名馬であれば馬のうち

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奔るゾンビ映画――『新感染 ファイナル・エクスプレス』の感想

(原題:부산행、ヨン・サンホ監督、2016、韓国)



「新感染 ファイナル・エクスプレス」予告編

走る列車、トレインするゾンビ

 感染が拡がる、まるで新幹線の速さで。
 などという地口が、場当たり的なノリでなく、しんじつ映画としての速度にマッチしているものだから、一見いかにも二秒でおもいついたようなB級のかおりがぷんぷんする邦題も実は考えに考え抜かれてつけられたものなのだと、心ある観客ならば開始二十分で気づく。


 とにかく列車も映画も止まらない。

 ZPM(Zombeat Per Minutes)は200を超えているだろうか、めちゃくちゃ機敏なゾンビたちが時には波のように、時には滝のように*1、そして時には獣のように人間に襲いかかり、その数を増していく。
 ゾンビ映画にありがちな「噛まれた人間が徐々にゾンビ化していき、蝕まれていく人間性とのあいだでコンフリクトを起こす」なんていうぬるい描写は(一部を除いて)ほとんどない。動脈を噛まれればまず秒でゾンビ化する。本当に秒だ。ウワーッと噛まれて振り向いた瞬間にはもうゾンビ。シャーッと元気に飛び跳ねる。このスピード感、この物分りの良さには走るゾンビ否定派も屈さざるを得ない。R. I. P. ジョージ・A・ロメロ。あなたも草葉の影から、あるいは天国の無人ショッピングモールからごらんになっているでしょうか。
 

銃社会でのゾンビ・マナー

 本作はオールドスクールなゾンビ作法にのっとりつつも、要所要所ではオリジナルな切れ味を発揮している。
 ゾンビの造形に関してひとつ、アイディアだなと感じたのは、その弱点だ。伝統的なゾンビ映画のゾンビにおける絶対確実な弱点として「頭をぶち抜かれると死ぬ」があるわけだが、しかしよく考えてみたら、これ、弱点か? 頭を打ち抜くなんてのは基本的に銃が身近に存在し、銃を失っても素手やバットで頭をストライクできるマッチョなステロイド国家でこそ成り立つ「弱点」であり、憲法で武装する権利を認められていない一億総ウィンプ国家である日本や韓国では到底現実性がない。ましてや強靭な肉体を持った走る系のゾンビを前にすれば、貧弱な東洋人などゴミムシも同然である。
 で、そうした問題を逆手にとって、そのあたりをどうクリアしてゾンビをぶち殺すか、といった興味が日本のゾンビものではひとつ頭のひねりどころだったわけだけれど、ヨン・サンホ監督はそもそもの前提を覆した。

 弱点がないなら、作ればいいじゃん、と。

 本作のゾンビは視覚と聴覚に頼って人を襲う。どちらかといえば、視覚が中心だ。とはいえ、ゾンビたちは感染したとたんに白内障のようなものにかかって視力が低下してしまう。他のゾンビ作品のように視覚と引き換えに嗅覚や聴力が跳ね上がったりはしない(というか、たぶん五感はすべて生前より鈍くなってる)。それでも眼に頼るしかないのが堕落した野生動物の悲しさ、つでいに彼らは思考能力がゼロなのでぼんやり眼についた人間に片っ端から突っ込む。


 といわけで、視界を塞げば無力化できる。

 その方法のバリエーションは実際に本編を観てほしいのだけれど、この特性を応用することでひとつの空間をまるまる安全地帯化できたりもする。さらには、その特性が「列車内で繰り広げられるドラマ」ともマッチするから、監督の作劇センスには舌を巻く。
 

 

韓国映画とゾンビ

 さっき、オールドスクールなゾンビ作法、と書いたけれど、オールドスクールなゾンビ作法といえばゾンビに込められた社会風刺だ。ロメロが『ゾンビ』でショッピングモールに集まるゾンビを描いたのは消費社会批判だった、なんてのは今では『ウォーキング・デッド』をカウチでポテトチップス食べながら見ている太ったガキが空で言えるほど手垢のついた決まり文句で、むしろゾンビと社会風刺をそんなに不可分にしてしまったらゾンビ映画の純粋なエンタメ性を削いでしまわないか? と思ったりしないでもないけれど、こと『新感染』に関してはそうした懸念はあたらない。というより、社会風刺とゾンビがうまいこと相乗効果を生み出して、作品を何倍もおもしろくしている。

