名馬であれば馬のうち

読書、映画、ゲーム、その他。


読書、映画、その他。


2019年上半期に観た新作映画ベスト20



 子供の頃に観たあの映画
 あの夢と希望
 現実なんて信じないで
 私は映画が好き 


 weyes blood, "Movies"



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 こうして上半期の映画ベストをきめるのも死んだ魚を錐でついたときに起こるけいれんじみてきておりますですが、でもまあ、いってみればブログの記事なんてそもそもがミオクローヌスみたいなものではないですか。発作ですよ。生きているというのは奇跡ではありませんが、奇跡みたいですね。すべてが輝いて見えますよ。

2019年の上半期ベスト10

1.『スパイダーマン:スパイダーバース』(ボブ・ベルシケッティ&ピーター・ラムジー&ロドニー・ロスマン監督、米)
2.『僕たちのラストステージ』(ジョン・S・ベアード監督、米英加)
3.『ゴッズ・オウン・カントリー』(フランシス・リー監督、英)
4.『サスペリア』(ルカ・グァダニーノ監督、米伊)
5.『ちいさな独裁者』(ロベルト・シュヴェンケ監督、独仏ポルトガルポーランド中国)
6.『きみと、波にのれたら』(湯浅政明監督、日)
7.『海獣の子供』(渡辺歩監督、日本)
8.『ドント・ウォーリー』(ガス・ヴァン・サント監督、米)
9.『ダンボ』(ティム・バートン監督、米)
10.『愛がなんだ』(今泉力哉監督、日)


 今年の上半期はなにひとつとして面白い映画にめぐりあえなかったな、という気分だったのですが、鑑賞録をめくると存外興奮している過去の自分が見出されます。
もうわたしはストーリーがわかりません。ショットはもともと知りません。いちばん重要だとおもっていたルックすらどうでもよくなって、残るのは画の断片から受信した作品のアティテュードだけです。それすらも錯覚かもしれませんが、とりあえずはそのように観ます。

『ダンボ』とかまあ、たぶん誰もいい作品だなんておもってないんでしょうけれど、原典に対する態度がとにかくうつくしい。ディズニーの実写リメイクはバートンにこれを撮らせただけでも大いに意義があったのだとおもいます。おもいたいところです。
 原作ものに関しては『海獣の子供』もなかなか極まっていましたね。あるインタビューで渡辺監督が「眼の描写は意図的に原作より頻度を増やした」と言っていて、そうですね、模倣を本物っぽく信じ込ませるには本物より過剰ではなければならないんです。アニメや映画は多分みんなそうです。てきとうにレンズを向けて動画や写真として切り取っても、その像はわたしたちにとっての現実にはなりえない。だからそう、「五十嵐大介のまんがは『眼』だ」とわたしたちがとらえているならば、五十嵐大介のまんがの映画化はもちろん過剰に眼であふれていなければならない。あたりまえの話ですよね。
 誠実さや熱情も良いものですが、ときには不遜さも愉快に味わえるときがあって、グァダニーノ版の『サスペリア』はその例。こんな傲岸不遜なリメイクをつくるひともいまどきいないでしょう。自分は歴史や社会や人類をすべて見通していて、それを曇りなく映すことができる、という今や失われてしまった古典的な西洋知識人特有の傲慢さを受け継いでいるヨーロッパの映画監督でもどこかそのアナクロニズムにさめてしまっているラース・フォン・トリアー*1などと違ってグァダニーノは真剣です。真剣に、ここ七十年(百年?)のヨーロッパ文明における諸問題すべてを二時間半の映画で語りつくそうとしている。まじめすぎてばかというか、メガロマニアというか、でもダンサーたちの肉体性でギリギリ地上から浮かないだけの質感を担保しているのだから、やはり良くもわるくも頭はいい。
 一方で『ちいさな独裁者』はこちらもただしく生真面目な皮肉であって、特に収容所に爆弾が降ってくるタイミングの古典的な完璧さはおそろしく感動的です。全編がタイミングと間のコメディでできているので、別にカラーで観ようが白黒で観ようがこの愉快さに影響はない。
 やはりタイミングを生真面目にきざむ映画がいいよ。『ゴッズ・オウン・カントリー』と『僕たちのラストステージ』も、それぞれメイン二人のすれ違いと同期のドラマがものすごくよかった。特に『僕たちのラストステージ』の徹底っぷりはすごかった。タイミング以外に愛や友情を語る手段なんて存在するんだろうか。『愛がなんだ』のよさもなんだかんだ視線のタイミングの生真面目さに起因するのでは、という気もしてくる。「オフビート」すら結局はビートに回収されてしまうのです。ふだんはあまり心地よく感じられない湯浅政明のハズし芸も、ある程度型にはまった『きみと、波にのれたら』では極上の体験に仕上がった。
 タイミングという点では、『スパイダーバース』は少々調子っぱずれところが目に付きました。ところが圧倒的に今年上半期の第一位です。これはもう仕方がなくて、わたしは『ロジャー・ラビット』の昔からずっと、異なるレイヤーに属するキャラクターたちがひとつの平面に共存している世界に弱い。脆弱性です。これまでもアップデートされてこなかったのだから、これからも修正されることはないでしょう。画だけではなく、キャラクター間の感情がレイヤー化されているのも地味にうまかったですね。ソニーにはロード&ミラーの映画を一年に最低一本はつくることを義務付けてほしい。
『ドント・ウォーリー』、ホアキン・フェニックスが主演している映画はだいたい良い。

