名馬であれば馬のうち

読書、映画、ゲーム、その他。


読書、映画、その他。


『フロントランナー』:目をそらし続ける私たちと、ジェイソン・ライトマンが救おうとした女性について



ジェイソン・ライトマン
私は複雑な人物が好きです。その欠陥がどう表れてくるかにも興味があります。


https://www.reviewstl.com/interview-director-jason-reitman-front-runner-1121/



ヒュー・ジャックマン主演!映画『フロントランナー』予告


 人は誰しも多かれ少なかれ、現実から目をそむけて生きています。
 なぜ目をそらすかといえば理想の自分と実際の自分のあいだに齟齬が発生しているからで、そのゆがみが行くとこまで行ってしまうとジェイソン・ライトマン監督の『ヤング≒アダルト』や『タリーと私の秘密の時間』といった過去作*1みたいなエクストリームな悲劇へと発展します。
 最終的にツケが自分に返ってくるだけならまだマシなほうでしょう。ですが、現実が人間の形をしている場合、そこから目を逸らすことは他者の尊厳を踏みにじる行為につながりかねません。
『フロントランナー』は人間の顔を持った現実を直視せず、踏みにじっていた男の話です。
 

 

あらすじ:

 時は1988年、アメリカ合衆国大統領選前夜。元上院議員のゲイリー・ハート(ヒュー・ジャックマン)はみなぎる若さと甘いマスクで老若男女の支持を掴み、民主党の大統領候補予備選を目下独走中。このまま行けば共和党の有力候補ジョージ・ブッシュを打ち破り、レーガンから続く共和党の天下にストップをかけられるはずだった。
 ところが匿名のタレコミを聞きつけた新聞社がハートの不倫疑惑を報じると事態は暗転する。マスコミは疑惑の真偽を問いただそうと、ハート一家の邸宅や選挙事務所に押し寄せ、連日連夜取り囲んで取材攻勢をかける。一方、遊説中のハートはマスコミ対応を進言するスタッフをはねつけ、「くだらないスキャンダルよりも政策発信に集中すべきだ」と頑固に言い募る……。



 本作はもちろんゲイリー・ハートについての映画です。ジャーナリズムと政治家の倫理について提議する作品でもあるでしょう。
 しかし一方で、「わたしたち」によって葬り去られた一人の人間を救い出すための物語でもあります。その人の名はドナ・ライス。ハートの不倫疑惑の相手役とされた女性です。
 監督のジェイソン・ライトマンは制作当初、「ゲイリー・ハートについての映画を作っている」と他人に話すと、こんな反応が返ってきたそうです。「ああ、あのボート、〈モンキー・ビジネス号〉だっけ? あのブロンド女のほうはなんて名前だったっけ?」
 1988年から(映画が公開された)2018年までの30年間、ゲイリー・ハートの一件はずっと「大統領選という『本番』の前に起こった炎上ネタ」としてアメリカ人に記憶されていたのです。
「彼らの認識は非常に冷ややかでした」とライトマン監督は分析します。「ドナ・ライスをまるでモノのように扱い、事件のすべてがジョークであるかのようにふるまっていたのです」
 ネタとみなされた人間はモノとしてあつかわれます。他愛のない気の利いたジョークに引用され、コミュニケーションの道具として消費されていく。それはテレビ時代の昔もネット時代の今も変わらないわれわれの残酷な本性です。
 彼女はスキャンダルを乗り越えて一度は勤め先だった製薬会社に復帰しようとしますが、騒動の後遺症によるストレスとプレッシャーで退職を余儀なくされ、その後七年のあいだ公の場から姿を消します。*2
「不公平にも彼女の人生はある一瞬で定義されてしまいました。彼女を生身の人間ではなく、ボートに乗っていた「あの女」としか見なさなかった私たち全員によってそう定義されたのです」*3

