名馬であれば馬のうち

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『ルポ ネットリンチで人生を壊された人たち』(ジョン・ロンソン、光文社新書)

 ツイッターは、かつては何気なく、深く考えずに自分の考えをつぶやくことのできる場だった。ところが今では、常に不安を感じながら、慎重に物を言わねばならない場に変わってしまった。*1


www.ted.com

(本書に関連したロンソンのTEDトーク。ウィンドウ右下のタブから日本語字幕が選べます。)

あらすじ

 ノンフィクション作家のジョン・ロンソンはある日 twitter で自分を騙る bot アカウントに遭遇する。彼は、削除に応じようとしない bot 制作者に対してネットでいわゆる「晒し」行為を行いアカウントを取り下げさせるのだが、この件の成功に酔いしれ、「悪と闘うために、悪人を晒し者にするという手段」に興味を抱く。

 まもなく、ポピュラー・サイエンスの人気ライターであるジョナ・レーラー(日本でも『一流のプロは「感情脳」で決断する』と『プルーストの記憶、セザンヌの眼』の二冊が訳出されている)が自著のなかで引用していたボブ・ディランの引用の捏造が発覚し、大スキャンダルに。ロンソンは捏造を暴いたジャーナリスト、そして炎上当事者であるレーラー本人に取材を敢行する。

 若くして名声を得ていたレーラーだったが、この事件をきっかけにてがけた記事の不正がつぎつぎと発覚し、ほとんど一夜にしてポピュラー・サイエンス界の寵児からパブリック・エネミー・ナンバーワンへと転落してしまう。職を失い、ジャーナリストとしての未来も断たれた。このあたりの経緯が映画『ニュースの天才』(ビリー・レイ監督、二〇〇三年)の題材になったスティーブン・グラス事件*2と重ねられるのは興味深い。ただ、一から記事を捏造したグラスに較べて、レーラーの「捏造」はディランの言い回しにちょっとしたつけたしを行ってせいぜいニュアンスを変えた程度だ。なのにグラスと同等か、それ以上の恥辱がSNS社会から与えられていることにロンソンは違和感を持つ。

 なにもかも失ったレーラーは、起死回生のためにあるカンファレンスでの講演の依頼をひきうける。彼は公の場で謝罪することで反省の意を世間に示し、ジャーナリストとしてのキャリアを復活させる緒をつかもうと考えた。
 はたして、カンファレンス当日。謝罪公演の模様はインターネットでストリーミング中継され、壇上の彼の背後にはリアルタイムに twitter での反応を表示するスクリーンまで用意された。打ちひしがれた様子で頼りなく反省のことばを吐くレーラーに、最初はネットの住民たちも好意的な反応を示し、講演は成功するかと思われたが――。

 レーラーへの取材後、ロンソンはネットで炎上した一般人たちにインタビューを試み、炎上の本質やその対処法を探っていく。

著者とそのスタイル

 ジョン・ロンソン*3ウェールズ出身のノンフィクション/ドキュメンタリー作家。既訳書には『サイコパスを探せ!』などがある。映画ファンにはドキュメンタリー『キューブリックの秘密の箱』(ジョン・ロンソン監督、二〇〇八年)、ジョージ・クルーニー主演の『ヤギと男と男と壁と』(グラント・ヘスロヴ監督、二〇〇九年)の原作、およびドーナル・グリーソン&マイケル・ファスベンダー主演の『FRANK』(レニー・アブラハムソン監督、二〇一四年)の原作脚本でなじみがあるかもしれない。ちなみに次の脚本作はなんとポン・ジュノ監督の韓国-アメリカ映画『Okja』。
 英語版 wikipedia によるといわゆるゴンゾ・ジャーナリストを自称しているようで、著書の視点も俯瞰して物事を観察する、というより、現場や当事者に直接突撃してその目線からみずからの思考をぶつけていく、というのが中心のスタイルをとる。 

 そういうわけで、本書の大部分は著者が行ったインタビューのやりとりで占められ、その様子が克明に記録されている。この対話というか、著者のキャラクターがおもしろい。
 彼の書きっぷりはアイロニカルかつ明け透けだ。地の文では場面ごとに自分の感じたこと、思ったことが事細かに書かれており、時にふてぶてしい。イングランド人の皮肉な笑いがウェールズ人の血にも宿っているのだろうか。たとえば、こんなやりとり。
 