+10

11.『シシリアン・ゴースト・ストーリー』(アントニオ・ピアッツァ&ファビオ・グラッサドニア監督、伊)
12.『バーニング 劇場版』(イ・チャンドン監督、韓)
13.『COLD WAR あの歌、2つの心』(パヴェウ・パヴリコフスキ監督、英仏ポーランド
14.『コレット』(ウォッシュ・ウエストモアランド監督、米英ハンガリー
15.『魂のゆくえ』(ポール・シュレイダー監督、米)
16.『フロントランナー』(ジェイソン・ライトマン監督、米)
17.『シャザム!』(デイヴィッド・F・サンドバーグ監督、米)
18.『ある女流作家の罪と罰』(マリエル・ヘラー監督、米)
19.『ハイ・フライング・バード―目指せバスケの頂点―』(スティーブン・ソダーバーグ監督、米)
20.『FYRE:夢に終わった最高のパーティ』(クリス・スミス監督、米)


『魂のゆくえ』と『フロントランナー』と『ある女流作家の罪と罰』と『FYRE』は負のアメリカの話でしたね。アメリカ人にはこの先もアメリカンドリームの歪みや挫折を描いてほしい。『ハイ・フライング・バード』もアメリカのおはなしなんですが、やたらにポジティブというか、90年代に置き忘れてきた爽快さを残しています。今となっては貴重です。
 上半期のスーパーヒーロー映画では『シャザム!』がよかったですね。下半期カウントの『スパイダーマン:ファー・フロム・ホーム』もですが、ギャグで笑えるところがよい。
シシリアン・ゴースト・ストーリー』は作者の私的な感情というか願いが史実を捻じ曲げてイリュージョンを起こす、という点でビネの『HHhH』に似ています。*2

 だいたいそんな感じです。下半期もよろしくお願います。


*1:『ハウス・ジャック・ビルド』は彼のそうした真摯さの発露した結果の失敗なのだと思います。けして全面的につまらないわけではないですが

*2:『HHhH』も今年『ナチス第三の男』という邦題で映画化されていましたが、しまりのない作品になっていましたね。ワシコウスカまで使っておきながら……。

繰り返されて壊れていく死のストーリーテリングーー『KATANA ZERO』について



 テレビ 日毎の嫌悪嫌悪
 なめらかな饒舌 操作された快活さに接するたびの
 安逸さという字はどう綴るの


 ーーハイナー・ミュラーハムレット・マシーン」岩淵達治・谷川道子訳


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Katana Zero - Launch Trailer



 こどもの頃、英語の先生(オーストラリア人だった気がする)に最近遊んでいるゲームについて訊かれた。

「マリオのゲームをやっています」

 マリオのゲームではどんなことをやるの、と重ねて問われて、「たくさんのマリオを死なせます」と返すと、先生は弾けるように笑った。


 積み重なっていく無数のマリオの死体。それがプラットフォーマーと呼ばれるゲームジャンルのリアリティだ。世界のどこかで少年少女たちが銃やナイフを振り回すたび、「ゲーム感覚」というフレーズが陳腐に繰り返されていくけれど、わたしたちはいまだかつて「ゲーム感覚」の意味するところを真剣に考えたことがあっただろうか?


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 クリボーに触れ、ドッスンに潰され、穴に落ち、マリオは無限に死んでいく。無際限にリスポーンされるからといって、かならずしも死のつらさを希釈してくれるわけではない。むしろ、濃くなる。”コンティニュー”とは「継続・持続すること」だ。絶え間ない阿鼻地獄をわたしたちは味わいつづける。

 プラットフォーマー(アクションゲーム)特有の終わらない死の感覚を体験あるいはストーリーとして組み込んだインディーゲームはいくつか存在する。近年で目立つタイトルだと、Celeste、Outer Wilds*1、The Messenger、Dead Cells あたりだろうか。


proxia.hateblo.jp


proxia.hateblo.jp



 これらはいずれも死んで覚えるタイプのゲームで、だからこそプレイごとの死の理由付けが重要になってくる。なぜ君は死ぬのか。単に「次の周回で上達できるから」以上に、その”ゲーム感覚”的な終わりの持続になんの意味があるのか。
 もはやわたしたちは、いや誰よりもおそらくは制作者たち自身が積み重ねられたマリオたちの空虚さに耐えきれなくなってしまった。
 だから Celeste の死は希死念慮との闘いのメタファーとして取り込み、The Messenger の死はそのためのキャラクターやギャグを生み出し、Dead Cells の死は世界観に、Outer Wilds はストーリーそのものに組み込んだ。*2


