名馬であれば馬のうち

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映画『夜は短し歩けよ乙女』の感想というか体験談

夜は短し歩けよ乙女』(湯浅政明監督、日本、2017年)

『夜は短し歩けよ乙女』 90秒予告


わたしたちは森見登美彦被害者友の会である。

 だれもが森見小説を愛していた。『四畳半神話大系』や『夜は短し歩けよ乙女』にあこがれて京都へやってきた。京都には夢があるのだとおもっていた。魔法が息づいているのだと信じていた。

 そして、裏切られた。

 実際の京都には夢も魔法も存在しない。あるのは二通りの現実だけで、つまり魔法めいた現実か現実めいた現実のどちらかだ。下鴨神社の古本祭りを徘徊するのは野獣のような眼光を湛えた古本極道たちと森見登美彦を読んでやってきたサブカルクソ野郎ども、木屋町をうろつくのはポン引きと川に吐瀉物をぶちまけるスーツ姿のおっさんたち。金閣寺、御所、寺町、伏見稲荷、名前のついている名所史跡はいつでも三百六十五日、クラッシャー帽をかぶった観光客たちで埋めつくされている。どうしようもなく世間だ。*1
 そんな惨状を目の当たりにしても、意外に失望は湧かなかった。最初からうすうす勘付いていたのだ。「そんなもの」は最初からないのだと。
 やがて、わたしたちは森見登美彦を信仰しなくなった。あるいは最初から信仰などしていなかったのだろうか?
 書店には森見登美彦万城目学のフォロワーとしての京都小説が積まれるようになり、いつのまにかストロングホールドな一大エクスプロイテーション・ジャンルが築かれた。森見と違って魔術師の才能に恵まれたものは多くなかったようだったが、それでも商業的には成功を収めた。
 京都は売れた。京都は金になった。京都はそうやって、いつからか夢も魔法も内在させていないことを隠さなくなった。
 それから、七百年がすぎた。

湯浅政明が『夜は短し歩けよ乙女』をアニメ映画化する

 という真偽定かならぬ噂を聞き、わたしたちは二条のTOHOへ、三条のMOVIXへ、京都駅前のTジョイへと向かった。このうちMOVIXへ行ったものは現地で『夜は短し』の上映が行われていない事実を知り、寺町のアニメイトをひやかして帰った。
 幸運にもチケットを購入しえたものはもぎりのお姉さんの脇を抜け、重くてたいそうな扉を開き、映画館の暗闇へと身を沈める。


 Tジョイではシアター9だ。
 TOHOではスクリーン1だ。


 席を埋めている人々はみなわたしたちだ。学校帰りの高校生も、早くも講義もサボってやってきた大学生も、若いカップルも、見た目から仕草から型どおりに典型的なオタクも、父親がIT企業で働いてそうな見た目の親子連れも、よく映画館で見かける孤独そうな老人も、誰もが森見登美彦を信仰し、裏切られた末にここにやってきた。
 半券に指定された席に座ると周囲の闇からささやく声が聞こえる。
 ”おまえは森見登美彦を読んだことがあるか。『夜は短し歩けよ乙女』を知っているか。”
 知っている。『四畳半神話大系』も『太陽の塔』も『ペンギン・ハイウェイ』も、思い出の彼方、胸の奥に眠っている。だが、あれからもう七百年も経ってしまって、眠ったままだよ。たぶん、もう二度と目覚めないかもしれない……。

 苦笑いで吐いたそんな予言が上映開始三分で覆される。
 おそろしいほど甘美なテンポ。
 かぐわしいほどにキュートなアニメーション。
 すさまじい勢いで発動していく湯浅政明一流の魔術で、わたしたちの知っている京都の景色が塗り替えられていく。いや、すり替えられていく。
 目が覚めてしまう。
 信じてしまう。
 今、この瞬間、この眼に映っている京都こそがほんものの京都なのだと、信じ込まされてしまう。
 わたしたちはこの感動的な詐術に既視感を持つ。森見の、原作小説を読んだときにも味わった感覚と同質の酩酊をひきおこしていることに気づいてしまう。あの饒舌な原作が大幅にカットされて純粋に湯浅政明のアニメーションになっているにも関わらず。なぜ同じなのか?

速度。

 そう、速度だ。あの原作小説の声の速さがそのまま映画のBPMに変換されている。だからこんなにも心地が良い。すべてが愛らしく、その愛さしさが減衰されないまま、ただひたすら愛しいままに90数分間をつっきってしまう。
 この速度の前では絵面と星野源の声のマッチしなさ*2など顧みられない。現実の京都の空の曇り模様など消し飛ぶ。憂いなど、まるでこの世界のどこにも存在しないかのようだ。
 花澤香菜演じる乙女が酒を一杯飲み干すたびに、わたしたちはこれまでの七百年を思い起こす。そういえば、アニメなら『四畳半神話大系』もあった。『有頂天家族』もあった。どちらもすばらしいアニメシリーズだったじゃないか? っていうか、『四畳半』のキャラが本作にも出てるんだけど。
 だが、映画版『夜は短し歩けよ乙女』はスウィートさで言うのなら、その二作を圧倒する。理由は単純で、尺が短いからだ。何度も言うように、必要なら何度でも言うけれど、速いからだ。
 

 映画『夜は短し歩けよ乙女』は一年のできごとを一晩の夢酔に圧縮した物語である。そういうフレームで捉えると、本作が『四畳半』のようなアニメシリーズではなく一本の映画になったのは必然であるように思われる。ゆっくり長大に語るのではなく、遠大でありつつも迅速に語る。そのスタイルにこそマジックが宿る。
 夢には夢の職人がいるもので、世界一の夢職人である湯浅政明はその点において最も本作に人材だ。こういう請負仕事に*3「『マインドゲーム』以来のマスターピース」と言ってしまうのはさすがに湯浅ファンの怒りを買いそうだけれど、でも事実そうなんだからしかたがない。

 劇中、「時計」がモチーフとして繰り返し用いられる。年齢によって経つ時間の速さが異なる時計だ。若ければ分刻み、老人は年刻みで光陰が過ぎ去っていく。
 時間の体感速度が違えば体験の質もまた違う。そのせいで老人たちは人生を味気ないものと感じて日々を過ごしていくが、黒髪の乙女という強力な地場が経過する時間と体験の質を等質化してしまう。 
 そうして、観客にとっても映画の登場人物たちにとっても、ほんとうの意味で夢のような一時間半が過ぎていく。そのあいだだけは、この京都はあの日夢見たはずの京都だ。

*1:よく言われるように鴨川の向こう側とこちら側では流れる時間と世界が違う。

*2:念の為に言うが星野源の演技が下手なのではない

*3:ただ一点、学園祭のミュージカルパートは湯浅本人も「気が進まなかった」(公式パンフより)せいもあってか全体のテンポを削いでしまっているのが残念。