名馬であれば馬のうち

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映画かもしれない悪夢の技術ーーリメイク版『サスペリア』について

(『サスペリア』、Suspiria、ルカ・グァダニーノ監督、2018、米)

 ネタバレあり。

 夢は映画においてもっとも描くのが難しいもののひとつです。なぜなら、映画はすでにして夢なのですから。
 ーールカ・グァダニーノ*1


 夢を調べることは特別な困難を伴います。夢を直接調べるわけにはいきません。私たちにできるのは、夢の記憶について語ることです。けれども夢の記憶は夢にそっくりそのまま対応してはいない。……(中略)……つまり夢を虚構の作品と考えるならば(私はそう思っています)、私たちは目覚めるときに、また後で語って聞かせるときに、さらに話を作ることができる。
 ーーホルヘ・ルイス・ボルヘス『七つの夜』野谷文昭・訳、岩波文庫




Suspiria Featurette - The Transformations (2018) | Movieclips Coming Soon


夢制作の方法



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 たとえばカフカのように夢をひとつらなりの物語として記憶することのできる人々には驚かされます。漱石の正気具合にいたってはおそろしいほどです。わたしにとって夢とは常に独立した断片の不完全な連続であり、継ぎ目の綴じられていないフィルムであり、物語の対義語のようなものです。


 リメイク版『サスペリア』(以下『サスペリア』)を監督であるルカ・グァダニーノは「ティーン・エイジャーの誇大妄想狂的な夢(a teenager’s megalomaniac dream)」と呼びました。

 如何様、『サスペリア』は夢のように撮られています。神経症的に細かく区切られたカット、発声者が画面の外にいるオフスクリーン・サウンド、散りばめられた要素の膨大さ、視点人物のせわしない切り替わり、唐突で矢継ぎ早な場面転換、ささやきなのかBGMの一部なのか区別のつかないサウンド、一人三役を演じるティルダ・スウィントン、二つの以上の筋を並行して語るプロット、そしてそれを並行して見せるクロスカット……あらゆる演出が多動的なシャルル・ボネ症候群*2めきます。

 初めて『サスペリア』に接した観客はそうした視覚情報の奔流にめまいをおぼえるでしょう。ダリオ・アルジェントのマスターピースサスペリア』のリメイクであること、ドイツ赤軍とルフトハンザ航空機ハイジャック事件、ナチスドイツという国家の過去、メノナイト、ベルリンの壁精神分析、女性のみで構成されたコンテンポラリダンス/魔女団、要約すれば「歴史とフェミニズム」となる題材はわたしたちにシリアスな社会性をつきつけてきます。
 しかし、一方でグァダニーノ監督はどこまで「シリアス」なのかという疑問も抱いてしまう。

フェミニズム


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 監督は本作を「フェミニズム映画」「女性同士の関係性の話」と自認し、あるインタビューではエーリッヒ・ノイマンの『グレート・マザー』をネームドロップしつつ「真のフェミニズムとは」について語りさえもする。*3*4
 なるほど、『サスペリア』の舞台立てをフェミニズムと結びつけるのは自然かもしれません。
 魔女狩り=女性に対する弾圧という視点から魔女を再評価する運動*5フェミニズムから盛り上がったこと、魔女狩りにおいてダンスとサバトが同一視されたこと*6魔女狩りの対象にされた女性の多くが産婆であったとする見方があること*7、そしてドイツにおけるモダンダンスの文脈等々を踏まえれば、70年代に「産むこと」を目指す魔女たちが支配するダンス学校を舞台とする作品にフェミニズムがマッチすると考えるのはある意味自然でしょう。
 しかし観客はそこに欺瞞のにおいを嗅ぎ取ってしまう。しまいますね。評論家の真魚八重子は「魔女を否定する合理主義や、理性の象徴である博士が男性であり、バレエ学校に巣食う原始的で呪術に満ちた魔の力を女たちが体現するという構図は、非常に短絡的な性的偏見の表れである」と劇中に出てくる表象の一面性を糾弾し、「この映画で顕著なのは女性たちの連帯の分断だ」と反フェミニズム性を浮き彫りにします。*8。かたや「魔女」の面でも、真魚と同じく『サスペリアMAGAZINE』に掲載されている朝倉加葉子、中西舞、加藤麻矢の魔女に造詣の深い女性フィルムメーカー三名による座談会(「『サスペリア』魔女座談会」)でグァダニーノにおける魔女についての興味の薄さが指摘されています。

