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新潮クレスト・ブックス全レビュー〈6〉:『マリアが語り遺したこと』コルム・トビーン

『マリアが語り遺したこと』(コルム・トビーン、とち木伸明・訳、著2012→訳2014)


マリアが語り遺したこと (新潮クレスト・ブックス)

マリアが語り遺したこと (新潮クレスト・ブックス)

 わたしが真実を語るのは、真実が夜を昼に変えるよう期待するからではない。真実の力によって、昼がその美しさを永遠に保ち、老い先短いわたしたちにくれる慰めを永遠に保つようしむけるのが目的ではない。わたしが語るのは、わたしにそれができるから。理由はそれだけだ。すでに起きたたくさんのできごとを語れる機会は、今だけかもしれないと思っているから。(p.106)


 半神半人の英雄たちで溢れていた神話の時代はいざしらず、歴史上の偉大な人物たちはみな母親から生まれてきた。自分の息子がナポレオンだったり、ヒトラーだったり、ガンジーだったりするのはどういう感覚だろう?
 ましてや、それが何億人もの人間から「神の息子」と崇められる人物だったら?

 処女懐胎で知られる聖母マリア。彼女自身、宗教的に重要な人物にもかかわらず、聖書中で言及されることは少ない。
 この「聖母」を、アイルランド出身の作家コルム・トビーンは一介の母親としての命を吹き込んだ。
 イエスの死後、その弟子であった男たちに半ば保護、半ば監視されるようにして暮らすマリア。彼女は彼女の見てきたイエスについて語りはじめる。
 聡明な、しかしふつうの少年だったイエス。故郷を出て戻ってきた彼は、多数の弟子を従えた超然的な宗教者になっていた。母親に対してよそよそしい態度をとる息子に戸惑いつつも、マリアはイエスが起こすいくつかの奇跡を間近で目撃する。
 そのうちの一つがラザロの復活だ。健康的な若者であったラザロが急死してしまい、彼の姉たちは嘆き悲しむが、イエスは「自分がラザロを生き返らせてやる」と宣言し、まさしくその言葉通りのことを実行する。
 死者を蘇生するのは奇跡のなかでも最高クラスの奇跡だ。自然が定めた死という法を破壊して、あらゆる法則を思うがままにする。まさしく、神のみわざだ。革命家イエスの前では、死すら例外なく転覆される。しかし、既存の秩序を破壊する彼の行為が、保守的な勢力のうらみを買っていることもマリアは知っていた。
 死者を生き返らせ、水をワインに変え、周囲の人々から畏敬されている姿を見ても、マリアにとってイエスは自分の息子だ。彼女は「あの男が力を振るうのを見ていたらどういうわけか、無力だった頃よりも愛し、助けてやりたい気持ちが強くな」る。

いつまでも彼を子ども扱いしたいわけでもなかった。ただわたしはひとつの力が、それ自体としてまぎれもなく立ち上がっているのを目の当たりにした。どこから来たのかわからない力をこの目で確かめたわたしは、日中も、夢を見ているときにも、なんとかしてその力を守ってやりたいと思うようになった。そうするに足る強い愛を、自分は持っていると感じたのだ。息子がどれほど変わったとしても受け止められる、不動の愛を。(p.65)

 
 やがて、イエスは捕縛され、エルサレムで処刑されることになる。マリアは命を賭して、ゴルゴダの丘へと向かう。
 イエスが十字架にかけられたときにやってしまった(というより、やらなかった)ことが彼女を苦しめる。「そうしてさえいれば、少なくとも今のように、とめどなく悩み続けることはなかったはずなのだ(p.94)」と。それはつまり、母親としての愛情を示す行為をできなかった、ということだ。そして、マリアにとって後悔に値するその愛の欠如が、皮肉にも彼女の息子の聖性を高め、人類の罪を一身に背負って孤独に死んだ愛の人イエスのイメージを作り出すことになる。
 愛情深い母親の腕の中で息絶えるイエスの図は、それはそれで宗教画の魅力的なモチーフになったかもしれないけれど、最期に「救われてしまった」感じが出てしまう。イエスはあまねく人類に愛を与えるために、(神である)父と母から見捨てられなければいけなかった。


 本書は「イエスの母親」の話ではなくて、「たまたま子どもがイエスだった母親」の話だ。いくつになっても親にとって子どもは子どものままで、愛情と保護の対象だ。それは時代・宗教・民族を超越した普遍的な関係なのかもしれない。


 作者のコルム・トビーンは前述したようにアイルランド出身。彼のバックグラウンドにはカトリック教文化が深く根ざしている。映画化もされたアイルランド移民の少女の物語、『ブルックリン』(白水社)にもそのあたりがよく反映されている。
 文体の面だけとっても卓抜している。やわらかく、詩情に富んだ筆致を操る一方で、人間の細やかな悪意や不穏さをたくみにすくい取る。