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ディズニーのキツネ史:『ピノキオ』から『ズートピア』まで/後編

proxia.hateblo.jp
からのつづき。

『ズートピア』他のネタバレを含みます。 

ズートピア (ディズニーアニメ小説版)

ズートピア (ディズニーアニメ小説版)

『ズートピア』(Zootopia、2016年、バイロン・ハワード&リッチー・ムーア&ジャレド・ブッシュ監督)

 『ズートピア』のキツネ、ニックは人生を諦めている。
 世間でキツネは「ずる賢い詐欺師」としか見られず、その視線に抑圧された彼は自分を見えない天井の下に押しこめ、そのステロタイプ通りにずる賢い詐欺師としてふるまう。

 そのキツネに対する負のイメージはアリストテレス以来、ヨーロッパが2500年かけて培ってきた呪いだ。ディズニーもまたその強化に一役買ってきた。

 『ズートピア』の監督、バイロン・ハワードは呪いからキツネを救い出すにあたって、『ロビン・フッド』をモデルに選んだ。幼いころから『ロビン・フッド』を観て育った彼にとりキツネとはヒーローであり、世間が抱くキツネに対する間違ったイメージに内心忸怩たるものを抱えていた……かはわからないけれども、『ズートピア』がこれまでディズニーがキツネに対して押し付けてきた負債をサンプリングしつつ償う作品に仕上がっている。


 ほんとうか?
 ほんとうに?
 では、たしかめるために一作ずつキツネ系長編と『ズートピア』の関連を紐解いていこう。


『ピノキオ』:Green is the new Black.



 バイロン・ハワード:
 子どものころに観た『バンビ』は恐ろしかったけれど、とても感動的だった。そして、『ピノキオ』も怖くてダークだったが、同時に美麗ですばらしかった。


 Zootopia Pushes Beyond Stereotypes - Busy Moms Helper



 リッチ・ムーア:
 僕はジュディをピノキオのようなキャラだと考えている。「ディズニーの古典のなかで『ズートピア』と結び付けられる作品があるとすれば?」という質問を訊かれたとしたら、僕は『ピノキオ』と答えるよ。
 ピノキオはとても魅力的なキャラクターだ。しかし、一方で物凄く間違いを犯しやすい。


Interview: Zootropolis Directors Rich Moore And Byron Howard Contemplate Social Politics, Bullying And The Human Condition - Bleeding Cool Comic Book, Movie, TV News



 環境アートディレクター、マティアス・レクナーが公開した初期コンセプトスケッチによると、初期案でニックが経営してる遊興場「ワイルド・タイムス」には『ピノキオ』の仔猫フィガロ*1を模したアトラクションが用意されていた。
 リッチ・ムーアも街並みについては「「子どもの時に観た『ピノキオ』が『ズートピア』に影響した」*2と語っており、幼少期のジュディを虐めていたキツネの名、ギデオンは、『ピノキオ』で詐欺師フォウルフェローに侍っていた唖のネコ、ギデオンを想起させる。
 ところがフォウルフェロー自身へのリファレンスは巧妙に避けられている。
 なぜか。
 それはニック自身がフォウルフェローを演じる人物だからだ。

 リッチ・ムーアは純真無垢なジュディをピノキオに譬えた。
 その彼女がド田舎から「街」に出て、「詐欺」にひっかかるのがゾウのアイス屋のシーンだ。「詐欺師のキツネ」は「物言わぬ相棒」を従えて、ジュディを意のままに操り、金銭的な利益を得る。
 そしてその後で報されるわけだ。ズートピアは「喜びの島」などではないと。

 ちなみにフォウルフェローは緑を基調としてダサい個性的な服装に身を包んでいるが、ニックも同じく緑のシャツを着ている。
 ニックはディズニーにおける古典的な「詐欺師としてのキツネ」のイメージを背負って登場するのだ。


『南部の唄』: Ain’t No Mountain High Enough



 ピーター・デブルージ(映画批評家):
 多くの点において、『ズートピア』は忘れられた人種差別的作品である『南部の唄』の修正版だ。


 ‘Zootopia’ Review: Disney’s Latest Animal Kingdom | Variety



 バイロン・ハワード:
 擬人化された動物たちの映画で素晴らしい点は、たとえばお役所や、新しい街への移住や、家族といった私たちの世界にも共通してあるような事柄を扱いつつ、それらを全く新しい視点から捉え直せることだ。それが動物たちを主役に据える意味だよ。
 現実世界において愉快であったり、悲劇的であったり、挑戦的であったりする問題や事柄を新しい枠組みのなかで扱えるんだ。