 劇中のフェミニズム的なイメージはnighty_queerさんに網羅されているのですけれども、そこでは「(アンチ・フェミニズム的な描写が)徹底されすぎて逆に感動してしまった。というかある程度ちゃんと勉強したのかなとか思った」とコメントされている。

 たしかにグァダニーノ監督は本作が「勉強」の産物であると言ってはいます。

 ふたつの別々の理由が交差した結果(『サスペリア』は完成した)といえます。まずひとつは、ダリオ(・アルジェント)の『サスペリア』が1977年に公開されたということ。それを意識して以来、私のなかで1977年は妄執の対象になりました。そして独学で、その年の出来事についていろいろと勉強したんです。
 ……(『サスペリア』を監督することが決まってから)脚本家のデイヴィッド・カイガニックと話し合ううちに、この映画には77年という時代背景こそが必要なのだと分かってきたのです。1977年に対する私個人の興味が、この物語を語るうえでの必要性と重なっていったわけです。
 ーー「『サスペリアルカ・グァダニーノ監督インタビュー、『サスペリアMAGAZINE』



 各所のインタビューで垣間見える『サスペリア』の制作過程からは歴史やフェミニズムを語るために『サスペリア』を選んだのではなく、「『サスペリア』リメイク」という夢を語るための舞台として1977年のドイツが選ばれたことが伺える印象です。

歴史


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 1977年に含まれているもののうち、フェミニズムに関する「勉強」の成果があまり芳しくないとするならば、歴史のほうで深い理解が発揮されているのでしょうか?
 ドイツの現代史に関してグァダニーノ監督は饒舌です。彼は作品のテーマとして「母性」とともに歴史における痛み、あるいは罪や恥の意識を取り上げます。

ーー「この世界がどんなふうに罪や恥を必要としているのか」に関するセリフが出てきますね。あなたは劇中のそれに同意しますか?
監督:人々が自分の罪と向き合い、それに打ち克てるようになれればと私は願っています。映画に出てくるキャラクターについてもそうですし、真に関係してくるのはタイトルである「サスペリア」ーー嘆きについての部分でしょう。痛みである何か。


ーードイツ人の歴史的な「罪」もありますね。
監督:本作は、戦時中の出来事や所業に対してなお向き合わねばならなかった時代のドイツ人の集合性(collectiveness)についての映画でもあります。
(中略)戦争が終わって二十年ものあいだ、ドイツ人が戦時中のことを語ってこなかったのはとても象徴的なことだと思います。ナチスドイツ時代の「罪と恥」だけではなく、その二十年におよぶ「罪と恥」に対する無頓着っぷりにも向き合わねばいけません。ドイツは歴史的、文明的、文化的に極めて成熟した国家です。しかしベルリンに行くたびに、私は抑圧されているような気分になります。そう感じるのは、私がラテン民族であるせいかもしれませんが。


https://www.vulture.com/2018/10/luca-guadagnino-suspiria-interview.html



「罪と恥」、『サスペリア』のクライマックスに出てきたフレーズでもあります。 エピローグで主人公がクレンペラー博士に「私たちには罪や恥と必要です。でも、あなたはそうじゃない」と告げ、彼と彼女にまつわる戦時中の負の記憶とダンス学校で起きたことについての記憶を消し去ります。
 ダンス学校内における魔女たちの権力闘争及びカルト的な権威主義ナチスドイツの、そしてドイツ赤軍のそれの相似形として描かれており、グァダニーノはそうした組織に共通する暴力性に対して批判的です。そうした暴力に加担した人は誰しも「罪と恥」を背負って生きていかなければなりません。しかし、それは『コロッサス』誌のクリス・ランバートが言うように「政治家や指導者や軍といった人々が持つべきなので、あって残虐行為の目撃者(かつ被害者)に背負わせるものではない」*9のだと読み取られます。

