かせる手法をよく使う。一本の長編としての期待感の高さは2021年でも上位といっていいでしょう。
 適度に架空世界であるぶん、われわれの知る史実に似ていつつもめちゃくちゃをやろうとおもえばやれるのが強い。手持ちのカードの切りどころを心得た作者であるといえます。
 資本としてのカネを扱ったエンタメとしては、大物原作者・稲垣理一郎*12とレジェンド・池上遼一*13のがタッグを組んだ『トリリオン・ゲーム』や、加藤”おれたちの”元浩の『空のグリフターズ〜一兆円の詐欺師たち〜』もハジケてた。

ジーン・ブライド』高野ひと深

 メディア系の職場で働く諫早依知は最後先でインタビュー相手からセクハラを受けたり、見知らぬ男に日常的に付きまとわとられていたりととにかく女性性につきまとう生きづらさに辟易していた。
 そんなある日突然現れた正木蒔人という男に「きみの運命の相手だった男だ」と告げられる。彼は依知と同じ秀光館学園なる学校の出身で、(読者には詳細が明かされないものの)「ジーンブライド」と呼ばれる制度に関係ある相手だったらしい。
 その日からなにかと蒔人と関わりあいになるようになり……という話。

 最近とみに増えたフェミニズム的な視点から社会のクソな部分に真っ向から切り込む系まんが、でありつつ、古風な定型である「突如、無からある方面で理想的な男性が舞い降りてくる」ロマコメ……かと思いきや、思いがけない方向へと舵を切るモリモリな一品。
 ここまで欲張りなのにチグハグな印象を受けないのは職人芸といいますか、テンプレで割り切る箇所は割り切って、ディティールに費やすところは丁寧に突き詰める、そのバランスが良いのだとおもいます。今後、一巻では秘されている大きな仕掛けと社会派としてコンシャスなところがどうかみ合っていくのかがたのしみ。
 そういえば、高野ひと深といえば出世作私の少年』がありますけれど、社会人女性が年少の少年と交流する系まんがでは青井ぬゐ『少年を飼う』がキッチュなタイトルに反して良い新作だったように記憶しています。
 
 

『双生遊戯』岡田淳

 関西一の規模を誇るヤクザ、布袋組。その五代目を継ぐ最有力候補が現組長の子である双子、琳と塁だった。昔ながらの侠気を重んじる琳の"ツムギ"と、新世代として革新を謳う塁の"カイカ"。血を分けた兄弟でありながら、相反する思想を掲げる二人は犬猿の仲だった。若手の組員である塩田は琳と塁の世話役だった古庄から「次の組長にどちらがふさわしいか選んでほしい」と相談される。襲名は半年後。選ばれなかった方は"消され"てしまうという。おもわぬ大任を背負わされた塩田の明日はどっちだ。

 清水の次郎長のころから国民のおもちゃとして、数々のエクストリームなバリエーションを花開かせてきたヤクザまんが。2020年のヤクザまんが新刊オブザイヤーが『忍者と極道』なら2021年はコレ。
 とにかく一話目の絶大なインパクトで話題になった作品ですが、基本的には押しの強いイケメンふたりのあいだで板挟みになってアタシ(ツーブロックのヤクザ)どうなっちゃうの〜〜!?? みたいなノリですね。ある程度まではヤクザ/不良まんがのストーリーラインを踏まえつつも、全編にキテレツなキャラをまぶしたエルビスプレスリーサンドみたいなカロリーを誇っています。
 現行の2巻まででも十分おもしろいですが、イロモノの逐次投入だけではやがてキツくなるだろうし、ここから更に突き抜けてほしい。