Zootopia: Byron Howard, Rich Moore on Their Animated World | Collider



 緑の服を着たキツネといえば忘れてはいけないのが『南部の唄』のブレア・フォックス。
 ブレア・フォックスのライムグリーンの簡素なシャツは、ファウルフェローのものよりもさらにニックに近い。
 それよりも更に重要なのがウサギであるジュディとの関係性だ。

 『南部の唄』でさんざんブレア・フォックスを出し抜く、賢いブレア・ラビットのシャツのピンクのシャツにジーンズという装いは、『ズートピア』後半のシーンであからさまに引用されている。
 ブレア・ラビットは策略家たるブレア・フォックスの上をゆく元祖「賢いウサギ(Sly Bunny)」だ。
 『南部の唄』では徹底的に対立していたキツネとウサギが、『ズートピア』では対立を乗り越えかけがえのないパートナーとなる。

 そして、何より、『南部の唄』は差別問題によって封印された、ディズニーで最も呪われた作品で、他方『ズートピア』はディズニー史上最もあけすけな形で差別問題を語った作品だ。
 ジュディにブレア・ラビットの服を着させることでディズニーは『南部の唄』の語り直しを行おうとした。
 語り直されるのは差別問題の部分だけではない。『南部の唄』でリーマスおじさんによって語られた「動物の寓話は現実の反映」というマインドを、『ズートピア』はその作品でもって実践しようと試みる。
 かくて、ジョニー少年たる観客は、スクリーンで語られる寓話から人生の知恵を吸収するのだ。ジッパ・ディー・ドゥー・ダー。
 『ズートピア』はディズニー自身によるリベンジマッチであり、贖罪だ。

 ついでにいえば、「田舎から何がなんでも飛び出してやる」という意志を持ったウサギという点では、ブレア・ラビットもジュディも同じだった。ブレアのほうは、簡単に諦めてしまうけれど。


ロビン・フッド』: Fox News

 そもそも、『ズートピア』の企画が始まったのは、監督のバイロン・ハワードが「喋る動物の映画」を作りたがったからだ。そしての、そのとき念頭にあったのは彼の愛する『ロビン・フッド』だった。


ハワード:
 僕は『ロビンフッド』を観て育った。『ロビンフッド』はディズニー映画のなかでも一番人気の作品ってわけじゃないけれど、子どもの僕にはものすごく印象的だったんだ。だから、『ズートピア』にも『ロビンフッド』のDNAがいっぱい入っている。


Interview: Rich Moore and Byron Howard for 'Zootropolis'



 ここでもキツネは緑色をしている。
 ロビン・フッドの衣服も緑だ。
 しかし、その役割はファウルフェローやブレア・ラビットと正反対だ。
 ニックが羽織る緑色は、ファウルフェローに通じる詐欺師の緑であると同時に、ロビン・フッドに由来するヒーローの緑でもある。

 40年代から詐欺師のレッテルを張られてきたディズニーのキツネは、持ち前の狡猾さをそのままに、70年代にロビン・フッドという名のヒーローとして生まれ変わった。
 それはそのままニックが『ズートピア』劇中でたどってきた道程でもある。彼は詐欺師として始まり、民衆の危機を救う正義の味方として結着する。

 ニックは間違いなく、ロビン・フッドの直系だ。
 暴力には頼らず、窮地は知恵で脱する。
 間違った支配、間違った抑圧に抗うためにヒーローとしてはイレギュラーな「詐欺(Hustle)」という手法で悪を懲らしめるのだ。
 ロビンはブレア・フォックスのように肉食同士、クマと付き合いもするし、ウサギに代表されるような被捕食獣にもやさしい。彼は自然界の捕食、被捕食の関係とは無縁だ。

 あと、細かいところでいえば、『ロビン・フッド』のヴィランであるプリンス・ジョンはライオンで、『ズートピア』で市長を務めるライオンハート市長もライオンだ。だからなのか、ライオンハート市長は完全なる悪役ではないにしても、あまり良い人物として描かれない。
 ところでプリンス・ジョンはオスライオンにもかかわらず、なぜかたてがみがない。これは当初、プリンス・ジョンをトラとして描こうとしていたからで、キャラクター・デザインを担当したミット・カールがプリンス・ジョンの兄であるリチャード王に「獅子心王」の異名が奉られていることを考慮して、その弟であるジョンのデザインから縞模様を抜いたのだ。*3
 「獅子心王」の原語は「The Lion Hearted」。そう、ライオンハート市長の直接のモデルはリチャード王のほうだ。デザインを比較すればよくわかるだろう。