 では、仮にそういう意図があったとして、(普遍的な「母」と化したとはいえ)アメリカ人である主人公がクレンペラーにおけるホロコーストの記憶を消去して「癒やしてあげる」のは正当といえるのでしょうか? あまりにも安易で非現実的な解決ではないでしょうか?
 よその国へやってきて政治的歴史的罪悪感を共有し、断罪し、あまつさえ癒そうとするグァダニーノ監督の立ち居振る舞いは由緒正しきヨーロッパ的知識人の無邪気な傲慢さを想起せざるをえません。
 しかしそれが、たとえば『アクト・オブ・キリング』のジョシュア・オッペンハイマーなどのどこまでも正しくてゾッとする正義感とどこか微妙に違うのは、グァダニーノ監督自身が映画内における解決すらも一歩引いた目線から見ているという点で、当該シーンについてはこんなことも言っています。

ーーこの映画では記憶を消去することも向き合いかたのひとつとして描かれますよね?
 脚本のデヴィッド・カイガニックによるすばらしいアイディアです。愛されるキャラクターに良いことが起きたと観客は感じるでしょう。しかし、ほんとうはおそろしい出来事なのです。記憶がなければ、たとえそれが耐えがたい記憶であったとしても、わたしたちは無になってしまいます。人間ではありません。
 なので、記憶を消してしまう人物は「悪役」なのです。


https://www.vulture.com/2018/10/luca-guadagnino-suspiria-interview.html



 わたしたちはこの発言をどのように受け取ればいいのでしょう。
 つまり、グァダニーノ監督は主人公の「正義」をいいものとしては認識していない。しかし主人公を「悪役」に据えたところで、物語全体がどのように捉え直されるというのでしょうか。ドイツにおける歴史認識問題の焦点であるあのシーンの解釈がズラされることで、監督の態度も宙吊りされ、テーマとしても混乱します。
 こうなってくると、グァダニーノにはフェミニズムも歴史もどうでもよかったのではないか? そんな疑念が生じてきます。ではその二つに焦点がなかったとして、グァダニーノはなぜリメイク版『サスペリア』を作ったのでしょうか。
 単純にオリジナル版への憧憬だけあるならば、ゴテゴテした装飾など抜きにしてオリジナルの脚本を忠実になぞればよかったはずでは?
 しかし現実にはオリジナル版とまったく違うものになっている。なぜか。

どこかのドイツ


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 『サスペリアMAGAZINE』のインタビューでは歴史やフェミニズムに加えてもうひとつの「1977年」的な要素について触れられています。

 ……(1977年は)私が尊敬するフィルムメイカーたちが非常にラジカルな映画群を放った年でもありました。


 ーー「『サスペリアルカ・グァダニーノ監督インタビュー、『サスペリアMAGAZINE』



 この「尊敬するフィルムメイカー」にはもちろんダリオ・アルジェントも含まれていますが、それよりも文脈的にはファスビンダー、シュレンドルフ、ヴェンダースといったニュー・ジャーマン・シネマの作り手たちを意識していたものと取ったようがよいでしょう。特にシュレンドルフとファスビンダーは『ドイツの秋』*10というドイツ赤軍を描いたドキュメンタリーを作り、映画作りを政治に深くコミットさせています。
 グァダニーノはファスビンダーたちを身振りを真似、彼らに憑依することで異国の地で尊敬する巨匠の名作をリメイクするという難事業にあたっての動力源としたのです。

監督:映画の力によって自分たちの国に道徳的、倫理的、そして歴史的な責任感をもたらそうとしたニュー・ジャーマン・シネマ世代の映画作家たちの力を私も借りようとしたのです。


https://mubi.com/notebook/posts/killing-the-mother-luca-guadagnino-discusses-suspiria



 歴史だのフェミニズムだのは実のところドイツでアルジェントを夢見るための従属的な枠組みでしかない。
「ただひとつそこに真実があるとすれば、それは映画だ」と指摘した柳下毅一郎はただしい。「グァダニーノは間違いなく映画の子どもであり、その感情はすべて映画からよってきたるものである。グァダニーノにとって70年代のドイツはファスビンダーなのであ」*11り、まさしくひとつの夢であった『ブンミおじさんの森』でも撮影監督を務めたサヨムプー・ムックディプロームのレンズを通して夢見られる風景はあくまでファスビンダーのドイツ、そしてオリジナル版『サスペリア』が公開された年としての1977年なのであって、現実の1977年のベルリンなどではありません。
 グァダニーノ自身はたぶん本気で自分はフェミニズムにもドイツの歴史にも情熱を燃やしているのだと信じていて、事実理解や知見もよほど深いのでしょうが、しかし彼の炎の燃え盛る場所はスクリーン以外にないのでしょう。

 