 そういうわけでライトマン監督にとっては「野心と賢さを備えながらも自らの手から人生をもぎとられてしまった一個の女性として、彼女を礼節と共感をもって描くことはとても大事だったのです」*4


f:id:Monomane:20190207031423p:plain


 騒動が勃発すると、ハートと彼を支えるスタッフたちは徹底してドナ(サラ・パクストン)を隔離します。ハートはドナに電話をかけようとすらしません。ただ、マスコミの目から逃れてスタッフとともに政策に関する原稿をこまごまと手直しするという現実逃避にきゅうきゅうとします。
 男性陣ではJ・K・シモンズ演じる選挙参謀だけが事態のヤバさへ真っ向から取り組み、ドナを「直視」します。ただし、人間としてではなく、あくまで対処すべき問題として。その視線の圧倒的な冷たさときたら、『セッション』で怒鳴り散らかしているときより数万倍もおそろしい。*5唯一、ハート陣営の紅一点である女性スタッフ(モリー・イフラム)とドナは打ち解けて親密な視線をやりとりを交わしますが、しかし、彼女の視線が途切れた瞬間にドナは無数の視線と声に捉えられてしまいます。


 参謀は現実逃避を続けるハートにマスコミと向き合うように説得にかかります。しかしハートは聞きません。
「私は20年ものあいだ政治に身をおいてきた。君もそうだろ。世間(The public)はこんなくだらないことなんて気にしないよ。興味なんてないさ」
 参謀は反論します。「1972年ならそうだったでしょうね。82年でさえ問題にならなかったかもしれない。でも、今は違うんです。理由はわかりません。でも、そうなんです。はやく我々の側の『ストーリー』を組み立てないとーー」
「”ストーリー”なんかないんだよ!」


 仮にハートの政治的資質に欠陥があるのだとしたら、貞操感覚などではなく、時代の気分と向き合えなかったその鈍感さだったのかもしれません。
 そして人間としてはーーすくなくとも映画のなかではーー自分自身の妻と向き合えなかったことが致命的でした。
 不倫騒動が噴出する前からハートには妻との不仲疑惑がつきまとい、劇中の序盤では記者から家庭や結婚観に対する質問をされて頑なに回答を拒否するシーンが描かれます。ハートの遊説に同道しないのはティーンエイジャーの娘が家にいるから、という言い訳はあるにしても、二人の関係はどこかぎこちない。
 騒動によりハート家の敷地はマスコミに包囲され、母娘は外出もままなりません。ハートは電話越しに妻に謝罪をしはしますが、家には選挙スタッフを一人送り込むだけで特になにもせず、妻と対面することもありません。
 マスコミの待ち受ける嵐のなかに送り出したドナのことなど、もちろん二の次どころか三の次です。妻の視線、ドナの視線、世間の視線からハートは逃げ続けます。


 が、ようやく腹をくくって出席した会議でスクープの元凶である新聞社をうまくやりこめたことでハート陣営は一時持ち直します。時代的に新聞社がスキャンダルネタの扱いに不慣れだったこともあり、裏取りに穴があったのです。
 瀕死状態から息を吹き返したハート陣営は乾坤一擲の釈明会見に打って出ます。これさえ乗り切ればまた予備選のフロントランナーに返り咲けるはずです。ハートは会見前の控室でスタッフとともに想定問答を叩き込みます。
 どの角度からボールが来ても完璧に返せるーースタッフたちがそう確信したとき、思わぬ方向から思わぬボールが飛んできます。
「ドナはどうするんですか? 彼女のプライバシーを守るために誰か派遣すべきでは?」
 陣営で唯一ドナとまともにコミュニケーションをとっていた女性スタッフでした。
 彼女の提案は他のスタッフによって「アホか?」と即座に却下されます。
 続いて、記者質問対策のスタッフが最もハートにとって嫌な質問をぶつけてきます。
「『あなたは以前にも他の女性と不倫したことがありますか?」
 ハートは顔を紅潮させ「あんまりバカにするなよ! そんな質問には答えない! 誰にも関係ないことだ!」とスタッフに対してマジ切れします。
 この勢いで拒絶すれば記者からの圧力もはねのけられるだろうとスタッフは勝利を確信しますが、しかし、ドナと妻という二人の女性を徹底的に「ないもの」として振る舞うハートに天罰のような、あるいは奇跡のような一瞬が(文字通り)訪れます。
 それが何であるかは本篇をごらんになってのお楽しみですが、一言でいうなら、「人の形をした現実」です。
 その「現実」と向き合い*6、そしてそのあとで記者会見である経験(選択)をすることで彼は確実に変化していきます。