『KATANA ZERO』における発露はユニークだ。
 ステージ中にいくらキー操作をあやまろうと、キモノめいたバスローブを着たヤク中のサムライ*3が実際に死ぬ(=ゲームオーバーになる)ことはない。ステージの最初から自動的にリスタートするだけだ。ステージクリアにいたるまでのトライアル&エラーはすべてサムライが「クロノス」と呼ばれる薬物*4によって得た超感覚によるシュミレーションであり、「クリア」したときに得られる正解のルートのみを正しい未来として剪定する。ガイ・リッチー版の『シャーロック・ホームズ』を想像してもらえるとわかりやすい。あるいは『エースコンバット』シリーズを。*5


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 ステージクリア時に再生されるリプレイ動画が90年代風のビデオ映像の形式を取る点に注目したい。
 リザルト動画はシミュレート中の画面とは違い、無音の、色褪せた灰色の映像として出力される。そこに不断の挑戦によって困難を乗り越えた快感は芽生えない。むしろステージをクリアして物語を進行させていくことが事態を悪化させるのではないか、という不吉さをプレイヤーに植え付ける。そして、その予感は的中するのだ。
 ゲーム中のストーリーはアクションステージと交互に語られるわけだが、ここでもVHS的な手法、つまりはグリッチ*6が多用される。サムライのおぼろげな記憶が呼び起こされるとき、彼の意識が混濁し撹拌されるとき、グリッチは世界の歪み、あるいは裂け目として出現する。*7
デッドメディアは死の感覚にお似合いなのかもしれない。


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The external world より


 グリッチを世界の歪みとして意図的に使うアーティストといえば、まっさきにあがるのがアニメーション作家のデイヴィッド・オライリー
 彼が『アドベンチャー・タイム』のゲスト監督に迎えられた第60回Aパート(シーズン5、第15話)、その題も「A Glitch is a Glitch*8」では、悪役の陰謀によって劇中世界がバグに飲み込まれ、いたるところでキャラがノイズとともに消失したり、ありえない変化を遂げたりする。
 Katana Zero の文脈に最も近いのは『THE EXTERNAL WORLD』だろうか。冒頭、ある少年がグランドピアノを弾いては隣に座る教師からひっ叩かれて「もう一回」と命じられ、同じパートを何度も弾きなおさせられる。
『THE EXTERNAL WORLD』は短いスケッチの連続で構成されるが、ピアノの少年を含むいくつかのスケッチやキャラクターは反復され、再登場のたびに世界ごと「崩れて」いく。スケッチの切り替えは失敗や事故がトリガーとなることが多く、反復ごとにひずみが生じ、あらたな失敗や事故を誘発する。やりなおすがゆえに歪んでいき、ますます失敗が運命づけられていく世界。その感触を、1980年代よりこの方、テレビゲームを経験したわたしたちすべてが共有している。


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 死ぬことそのものは痛みではない。繰り返すことの痛みだけがプラットフォーマーのリアルだ。それがゲームの感覚だ。失敗は暴力的な途絶でしかありえない。
 やりなおしによって閑却されていく可能性の先に正解のルートをつかみとる。その正解は積み上がった死体から逆算されたものであり、私たちは犠牲にしてきた自分の分身たちに対する罪悪感を忘れることができない。

 グリッチは叫びだ。ありえた可能性とありうべき現実を行き来する唯一の手段であるとともに、果てしないリピートとコンティニューによって傷つけられた世界の悲鳴だ。傷つきえない私たちの傷を、世界が肩代わりしてくれる。
 Katana Zero においてサムライのライバルとして立ちはだかるあるキャラは、サムライと同じく薬物による時間感覚操作+リセット能力を有している。対峙したふたりは互いに殺すたび、殺されるたび、可能性を幾度となくやりなおす。繰り返しの果てに、そのキャラはこう問う。


おまえは人殺しが楽しいんだろ? クロノスがくれた永遠の命、時間の自動リセット。そんなアタシたちにとって死は無意味だ。だって死んだら、勝手に巻き戻るんだから。アタシたちは、人を殺すことでしか死を実感できない生き物なのさ


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 このセリフは主人公と同時にプレイヤーにも向けられている。
 敵を殺し、クリアしたときにようやく反復してきた死の無意味が報われる。死を実感できる。それがゲーム体験の楽しさだ。原罪だ。そのことをわかっているから、褪色したリプレイ画面で悟ってしまうから、わたしたちは Katana Zero で真に爽快感を得ることはない。
 しかし爽快感の欠如が、必ずしもゲームとしての快楽の無縁さと直結するわけではない。後ろ暗さの経験が、ダークなストーリーに呼応して不思議で独特なプレイフィールを生み、それを私たちの脳は「楽しい」と知覚することだろう。
 楽しいと感じることが倫理的に正しいのかどうかは別にして、だけれど。