 彼(注・レーラー)は何度もこう言った。 「僕のことは本に書かないでください。僕は、あなたの書く本にはふさわしくない」  私の方も何度も同じことを言った。
「いえ、ふさわしいと思うので書かせてください」  
 彼が何を言っているのか、よく理解できなかった。私はまさに彼のような人について書こうとしていたからだ。レーラーは虚偽の文章を書くという罪を犯し、公の場で恥をかかされるという罰を受けた。まさに私の本のテーマにふさわしい人だと思っていた。*4


 取材でも思ったことをすぐに口するタイプなため、たびたび取材対象に対して苦言を呈したりするが、それでもインタビュイーから敬遠されないのは人徳だろうか。
 一方で人への取材だけに頼らず、炎上・ネットリンチ現象の根源を調べるために多くの国で近代まで存在した羞恥刑の歴史をひもといたりもすることも忘れない。題材が題材だけあって、巻末の参考文献リストは細心の注意が払われ、充実している。

さまよえるウェールズ

 『サイコパスを探せ!』でサイコパスへの理解が深まるにつれて「自分もサイコパスではないか?」という不安に陥っていったロンソンだが、本書でも炎上当事者と似たような言動をしていた自分の迂闊さを思い出して冷や汗をかき、逆に「晒し」行為に加担していた過去を悔やむ場面が出てくる。
 彼は悲惨な炎上事例に触れるたびに、正義感から煽動していた twitter での晒し上げに思いを馳せるものの、個別の被害者については「数が多すぎて名前を思い出せない」と言及を避ける。だが、中盤になってついに「どうしても忘れられない相手がいる」と具体的な名前を白状する。ほんとうは憶えていたのだ。
 その人の名はA・A・ギル。コラムニストの彼は、ある日「見知らぬ何者かを撃つのというのはどういうことか、体験してみたくてサルを撃ってみた」と雑誌のコラムに書いた。この記事をロンソンが twitter で告発すると、たちまち「霊長類殺し」ギルに対する非難の声が拡散し、新聞なども便乗してちょっとした騒ぎになった。人道の勝利である。
 ところが、ロンソンには自分の動機が真に正義感から発したものではなかったことを知っていた。「A・A・ギルの動向に私が注目していたのは、彼がいつも私の手がけたテレビ・ドキュメンタリーをけなしていたからだ。何か言い返したくて、そのきっかけを待っていたようなところもある。」*5

 ジョン・ロンソンというおもしろおじさんを主眼に読むならスリリングな一瞬だが、もちろんこれは特殊な事例だ。彼が晒してきた他の人たちは、おそらく、ロンソン自身とは直接なんのかかわりもなかった人ばかりだっただろう。

 私(注・ロンソン)はこれまで何人もの人を公開羞恥刑にした。うっかり本音を言ってしまった人、普段かぶっている仮面をほんの一瞬、うっかり脱いでしまった人、そんな人をめざとく見つけては、多くの人達に知らせる。そういうことを何度も繰り返してきたのだ。今はその相手のことをほとんど思い出せない。確かに怒っていたはずなのに、怒りのほとんどを忘れてしまっている。*6


 そして、大抵の炎上はロンソンのような善意の人たちによって起こる。

 本書に出てくる炎上当事者たちはみな程度の差はあれ、「愚か」とレッテルに貼られてもしかたないの言動を犯したかもしれない。「自分は白人だからエイズにかからない」という自分では自虐的なジョークのつもりなことをつぶやいた人、米軍墓地の「静かに、そして敬意をもって」と表示された標識の前で中指を立てた写真を撮り Facebook にアップした人、ITカンファレンスの聴衆席で女性蔑視的な卑猥なジョークを友人と囁きあっていた人、そのジョークを飛ばしてた二人を写真に撮り twitter に「女性の敵」として晒し上げた人。
 これら全員が、何百何千という見知らぬ人たちからともすればひどい暴言(ともすれば炎上者の発したものより差別的な)を投げつけられ*7、人格を否定され、個人情報を暴かれ、職を失った。
 彼らの名前でグーグルを検索すると炎上事件関連がヒットするようになり、そのせいで次の職にもなかなかありつけない。人生を徹底的に破壊されたのだ。すくなくとも、誰一人として法を犯さなかったにもかかわらず。
 それは世間による私刑だ。罪を犯した人物を、名も無き個人たちが執拗に追跡し、実況し、追い詰め、滅ぼし、消費する、デイヴ・エガーズの小説『ザ・サークル』みたいな監視ディストピア社会。