 監督が社会問題に対してセンシティブなのは諸々のインタビューでも明らかになっている。近年で階級闘争とエンタメを織り交ぜた列車の映画を撮った韓国人監督といえば、ポン・ジュノだろう。『ニューヨーク・タイムズ』の映画評での「階級闘争を補助線に引いた公共交通機関ホラー映画」という言からもわかるとおり、英語圏のメディアで本作はよくポン・ジュノの『スノーピアサー』と比較されている。
 なるほど、監督自身が抱えている現代資本主義社会に対する問題意識をブロックバスターに耐えうるエンターテイメントに乗せることができる才覚は似ている。*2そういう意味でヨン・サンホはポン・ジュノの後継者なのかもしれない。
 しかしまあ韓国映画のエンタメ大作が社会に対する独特の緊張感をはらんでいるのは何もヨン、ポンのふたりに限った話ではなくて、たとえば最近でも「トンネル、父と娘、極限状況でのサバイバル」といった道具立てが本作と共通しているキム・ソンフン監督の『トンネル 闇に鎖された男』も積極的に韓国のメディアや行政批判を取り込んでいる。しかし、『トンネル』が本編でのサバイバルと社会風刺があまり有機的に成功おらず、ぎこちない印象を与えている一方で、『新感染』の処理は流麗だ。


 たとえば、主人公パーティの一人にホームレスのおっさんがいる。このホームレスは最初薄汚い恰好でわけのわからないことをぶつぶつつぶやいている気味の悪いアンタッチャブルとして登場して、ゾンビ騒動に巻き込まれるうちになし崩し的に主人公たちと行動をともにすることになる。
 特に役立つスキルやドラマティックな過去を持っているわけでもない、そこらへんの浮浪者だ。ふつうのゾンビものなら、あんまりメインキャラとして据えたりはしないだろう。
 そこをあえて起用した理由を、ヨン監督はこう語っている。

――今作でも、その前日譚である『ソウル・ステーションパンデミック』でも、ホームレスのキャラクターがキーになっていますね。


ヨン:『ソウル・ステーションパンデミック』はソウル駅が舞台ですが、ソウル駅というのは経済発展の象徴であり、その経済発展の道からはみ出してしまった人がホームレスになって、ソウル駅にいるのです。ソウル駅に行くと、一般の人はホームレスの人が見えていても見えていないふりをします。ゾンビの身なりや歩き方はホームレスに似ているものがあります。だとしたら、ソウル駅でホームレスを無視していた一般の人達は、ソンビが現れたときに果たしてその存在に気付くのか、というところからアイデアが広がっているのです。
『新感染~』でもホームレスのキャラクターは非常に大切な存在でした。ホームレス以外の登場人物はみな普通の人々です。公権力から阻害されている一般の人達がいて、ゾンビではないけれど一般の人でもないホームレスがいる。そういった状況で、果たして一般の人はホームレスを受け入れられるのか、また、それによってホームレス側の態度がどう変わっていくかを描きたかったんです
『新感染 ファイナル・エクスプレス』ヨン・サンホ監督インタビュー 「クラシカルなゾンビ映画であり、誰でも楽しめる普遍的な物語」 – ホラー通信|ホラー映画情報&ホラー系エンタメニュース


 ゾンビとして出てきたホームレスがゾンビ騒動を通じて人間性を回復していき、やがては「人間」的な行動に出る――彼の物語がヨン監督のいう「一般人」がつぎつぎとゾンビ化していく本編の展開との逆行ヴァージョンになっているのはおもしろい。
 最初薄かった人間味を取り戻していく、という点では主人公もまた同じなのだけれど、ホームレスや主人公とは逆に「一般人」たちはゾンビ化をまぬがれても極限的な状況にさらされて、人間性を喪失していく。
 生存者同士のいがみあい。ゾンビ映画にはよくある「ゾンビより人間がこわい」というやつだ。しかしその描きかたも大雑把なようでいて実は繊細で、彼らの変質もまた恐怖というまさに人間的な感情から発したものだという視線を監督は常に忘れない。
 それに本作における一番の悪役であるバス会社の重役(キム・ウィソン)によく象徴されている。彼は自分が生き延びたい一心で、とんでもない行為を数々やってのけるのだが、そんな彼がなぜ繰り返し「釜山行き」に終着するのかが、終盤に非常に悲劇的な形で明かされる。ド外道である彼もまた人間であったのだと、観客はそこで知るのだ。
 

 
 見えてなかったものをあぶり出す。それがドラマになる。
 夏休み映画になるには一日遅れてしまったが、夏休みを延長してでも見逃せない逸品だ。



ご冥福をお祈りします。

*1:列車内では難しい「縦のアクション」も、ちゃんとある舞台で用意されている。心憎い。

*2:未見だけれど、監督の過去作であるアニメーション作品『豚の王』『我は神なり』も韓国における階級を意識した点があると監督自身がインタビューで語っている