 Katana Zero はプラットフォーマーについてのプラットフォーマーだ。
 わたしたちはなぜコンティニューするのか。なぜやりなおすのか。なぜ敵を殺すのか。なぜ自分を死なせるのか。なぜ生きるのか。
 その答えを探すため、私たちはキモノ姿のヤク中サムライに刀をたばしらせる。


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*1:厳密にはプラットフォーマーではない気がする

*2:死による回帰をストーリーそのものに組み込む試みは日本のアドベンチャーゲームでかつて飽きるほど行われたが

*3:ドラゴンというコードネームで呼ばれる

*4:もちろんギリシャ神話における時間の神に由来する

*5:もちろんインディーゲームファンなら『Braid』を想起してしかるべきなのだが

*6:辞書的には「予期しない細かなエラー」であるけれども、ここでは画面の乱れ、一種のノイズとして捉えていただきたい

*7:本来は堆積していく「失敗」であり、時間操作による主人公の時間の肌感覚に近いプレイ画面のほうが鮮やかなカラー映像として提示され、客観的な「現実」であるリザルト・リプレイ映像のほうがノイズに満ちた生気のないモノクロ画面で再生されるという顛倒は興味深い。「現実」のほうが"偽物"なのではないかというグノーシス的な感覚をプレイヤーに与える。その感覚はかつて夢見られていたはずのものが現在に連続していない21世紀的なリアリティとよく似ている

*8:邦題は「コワレタセカイ」

【翻訳】アドベンチャーゲームの憑在論:ノスタルジック・ホラーとしての『ナイト・イン・ザ・ウッズ』と『Oxenfree』

リンクが失われてしまった過去のミームへのトリビュート*1

喪1「いや〜〜〜〜マーク・フィッシャーさんすごく良かったですよね〜〜〜〜」
喪2「良かったですよね〜〜〜」
失われた未来の可能性にゃん「そ、そうにゃんか 失われた未来の可能性にゃんはああいうのよくわからないにゃん……どういうところがいいんだにゃん?」
喪1「うーん、知的でエモい分析とあと死んだ所かな……」
喪2「そうだなー、僕としては叙情的な文体とあと死んだ所を評価してますね……」



現代思想 2019年6月号 特集=加速主義 -資本主義の疾走、未来への〈脱出〉-

現代思想 2019年6月号 特集=加速主義 -資本主義の疾走、未来への〈脱出〉-


電気はわれわれをみな天使にしてしまった。(そしてテクノロジーはわれわれをみな幽霊にしてしまった)

 『ニック・ランドと新反動主義 現代世界を覆う〈ダーク〉な思想』(木澤佐登志)と『現代思想』の加速主義特集号を読んでて、そういえばマーク・フィッシャーと『ナイト・イン・ザ・ウッズ』をからめたどっかのおたくのブログ記事を翻訳しようとして途絶してたなー、ということを思い出した。

 まじめに訳すのめんどくなってたのは、なんかところどころ論の立て方が雑だったり、意味的にわかんないとこあったり、結論部が大学生の書くレポートみたくぼんやりとしたポジティブさで締められていたり後なんか身体的にダルくなってたりしていたせいで、まあしかしそれでもいちおうあっち(英語圏ウェブやインディーゲーム界隈)の気分の一端が顕れている文章ではあると思うし、足りない英語力をがんばって絞り出してなんとかしました。正確に著者の考えを汲み取りたい方は原文にあたってください。
 注はすべて訳者注です。


アドベンチャーゲームの憑在論:ノスタルジック・ホラーとしての『ナイト・イン・ザ・ウッズ』と『Oxenfree』(Andrew Bailey*2

levelpapers.com



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stranger things

 ネットフリックスのテレビシリーズ『ストレンジャー・シングス』*3(2016)では、やんちゃな子どもたちが中西部の小さな田舎町で”コズミック・ホラー”*4に見舞われる。

 80年代を舞台とする本作は、『惑星からの物体X』*5のようなホラー映画の古典のポスターをある場面で登場させたり、全編を通じてスティーブン・キング作品のレファレンスを多用したりと、そのインスピレーションの源泉を視聴者に隠そうともしない。

 こうした明け透けなパスティーシュはシリーズ全体のトーンを理解するのに有用である一方、文化理論家のフレドリック・ジェイムソン*6が「ノスタルジー・フィルム」*7と定義したジャンルと結びつけることもできる。ジェイムソンの主張するところでは、「ノスタルジー・フィルム」に属する映画は過去を正確に再現することを目的とせず、代わりに特定のスタイルを思わせる要素を用い、より現代的な方法論を駆使してそれらの要素を意図的に再利用するのだという。この種のノスタルジーは、新しい未来の可能性を劇的に減速させる方法でもって現在を過去の中へと埋没させる*8点で問題なのだとも。*9