夢としての映画


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 もっといえば、映画を夢見た映画は映画にはなれなくて、夢そのものになってしまうのかもしれません。夢になってしまう映画は希少です。夢を描けば夢のような映画になれるかといえばそんな単純でもない。グァダニーノのことばを借りれば「映画はすでにして夢そのもの」なので、夢を描くのに向いていない。

 思想家で音楽評論家のマーク・フィッシャーは「失われた無意識ーークリストファー・ノーランの『インセプション』」*12のなかで「なによりもまず目につく『インセプション』の奇妙さのひとつ」として「映画のなかの夢が、まったく夢のように見えない」ことを挙げています。ノーランは「ごく標準的なアクション映画の場面をとりあげたうえで、それを夢として再パッケージ化している」。劇中で働いている夢の力学はコンピュータ・グラフィックの論理による代替品であって、無意識や夢そのものに属するものではないのです。

 フィクションの内側で夢を夢見ようとすると、既存の偽物の夢のイメージに頼るしかない。だけど偽物の夢は夢ではない。この倒錯が夢の物語を不可能にしてしまいます。なので映画のなかで本当に夢そのものを描きたいのであれば、一本筋の通った物語としての夢を諦めないといけません。フェリーニの『8 1/2』のような理性的で象徴的な夢は不可能です。

 そのような諦念を土台に『サスペリア』は夢見られています。刹那的で孤立したイメージの連続。ひとつひとつは物語のどこかに関わるカットのようですが、その切り替わりの速度はわたしたちに接続のいとまを与えません。気がつけば主人公のスージーダコタ・ジョンソン)は痙攣を起こして枕を涙で濡らしている。その姿を見た同級生たちは「みんな最初は悪夢を見るんだよ」というふうにささやきあいます。
 都合二度ほど訪れる悪夢のモンタージュが『サスペリア』の夢の核になっていて、その夢の手法が映画全体へも滲み出している。『サスペリア』が大量の要素を必要とするのも、ダンスシーンでやたらクロスカットを挿入するのもそれが夢のメソッドだからです。


 ボルヘスは夢のなかでは複数のことが同時に生起し、その意味をすくい取る前に物事が前へと進んでいくのだと述べました。そして、目覚めて残るのは細切れで筋を成さないかけらだけ。「私たちが夢について調べられるのは、その記憶だけ、哀れな記憶だけなのです」。*13
サスペリア』ではキャラも歴史もフェミニズムもダンスもそしてグァダニーノのドイツ映画幻想でさえも等価にならべられ、大量に用意された視点を通して観客へと流されます。すべてにピントのあった二時間三十分の画像の連続を受け取ったわたしたちはそれらすべてが過去にあったイメージのコピーであるがゆえに記憶として統合可能であると錯覚してしまう。おそらくはグァダニーノ自身でさえも。無理もありません。そもそも全体の型としてオリジナル版の『サスペリア』の枠組みが与えられているのです。
 たちのわるいことにグァダニーノとムックディプロームはワンカットワンカットを卓抜した質感で切り取ってしまう。その感触はいわゆる現実としてのリアリティとは異なる、映画としてのリアリティであって、夢のなかにおける離人症的でありながらも無条件に現実として受け入れてしまう類のそれです。

サスペリア』を観るわたしたちはまるで冒頭シーンでのクロエ・グレース・モレッツ。ふらつきながらクレンペラー博士の診療室へと押しかけ、部屋の中で脈絡なくつぶやいたり歌ったりしながら夢遊病的にダンスを舞うなどする不安で壊れた多動のこどもです。
 舞台でもない場所で踊るダンスは起きながら見る夢のようなものです。区切られていた世界の境界が融解し、歴史とフィクションの、オカルトと科学の、夢と現実の境目が失われてしまいます。彼女が他動的に乱射する視線*14には物語と関わるクレンペラーの過去とリンクするものも含まれるわけですが、彼女や観客の現実には一切関わりません。夢では伏線や反復などは機能しなくなる。
 論理や物語作法はわたしたちの夢を綴じてはくれない。夢に一貫性を与えるヴェールの正体は親密さの感覚です。居心地の悪い親近感といってもいい。ストレンジでありながらもファミリアな夢に固有の感覚。

