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名馬であれば馬のうち

読書、映画、その他。


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映画『ラ・ラ・ランド』の感想――夢を夢見て。

ラ・ラ・ランド』(La La Land, 2016年、米、ダミアン・チャゼル監督)


 引用が引用であることそれ自体に意味を持つような状況が成立するのは、どのような場合なんだろうか。それはおそらく、物語のあらゆる要素が「過去」で構成されている場合にちがいない。引用が主題ではなく、同種の要素の一部に埋もれていくような場合であるにちがいない。『ラ・ラ・ランド』とは、そういう映画だ。



「ラ・ラ・ランド」本予告



 失われていくものへの愛惜というのはどこにでもあるもので、『ラ・ラ・ランド』では、それがジャズ・映画館・ミュージカル・青春と多層的に塗り重ねられていく。
 オールドなフリースタイルジャズを志向するジャズピアニスト、セブ(ライアン・ゴズリング)には自分の好きなジャズを演奏して稼げる場所を持てずにいて、旧友であったキース(ジョン・レジェンド)に誘われてやっとジャズをできるようになるんだけれども、彼のバンドの曲は「一般受け」するようにアレンジされたものだった。


 不満顔のセブに、キースは言う。「おまえが古き良きジャズをやりたがってるのはわかるよ。でも、ジャズは現に死につつある。おまえらみたいなのが殺しつつあるんだ。おまえはジャズバーでピアノを弾いていたけど、客は老人ばかりだっただろ? 子どもや若者が聞かない文化は滅びる。おれたちの曲なら、子どもや若者が聴いてくれる」
 セブは何も言い返さない。黙って、彼のバンドに従ってツアーに参加する。
 適者生存が科学的に正しいとはかぎらない。でも、結果的に適応したものが残るのは確かで、変わらないものは滅んでいく。そういうものだ。
 ここで、セブが墨守しようとしているジャズは本当に「古き良きジャズ」なのか、「古き良きジャズ」などそもそも実在するのか、といった疑問が湧くかもしれない。が、措いておこう。ジャズの内部事情などジャズの人にしかわからない。映画は視覚と視野をフレーミングするメディアだ。その矩形の内部では「映画」以外のあらゆる文化・芸術・歴史が相対化され、陳腐化され、ステロタイプ化される。そして、発信力と訴求力ででっちあげた「真実」で他のメディアを圧倒的に凌駕しうる。



 監督のダミアン・チャゼルはそうした暴力性でもって、画面のそこかしこに失われていく文化を愛すべきものとして刻印している。ハリウッド・スタジオ、シネコン以前の映画館、オープンなアメ車、タップダンス、ファッション、古典映画(『理由なき犯行』)、フィルム、プラネタリウムイングリッド・バーグマン、そして、ひたむきに夢を追う青春時代と愛。
 ヒロインのミア(エマ・ストーン)は女優志望のカフェ店員だ。彼女も過去からやって来た。
「なぜ、女優をめざそうと思ったの?」とセブは訊く。
 ミアは「叔母も女優だったの」と言う。
「巡業劇団のね。私は通りの向こうに小さな図書館がある家で育った。ネヴァダのボウルダー・シティ――どの家もまったく同じ見た目をしていた。十歳のときには、もう何がなんでもこの街から出なきゃ、って思うようになってたわ。そんなある日、叔母が街にやってきたの。彼女は図書館から古典映画を借りてきて、私に見せてくれた。ふたりで一日中映画を観まくったの。『赤ちゃん教育』、『汚名』、『カサブランカ』……世界があんなにも広いんだって、初めて知った。」

 
 ミアとセブ、ふたりの夢は常に過去にある。
 本作の重要な引用元の一つである『雨に唄えば』がサイレント映画からトーキーへの、過去から未来への変化に夢を託したのとは対照的だ。
 現実世界では古きものに拘ったり憧れたりするのは失敗のもとだ。だから、ふたりとも壁にぶつかってしまう。女優として、ミュージシャンとして、行き詰まってしまう。夢を追えなくなってしまう。二人の残された選択肢は、夢見た理想をごまかして妥協するか、夢そのものをすっぱり諦めてしまうか、の地獄の二択だけ。どちらを選んでも、夢見た過去を諦めることになる。

 
 わかっている。
 過去に未来はない。
 過去にある夢とは懐かしむための夢想であって、新しい自分を切り開くタイプの夢とは別物だ。


 しかし、しかしだ。
 そもそも映像とは過去を現在に夢見るためのツールではなかったか。
 何かを撮影し、記録し、再現する。どれだけ技術が発展しても、その要諦は百五十年前から変わらない。劇映画は記録された過去を現在や未来として詐称するけれども、展開される光景は常に過去のいずれかの地点で撮られたものだ。
 さらに言うならば、何かを志向するという意志は過去に起こったものを摂取したから生じるのであって、本作に即して言うならミアは古い映画を見たから今の映画をやりたくなった、セブは古い音楽を聴いたから今の音楽をやりたくなった。
 使い古された後藤明生の名言を今更繰り返すのもちょっとした勇気を要するけれど、何故小説が書かれるのかといえば、作家が「小説を読んでしまったから」なのであって、それは小説、創作のみならずあらゆる営為に当てはまる。読んでしまったから。
 ダミアン・チャゼルも過去に書かれた夢を読んでしまった一人なのだろう。それも、過剰に読んでしまった人なんだろう。
 夜観る夢と物語は本人の想像、つまり自分の見たものの範疇でしか描かれえないという点で似ている。だから、チャゼルは「観たもの」を自分の夢に出しまくる。
 結果、『ラ・ラ・ランド』は不必要なまでに古典ミュージカル映画の引用に埋め尽くされることとなる。不必要なまでに、というか事実、ストーリーテリング的にまともに機能している引用は少ない。
 過去を再現するための夢めいた引用は、たいていの場合、悲惨な結果に終わる。
 夢の文脈は純度百パーセントで本人に依るもので、他人から聞かされる「おもしろかった夢の話」が常に退屈なのはそういう文脈を理解できないからだ。


 だけど、チャゼルはこの夢のジレンマを強引に解決してしまった。
 自分の夢を、登場人物と観客それぞれの脳みそにむりやりぶち込んでしまったのだ。映画の暴力性を利用して、自分の夢で画面の内から観客席までを憧れで染め上げてしまった。
 それを私たちはラストの十分に観る。
 私たちはありえたかもしれない過去を、夢として観る。夢とわかって、観ます。このバランス。その夢が短いピアノ曲一曲のなかに凝縮されています。
 思います。あ、これって映画なんだ、と。これも映画なんだ、と。限定された時間に濃縮された夢を追体験し、共有すること、そういうのって、とっても映画なんじゃないか、って思うんです。だからこそ、美しいんです。画面で展開されている原色の『巴里のアメリカ人』もどき以上に、現に映っているライアン・ゴズリングエマ・ストーンのダンス以上に、綺麗なんです。
 それはどちらの夢でもあるから。
 夜見られる夢であると同時に、未来に浮かぶ夢でもあるから。