 時間的崩落、80年代ホラー、そしてノスタルジーのつながりは最近発表されたふたつのアドベンチャーゲームにも見出される。すなわち、Finji Studio の『ナイト・イン・ザ・ウッズ』(2017)*10と Night School Studio の『Oxenfree』(2016)*11だ。『ストレンジャー・シングス』と同じく、どちらの作品もある若者グループが小さな町で起こった超常的なミステリーを調査する、といった内容だ。そしてやはり両作とも怪奇物語を語るにあたって1980年代的な「過去性*12」の感覚を用いている。

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oxenfree

『Oxenfree』ではティーンエイジャーたちが週末の飲み会のために近くの島に繰りだし、その島で、徐々に霊的な存在からの干渉に侵されていく。
 プレイヤーが主人公として操作するのはアレックスという青い髪の少女だ。短波ラジオで幽霊たちと交信して物語を進行させつつ、呪われた*13島の2D世界を右へ左へ歩き回るのだ。Oxenfree は、古典的なアドベンチャーゲームや横スクロールゲームの美学としての時代遅れの技術を取り入れたのに加え、ミュージシャン兼サウンドデザイナーである scntfc*14 によるシンセの利いた陰鬱なサウンドトラック*15を通して「過去」を受肉させている。

 ちょうど80年代へ先祖返りしたようなホラー映画『イット・フォローズ』(2013)*16で Disasterpeace*17 が作り上げた気味の悪い劇伴や、ジョン・カーペンター*18ウェス・クレイヴン*19の作品におけるアイコニックでエレクトリックなサウンドトラックがそうであったように、Oxenfree の音楽もまた、開発元の Night School Studio が参照しているレトロ・ホラーの空気感にぴったり合致する、不可欠の構成要素なのだ。


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it follows

 音楽評論家のマーク・フィッシャー(”k-punk"というハンドルネームでも知られる)は、この1980年代前半に始まったノスタルジックな再利用を「緩やかな未来の消去」*20と呼んでいる。アナクロニズムとレトロマニア*21による新たなスタンダードだ。

 この種の時間的脱節*22は「未来の先触れでありシニフィアンでもあるとみなされた」*23エレクトロニック・ミュージックによく顕れるという。

 そこに一種のパラドックスが生じている、とフィッシャーは主張する。現代のエレクトロニック・ミュージシャンたちが80年代的な未来への熱情を参照した作品を生み出すとき、けして訪れることのない未来の概念というノスタルジーを創造してしまうのだ。そしてそれは今やゆっくりと現在そのものになりつつある。

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lost river

 失われた未来の幻に満ちた現在、というこのパラドックスを定義するため、フィッシャーはジャック・デリダを援用してこの状態を「音の憑在論*24*25*26と呼んだ。*27

 さらにフィッシャーは、この終わりなき憑在論的半減期のうちで最も痛切に感じられるのは、喪失の可能性が失われることである、とも述べる。録音録画技術の発展とともに、真に終わることは何もなくなり、真に死ぬものもなくなった。そして、Oxenfree に出てくる不死の亡霊たちのように、永遠に届くことはない未来へ向かって生きることになるのだ。


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night in the woods

『ナイト・イン・ザ・ウッズ』の音楽は Oxenfree に見られるようなフィッシャー的な憑在論や「未来の消去」の源にあまりなっていない。本作のサウンドトラックはユニークかつ上質ではあるものの、こと憑在論や「未来の消去」に関して言うならゲームの舞台となる街の風景のほうに注目すべきだろう。『イット・フォローズ』や『オンリー・ラヴァーズ・レフト・アライヴ』*28、『ロスト・リバー*29、『ドント・ブリーズ*30といった近年の人気ホラー映画群と同様、架空の街であるポッサム・スプリングは「ラスト・ベルト」として知られるアメリカの一帯に位置している。*31

 中西部の広大な地域にまたがり、五大湖を臨むラストベルト地帯は、自動車・石炭・鉄鋼といった従来の主要産業の行き詰まりによる都市の衰微と圧倒的なエントロピーの感覚を特徴とする。*32このことは、ポッサムスプリングスにおいて留め板で覆われた店、朽ち果てた建物、そして廃坑となった鉱山の発見といった様々な形でプレーヤーの眼前に顕れる。

 こうした現代的な斜陽におけるある種の刻印についてフィッシャーはこう述べている。「グローバル化ユビキタスな情報化、労働力の流動化など、いわゆるポスト・フォーディズムへの移行は、仕事と余暇を組織する方法に完全な変革をもたらした。一方でここ10年から15年の間に、インターネットとモバイル通信テクノロジーは、日常的な経験の感触を皆の思っている以上に変えてしまった」

 フォード的な産業からの脱皮とモバイルテクノロジーの台頭との関係についてのフィッシャーの提言は、携帯電話会社からすらも見落とされるせいでサービスを受けられないほどに過疎化した遠隔地であるポッサム・スプリングスでこだましている。

 こうした制度の崩壊と公共・産業・企業からのサポートの欠落が組み合わさって、ポッサム・スプリングスは過去の成功に取り憑かれ、町の現在を適切に把握することができなくなっている。