【単発長編・短編集】

 このペースで行くと一生公開できないのでここからは省エネモードでいきます。

ベスト5

『阪急タイムマシン』切畑水葉


 上半期のまとめ記事でだいたい言った気がする。というわけで、以下はそのときの最掲です。

 阪急電車というとまんま有川浩の『阪急電車』が連想されるのですが、そちらは内容をまったくおもいだせない。でもなんか人情っぽかった感触はおぼえている。これもそんな話なのだろうと、手にとってみると、おもったとおりにあたたかくやさしい絵柄で、しかし意外にハードな物語をつきつけてきます。
 主人公・野仲いずみは毎日通勤のために阪急電車に乗っています。てもちぶさたな乗車中の愉しみは、大好きな編み物作家FIKAの作品集を眺めること。おっとりしていて引っ込み思案、職場の同僚たちともなんとなくソリのあわない彼女にとって、編み物は楽しかった子ども時代を思い出させてくれる避難所であり、FIKAはあこがれの象徴でした。
 そして、いつものように電車でFIKAの作品集をながめていると、ちょうど視線の先にFIKAのセーターを来た女性が。いずみは意を決して女性に話しかけます。「FIKAさん、ええですよね!」
 と、実はセーターの女性は幼馴染の編み物仲間で、小学生のころ別れたっきりだったサトウさんでした。
 FIKAの作品がきっかけで昔の親友と再会できたことに運命を感じ、気分が高揚するいずみ。しかし、いっぽうのサトウさんは浮かない顔です。「阪急乗んでええとこやったら、会わずに済んだのに……」

 人生における輝かしい時期は人によって異なります。若い頃が最高で、あとは降るだけどとぼやく人もいるでしょうし、逆に若い頃は暗黒期で今のほうが断然良い、という人もいるでしょう。そしてある人は特定の出来事を強く記憶していて、おなじイベントを共有した別の人はほとんど忘れかけていることもある。
 そういう「子ども時代に対する思い入れ」がまったく異なるふたりがふたたび出会ってしまったことから記憶という名の「タイムマシン」が動き出す、そういう話です。
 人は苦い記憶に蓋をしがちですが、自分にとっては思い出したくはなかったネガティブな出来事でも、あえて向き合うことでひとつ過去にケリをつけ、前に進む契機になる。ハッピーでもバッドでもないけれど、ポジティブな物語はある。そういうバランスのお話をかける作家は稀でしょう。
 絵。絵がいいですね。等身を伸ばしたこうの史代といった趣で、ハードな話を辛すぎない程度にくるんでくれる天与のやさしさがある。
 秀作ファンタジー短編集である『春の一重』(2018年)のころから実力の高さは折り紙つき*2でしたが、『阪急タイムマシン』で現実的な話も達者であることを証明して、今後もどういう作品を見せてくれるのか、いい意味で予想できない作家です。

『空飛ぶ馬』原作・北村薫、漫画・タナカミホ

 上半期のまとめ記事でだいたい言った気がする。というわけで、以下はそのときの最掲です。

 だって、高野文子なわけですよ。原作の表紙は。
 あなたは高野文子が表紙書いてる小説のコミカライズやれっていわれてやれますか。神ですよ。高野文子といったら、ほぼまんがの神です。第二の高野文子といったら『秋津』の秋津が全力で囲い込むレベルです。
 高野文子や神や『秋津』を知らない人でも三国志ならご存知でしょうから仕方なく三国志でたとえますが、曹操からちょっと呂布と一騎打ちして勝ってきて、と頼まれるようなもんですよ。そんな関羽雲長が令和の日本にいるか? いないだろ?

 いた。

 タナカミホ。五六年前に『いないボクは蛍町にいる』で才気をほとばしらせまくったっきり、(すくなくともわたしの観測範囲では)どこかへ行ってしまっていた作家がすさまじい成長を遂げて帰ってきた。

 いわゆる「日常の謎」と呼ばれるミステリのサブジャンルの嚆矢にしてマスターピースとされる北村薫の〈円紫さんと私〉シリーズ。女子大生の〈私〉を狂言回しとして、落語家の円紫さんを探偵役に、彼女らの日常で生じた、小さいながらも底の深い謎の数々を解決していきます。
 本作はその〈円紫さん〉シリーズ第一作である『空飛ぶ馬』のコミカライズです。
 
