名馬であれば馬のうち

読書、映画、ゲーム、その他。


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永続暴力のためのゴリラ革命(ゴリレヴォリューション)ーー『APE OUT』



「俺たちはその昔、ゴリラだった。取るか取られるかがすべてだった。実際のところ、今日の君は昨日の君よりも『男』なんだよ」
「どうやってわかる?」
赤潮だよ、レスター、俺たちの人生は赤潮だ。他人がひねりだしたクソを毎日食わされる。上司。女房。そんなやつらにすり潰される。もし屈したままなら、君のもっとも深く大事な部分はいまだに"サル"なのだとやつらに思い知らせないままなら……君は洗い流されるだけだ」


 ドラマ版『ファーゴ』シーズン1、第一話



Ape Out - Launch Trailer


 またゴリラと暴力か、と思う。


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キングコング』、あるいは『ターザン』以来、わたしたちは常にゴリラと暴力を結びつけてきた。

 今日のインターネットでは荒ぶるゴリラのイメージを容易に発見できる。怒れる森の化身として人間を叩き潰し、血を撒き散らす。野蛮で、人類未満の存在。
 結局のところ、わたしたちは今でもポール・デュ・シャイユ*1以前の時代を生きている。ゴリラというのは伝説の動物であって、信じるに値する現実の種ではない。「どんな問題も相手の顎を殴りつけて解決するゴリラ」(ジョージ・オーウェル「少年週刊誌」)。


 だがいくら現実の生態に反していようと、わたしたちは暴力の化身としてのゴリラを愛した。そうだろう? 目を血走らせて卑劣な人間たちを激情のまま肉塊に変えていくゴリラのイメージは、わたしたちが取り戻したいと熱望してやまない野生そのものだ。比類なき虐殺者であるわたしたちは銃や核爆弾といった冷たい暴力をほしいままにしてきたけれど、ひきかえに拳という原初的で熱い暴力を奪い取られてしまった。

 わたしたちはもうムカつく上司やうんざりする社会の圧を拳で精算することはできない。アメリカで日々乱射されているのは握りしめられた感情エネルギーではなくて、秒速四百メートルの銃弾だ。あいつらは人生を棄ててクラッシュするそのときでさえ、NRAに甘えなければ何もできない。日本にはそのNRAさえない。

 ゲームは銃を与えられることで、あるいは銃をあらかじめ奪われることで去勢されたわたしたちに暴力を所有する幻想をもたらしてくれる。銃も剣も魔法も都合してくれる。けれど、本当に必要なのはゴリラの心と身体じゃないか?


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『APE OUT』の最初のティーザーが公開されたとき、もうあれは二年か三年も前だと思うけれど、わたしたちはこれこそ「それ」だと考えた。
 かぎりなくシンボリックに簡素化されたグラフィックのゴリラが、人間どもを拳ひとつでぶちのめす。アンニュイなジャズドラム(黒人音楽!)に乗せて、肉を引きちぎっていく。これこそわたしたちの欲しいゴリラだった。無人の野をゆくがごとき無敵の爽快感を期待した。圧倒的な”暴”への陶酔を予感した。


 発売予定は「来年の夏」。

 その翌年の夏になってもまだ「来年の夏」は「来年」のままだった。

 申し訳程度にプレイアブル・ティーザーがリリースされたりもしたけれど、わたしたちは騙されない。フリースタイルに狂いまくるスケジュールはインディーゲームにつきものだ。ゲームのあるべき未来として人々の希望を一身に背負いながら、ついに現在になれなかった話題作はいくらでもある。わたしたちはいつしか期待することをやめていた。ゴリラはやはりユニコーンやビッグフットと同じくらいに空想の生きものなのだ。


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 そうして二〇一九年の三月だ。ゴリラは突然オリから放たれる。弾丸のように。 

 わたしたちはその速度を殺さないままに暴力を愛でようとする。
 人間どもを虐殺しよう。理由はわからない。説明などない。なんとなく研究所っぽいところに閉じ込められていたことはわかる。わかるが……どうでもいい。
 見るべきはプリミティブなグラフィック、感じるべきはシンプルな操作、聞くべきは絶え間ないビート。用意されたあらゆるデザインが眠れる欲動を煽る。燃やす。
 驚嘆すべきはその速度。ボタン(R2トリガー)を押すと指先から衝動が秒で伝わり、破壊として画面に結実する。そのシームレスさがゴリラとの一体感を生み、系統樹をリスのように駆け下りさせる。今日の君は昨日の君よりも確実にゴリラだ。ライフルを構えた警備員など恐れる必要は一ミリもない。壁に叩きつければザクロめいて弾ける弱い生きものなど……。


 だが恐れるべきだったのだ。警備員のライフルは想定以上に強力だった。三発も当たれば、いともたやすくゴリラを屈服させてしまう。
 やつらはとにかく数で攻めてくる。ちぎっても叩き潰しても、おそらくは無限に湧いてくる。
 ゴリラとなった今日の君は確実に昨日の君よりも賢い。やがて悟るだろう。
 ”暴”をむやみにほとばしらせているだけでは勝てない、と。


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 戦術が要る。ゲームの表情が変わる。
 ゴリラは物陰から物陰へと隠れながら移動するようになる。待ち伏せで警備員を屠り、また陰へと融けていく。死体を、ときには生きている人間を盾に敵陣へと近づき、十分に間合いを詰めたところで投げつけて一挙に殲滅する。
 重要なのはリズムだ。速度の緩急。潜むべきときは潜み、攻めるべきときは攻める。ジャズドラムのビート、そのフロウに身を委ねろ。
 やがて気づくだろう。
 このゲームのゴールは「脱出」であると。暴力はあくまでは手段にすぎない。わたしたちの目的は生き延びることだ。
 ギャング映画を見ればわかる。刹那的で放埒なバイオレンスが行きつく先は即座の死だ。


 わたしたちが目指すべきは持続可能な暴力。逃避のための暴力。生存のための暴力。

 自然を守ろう。暴力の可能な環境を守ろう。

 ロックスター・ゲームズの暴力がペシミスティックな近代文学と成り果ててしまった今、質のいい純粋な暴力は絶滅が危ぶまれている。
 求められているのは調和だ。
 ミーム的なイメージとしてのゴリラと、わたしたちの破壊衝動と、ゲーム性を持ったゲームの均衡が織りなすハーモニーを永続していきたい。子どもたちに暴力の大切さを伝えていくのが、わたしたちの使命ではないだろうか?




 人と自然が調和して生きられる未来を
 実現するその日まで。


WWFジャパン

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*1:アメリカの探検家。1856年にガボンにおいてゴリラの完全な標本を報告し、それまで西欧では現地人の想像上の生きものとされていたゴリラの実在を証明した