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『ファインディング・ニモ』のドリーは本当に記憶障害なのか。

本記事の概要

 『ファインディング・ニモ』に出てくるやたら忘れっぽいナンヨウハギのドリーが記憶障害(健忘症)なのかについて検証した英語記事の翻訳。


前説

 『ファインディング・ドリー』を観て、「『ニモ』のときのドリーの忘れっぽさは単なるキャラづけだと思ってたのに、実はガチだったんだね、驚いたよ(笑)」みたいなことを自撮り写真と一緒に twitter にあげたら、多方面のベテラン・ピクサーファン(半裸のシルベスター・スタローンを想起していただきたい。関係はないが)から「いや、そもそもそんなん一作目のときからガチの障碍だってわかってたやろ」「おまえは何を観てきたんだ」「だからおまえはダメなんだ」「俺の足の裏に生えたフジツボより生きる価値がない」「クローネンバーグに頼んでハエにしてもらえ」というきびしいお言葉を賜り、死にたくなったわけですが、ほんとは死ねとも言われてないし、自撮りもあげてません。足の裏にフジツボが生えた不幸な人もいなかった。
 とにかく、そんな感じで作ってるひとらはどれだけ本気でドリーを記憶障碍として描こうとしていたのか気になったわけです。そこで、グーグル先生に「ニモ ドリー 記憶」的な雑なワード(よくおぼえてない)を打ち込みました。

 すると出てきたのはNeuroPsyFi - NeuroPsyfi brain science behind the moviesなるサイト。主に脳科学者や神経医学者の専門家の視点から作品を読み解く系の映画評サイトらしく、そのひとつに『ファインディング・ニモ』時代のドリーについての考察がありました。その内容がわりに面白かったので、ぶっちゃけスタッフの証言とかどうでもよくなりました。満足した。

 以下、その訳です。相変わらず端折ったり適当にいじったりしてますので、原文と参考文献一覧はbrain disorders movie reviews - NeuroPsyFiを参照のこと。
 あくまで『ファインディング・ニモ』のときのドリーについて語ったものですから、『ファインディング・ドリー』での出来事は考慮されていません。


「泳ぎつづけろ――健忘症とたたかうための海のレッスン」ダニエラ・ブリンクマン

「ええと、あなたと一緒にいるとよく思い出せるようになるの」。
 シンプルでありながら、実に切実な思いが込められたセリフだ。


 『ファインディング・ニモ』のメインキャラであるドリーには、パッと見の印象以上に神経心理学的に興味深い洞察が隠されている。本作は劇映画としては健忘症を精確に描写している数少ない作品のひとつとして専門家からも讃えられている(Baxendale, 2004)。のみならず、健忘症患者の記憶能力に良い影響をおよぼしうる、前向きな姿勢やソーシャル・サポート(家族として、友人として、あるいはその両方として)のヒントを示している。


 ナンヨウハギのドリーが初登場するのは、カクレクマノミのマーリンとぶつかる場面だ。マーリンはスキューバダイバーに拐われた息子のニモを助けだすため、ダイバーのボートを大慌てで追っている途中だった。
 ボートを目撃したことを思い出したドリーは、マーリンにその行き先を教えようとする。ところがちょっと泳ぐと、マーリンが何者か、なぜ彼が自分のあとをついてきているのかを完全に忘却してしまう。彼女はあきらかに前向性健忘を患っているか、あるいは新しい物事を憶えるのに問題を抱えている。こうしたハンデをはらみつつ、マーリンとドリーはチームを組み、ニモを探す旅へ出発する。


 この冒険のあいだ、ドリーの記憶障碍はさまざまな実例をもって描かれる。彼女は他者の名前を(特にニモの名前を)憶えることができない。新しい情報を得たはしから忘れていき、数分前に会話を交わした事実さえ覚えられない。そのうえ自分の泳いでいる方角もおぼつかず、ましてや自分が何をしているのか、なぜそれをしているのかなどわかりようもない。
 暗唱――たとえば、オーストラリアのある住所を憶えるシーンを思い出そう――は別のタスクへ注意をそらさないようにするのに効果を発揮する。だが、彼女の集中はすぐに散漫になり、繰りかえし憶えようとしたはずの情報も忘れてしまう。
 新しい情報をインプットするさいに見られるこうした問題の数々は、前向性健忘の特徴でもある。
 ドリーは彼女の症状を「短期記憶喪失*1」と説明している。この言葉は、前向性健忘の特徴である「新しい情報のインプットにおける困難」と結びつけられる。ドリーの健忘症の由来についてはほとんど説明されてないものの、彼女は「家族もみな忘れっぽい」と述べている。*2
 人類における前向性健忘は、ほとんどの場合、前側頭葉部の損傷と関係している。特に海馬と呼ばれる部位だ。若年層の前向性健忘は通常、頭部の怪我による頭部外傷によって引き起こされる。


 彼女の障碍とそれによる困難にもかかわらず、ドリーは常に楽観的で、ポジティブで、粘り強くありつづけ、健忘症がゴールへ向かう彼女を妨げることをゆるさない。困難や課題に直面したとき、彼女は彼女自身(とマーリン)に「泳ぎつづけろ(just keep swimming)」と言い聞かせる。本作でもっとも知られた名台詞のひとつだ。
 事実、ドリーの前向きな態度と屈託のない性分は、彼女をマーリンの相棒として欠かせない存在にしている。ドリー抜きではニモを発見できなかったかもしれない。
 ドリーの健忘症が旅の障害であったことはまぎれもない事実だ。しかし、彼女の楽観主義がそうした障害に打ち克ち、ともに数々の困難へ立ち向かうことを可能にしたのだ。