 似ているといえば、ラストの類似も興味深い。
 『ロビン・フッド』ではラストでプリンス・ジョンを始めとした悪党どもは獄に繋がれ、正統なる王であるリチャードが帰還する。そして、打倒ジョンのヒーローであるロビン・フッドは王族であるマリアン姫と結ばれ、リチャードから「やれやれ、無法者(outlaw)が親類(in-law)になるとはな」*4というジョークをもって祝福される。
 法の外に生きていた人間が秩序の恢復とともに体制へと組み入れられる。これは脱税や詐欺を繰り返してきた犯罪者野だったニックが、法を守護する警官へと転身する『ズートピア』のラストとかぶる。もっとも、ロビン・フッドが士分に取り立てられた描写はないし、ニックとてジュディと結婚したわけではないが。

 とはいえ、『ロビン・フッド』がマリアン姫とロビンが乗った馬車の後ろ姿で終わることを鑑みるに、やはり「同じ車に乗る」『ズートピア』のラストシーンにも穿った含蓄を与えたくなる。*5


『きつねと猟犬』: Foxcatcher



ジャレド・ブッシュ:
 キツネは、とても順応性が高く、寒い土地から暖かい土地、また、都市圏や自然界にも住んでいる。そのキツネを天敵とするのがウサギ。その2人が仲よくなるという意外性が面白いと思ったのです。


ズートピア:脚本・共同監督とプロデューサーに聞く「動物の縮尺率は現実に即した」 - MANTANWEB(まんたんウェブ)



 ファウルフェローにはギデオン、ブレア・フォックスにはブレア・ベア、ロビン・フッドにはリトル・ジョン、フォクシー・ロクシーにはグーシー・ルーシー、そしてトッドにはコッパー。
 主役であれ、脇役であれ、善玉であれ、悪役であれ、ディズニーのキツネに常にパートナー役が存在するのは興味深い。
 『きつねと猟犬』以前にキツネたちが相棒に選んできた動物はネコ、クマ×2。アリストテレスによるとキツネはヘビと仲がいいらしいし、『狐物語』ではほぼ全世界を敵に回しつつもアナグマのグランベールを莫逆の悪友にしている。

 しかし、イヌは(元をたどれば同族といえ)キツネの敵だ。しかも猟犬ともなれば、狩る-狩られるの関係であって、通常友情は成立しない。その垣根を越えたのが『きつねと猟犬』の物語だった。
 自然界での狩る-狩られるの関係を越えた友情は『ズートピア』でのニックとジュディにそのまま引き写されている。『きつねと猟犬』とはあべこべに、ここではニックが「狩る側」ではあるが。

 『きつねと猟犬』の悲劇的な結末は当記事の前編で話したとおりだ。
 所詮、私とあなたでは「違う」からいくら愛情を感じたとしても別々の道を歩まなければいけない。それが大人の生き方というものだ。それが『きつねと猟犬』の結論だった。

 本当に正しかったのだろうか。
 私とあなたではたしかに「違う」かもしれない。しかし、その「違い」は実は他人から押し付けられたイメージにすぎなかったなら? 仮に私たちが憎しみ合う歴史を経てきたとしても、理性さえあれば境界を乗り越えて握手できるのでは?
 そもそも、アメリカとはいかなる理念のもと建国されたのであったか?

『ズートピア』は動物を題材にした作品であるにもかかわらず、「わたしたちは動物ではない」と主張する。かつて捕食者と被捕食に分かれて喰ったり食われたりしていた時代、そこに「わたしたち」はいないと言う。「わたしたち」は『ズートピア』以前の歴史とは隔絶した存在なのだ。専制君主どもの都合で殺したり殺されたり擦る血塗られたヨーロッパの歴史とは違う、新しい歴史を創る。新しい国を造る。

 動物でなければなんなのか。人間だ。互いを慮り、いたわり合い、間違いや欠点を自覚して許し合う、理性と思いやりの社会化された生き物だ。「違う」もの、敵同士とされたもの同士が共に寄り添って生きることができる。
 イヌではない。猟犬ではない。ここはクリケットの国ではなくベースボールの国だ。*6キツネ狩りなどというヨーロッパ貴族のスポーツに乗る必要はどこにもない。
 その都市には貴族も平民もいない。
 自分の意志によって、押し付けられたステロタイプや役割から自由になれる。それがズートピアという理想郷だ。なりたい自分になれる場所。

 『ズートピア』はトッドとコッパーの愛憎を三十年越しに贖った。
 「追われるもの」だけでなく、「追うもの」も救おうとした。


チキン・リトル』: Only God Forgives



 安心しろよ、ハリウッドだぞ!
 こんないい話、絶対ダメにするわけないだろ!