 記者会見後の彼の変化を示すシーンを二つ挙げておきましょう。
 ひとつはさきほどの女性スタッフに「マイアミはどうなってる?」と訊ねるところ。
 もうひとつはハートが予備選立候補の取りやめについて会見を行う自身の姿をテレビ越しに眺めるところ。政治家として自分のイメージを他人に見せる側だった人間が、惨めな自分の敗北と向き合い、現実を受けいれる。こうした成長が描かれるからこそ、ラストに簡潔に提示される「その後」についても納得されるのです。
 自分が現実から目をそらすことで歪んでしまった世界、そのひずみを引き受ける人々の存在に気づき、向き合うこと。それはけしてゴールではありませんが、すくなくとも、第一歩ではあります。


余談

 映画はキレイに落ちたとはいえ、やはり現実のツケはなかなか精算できないものです。映画で語られなかったドナ・ライスの「その後」はどうだったのでしょうか?
 ドナは先述のとおり勤めていた会社を退職したのち、七年ほど隠遁生活を送ります。そして1994年に移住先のワシントンDCでビジネスマンのジャック・ヒューズ(Jack Hughes……さかさまにすると Hugh Jack な man ですね)と結婚し、ドナ・ライス・ヒューズとなります。
 それと前後して彼女は社会運動家としての活動を開始。保守系NPO団体 Enough Is Enough のスポークパーソン兼コミュニケーターとして活躍し、児童オンライン保護法(COPA)を始めとした未成年者を対象としたインターネットにおける有害情報へのアクセス規制関連法案に成立に貢献します。現在ではドナは EiE のCEOの座についています。
 この団体の直近の活動として話題となったのは、「ナショナル・ポルノ・フリー・Wi-Fi・キャンペーン」でしょう。日本と同じくアメリカのマクドナルドやスターバックスでは無料のWi-Fiスポットが設置されているのですが、当初はろくにフィルタリングもしておらず、子どもだろうが有害サイトにアクセスしほうだいでした。また、その匿名性を利用して児童ポルノの温床になっているという指摘もありました。
 EiE はキャンペーンを通じて世論や企業に訴えかけ、マクドナルドに全国規模の、スターバックスに世界規模のフィルタリングポリシーを導入させることに成功しました*7


 このように立派な社会的成果をあげている一方、共和党系議員の妻が立ち上げた団体という出自からか、民主党にとってはちょくちょく頭痛の種を生みだしてもいます。
 たとえば、EiE の設立当初から関わって活動していたクリスティーン・オドネルという人は2010年前後にかけ、いわゆる「ティーパーティー系」の新人として三度上院選に挑戦し、いずれも落選したものの、その個性的なキャラクターから話題を呼びました。08年の上院選本戦では88年にゲイリー・ハートと民主党大統領候補の座を争ったジョー・バイデンとマッチアップしたというのですから、歴史のめぐり合わせとは奇妙なものです。*8
 そして、めぐりあわせといえばティーパーティーの撒いた種が芽吹いた2016年の大統領選挙。
 ドナ・ライス・ヒューズは熱心なトランプ支持派として FOX NEWS をはじめとしたニュースサイトに彼を支持するオピニオン記事を掲載します。*9
 子どものころから成年期にいたるまで複数回性的虐待を受け、その経験から子どもたちを有害な表現から守るために戦ってきたドナにとってレイプ疑惑の渦中にいるトランプを支持するのは内面的には苦渋の選択だったようですが、彼女は「彼の謝罪を受け入れ」、「クリスチャンとして」中絶規制や軍備の縮小といったトランプの政策を支持しました。
 トランプが当選した夜を『タリーと私の秘密の時間』のセットで迎え、「『スター・ウォーズ』が帝国の勝利という間違った展開になってしまったように感じた。悲しかった」と述懐した*10イトマンは、その次に撮影予定だった『フロントランナー』で彼が救おうとしていた女性の現在の立ち位置についてどう感じていたのか。

 民主党候補によって人生を破壊され、そこから立ち直った人間が民主党にとって最大の悪夢であったトランプ大統領の誕生に寄与するーー三十年にも渡る彼女の半生の細部を無視して「ネタ」性だけを見れば、これもまあ、ひとつの”ストーリー”といえるのではないでしょうか。