 ミステリのコミカライズって、けっこう難儀そうじゃないですか。思いません?
 だって、ミステリってほとんど会話と説明から成っているわけです。人が殺される瞬間はあっても謎に伏されるからアクションは描けないし、探偵が聞き込みしたり推理を披露したりするシーンはひたすらセリフが並ぶだけで画面に動きは少ないし。推理時の犯行再現シーンで差別化するって手もありますけど、あれだって「終わったこと」の再現なわけで、物語の盛り上げ手段としては幅がかなり限られてくる。
 じゃあ金田一少年式におどろどろしい装飾的な死体で映゛えようとおもったり、コナン式に謎の組織との暗闘を盛り込もうとおもったところで、『空飛ぶ馬』には死体も闇の組織もでてきません。
 犯人といえば、喫茶店で砂糖壺をせっせといじっているような普通の市井のひとばかり。
 難易度Aのミステリコミカライズという分野でも更に難易度特Aの原作チョイスなわけです。
 にもかかわらず。
 できてしまっている。
 なぜだ。
 わからん。わからねば!(by 漏瑚)

 原作と比較できればいいんですけれど、引っ越しの時に「もういい! ターボ、ミステリやめる!」とミステリを大量に処分した関係で手元に『空飛ぶ馬』がない(ウマだけに)。つーか、北村薫ってほぼ電子化されてないんだね。
 しょうがないので勘でやりやす。
「赤頭巾」とかはわかりやすいんですよね。まんが的に再構成されてるんだろうなあ、というのが。絵本の再現というユニークなレイヤーが混じっている分、メリハリつけて読みやすいのだろうし、絵本的なタッチと物語内の現実が混ざるシーンはわかりやすく技巧的。それはわかる。それはまあ、わかるんだけど。
 にしたって、「砂糖合戦」は。
 それこそ、ほとんど*6卓上での会話なわけですよ。大して派手なことが起こるわけでもない。それなのにめちゃめちゃエキサイティングでおもしろい。円紫さんのキメゴマ、タイトルコールが出るときの犯人のあの表情、その反復、動と静の操作、ラストの切れ味、見せ方、なにもかもが最高。
 どこからどう見ても〈円紫さん〉シリーズだよ、これは。
 オチのうまさや話のおもしろさはもちろん原作に由来するところではありますけれど、それをこんな高精度かつ高純度で再現できるとは。長生きはしてみるものです。最初からこのコミカライズありきだった気さえしてくる。90年代の雰囲気をたしかに醸しだしつつも、この時代のためにリファインされたような清新さ。さっきもいったけれど、表情、表情がいいのかな。人間のささやかでねっとりとした悪意をすくい取ったような犯人たちの造形を、キャラの繊細な表情を止めて切り取ることで再現している。そして、主人公は徹底してその表情を観察する側に置かれている。カメラなんですね。映画だ。映画だからか。

 けっきょくなんだかよくわかりませんでしたね。
 いかがでしたか。
 ひとつだけいえるのは、「砂糖合戦」はミステリ小説コミカライズの歴史に残る一編となるのではないか、ということです。むしろ、北村薫初読者にはここから勧めたっていいのかもしれない。プルトラ。
 

『魚社会』panpanya

 あーッ! あいつ! またバカのひとつおぼえみたいに panpanya の短編集を年度ベストリストに入れて!
 いや、だって、しょうがなくないですか? 文句なら傑作しか出さない panpanya 先生に言ってください。
 今回の白眉はなんといっても、ヤマザキのカステラ風蒸しケーキの回。はたから見たらほぼ作者のエッセイみたいな話なんですけれど、panpanyaオブセッションである「完全に再現することは不可能な記憶を再現しようとすること」がこれ以上ないくらい出ていて、とてもおいしい。そこにフードポルノ要素も重なって読者も「食べたい〜」とおもわされるので、なおさら感情が乗る。読めば、わたしたちも渇望してしまうのです。もう存在しないあの食感、あの味を。