 チキン・リトル』より



 『チキン・リトル』には何もない。
 よって、『ズートピア』によって償われるべき罪も存在しない。

 短編版との比較で言えば、『ズートピア』の訴える理想とはアメリカのリベラルな理想であるわけで(いくら万国向けのパッケージングをしたところでアメリカでアメリカ人が作ってんだからそりゃそうなる)、見ようによっては短編版と同じく「プロパガンダフィルム」であるといえなくもない。まあそもそもそんなこといったら思想的でない映画がどのくらいあるか、なんて話にもなってくるんだけれど。
 結局のところ、そこで提示される価値観に同意できる否かだ。
 『ズートピア』を観て泣くか、『民族の祭典』を観て泣くか、『殿、利息でござる!』を観て泣くか、『食人族』を観て泣くか、泣いた後作品に流れる思想に賛同するか、ここは自由の国なのだからまったくフリーであって、それぞれの作品で流される涙の成分は同じであるのか、といったことを検証するのは当記事の目的ではないので置いておく。


おわりに

[asin:4003750144:detail]

 歴史的にヨーロッパはキツネに対して悪逆なイメージを刻印しつづけ、ディズニーもまたその流れにタダ乗りし、悪印象を強化してきた。
 一方で人間に一番近い野生動物、そして狩りの対象となる獲物でもあった。
 結果的にディズニーのキツネたちは二つの血脈に分岐する。「詐欺師のキツネ」と「狩りの獲物としてのキツネ」に。前者は擬人化されたキツネの姿で、後者は動物のままのキツネの姿で描かれる。

 そのような流れの中で戦後カウンター・カルチャーの波に乗って突然変異的に現れたのが『ロビン・フッド』のヒーローとしてのキツネであったものの、同時代の多くの運動と同じく、その後忘れ去られる運命を辿った。

 しかし、『ロビン・フッド』公開当時四歳だったバイロン・ハワード少年はヒーローギツネを忘れなかった。彼は四十年後、ロビン・フッドを現代に蘇らせ、偏見や差別の問題と絡めることで、ロビン・フッドのみならず、過去に不当に遇されてきたディズニーの歴代のキツネたちを救済した。それぞれの意匠を借りることで。

 『ピノキオ』のファウルフェローからは街を往く詐欺師としての振る舞いを学んだ。『南部の唄』からは寓話の効用と社会的テーマを、『ロビン・フッド』からはキツネのありうべきヒーロー像そのものを、『きつねと猟犬』からは立場や種を越えた友情を、『チキン・リトル』からはええとまあ色々と。*7

 『ズートピア』でニックが辿る遍歴が、そのままディズニーのキツネたちが歩んできた道のりと一致するのは偶然だろうか?
 もちろん、偶然ではない。
 筆者がそのように本記事の筋道を作ったのであるからして、偶然であるわけがない。
 まあ、だとしても、私とあなたの間では無辜のキツネたちが成仏したのだから、いいじゃないか。*8



ディズニーの芸術 ― The Art of Walt Disney

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 意外とディズニーアニメ作品の通史ってないんだよなあ。

ピクサー 早すぎた天才たちの大逆転劇 (ハヤカワ文庫NF)

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 おもしろい。

*1:最初は『ピノキオ』でゼペットじいさんの飼猫として登場し、後にディズニーの短編でミニーの飼猫という設定になった

*2:http://ure.pia.co.jp/articles/-/54141

*3:http://disney.wikia.com/wiki/Prince_John

*4:余談だが、同じジョークは『塔の上のラプンツェル』でもリフレインされる。『ラプンツェル』の監督もバイロン・ハワードだ。

*5:ちなみに『ズートピア』のラストで最も強く意識されているのはニック・ノルティエディ・マーフィが主演したウォルター・ヒル監督の『48時間』だろう。

*6:フィニックの武器を思い出そう

*7:どうでもいいけど、ディズニーのキツネはマズルが長ければ長いほど悪がしこい説を提唱したい。 https://twitter.com/nemanoc/status/734795859112529921

*8:まだディズニーのテレビ番組(『ジャングル・ブック』のスピンオフ『talespin』など)に出演しているキツネたちが残っているといえば残っているけれども、テレビと映画では色々違うし正直めんどくさい