名馬であれば馬のうち

読書、映画、ゲーム、その他。


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万物のアルケーはクマである。――『レヴェナント:蘇りし者』の第一印象

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一度、熊を見たことがある。トラバサミの罠にかかっていた。熊は自分の脚を食いちぎり、罠から逃れた。アラスカでのことだ。その一時間後に川でうつ伏せになって死んでいたよ。まあ、いわば自分らしく死ねたわけだ

ドラマ版『ファーゴ』、第八話


 クマーン(挨拶)。
 本感想はトレイラーで明かされている程度のネタバレを含みます。

私はクマを諦めない。


映画「レヴェナント:蘇えりし者」特別映像:Themes Of The Revenant


 開始三十分ほどでクマが出てきて退場する。

 想像していたよりは長く、期待していたよりは短い、その出演シーンが終わるとクマを観に来た我々クマウォッチャーは劇場の暗がりでささやかな後ろめたさと背徳をおぼえながら腕時計をチェックして、残りの二時間をクマなしで過ごさねばならない事実に愕然する。

 クマ映画だと聴かされて来たのにクマが全体の十分の一も出演しておらず、どころか前半で退場するとは。

 あるいは『サイコ』以来の掟破りの構成であるけれども、ヒッチコック以来だからといってジョン・フォード及びマンキーウィッツ以来史上三人目のアカデミー監督賞二年連続受賞者であるイニャリトゥが、先人三名ほどのスペクタクルを、残り二時間クマ抜きで、そうクマを欠いた状態で提供してくれる可能性があるかといえば、これまでのフィルモグラフィから察して期待薄であると言わざるを得ない。

 これから二時間、クマもなしにどういう気持ちで広漠な雪原とボロボロのディカプリオを眺めていればいいのだろう……。
 山か寺にでも篭もれば何かが悟れそうな虚無の境地に至った我々の荒涼たる絶望の岩場に、しかし二十分もしないうちに新たな希望の湧水が噴き出してくる。

 もしかしたら、まだこれはクマの映画なのかもしれない。そう思い始める。
 さらに三十分後には、それが確信へと変わる。
 これは確実に全編通じて疑いようようもなくクマの映画であり、我我はいままさにクマを目撃しているのだ、と。

その透明な熊嵐に混じらず、見つけ出すんだ。

 今、熊がアツい、とむやみに放言したら不謹慎のそしりを免れない時節であるので範囲を絞って名指せば、『くまみこ』アニメ化、山猫がクマに乗れるゲーム『Paws: Shelter 2』、『ズートピア』、そして先日アメリカで公開されたばかりファヴロー版『The Jungle Book』と日本どころか全世界クマにあふれている。世界にクマの嵐が吹き荒れている。

 そのクマ嵐の発生源というか、回転する嵐の静止点に位置しているのが、昨年度アカデミー賞監督賞主演男優賞ゴールデングローブ賞最優秀クマ賞を受賞した『レヴェナント』であることは疑いようもなく、いまやクマはハリウッド映画に欠かせない最重要アクターといえる。換言すればクマこそ現在のアメリカ映画産業を支える巨人アトラスであり、「クマでなければ人間ではない」というクマ至上主義的な言辞がまかりとおっているのもむべなるかな、というか、クマでもなく人間でもなければそれはクマ及び人間以外のいかなる動物でもありうるので油断はできない。


Jonah Hill Presents As The Bear From The Revenant At The Golden Globes 2016!
 ゴールデングローブ賞の授賞式でスピーチする『レヴェナント』のクマの様子


 そういうわけであるので我々は『レヴェナント』を鑑賞するにあたって、クマにしか興味を持たない。
 野生(生命)と文明(道具)が対比される火の使い方や生肉に象徴される生命力など眼中にも入らない。神学などもはや賢しきものですらある。歴史などは一顧だにする必要もない。
 ストーリーはどうでもいい。
 実際のところ、かなりどうでもいい。

 端的に言えば、インディアンである亡き妻との間に生まれた混血の息子を殺されて、雪山に放置されたディカプリオが復活して仇であるトム・ハーディをぶっ殺しに行く、それだけの話だ。

 古典的といえばあまりに古典的なインディアンの使い方にPCに慣れた我々は居心地の悪さを一瞬おぼえるが舞台自体古典的な時代なのでこれでいいのだと安心するものの、それにしても作劇上の観点から言っても愚直なまでキッチュなインディアンの用法に別の意味で大丈夫なのかイニャリトゥと問いかけたくもなるけれど、とりあえずそれもどうでもいい。
 毎度おなじみルベツキの超絶カメラワークだとか、ディカプリオと劣らぬトム・ハーディの熱演だとか、坂本龍一の劇伴だとか、全部脇に置いてしまえ。