『まばたき』『いてもたってもいられないの』ばったん

 ばったん先生の短編集が二冊出ました。どっちも買って読め。
 志村貴子の遺伝子に入江亜季の成分を混ぜたような、と形容すればよろしいでしょうか。さして長くもない尺のなかにテーマ(特に『いてもたっていられないの』に関しては明確に「女の性欲」という主題が設定されている)やモチーフを落とし込みつつ、絶妙にまるめて物語を作るセンスは卓抜しています。

+10

『渚 河野別荘地短編集』河野別荘地

 奇想から奇妙な二股ものまで取り揃えた短編集。初出はオモコロですが、ギャグまんがではなく、ビームとかそのへんのしっとりしたテイスト。
 非常に映画的なセンスをもつ作家で、画作りはもちろんコマの配置も巧みです。
 物語は尺の長短あれどあるようなないようなものばかりですが、見せ方だけで保ってしまう。佳い新人です。

『教室の片隅で青春がはじまる』谷口菜津子

 目立ちたがり屋なのだが空回りしまくってクラスで浮いた存在となっている高校生まりもが、転校してきたモコモコの宇宙人ネルと親友になる。性に興味津々なネルだったが、男子に誘いをかけてもその毛玉のマスコットみたいなかわらしい見た目のために取り合ってすらもらえない。ネルがモテるためにはどうすればいいか、ふたりは知恵を絞るが……という青春群像劇。高校生活を律する「空気」との距離感が絶妙に出ていて、登場人物がそれぞれの自分らしい快適な生き方にどうアプローチしていくのか、というのがよく出来ている。


『CALL』朝田ねむい

 金欠のフリーター・ハルヒコがゲイ向けデート風俗のボーイと間違えられ、アキヤマという社会人と関係を持つことに。最初はカネ目当てでだましまだし身体抜きの付き合いをするつもりのハルヒコだったが……というBLまんが。
 朝田ねむいは2021年に初めて知った作家さんです。 twitter のフォロワーさんがたのしそうに読んではるなあ、とおもって手にとってみたらべらぼうによかった。
『CALL』に関していえば、陰影のはっきりしたパキっとした画がカリフォルニアみたい(アホみたいな感想)で、そういう質感なのにダウナーな雰囲気がある。そして、その雰囲気に意味がある。

『アントロポセンの犬』川勝徳重

 トーチやビームはとにかくいけすかないまんがを出すことでいけすかない読者たちから強力に支持されており、いけすかない。そのいけすかないまんがの2021年の筆頭こそ川勝徳重であり、われわれはこのいけすかなさを積極的に擁護していかねばなりません。イヌはかわいいです。
 

『いえめぐり』ネルノダイスキ

 奇想の系譜、ネルノダイスキ先生のメジャーデビュー。
 は? ビームは大リーグですが?
 わかりやすくいうと服みやすくした panpanya 先生。作家をドラッグ扱いすな。
 

『マーブルビターチョコレート』幌山あき

 若い頃持て囃されていた小説家が糊口を凌ぐために週刊誌のライター仕事に手を出し、そこで取材対象となるパパ活女子と関わっていく広義の暗黒百合。百合かな? 百合ってことにしておいてください。
 パパ活女子のジョーカー(DCのではない)っぷりがズルくて、そこがいいんスよね〜〜。
 小説家がメインキャラの新作だと他に高江洲弥の『先生、今月どうですか?』や瀬川環の『三文小説集 瀬川環作品集』や藤松盟の『姉の親友、私の恋人』も印象的でした。

『黄昏てマイルーム』コナリミサト

『凪のお暇』で一巻ごとに「こういう話だったのか!?」を人間関係とマインドセットの曲芸だけで更新してくるコナリミサトは何描いても巧い期に入ってしまったのではないか、という疑惑があります。

『向井くんはすごい!』ももせしゅうへい

 2021年代のLGBTQ主題まんがの最前線。ジャンプラなんかでも『肉をはぐ』以降セクシャルマイノリティを正面から扱った短編が増えていて、まあそれは業界全体の傾向でもあるんですが、ここまでヌケのいい作品はあまりなかった気がします。