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only lovers left alive

 このメタフォリカルな憑依は、ゲームの最終盤へ進むつれて現実そのものであったことが判明する。主人公が目撃していた「幽霊」は閉鎖前の鉱山で働いていた保守的な老人たちによる秘密結社だったのだ。長ったらしい会話シーケンスにおいて、これらの男たちは、鉱山の地下に棲まう”存在”に生贄を捧げることでポッサム・スプリングのゆるやかなゴーストタウン化を防げると信じているのだと明かす。

 年老いた元鉱山労働者たちは皆、成功した工業の街としてのポッサム・スプリングの過ぎ去りしイメージに取り憑かれ、将来のさまざまな可能性を認識したり現実的に考えるどころか、今を楽しく暮らすことさえもできなくなっている。『Oxenfree』の囚われた幽霊たちやフィッシャーのエレクトロニック・ミュージシャンたちのように、『ナイト・イン・ザ・ウッズ』の炭鉱カルトは実現しなかった未来という失われたコンセプトに取り憑かれている。


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night in the woods

 『Oxenfree』も『ナイト・イン・ザ・ウッズ』も2Dアドベンチャーの形式を通じてレトロな形式と美学を積極的に取り入れていれつつも、ジェイムソンが論難したような盲目的なノスタルジーとは一線を画す、失われた未来とループする時間というテーマが反映されている。

 両作は共通して、過去との向き合い方に苦悩する敵や対立に焦点を当てている。『Oxenfree』に登場する海軍士官の幽霊たちは乗船していた潜水艦の沈んだ島に縛られており、『ナイト・イン・ザ・ウッズ』においては元鉱山労働者たちのカルト団体が独自の信念体系を築き上げ、失敗した過去のなかに未来への希望を見出す。*33時間の崩壊についてのナラティブ上の問いかけに加え、これら二作はループと循環するゲームプレイ・シーケンスを多用することで、ノスタルジックな美学によって吹き込まれるであろう安易で盲目的な消費へのいかなる期待もをシステム的に粉砕する。

 
 フィッシャーが信じているように、ジェイムソン版のポスト・モダニズムーー「レトロスペクション(回顧)とパスティーシュへ向かう傾向を伴う」*34ーーが新しい文化的規範になるとするならば、『Oxenfree』や『ナイト・イン・ザ・ウッズ』のようなゲームはこのような現在の支配的なトレンドに対して積極的に向き合い、転覆したことで格別に称賛されるべきであろう。


 『ストレンジャー・シングス』のようなメディアにはたしかに強みもあるが、アーティストやデザイナーにはレファレンスや引用をもっと考え抜いてもらい、ただ古いものを再利用するのではなくて過去の文化基準や歴史に関して新しい議論を創出するような方向で過去の要素を用いることを奨励すべきだ。

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Thimbleweed Park

 将来的にも、『バイオハザード7』や『Thimbleweed Park』*35といった近年の不気味なアドベンチャーゲームが商業的にも批評的にも成功をおさめていること、あるいはリメイク版『IT』や『ダークタワー』といったスティーブン・キングの八十年代ホラー小説の映画化が注目を集めていることを鑑みるに、この種の作品が尽きることはしばらくないだろう。

 しかしながら、観衆としての我々はレファレンシャルな時間の閉じられたループを作り出すことを求めるのではなく、新しい創造的な作品を促進することにこそ努めなければならない。我々は批評的な観衆として(フィッシャーの憑在論的ミュージシャンやジェイムソンのノスタルジー・フィルムのような)未だ描かれていない可能性を放棄した過去からの既視感のあるビジョンではなく、未知の未来の目覚めを希求せねばならない。
 
〈おしまい〉


わが人生の幽霊たち――うつ病、憑在論、失われた未来 (ele-king books)

わが人生の幽霊たち――うつ病、憑在論、失われた未来 (ele-king books)

*1:™いとう階

*2:ブログの自己紹介によれば、「トロントのヨーク大学で視覚文化と美術史の博士課程に在籍する院生」らしい

*3:『ナイト・ミュージアム』シリーズのショーン・レヴィが製作に携わり、ダファー兄弟がクリエイターを務める大人気ジュブナイルSFホラードラマ。本文中で述べられているとおり、80年代ホラーへのリスペクトで埋め尽くされている。シーズンの変わり目ごとに iOS 用のゲームをリリースしているが、それもレトロゲームオマージュだったりで、ノスタルジーのかたまりのような作品。

*4:一般名詞のようなツラをしているが、世界的にH・P・ラブクラフトが創始したクトゥルフ神話に属する物語群を指す。

*5:ジョン・カーペンター版。地球を征服する気まんまんで宇宙からやってきたはいいものの、降り立った先が南極だったためさっそく失敗しかけるかわいそうな寄生生物がイヌなどを乗っ取りつつ悪辣な原住生物の魔手を逃れて必死に生き延びていく愉快なサバイバルアドベンチャー映画。ジョン・W・キャンベルJr. 原作でこれまで三回くらいリメイクされているが、SF映画のマスターピースとして主に言及されるのはこの1982年版。最近翻訳されたピーター・ワッツの短編集『巨星』にもオマージュというかトリビュート作品が載っていましたね。

