名馬であれば馬のうち

読書、映画、その他。


読書、映画、その他。


私たちは悪魔と取引してデザインされた死を遊んでいる


 『ゆゆ式』を思い出そう。『終末少女旅行』を思い出そう。


 あなたはいつだって、「この問題」を無敵の少女たちに押しつけてきた。
 その罰として、あなたは今、悪魔と契約したコップに成り果てている。
 


Cuphead Launch Trailer



 人生では一回しか体験できず、ゲームでは何度でも味わえるものの一つに死がある。
 ゲームにおいて前提となる要素はかならず洗練されていなければならず、つまり死が前提となるゲームではいかに死という体験を洗礼していくか、そんな話になる。
 中世の王たちが生ではなく死をもって人々を統治したように。


 Cuphead。


 そこにはデザインされた死の体系がある。
 ちょっとした油断、ささやかな操作ミス、初見ではよくわからない敵ボスの当たり判定、結果として明らかに回避不可能となってしまったが事前にもうすこし考えて動いていれば出来していなかったはずの殺し間。

 プレイ動画を観た人間は誰もが「かわいそうに、理不尽に殺されているよ」とプレイヤーをあわれむことだろう。

 だが、プレイヤー本人は「理不尽」とは感じていない。

 彼にはなぜ自分が死んだのかが見える。

 ステージ開始から一分四十三秒後に死んだのなら、その百三秒の一挙手一投足すべてで積み上げてきた因果の結果として死に捕まったのだと知っている。動線が見える。死神の動線が、彼にだけ見える。


 だから、わかってほしい。


 すべてには順序と理由がある。私たちは順序と理由を求めてゲームを遊ぶ。あのときのたったワンフレームの誤操作、あのときのたった一度のライフ喪失。死因は積み重なる。
 やがて訪れるであろう、たった一度の本物の死をそうやって準備するのだ。

 だが、今は三十分のあいだに四十回死ぬ。
 ボクシンググローブをはめたカエルの兄弟、お菓子の城の女王様、カーニバルを支配する変幻自在のピエロ、野菜の形をしたザコ、見えるもの、触れ得るものすべてが冗談みたいにおまえを殺す。悪夢。
 プロメテウスは人類に火を与えた罰として、タンタロスは神々に自分の息子の肉を供した罰として永遠の苦悶を課せられた。おまえの罪はなんだ?
 そんなことを自問しながらフルアニメーションで描かれる美麗な作画に見とれているうちに、おまえのライフはゼロに達している。


 そう、壊れやすい陶器のコップである私たちは、百回の死のチャンスに対してライフを三つしか持っていない。
 これはゲームなので寿命を伸ばすことができる。ライフを四つ、あるいは五つにしたらグンとステージクリアの確率があがるだろう。武器を変更してもいいかもしれない。オススメは追尾弾だ。ただ撃つだけで自動で敵を追ってくれる。おまえは逃げるだけでいい。気分はまるでコロンバインだね。
 cuphead の本質は敵を倒すことじゃない、避けることだ。それは資本主義社会の本質でもある。ある日とつぜん降ってくる死などない、すべてには理由がある、という嘘に支えられた宗教だ。そこではアイテムを買い占めて、細心の注意をもって、踊るように、怯えるように過ごせば死を先延ばしできるはずだった。


 だがいくら眼を背けても、ないふりをしようとしても、完全に逃げ切ることはできない。
 七十回のコンティニューの果てにボスをギリギリで倒す。その瞬間はなにかが……なにかが報われたような気がする。救われた気分になる。
 その幸せは三秒程度しか持続しない。なぜなら、あなたの信仰はすでにリニアなひとつらなりの生にではなく、反復される死に対して捧げられている。「つましく小さなひとつの幸福を抱きしめる――それを「帰依」と呼ぶ。だがそうしながら早くも、新しい小さな幸福を流し目で盗み見ている」*1
 激戦地で九死に一生を得た兵士たちが次の死地に赴くように、マーリンを引いたFGOプレイヤーが宝具レベル2を目指すように、私たちは幸福を抱きしめる権利をかんたんに放棄してしまう。
 そういうふうに、私たちの欲動は、きらら四コマのごとき精密さで完璧にデザインされている。いったんコントローラー(ロジクールのやつ)を握ってしまえば、最低二時間はその慣性に追従しつづけるだろう。


 次の死のために、次の次の死のために。


ゆゆ式 9巻

ゆゆ式 9巻

*1:ツァラトゥストラかく語りき』佐々木中