名馬であれば馬のうち

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新潮クレスト・ブックス全レビュー〈11〉:『靴ひも』ドメニコ・スタルノーネ

ドメニコ・スタルノーネ『靴ひも』、Lacci、関口英子・訳、イタリア語



 その資料が果たして私なのだろうか。読んだ本に引かれた下線が私なのだろうか。本のタイトルや引用文にびっしりと書き込まれた紙が私なのだろうか。(中略)二十歳のときに認(したた)めた、長ったらしい小説が私なのだろうか。(p.72)



 本書はそれぞれ「第一の書」、「第二の書」、「第三の書」と銘打たれた三つのパートから成る。「第一の書」の舞台は一九七〇年代。妻から夫に当てられた書簡の形式を取り、若い女と不倫して妻子を放り出した夫に対する糾弾が綴られる。打って変わって「第二の書」では、老齢になったその夫が三人称視点で描かれる。彼が夫婦(どうやら寄りを戻したらしい)のヴァカンスから帰宅すると何者かによって自宅が荒らされている。しかし飼いネコを除いては何も消えていない。訝しがりながらも荒らされた室内を片づけていると、ふと古い便箋の束が目に入る。それはかつて、妻から自分にあてられた手紙だった。

 もちろん、その手紙とは「第一の書」で読者が読んだものである。
 妻の苛烈な手紙を読みながら、四十年後の夫は当時の心中を思い出そうとする。そこで描かれるのは中年にさしかかりつあった自分の老いから逃れるために、七〇年代の「解放」の雰囲気に便乗して自分の教え子と不倫に走り、結果的に妻を精神的に追い込んだ愚かな過去の彼だ。だが、妻同様に自分もまた追い詰められていたと自己弁護を展開する。自分のありえた可能性を諦め、夫として父として不自由に生きねばならなかったのか、と。ともかくも、「第一の書」と「第二の書」で夫婦それぞれの立場と主張がなされるわけだ。
 四十年の時を経て、互いに傷つけ合う夫婦だったが、彼らのあいだにも共通する聖域があった。子どもたちだ。
 夫は離れて住む妻に引き取られていた幼い兄妹と面会したときの思い出を呼び覚ます。兄妹に靴ひもの結び方を教えようとして失敗してしまう、些細な出来事だ。しかし、彼はそこに象徴的な意味を見出す。「靴ひもを結んではほどくという行為によって」、「二人が生まれた生まれたときから一度も感じたことのなかったような近さにまで距離を縮めてくれた」(p.116)と信じた。
 疎遠だった子どもたちと、何気なく「結ぶ」という動作を通じて絆を取り「結ぶ」。物語的には筋が通っている。
 だが、本書はそのような独りよがりな「注釈」をゆるさない。
「第三の書」で四十代になった夫婦の子どもたちが登場したときに、読者はそれを知る。
 かつて、家族とは社会の最小単位だとされた。そしていまやおそらく、すれちがいのための最小単位でもある。現在や過去に打ってきた解釈はただしかったのか。その不安をスタルノーネは容赦なく抉りだす。
(1111文字)

靴ひも (新潮クレスト・ブックス)

靴ひも (新潮クレスト・ブックス)

縛る手、浮かぶ足、結ぶ手、踊る足――『ジョジョ・ラビット』について

(『ジョジョ・ラビット』のネタバレを含みます)



 今日は踊ってください 未来には期待したいし


    ――「POSITIVE feat. Dream Ami」tofubeats



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ジョジョ・ラビット』が靴の映画であり、足の映画であることは観た誰もがわかることだけれど、劇中でまず映るのは手のほうだ。
 ヒトラーに熱狂するドイツ民衆の手。「ハイル・ヒトラー」を叫び波打つ手たちを、ビートルズの「抱きしめたい(I Want To Hold Your Hand)」のドイツ語版に乗せて、アップで強調する。英語版だとサビは I wanna hold your hand. (君の手を握りたい)だが、ドイツ語版ではすこし変わって、Komm, gib Mir deine Hand. (さあ、僕に手を貸して)となる。*1
 その手はナチスドイツに貸された手だ。では、その手はどのように行使されたのか。
 