『ワルプルギス実行委員会実行する』速水螺旋人

 奇想SF短編集。い速水螺旋人がおもしろいなんて誰でも知っていることです。白眉はゴーゴリの「外套」のパロディ。物語自体は「外套」からほぼ変えていないんですが、一点だけ、「外套がパワードスーツになっている」、というアイデアだけでSFになっているのがすごい。表題作もちょうどいい具合ですき。

『ライカの星』吉田真百合

 2021年に『犬は歌わない』というドキュメンタリーを観まして、それはソ連初宇宙犬となったライカの記録映像と現代ロシアの都市部で暮らす野良イヌたちの映像を交互に映していく映画だったのですが、人によって蹂躙されていくイヌたちの姿を見せられると『ライカの星』で人間たちに復讐しようとした宇宙犬にがんばれ、と言いたくなります。

【エッセイ・ルポ・実録まんが】

ベスト7

『いつも憂き世にこめのめし』にくまん子

『フィリピンではしゃぐ。』はしゃ

『さよならキャンドル』清野トオル

『鬱くしき人々のうた 実録・閉鎖病棟卯月妙子

『女の体をゆるすまで』ペス山ポピー

『迷走戦士・永田カビ』永田カビ


今年もたくさんエッセイまんがを読みました。わけても上記七作は文句なく傑作です。

『いつも憂き世にこめのめし』は性生活を含めた赤裸々な日常をやわらかくユーモラスなタッチで描いた作品。妹がいいキャラしている。


『フィリピンではしゃぐ。』は語学留学のために渡ったフィリピンでさまざまな国籍のひとびととの共同生活を描いたもの。留学あるあるを通じて語られる「母国語が英語でないもの同士の交流」がキュート。


『さよならキャンドル』は清野とおるが満を持して送り出すとっておきのネタ、東京都北区十条のスナック「キャンドル」の思い出を綴った作品。ママをはじめとした「キャンドル」の面々がとにかく実在を疑うレベルで濃い。
ここまで濃厚なキャラの出てくるエッセイまんがもない。清野先生の集大成といってもいい。


『鬱くしき人々のうた』は九十年代に精神科の閉鎖病棟のリアルが描かれたエッセイ。卯月先生自身のキャラの強烈さもあるけれど、電気ショックや患者間のレイプが当たり前のようにあっさりと描かれるのがショッキング。それでも全編に奇妙なポジティブさが漂っているので救われる。


『女の体をゆるすまで』はノンバイナリーの性自認を持つ著者が女性の身体を持って生まれてきたことで晒されてきた性暴力や違和感と向き合っていく作品。非常な話題作になりましたね。アシスタント時代に受けた性暴力について加害者本人と対峙するクライマックスは強烈な印象を残しました。


あだち勉物語』は、『連ちゃんパパ』で鬼バズりをしたありま猛が大作家あだち充の兄のあだち勉を描く伝記的まんが。ありま先生のまんが力がとにかく高い。個人の伝記のみならず、当時のまんが界(あだち充赤塚不二夫周辺)の周囲をインサイダーとして視点から記録しており、史料的価値も高いです。


『迷走戦士・永田カビ』はご存知永田カビ先生の最新エッセイ。生きていてほしい。それだけが願いです。


ほかで心に残ったのは『性別X』、『人生が一度めちゃめちゃになったアルコール依存症OLの話』、『つつがない生活』あたりでしょうか。


【五巻以内で完結したまんが】

ベスト5

『午後9時15分の演劇論』横山旬 3巻完結

 2021年でいちばんおもしろかったワナビ・芸術系大学生まんががどれだったかといわれたら、新旧問わずこれになる。創作の何もわからなさを赤裸々に曝け出したまんがというと島本和彦を思い出しますが、島本が虚勢のような韜晦のような断言をぶちかますのに対して、こっちはマジでなにもわかんない。マジでわかんないままものづくりをやる、そこに青春のリアルがある。

『東京城址女子高生』山田果苗 4巻完結

とにかく地味な題材に高校生の部活ものというありきたりなセッティングを、ていねいな狂気で描ききった秀作。こういうものこそ、存在の記録をウェブのどこかに記録しておかないといけない。