 ロンソンは疲労困憊し、人生に倦み疲れた炎上当事者たちの姿を直接かいま見ることで感化される。
 直接に利害や怨恨があるにせよないにせよ、人間のうっかりした瑕疵や失言を責めてその人の人生を破壊する権利などあるのだろうか? 人間だれしも弱みの一つや二つを隠しているものだ。その弱みが何かの拍子で引きずり出されて、世界じゅうから非難の的にならないなんて、誰が断言できるだろう?
 彼は、終盤、「炎上しても立ち直る方法」を探す旅に出る。それはやがて「恥とは何か」の探究へと発展していく。
 
  

たったひとつの冴えた炎上回避策

 基本的に文章を書いて公共の眼に晒す行為は常に賭けをともなうわけだけれども、現在のSNSで行われるそれはほとんど『カイジ』の鉄骨渡りに近い。自分でもなんでもなく思っているような発言がどこぞの誰ぞに拡散されて炎上し、リンチを受けないのは奇跡のたまものだ。
 本書に出てくる炎上した一般人はある共通項を有していた。それは「自分の周囲でこういう行為(わるふざけ)は容認されていた」という油断だ。気心の知れた知り合いなら、多少不愉快で品の悪い冗談で気分を害しても「まあそういう人間だしな」程度で済む。ところがそれが第三者によって拡散され、世間という異なる文脈に乗せられたとたん、発言者は生まれてきたこと自体呪われるような鬼や悪魔のあつかいを受けてしまう。
 
 この文脈の越境がやっかいだ。SNSで発言するとき、私たちは多かれ少なかれ読者を意識する。その読者とは、友人であり、理解者であり、私たちに対して寛容でやさしい人たちだ。趣味や志向や倫理基準も似通っており、TLという実体を伴った空気を共有している。
 ところがSNSは閉じたコミュニケーション空間の構築を強要する一方で、リツイートだのシェアだのでかんたんに文脈の越境を生じさせてしまいもする。一見、誰の眼から見ても同じような意味にしかとれないように思われることばでも、シマが移れば空気の組成も変わり、笑いや共感とは別の感情を誘爆してしまう。たまにそういう誤配の現場を実見すると胸がざわつきますね。

 だったら、いつも常識に注意を払い、気をつければいい。そうかもしれない。世間で共有されているらしい倫理の最低限のラインさえ守れば、たまに異なる文脈を持つ他人を傷つけることはあっても、一万人が憤怒する大炎上にまで至ることはないかもしれない。
 しかし二十四時間三百六十五日常に注意深くいられないのが人間という生き物で、そのせいで今日もどこかで誰かが車に轢かれている。人間の認知もまた完璧でなく、もしかしたら、自分では交通法規を守っていたはずなのに通行人を轢いていた、なんてことも起こりうるかもしれない。
 
 結局のところリアルな個人情報と細い糸一本でもひもづけた状態で発言するかぎり、「気をつけた」ことにはならない。
 もっとも確実かつ安全な炎上自衛策とは、ロンソンの友人であるステケルマンが実践した方法だろう。

 ステケルマンはもうツイッター上にはいない。彼の最後のツイートは、二〇一二年五月十日のものだ。「ツイッターは人間がいられるような場所ではない」と書いていた。*8


ルポ ネットリンチで人生を壊された人たち (光文社新書)

ルポ ネットリンチで人生を壊された人たち (光文社新書)

ザ・サークル

ザ・サークル

*1:loc. 5477

*2:九十年代にIT関連の報道で人気を博していた若手記者スティーブン・グラスによる記事捏造スキャンダル

*3:ロンスンとも

*4:loc.608

*5:loc.2669

*6:loc. 2658

*7:余談だが男性の炎上者には見られず、女性の炎上者だけに見られる現象として、「レイプ予告で脅迫すること」が指摘されているのは興味深い。

*8:loc.5477