 ヒトラーを信奉する少年ジョジョは、冒頭でヒトラー・ユーゲントのキャンプに参加する。そこで彼は「手」の使いかたを教え込まれる。ナイフをふるい、本を燃やし、石を投げ、ユダヤ人を醜く描き、ハンドグレネードを投げる。
 あるとき、ジョジョは年上の監督役の団員からうさぎの首を折って殺すように命じられる。Place both hands around its neck, and then hard twist. (「両手をそいつの首に回して、思い切り縊ってやれ」)と。
 しかし優しい心根のジョジョは、罪のないウサギを殺せない。とっさにウサギを逃し、自らも駆け出したジョジョを、仲間の少年たちは「臆病者のジョジョジョジョ・ラビット)」とはやしたてる。*2
 直後、彼はユーゲントとしての名誉を挽回すべく、”ハンド”グレネードの投擲訓練に挑み、失敗して、自らを吹き飛ばしてしまう。
 つまり、彼は「手」の人間ではない。すくなくとも、彼の手は誰かを縛り首にしたり、戦場で兵器を扱うための手ではない。
 それでも戦争は荒ごとに向かないジョジョ少年の手すらお上に供出させる。大傷を負った彼はユーゲントとして軍事訓練に従事しない代わりに、後方での雑事に駆り出される。鉄を集めたり、志願兵募集のポスターを貼ったり。

 ナチス政権下において民衆の手はヒトラーという支配者に与えられた。その国においては人と人が直接につながることは許されない。「ハイル・ヒトラー」と、ヒトラーという国父を介することでようやく彼らの関係は成立する。あの時代、イマジナリーフレンドとしてのヒトラーを持っていたのはジョジョだけではなかった。
 
 それでもジョジョはウサギを縊り殺すだけではない手たちにも出会う。

 ひとつは母親であるロージーの手。劇中、ロージージョジョのブーツの靴ひもを結んであげるシーンが出てくる。ジョジョが不安に苛まされるたびに、心配ないよ、とでもいうように結んであげるのだ。

 もうひとつはロージーが匿っているユダヤ人の少女エルサの手。ジョジョと邂逅したさいの彼女は手そのものな存在として現れる。ジョジョがこじあけた隠し扉の縁を掴み、それを見て怯えて階下へ逃げ出したジョジョを、エルサの右手が手すりを伝ってゆるやかに追い詰める。そして、その手はジョジョの口をふさぎ、彼を脅迫する。
 互いに追い詰め合う手の関係が変わりはじめるのは、ジョジョが「ユダヤ人図鑑」を作り始めたときだ。エルサの声によって与えられたイメージをジョジョの手が紙の上で翻訳することで、はからずもヒトラーを介さないコミュニケーションが生まれる。彼は直接的なつながりを通してエルサを知り、リルケを知り、人間を知る。

 かろやかに踊るロージーの足は、本作で最も印象的なモチーフだろう。けれど、しかし彼女から少し離れて映画全体をながめてみると、実はネガティブな足もいくつか見いだされる。
 たとえば、ウサギ殺しを拒否したジョジョを踏み潰すと脅す足。
 たとえば、絞首台に吊るされて浮かぶ反ナチ活動家たちの足。
 地についてない足はどこか不吉だ。それは幽霊の足だから。
「たぶん、わたしたち(ユダヤ人)はみな幽霊なのかもね。気づいていないだけで」と言うのはエルサだ。死んだジョジョの姉の幽霊として、かろうじてジョジョの家で生き延びることをゆるされた*3彼女は街へ出歩くための足を必要としない。

 おなじく、(そしてこちらは文字通りの意味で)足を失った戦傷帰還兵たちは戦時下における幽霊たちだ。彼らがプールで泳ぐことでそれがいっそう強調され、プールサイドでステップを踏むように歩くロージーの靴とあざやかに対比される。

 ロージーは言う。
「ダンスは自由な人たちのためのものよ。そして窮極の脱出手段」
 彼女にとってダンスは運命の恋人である夫と出会った入り口でもある。つまり、ダンスなしではジョジョは生まれなかった。
 ジョジョはダンスの申し子として生まれたわけだ。
 
 だから、ジョジョは、母から受け継いだ手をウサギを縊るためではなく、誰かの靴ひもを結ぶために使う。
 だから、ジョジョは、母から受け継いだ足を踊るために使う。


 
 そう、手はつなぐためにあり、足は踊るためにあるのだ。


ジョジョ・ラビット (オリジナル・サウンドトラック)

ジョジョ・ラビット (オリジナル・サウンドトラック)

  • 発売日: 2019/10/18
  • メディア: MP3 ダウンロード

*1:英語になおすと come, give me your hand.