 かたやマーリンはポジティブでいつづけづらい状況にある。終盤、彼は希望を失い、ニモは死んでしまったと思いこみ家へ帰ろうとする。ドリーは、マーリンと一緒だと家にいるみたいな気持ちになれて記憶力が良くなると告白し、彼に留まってくれるよう懇願する。*3このとき、情緒的に安全で前向きになれる環境と、ふたりで築き上げた関係性が彼女の記憶能力に良い影響を与えることを観客は知る。


 コミカルな子ども向け映画という見かけとは裏腹に、『ファインディング・ニモ』はソーシャル・サポートや親密性の潜在的な有益さに触れ、ポジティブな環境が前向性健忘を抱える人の記憶の維持を刺激し促進しうると示している。このテクニックは「リアリティ・オリエンテーション」として活用されている。
 1966年に Taulbee と Folsom によって首唱されたリアリティ・オリエンテーションは、ある人物が今ある現実に順応することを目的としており、健忘症患者のクオリティ・オブ・ライフを抜本的に向上させる。*4親近感のある物や、音楽、写真、音、におい、健忘症患者の周囲に置くことで、症状を和らげる(De Guise, Leblanc, Feyz, Thomas, & Gosselin, 2005)。
 リアリティ・オリエンテーション認知症アルツハイマーの患者によく使われ、ひろく効果を証明している(Zanetti, et al., 2002)。また、このメソッドは頭部外傷によって引き起こされた外傷後健忘の患者にも有効であることが確認されている(De Guise et al., 2005)。同様に、後天的神経障害の患者にも有効である(Kaschel, Zaiser-Kaschel, Shiel, & Mayer, 1995)。
 ドリーはマーリンに深く結びついた環境を「家(Home)」として認識し、この条件下で記憶能力が良くなると信じている。リアリティ・オリエンテーションのフィクション版が、彼女の記憶喪失を軽減する現実的なアプローチになりえることを示している。


 他方、『ファインディング・ニモ』は健忘症患者に対する介護やソーシャル・サポートについても示唆に満ちている。
 彼女がマーリンに対してフラストレーションを与えているのは確かかもしれないが、ドリーは真にマーリンと一緒に彼女の家となるべき居場所を見つけ、家族的で相互扶助的で協力的な関係を彼と発展させていく。他の状況下での彼女の深刻な健忘症状とは異なり、ドリーはマーリンのことを思い出すのに問題を抱えていないようで、こうした関係こそが「よく思い出すこと」を可能にする源となっているのだと彼女は信じている。
 興味深いことに、家族機能*5や、ソーシャル・サポートを含む介護者の人格が決定的な役割を果たし、外傷性脳損傷の改善に貢献すると研究でも証明されている(Vangel, Rapport, & Hanks, 2011)。おそらく、ドリーは我々が考える以上にこうしたことについて洞察に富んでいるのだろう。


 ドリーをなす最も重要な資質は、ポジティブさだろう。おそらくこのポジティブさこそが前向性健忘に彼女を向きあわせ、癒しているのだ。多くの研究が、不屈の楽観主義や前向きな期待がよりよい健康や幸福や改善に繋がると示している(Lench, 2010; Scheier & Carver, 1987)。
 ドリーはたびたび人生に対する楽観主義を「泳ぎつづけろ」というモットーで表現する。*6ニモを探すための旅の道中のみならず、過去の彼女にもそれが助けとなったのだろう。冒険で直面する難事だけではなく、健忘症で直面する日常的な難事にも彼女の態度は有用だろうか?


 『ファインディング・ニモ』からは、前向性健忘では前向きな心がけと協力的な家族・友人関係が重要であることが読み取れる。人生の困難に対して「泳ぎつづけろ」、というメッセージは、驚くべきことではないだろうが、科学的な根拠があったのである。

*1:short-term memory loss

*2:訳注:監督のアンドリュー・スタントンは続編である『ファインディング・ドリー』を作るにあたってこのセリフに沿ってドリーの両親を健忘症的に描こうと試みたが、「忘れっぽい人物が三人そろってしゃべるシーン」が映画として成立しないことに気づいて路線変更した。http://www.slashfilm.com/interview-finding-dory-director/

*3:「こんなに長いあいだ誰かと一緒にいたのは初めてなの。なのに置いていかれたら、置いていかれたら……あなたといると物をよく思い出せるんだ。ほら、P・シャーマン 42……42…….。思い出せるのに。憶えてるのに。知ってるのに。だって、あなたを見てると……感じる(feel)の。あなたを見てると……家にいるみたいで(I’m home)。だから、おねがい……行かないで。私は忘れたくない」

*4:リアリティ・オリエンテーションは日本だと現実当見識訓練とも訳される。リアリティ・オリエンテーションについて知りたい。 | レファレンス協同データベース

*5:family functioning ファミリー・セラピストのエドウィンフリードマンによれば家族機能には情緒機能、社会化と社会付置機能、生殖機能、経済的機能、ヘルスケア機能の5つがある。http://www16.atpages.jp/apr27/kazokuenjoron.html

*6:このフレーズが『ニモ』でも最終盤のピンチを救い、続編『ドリー』でもキーワードとなる。