異世界もう帰りたい』ドリヤス工場 3巻完結

 ドリヤス工場のキャリアハイ。異世界ものの傑作の要件である「世界をちゃんとデザインしている」を十二分に満たしている。

風太郎不戦日記』原作・山田風太郎、漫画・勝田文 3巻完結

 最高の原作、最高の作画。近年の『モーニング』における最大の奇跡。「あそこ」にラストをもってくる批評性や同時代性を含めて完璧。

『友達として大好き』ゆうち巳くみ 3巻完結

 コミュニケーションの距離感がわからない人が適切なコミュニケーションを学んでいく、数あるコミュ障まんがでも宝石のような輝きを放っていた。

+10

『無敵の未来大作戦』黒崎冬子 3巻完結

 流れるようにファンシーとギャグが織り込まれ、なにもかもがまるでとぼけていて軽やかなのだけれど、そこで描かれている葛藤や鬱屈はとてもシリアス。このバランスで描ける作家は今後三年は出ないのでは。

『交換漫画日記』町田とし子 2巻

 まんがバージョンの交換日記を通して描かれる高校生同士の友情と恋と夢。シンプルな題材ながらも作品自体も作中作もとても豊穣。

『怒りのロードショー』マクレーン 3巻完結

 一時期濫発された映画ものまんがの孤高にして最高峰。

『海辺のキュー』背川昇  4巻完結

 オチもの青春ホラーの新たなるマスターピース。背川昇はほのぼのとダークの落差を描かせたら現状右に出る者がいない。そういえら、『タコピーの原罪』まだ読んでないんですけど、概要だけ聞いて『海辺のキュー』みたいなもんですかとタコピー読者に訊いたらそうかもと返ってきた。そうなの?

『狩猟のユメカ』古部亮 3巻完結

 喋る動物バディハンティングバトルサスペンス。サイコパスの怖い人を描くのがうまかった。ただただ惜しい。

『謎尾解美の爆裂推理!!』おぎぬまX 2巻完結

 近年の新作ミステリマンガでもかなりおもしろい部類だったものの、探偵モノでキン肉マンをやろうとしたたためにミステリ界からは黙殺された。

『JSのトリセツ』雨玉さき 2巻完結

 『なかよし』で連載されていた現代最先端の児童教育まんが。保護者の立ち回りにまで配慮しているのがすごい。
 

『魔々ならぬ』ゆーき 3巻完結

 魔王と勇者が同時に日本のぼんくら男性のもとへ飛ばされてくる逆異世界転生共同生活もの。絵もギャグもシャープでよかった。

 

『スポットライト』三浦風 3巻完結

 陰キャの大学生が片思い相手を追いかけてミスキャンのカメラマンをやることになったがその片思い相手にもミスキャン運営に片思い相手がいた、といういかにも今っぽいぐちゃぐちゃ青春もの。見た目はオシャレなのだが、読むとグロテスクなまでにダウナーで暗い、けれどほのかな光明も見せてくれる、という奇妙なのだか巧妙なのかわからないバランスがクセになる。

『ほしとんで』本田 5巻完結

 大学の短歌ゼミを選んだ主人公が教授やゼミ生たちと心温まる短歌ライフを送るまんが。本田先生の新連載も去年単行本が出ましたが、打って変わって自殺をテーマにしたシリアスな連作短編でビビったね。


他に覚えておきたかったところとしては、志村貴子の『ビューティフル・エブリデイ』(3巻完結)、おれたちのまつだこうた先生の『あゝ我らがミャオ将軍』(3巻完結)、縁山『家庭教師なずなさん』(4巻完結)、鬼頭莫宏原作『ヨリシロトランク』(3巻完結)、うぐいす祥子『ときめきのいけにえ』(3巻完結)。
あと「5巻以下」というレギュレーションからは外れますが、灰田高鴻の『スインギンドラゴンタイガーブギ』(6巻完結)は特にメンションしておきたい。いやでも六巻まで広げたらチョモランの『あの人の胃には僕が足りない』も入るし収集がつかなくなりますね……。
 さてもとりあえず、以て瞑すべし。