*2:ジョジョが根っからの「ナチ」でないことはキャンプに参加する直前のシーンで示されている。彼はユーゲントの仲間数人と森の中をかけるのだが、足の遅い彼は集団に追いつけない。ナチスの速度に同期しない人間として暗示されている。

*3:劇中でエルサはしばしば死んだジョジョの姉の幽霊と重ねられる。ジョジョはエルサと出会ったことを母に悟られないようにするために「死んだお姉ちゃんの幽霊がお姉ちゃんの部屋にいる」と報告するし、ゲシュタポによる家宅捜索の場面はジョジョの姉のIDを自分のものと偽って提出したエルサに「写真を取り直せ、まるで幽霊みたいだぞ」というセリフがかけられる。これらは姉映画として本作を読むときに重要。

新潮クレスト・ブックス全レビュー〈10〉:『西への出口』モーシン・ハミッド

モーシン・ハミッド『西への出口』、Exit West、藤井光・訳、英語



 私達はみな、時のなかを移住していく。
                (p.167)



西への出口 (新潮クレスト・ブックス)

西への出口 (新潮クレスト・ブックス)



 内戦下にある国のある街で、サイードとナディアは恋に落ちる。戦争に日常を蚕食されていくなか、ふたりは不思議な噂を耳にする。「扉」の噂だ。なんの変哲もない扉が、突然、遠くにある別の街へと繋がる扉へと変わるという。ふたりは戦火を逃れるために「扉」をくぐることを決意する。
 はたして「扉」は噂通り西へーーギリシャのミコノス島に繋がっていた。ふたりは難民として流れ着いた地で生き延びようとし、あたらしい「扉」をくぐるたびにさらに西へと移っていく。そして流亡の日々のなかで、ふたりの関係も更新されていく。
 世界は静的にはできていない。常に変貌していく。そうして、なにが変わっていくのか。自分とモノ、そして自分と他者との距離だ。
 サイードとナディアの風景をまず作り変えたのは、戦争だった。多くの戦争フィクションにおける市街戦の描写で明らかなように、戦時下における街は平和な時の街と違う表情を見せる。家族や生活を包む建物は、銃弾を避けるための防護壁となり、敵が潜んでいるかもしれない物陰となる。窓も外を眺めるための安全で透明な壁などではなくなり、「死が入ってくるとすればその可能性がもっとも高い境界」(p.59)へと変わる。
 そうしたリアリスティックな観察の延長線上で、モーシン・ハミッドは扉に魔法をかけた。
「扉」をくぐることは亡命越境のメタファー、というかその行為そのものとして描かれる。ファンタジーめいた「扉」の先には難民キャンプがあり、現地民による難民差別があり、テクノロジーによる監視があり、要するに現実がよこたわっている。
 単に戦争難民の流氓の物語として書くこともできたはずだった。かれらの艱難辛苦に寄り添ったドキュメンタリー的な書き方だって採れただろう。しかし、本書は意図的に抽象化を徹底した。本書に出てくる登場人物はナディアとサイード以外、名前を与えられていない。彼らの故郷である街も国もその名が示されない。
 モーシンはそうした寓話的な手法の意図を問われ、「読者自身の、あるいは読者に親しい人の住む街として想像してもらいたかった」*1と答えた。自らの住むパキスタンのラホールをモデルにしたが、そこが戦火に晒されると想像するのがつらかった、なぜならたぶん起こらないだろうが、全くありえないことではないから、とも。
 本書は特定の場所に生まれた特定の誰かの物語ではない。だからこそ、本書は名前をもったふたりの人間の恋愛という普遍的な切り口を通して語られるのだろう。
 劇中でもサイードはこんなセリフをナディアに言う。「空は同じで、時刻が違うだけだよ」。
 それは人間同士の関係を指しているのかもしれないし、悲劇の無場所性を指しているのかもしれない。わたしたちは結局みんな同じ場所にいて、ただ異なる時刻に生きているだけの存在なのかもしれない。
(1034文字)