*6:1934- 日本語版ウィキペディアでは「思想家・フランス文学研究者」、英語版では「文芸批評家・マルクス政治学理論家」となっている。文化批評、およびポストモダニズムと資本主義に関する分析でつとに有名。

*7:『わが人生の幽霊たち』の五井健太郎訳ではオミットされているというか、特にキータームとして扱われていない。

*8:collapses the present into the past

*9:“(『白いドレスの女』[1981年のローレンス・カスダン監督映画。どうでもいいが、『わが人生の幽霊たち』では最初、原題にそのままカタカナをあてた『ボディ・ヒート』と訳されていて、次に出てきたときは邦題の『白いドレスの女』になっている。『ボディ・ヒート』という邦題の別の映画も存在するのでややこしい。]に登場する)モノたち(たとえば車)は、技術的に見て八十年代の製品なのだが、映画のなかのすべてが、そうした直接的に現代を指示するものをぼかし、それがノスタルジックなものとして受け取られるように、つまり、歴史を超えた永遠の三〇年代とでもいえるような、なんとも定義しようのないノスタルジックな過去のなかにある物語の舞台をなすものとして、受けとられるように配されているのだ。現代的な舞台設定をもったこんにちの映画でさえも侵食し植民地化してしまうノスタルジー映画(nostalgia film)という様式の登場は、私にとって、ひじょうに徴候的なことに見える。あたかも、なんらかの理由でこんにちではもう、私たちじしんの現在に焦点を定めることができなくなってるかのようであり、私たちじしんのいまの経験にたいする美的な表象を生みだすことが不可能になってしまったかのようである。 ”ーー『カルチュラル・ターン』フレドリック・ジェイムソン、合庭惇、河野真太郎、秦邦生訳、作品社

*10:大学を中退して故郷の田舎町に帰ってきたネコの女が昔の友だちグループとつるみつつ、バラバラ死体の謎を追っていく(?)アドベンチャーゲーム。傑作。Steam、PS4、Switch などで販売中。日本語化有

*11:高校生のグループが打ち捨てられた孤島に忍び込んでパーティを開こうとしたところその島の幽霊たちに取り憑かれてしまったので短波ラジオで別次元への扉をひらきつつどうにかするみたいな内容だった気がする。ぼんやりした英語理解でだいぶ前にクリアしたものだからあんまり憶えていない。Steamなどで販売中。未日本語化

*12:pastness

*13:haunted

*14:シアトル出身のミュージシャン、サウンドデザイナー。『Oxenfree』の他のゲームサウンドトラックとしては『Old Man’s Journey』(2017)、ドラマ『Mr. ROBOT』のアプリゲーム(2016)など。今年発売予定である『Oxenfree』のスタジオによる最新作『Afterpary』でもコンポーザーを務める。ちなみに『ナイト・イン・ザ・ウッズ』のスタッフが在籍する Late night works club の作品にも音楽を提供しているというつながりも。

*15:80年代的なシンセサウンドをリファインした「シンセウェイヴ」というジャンルはインディーゲーム界でもちょっとしたトレンドとなっている。元祖はHotline Miami、最近の作品だと『Katana Zero』なんかがその代表に挙げられるだろう。その影響はゲーム外にも波及していて『プロメア』なんかは少なくとも一曲は八十年代を意識したシンセ曲が挿入されていたりして(パンフによる)、流行ってんなーという感想。

*16:デイヴィッド・ロバート・ミッチェルの出世作。セックスで感染するやばい呪いにかかるとさまざまな形態をとるものすごくやばい存在においかけられるようになってしまい、おいつかれると死ぬ

*17:FEZ』や『Hyperlight Drifter』といった名作の楽曲をてがけたインディーゲーム・ミュージック界のマエストロ。デイヴィッド・ロバート・ミッチェルとのコラボを皮切りに映画音楽にも進出。http://proxia.hateblo.jp/entry/2018/10/11/033747

*18:『ハロウィン』や『遊星からの物体X』、『ゼイリブ』などで知られるホラー映画界の巨匠。自作の劇伴を手がけることでも知られる。最近は音楽制作に熱中して映画からは遠ざかってるご様子。

*19:エルム街の悪夢』や『スクリーム』を手がけたホラー映画界の巨匠。ちなみに『エルム街の悪夢』の音楽はチャールズ・バーンスタインで、クレイヴンとは『デッドリー・フレンド』でも再タッグを組んでいる