 その感覚は劇中ではマダム・ブラン(ティルダ・スウィントン)の手に見いだせます。「器」として完成していくスージーの部屋をマダムが見舞う。マダムはたびたびそうしてきたように、ここでもスージーの手に自分の手を重ねて、つながろうとする。握られた手はそのままベッドに横たわるスージーの頰に引き寄せられ、温もりを直に感じることで彼女は安堵したような表情を浮かべます。「信頼して」とマダムは言います。
 しかし触知することさえ夢の中では何も保証はしてくれないものです。『サスペリア』でも触れ合いは裏切ります。失われたはずの妻と再会したクレンペラー博士は手と手を取り合い、キスまで交わして彼女を現実として認知しますが、それは魔女たちが彼をダンス学校までおびき寄せるための幻影でした。朝目覚めるたびに夢はわたしたちを裏切るのです。夢見ていた最中はあんなにも親密であったはずなのに。


 わたしたちは裏切りの喪失感を埋めようと夢を他人に物語ることのできる形になんとか修復しようとこころみます。
 『サスペリア』の物語も、最終的にはオカルトや精神分析で狂奔する妄想を現実として組織化しようとするクレンペラー博士そのままにグァダニーノ監督によってリーズナブルなプロットに整理され、不朽の愛のおはなしに回収されます。
 しかしそのおはなしは夢のなかで経験されたものと一致するのでしょうか? 夢そのものと夢を思い出そうとして語られた物語が一致したことなどこれまであったでしょうか? 完全に思い出せたとして、もはやフロイト古代エジプトの神官のやるようなシンボリックな夢の解釈を信用できないわたしたちはグァダニーノのメガロマニックな要素の洪水をどう読めばいいのか?

 わたしとしては『サスペリア』を哀れな記憶の残滓としてよりも、質感を有した悪夢の感触だけをおぼえておきたい。それこそは嘆きの母にも消せない経験です。


*1:guadagnino-on-assaulting-the-senses-and-i-1829994124

*2:白昼にやたらリアルで脈絡のない幻覚がみえる病気

*3:https://themuse.jezebel.com/director-luca-guadagnino-on-assaulting-the-senses-and-i-1829994124

*4:”『グレート・マザー―無意識の女性の現象学―』というエーリッヒ・ノイマンのすばらしい本があります。さまざまな文化における女神の物語と、それが家父長制が中心的になるに従っていかに抹消されてきたかを追った本です。「グレート・マザー」について語るとき、恐ろしい母親を避けることはできません。真のフェミニズムとは女性のアイデンティティの複雑さについて恥ずかしがらないことではないでしょうか。「女はよくて、男は悪い」なんてばかげています。女性は複雑な生きものであり、男性とは異なる生殖の力を持っています。私は、この映画はだいたいにおいて女性たちの関係性についての話であると思います。男でさえ、女性によって生み出されるのです。”

*5:発端は1921年に発表されたマーガレット・アリス・マレーの『西欧における魔女教団(The Witch-Cult in Western Europe: A Study in Anthropology)』。その後の発展と新魔女運動の概要については以下。http://tmochida.jugem.jp/?eid=272

*6:バスク地方魔女狩りの舞台となったのもバスク人のダンス好きな民族性が一因とも言われる。『魔女狩り 西欧の三つの近代化』黒川正剛

*7:実際にはそんな多くはなかったらしい。/グァダニーノ「私は本作を生命の誕生と破壊についての作品だと思っている。子どもを産むと同時に、自分が生み出したものに敵対する母親がいるんだ。」http://www.neol.jp/culture/78575//「これは娘を殺して生まれ変わろうとする人間の映画であり、それこそ真に迫った母性の描写である、といえます」https://www.vulture.com/2018/10/luca-guadagnino-suspiria-interview.html

*8:「プリミティブ女性への根源的な恐怖」、『サスペリアMAGAZINE』

*9:https://filmcolossus.com/single-post/2018/11/22/Explaining-the-end-of-SUSPIRIA-how-and-why-its-like-a-game-of-charades-and-less-about-witches-and-more-about-politics

*10:正確には78年公開

*11:「妄想のドイツ、妄想の映画』、『サスペリアMAGAZINE』洋泉社

*12:『わが人生の幽霊たち 鬱病、憑在論、失われた未来』ele-king books、五井健太郎・訳

*13:『七つの夜』

*14:彼女が極端に「目」のイメージをおそれていることは重要です。彼女にとって夢は自分が見るものではなく、不気味な外部によって自分に向かって見られているものなのです