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新潮クレスト・ブックス全レビュー〈8〉:『ハイウェイとゴミ溜め』ジュノ・ディアス

『ハイウェイとゴミ溜め』(Drown、ジュノ・ディアス、江口研一・訳、1996→1998)

ハイウェイとゴミ溜め 新潮クレストブックス

ハイウェイとゴミ溜め 新潮クレストブックス


 ドミニカ共和国のスラムで育った少年ユニオールはある日、アメリカに住む父親の招きで兄や母親と共にニュージャージーに移住する。ドミニカでの幼少時代から、アメリカでの青年時代まで。『オスカー・ワオの凄まじく短い人生』で話題となった著者ジュノ・ディアスの自伝的デビュー短編集。

 冒頭の短編「イスラエル」はひどい話だ。
 夏休みに田舎のおじさんの家へ預けられた主人公とその兄ラファは、「豚に顔をかみちぎられた」と噂のマスクド少年イスラエルに目をつける。粗暴なラファはイスラエルと遭遇すると絡みだし、顔を覆うマスクをむりやりはがす。イスラエルを辱めて逃げ出したふたりは帰りのバスで、イスラエルがアメリカで受けるらしい整形手術について思い出す。弟は訊ねる。「アメリカでなら、治るよね?」兄は言う。「治るもんか」

 ユニオールがジュノ・ディアス自身であることは疑いようがない。ディアスはドミニカ移民として過ごしてきた人生をおそらくは多少のフィクションを織り交ぜながら、飾り気なく語る。ひとつひとつの短編はさほどわかりやすい盛り上がりやヤマを持たず、つねに淡々と進行していく。その自然さと明け透けさは洗練された私小説を思わせる。
 九十年代にスティーヴ・エリクソンがアメリカにおける私小説の不在を指摘していたけれど、まさに同じ時期に移民系の作家がみずからの来歴についての語りを通して、そうしたスタイルを獲得していたのは興味深い。

 二百四十ページ弱に収められた十編の物語はそれぞれ独立していると同時に、ゆるやかに共鳴していて、たしかにひとつの統合された物語を形作っている。それは人生の形をしている。読者は、ああ、これがユニオール=ジュノ・ディアスの人生なのだな、と額面通りに受け取る。「イスラエル」のように自らの恥部を晒す作家なのだから、ここには彼の人生のすべてが語られていると思ってしまう。
 そこに陥穽がある。

 2010年、ディアスは『ニューヨーカー』誌のインタビューにで以下のように述べた。
「……『ハイウェイとゴミ溜め』では、兄のラファが途中から登場しなくなります。彼はがんを抱えていたので。この本では、その話を書けなかった。あまりに辛すぎて書けなかったんです。だから、あの本には語りにおける『抜け』が存在します。その空白を埋めるためにニルダ」や「プラの信条」(どちらも『こうしてお前は彼女にフラれる』に収録)を書いたんです。」


 何を語るにしろ、一冊の本だけでは語りを尽くせない。だからこそ、ジュノ・ディアスは書き続けることを必要とした。作家になった。『オスカー・ワオ』や『こうしてお前は彼女にフラれる』はデビュー作の語りなおしであり、補論でもある。
 といっても、語りの空隙は作品を不完全にするのではない。むしろ、より豊穣にする。ユニオールの母親はそのへんをよく心得ていた。彼女の腹部と背中にはやけどの痕がある。1965年のアメリカ軍によるドミニカ進駐時のミサイル攻撃で負った傷だ。おそらくはユニオールの生まれる前だったであろう災難について、彼女は何も語らない。アパートの壁に息子の元恋人の写真を貼りつづけて現恋人の存在を無視し、「私の夢のなかではあの二人はまだつきあっているの」と蔭でうそぶく。
 何を見るか、何を見ないか。何を書くか、何を書かないか。何を語ろうとするか、何を語ろうとしないか。つまるところ、そこがあらゆる物語の行き着く地点だ。


 翻訳は江口研一。コエーリョの『ベロニカは死ぬことにした』などで有名だが、本書の訳は中途半端に古くさい。人称代名詞が「ボク・カレ・カノジョ」となぜかどれもカタカナで表記されるのはともかく(最初は「カレ」という名前のキャラがいるのかと思った)、全体的に無駄にカタカナが多い。雰囲気が統一されているので読みにくいことはないのだけれど、貧乏移民のハードボイルドな日常がバブルの残り香に汚染されているようで、二〇一〇年代に読むのはややつらく感じた。せっかく復刊するなら改訳してほしかったですね。(1700文字)


〈収録作〉
イスラエル」Ysrael
「フィエスタ、1980」Fiesta, 1980
「オーロラ」Aurora
「待ちくたびれて」Aguantando
「ふり回されて」Drown
「ボーイフレンド」Boyfriend
エジソンニュージャージー」Edison, New Jersey
「ブラウン、ブラック、ホワイト、そしてハーフのGFとデートする方法」How to Date a Browngirl, Blackgirl, Whitegirl, or Halfie
「のっぺらぼう」No Face
「ビジネス」Negocios