*20:もとはイタリアの著述家、フランコ・”ビフォ”・ベラルディが『After the Future』において使ったフレーズ。フィッシャーはこれを彼が『資本主義リアリズム』でも説いた再帰的無能感の文脈で使った。”二十世紀の実験的な文化が、新しさなど無限に可能であるような気にさせる遺伝子組換え的な熱狂にとらわれていた一方で、二十一世紀は、有限性や枯渇という屈辱的な感覚によって虐げられている。いまこそが未来なのだという気分にならないのである”ーー『我が人生の幽霊たち:うつ病、憑在論、失われた未来』マーク・フィッシャー、五井健太郎訳、ele-king books

*21:文字通りレトロなものごとが大好きなひとたち

*22:temporal disjunction

*23:「The Metaphysics of Crackle: Afrofuturism and Hauntology」より

*24:sonic hauntology

*25:The Metaphysics of Crackle: Afrofuturism and Hauntology」

*26:http://k-punk.abstractdynamics.org/archives/007230.html

*27:憑在論はデリダが『マルクスの亡霊たちーー負債状況=国家、喪の作業、新しいインターナショナル』で提唱した概念。”憑在論とは、潜勢的なものの働き(Agency)のことだと考えてみればいい。亡霊を超自然的ななにかとして理解するのではなく、(物理的には)実在しないままに作用するなにかだと考えるのである。……ひとつめが示しているのは、(実際上は)もはやないもの、だがひとつの潜勢的なものとして効果をもったままにとどまっているものである。(トラウマ的な反復強迫、不可避の繰り返しがこれにあたる)。そして憑在論のふたつめの意味が示しているのは、(実際上は)いまだ起こっていないもの、しかし潜勢的なものとして効果をもっているものである(いま現在の行動に明確なかたちを与える、ひとを引きつけるなにかや予測のようなものがそれにあたる。”ーー『わが人生の幽霊たち』)

*28:2013年のジム・ジャームッシュ監督映画。不老不死のヴァンパイアの夫婦が世界をさまよいながらチルでヒッピな日常を送る作品で、個人的にはジャームッシュの最高傑作なんじゃないかと思う

*29:2014年のライアン・ゴズリング初監督作。ゴズリングもニコラス・ウィンディング・レフンみたいな映画が撮りたかったんだなあ、ということがわかる。公開直後は批評的にけっこう叩かれたけれど、アメリカでは数年後にカルト映画としてコアなファン層を確立したらしい。ふつうにあんまりおもしろくなかった記憶がある

*30:2016年のフェデ・アルバレス復活作。盲目のおじいさんの家に盗みに入った若者たち。しかし侮っていたそのおじいさんは実はすごうでの元軍人で……というサイコーな内容であり、サイコーの伏線芸映画。同監督で続編の企画も進行中。

*31:上記四作品に共通しているのはゴーストタウンと化したデトロイトで撮られていること。デトロイト自動車産業の低迷で住民の流出が続いており、空いた土地を撮影の舞台としてフィルムメイカーたちに安価で提供するフィルムコミッションを盛んに行っている。

*32:これらの街は現実では2016年の大統領選でトランプ当選に大きな役割を果たした

*33:“取り憑くこととはつまり、失敗した喪なのだと考えることができる。それは霊を手放さないことでありーーけっきょくはおなじことだがーー幽霊がわれわれに見切りをつけることを拒むことである。亡霊は、われわれが、資本主義リアリズムに統治された世界のなかで見つかる平凡な満足のなかで生きていくのを許さないだろうし、そうした平凡な満足で妥協するのを許さないだろう。”ーー『わが人生の幽霊たち』p.45

*34:”ジェイムソンのいうようなポストモダニズムつまり回顧やパスティシュへの傾向をもったものとしてのポストモダニズムは、自然なものとなっているのだ。たとえば、驚くような成功を収めているアデルのような歌手を例としてとりあげてみよう。彼女の音楽はことさらにレトロなものとして売り出されているわけではないにもかかわらず、それが二十一世紀に属してることを印象づけるようなものは、そのどこにもありはしない。きわめて多くの現代的な文化生産物がそうであるように、アデルのレコードのなかには、曖昧だがしかし拭いさりがたい過去の感覚が、特定の歴史的な時間を思い出されることのないままに飽和しているのである。……新自由主義的でポスト・フォーディズム的な資本主義の到来は、いったいなぜ回顧やパスティシュの文化へと傾いていくのだろうか。おそらくわれわれはここで、いくつかの暫定的な推測を提示してみることができるはずである。ひとつは消費に関わるものだ。新自由主義的な資本主義が連帯や治安を破壊したことが、その埋め合わせのようにして、価値の定まったものや慣れしたしんだものへの渇望をもたらしたとはいえないだろうか。ーー『我が人生の幽霊たち』p34-35

*35:80年代を舞台にしたネオノワール・ミステリー(自称)アドベンチャー。そのクラシックかつ緻密なビジュアルとストーリー、ユーモアが評価され、metacritic では84点をマークしている。Epic や Steam で販売されているものの、未日本語化。https://store.steampowered.com/app/569860/Thimbleweed_Park/?l=japanese