【おまけ】『ルックバック』について。

 まず2021年はどういう年だったかといえば、藤本タツキの『ルックバック』の年でした。年間新作ベストリストについて話をするにあたって、『ルックバック』の話しなかったら片手落ちどころか、ぜんぶうそになってしまう。それくらい大きな作品は、こと単発の一巻ものとして出版されたまんが作品としては近年でも稀有です。
『ルックバック』はすごいまんがだとおもいます。しかし、わたしのリストには入っていません。なぜか。わたしの夢ではないからです。
 年度ベストであろうと初心者にオススメな○○100選であろうとリストを作るというのは、一種の賭けです。点をならべることによって自分のテイストを線にする。それは年間通して読んだもの観たものにしかできない贅沢であり、その贅沢をわたしはだれにも差し出すつもりはない。*14
『ルックバック』に向けられたあらゆる語り、創作者の葛藤、京都アニメーション事件への哀悼、純技術的な審美、時代性、ウェブまんが時代における中編・短編の地位の地殻変動、ジャンププラスというプラットフォーム、藤本タツキという作家への共感と愛着。
 いずれもわたしには無縁なものです。
 わたしの馬は別にいて、わたしはそれに賭けたいとおもう。
 それだけのことです。

【おまけその2・今年の傾向】

・御前試合(トーナメント)ものと、ポスト藤本タツキと、ポスト(アンチ)ヒーローものが流行ってるな、という話でもしようと最初は考えてたんですが、一番目と三番目にあんまりおもしろいものがないのでテンションがあがらないんでやめました。御前試合ものに関しては最近の『テンカイチ』、ポストヒーローものに関しては『EVOL』が好きです。

 ほかにもまあいろいろおもしろい新作はあったのですが、ぜんぶはね、ぜんぶは無理だよ。つかれた。

【おまけその3・過去の年度ベスト】

そのときどきのコンセプトがバラバラです。

proxia.hateblo.jp
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なんで今年書いててやたら疲れたのかわかった。いつもは臨終図鑑か新作連載ベストか単発長編ベストかのどれかしか出さなかったのに今年だけ全部やろうとしたからだ。

*1:虫ものは毎年供給されるジャンルなのですか、今年はなんか虫人(虫擬人化)ものが二つあった(有野金悟の『肉食JKマンティス秋山』と、村田真哉・zuntaの『こんちゅき』)のが印象に残っている

*2:わたしは青木幸子の『ZOOKEEPER』が頂点だとおもいます。

*3:二巻目でやや勢いが落ちたかな、と感じてしまった

*4:そういえば『偶然と想像』にも描かれてたけど、「好意はあるけど好きかどうかまではわかんなくて、でも次に会ったら高確率で好きになってしまうかもしれない」情緒って、男性向けフィクションには稀な感覚な気がする。基準は『モーニング』であり、『島耕作』です。

*5:細かく説明すると、一コマ目(「紙を43回折ると〜」という説を聞かされる)から紙を折る過程が描かれる二コマ目、三コマ目がだんだんと小さくなっていき、”月に届く”四コマで文字通りパッとコマが広がる。

*6:中学生くらいだと思って読んでたら amazon のあらすじで高校生となっていたのでびっくりした

*7:まあ今どき文芸誌にまんがが載ること自体はめずらしくもなんともありませんが。

*8:その貧困が日本社会そのものの貧困に由来していることを含めて

*9:シリアスとコメディが混ざるきららなやつだと今年は幌田の『またぞろ』もありましたね。わたしは四コマ基本的にあわないのであわなかったですけれど。

*10:もともと『コロコロアニキ』で徳田ザウルス原作で『ダッシュ!四駆郎』の続編を描いてはいましたが

*11:2021年から電子版へ移行

*12:Dr.STONE』原作

*13:わたし的には『信長』

*14:そういう意味でわたしは2021年度の新作映画ベスト作りを迷っています。例年に比べてあまりに観ていないからです。ただ、ベストには未来の自分のための記録という側面もあるので、出さないのも違うかなという気もする。