 この白銀の野で必要なのは、クマだけだ。
 なぜクマ以外必要ないかといえば、過酷な吹雪の荒野にあって生き残れる動物はクマだけなのであり、クマでなければ生存できない。
 ならば生き残るためにクマ化を選択するのも当然という以上に必然な論理なので、レオナルド・ディカプリオがクマになったとしても驚くにあたらない。
 実際、ディカプリオはクマになる。
 『レヴェナント』はクマになる話だ。

LOVE BULLET & KUMA-YUKI ARASHI

 実際、ディカプリオ=クマであることをイニャリトゥは執拗なまでに印象づける。
 まずディカプリオを襲ってくるクマそのものが直截的にディカプリオと対応する関係にある。
 毛皮ハンターたちの斥候を務めるディカプリオは、偵察行の最中に仔熊と遭遇し、まもなく親熊に襲撃される。
 クマ視点から言えば、つまり、親熊が仔熊を守るために銃を抱えた不審者であるディカプリオを先制攻撃したわけで、その凶暴なまでの親心は今更言うまでもなくディカプリオのそれと重なる。
 ディカプリオはその昔、インディアンの居留地に攻め寄せてきたアメリカ人の軍隊の士官を、息子を守るために殺害した過去を有している。そのときに妻を喪っており、残された一粒種を守るべくディカプリオはどんなことでもやりぬく覚悟を持っていたのだが、覚悟だけですむほど世の中というかトム・ハーディは甘くなく、無念、息子は(色々あって)ディカプリオの目の前で毛皮ハンターの一人であるトム・ハーディに刺殺されてしまう。

 その瞬間、クマなみの親心が暴発し、ディカプリオは復讐の権化となる。そして物語が進むにつれ段々獣じみてくる。
 言葉を失い四ツ足で這うのをはじめとして、臆面なく生肉を喰らい、川魚を素手でつかみ、本能だけでサバイバルのための最善手を選びとる。
 ついでに風貌というか服装も最初はまともなナリだったのが、どこからか毛皮を調達してきて重ね着するようになり、最終的には毛皮からディカプリオの人面だけがひょっこり覗くだけの物凄い感じになる。クマ感だ。
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 はてしなく、クマだ。こいつは。

あの森で待ってる

 クマに復讐という概念があるのかどうかはわからないけれども、このディカプリオの執念と生存本能はとにかく野生動物じみている。
「息をし続けろ」とはディカプリオが劇中で息子に繰り返し語る言葉だ。これがそのままディカプリオの態度に跳ね返ってくる。
 文明的な意味での自己保存、特に金に執着し、インディアンを「野蛮人」と罵るトム・ハーディとはとにかく対照的だ。彼はクマに襲われた直後のディカプリオに対してこう質問する。
「どうして、そんなになってまで生きたがる?」
 彼にはディカプリオの気持ちがわからない。
 息子の復讐のためだけに、瀕死の状態になりながらも零下二十度の雪原を踏破するクマの気持ちが理解できない。

 そして序盤でディカプリオが示した通り、人はクマには勝てない。
 ただし、クマも人を裁けない。

 ディカプリオを襲ったクマは自分の子どもを守るという大義名分があった。
 その守るべき子どもを喪ってしまったディカプリオクマは、トム・ハーディを殺す理由がない。

 だから、そこからは、神の仕事だ。ライフ・ジャッジメントだ。
 シャバダドゥ。




Yuri Kuma Arashi Full Op あの森で待ってる / ボンジュール鈴木
 そういえば『ユリ熊嵐』のOPであるところの「あの森で待ってる」の歌い出しの歌詞が完全に『レヴェナント』なんですが、イニャリトゥは当然ユリ熊を観ているって理解で良いんですかね? 劇中で出てくる「月の森」も七話あたりの各話タイトルのもじりでしょ?*1


レヴェナント 蘇えりし者 (ハヤカワ文庫NV)

レヴェナント 蘇えりし者 (ハヤカワ文庫NV)

原作本。西部劇小説は映画作品にならないと翻訳されないよね。『シェーン』とか『駅馬車』とか。

*1:そういうことばっかり言ってると正気を疑われるのでやめましょう