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名馬であれば馬のうち

読書、映画、その他。


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今週のトップ5:『戦争は女の顔をしていない』、『アーロと少年』、『リリーのすべて』、『ビッグデータ・ベースボール』、『殺人を無罪にする方法』、『サンキュー・スモーキング』 

今週のトップ5 ディズニー/ピクサー

スヴェトラーナ・アレクシエーヴィチ『戦争は女の顔をしていない』

戦争は女の顔をしていない (岩波現代文庫)

戦争は女の顔をしていない (岩波現代文庫)

 小話をしてあげるわ……泣き出さないために、話すわね。
(p.469)

 
 たしか『ペンギンの憂鬱』の解説だったの思うのだけれど、スラヴ民族というのは小話(アネクドート)の民であるらしい。WWIIに参加した女性兵のインタビュー集である本書もひとつひとつがきちんと小話的な結構をもって語られている。著者による添削や編集を介しているであろうにしても、短編小説家*1二十ページ三十ページを費やしそうな話を、半ページから数ページ程度で語り尽くしてしまうのは神業以外のなにものでもない。


 ソ連第二次世界大戦において女性兵を前線に動員した唯一の国家だった。
 その規模は百万人を越すという*2。『戦争は女の顔をしていない』ではインタビューを彼女たちの配属先が逐一記されてある。多くは衛生指導員や看護師、通信係、洗濯係といった支援任務(といっても戦闘になれば砲火をかいくぐって負傷者を運ばなければならない)だが、狙撃兵*3、戦車兵、高射砲兵、パルチザンの戦闘員、戦闘機乗り、爆撃機乗り、はては男装して軍艦に忍びこんでソ連初の海軍将校となったアン・ボニー*4みたいな人物までいる。
 彼女たちのほとんどは志願兵だった。徴兵担当官たちは女性を軍にいれることを渋りがちだったため、彼女たちは何度も徴兵事務所を訪れて自分たちの希望を訴えねばならなかった。配属先も様々なら、志願する理由も多様だった。午後にスイパラに寄る高校生みたいなノリで友達とつれだってやってくる人もいれば、家族を虐殺したドイツに対する復讐心に身を焦がした人もいる。徴兵されそうになった知り合いの代わりに名乗りをあげた人もいる。愛国心から、国民としての義務感から素朴に飛び込んでくる人もいる。スターリンとレーニンを敬愛する熱心な共産主義者もいる。スターリンに父親を奪われた人もいる。出身も幅広い。モスクワ、ウクライナカリーニングラード、シベリア、聞き取りを行った著者自身はベラルーシの人。

 悲惨な話もあれば、愉しい話もある。どちらかといえば後者が心に残る。彼女たちは「兵」でありつつも「女性」としての自分たちを譲らなかった。個人や個性が圧搾される戦場にあって、自分たちの核を忘れない人たちがいる。それは強さだ。切実さに負った強さだ。
 飛行学校で女性は全員髪を短く切りそろえるように命じられたのにもかかわらず、断固として自分のおさげを守ろうとした後の英雄パイロット、軍隊の規律や軍独特の言い回しがどうしても身につかなくて上官に対して奇妙な言葉遣いをしてしまう兵士、ながらく手に入らなかった女性用下着が終戦間際にやっと支給されたのが嬉しくてわざと胸元をはだけて着こなす衛生指導員。
 隠し持っていたイヤリングを上官に見咎められた通信班の軍曹はこう言う。

 中尉は「戦争では兵隊が必要なんだ」と言っていました。兵隊であることが必要だったんです。でも、私たちはそのうえかわいい子でもいたかった……戦争中ずっと脚を傷つけられたらどうしようもないということばかり心配していました。私は脚がずっときれいだったの。男の人ならどうってことないでしょ? 脚がなくなったって、それほど恐ろしくはありません。それでも、英雄だし、立派にお婿さんになれます。でも、女性が不具になったら、もう将来は決まってしまうんです。女性としては終わりです。
(p.286)

 1940年代のソ連を生きる彼女たちにとり、女性であるという自認を失うことは、物理的に死ぬことと同義だった。しかし同時に兵士であらねば物理的に死ぬ。その間で彼女たちは奇妙かつ巧みにバランスをとっていた。

 ドイツのある村でお城に一泊した時のこと。部屋がたくさんあって、すばらしいものばかり! 洋服ダンスの中は美しい服で一杯。一人一人がドレスを選びました。私は黄色のドレスと長い上衣。言葉では伝えられないほどきれい、長くてふわっとしていて。綿毛のよう。もう寝る時間で、みな疲れ果てていた。それぞれ気に入ったドレスを着たままたちまち寝入ったわ。私はドレスを着てその上に長い上衣も羽織って横になった。
 ある時は無人になった帽子屋で帽子を選んだこともあるわ。ちょっとでもかぶっていたかったので、座ったままで寝たり、朝起きてから……鏡をもう一度覗いたり。
 それから、みんなは帽子を脱いで、また自分の詰め襟の軍服を着てズボンをはいたんの。何もとろうとはしなかった。移動には針一本だって重たいのよ。いつものとおりスプーンをブーツの脛のところに突っ込んで出発……
(p292)

 もちろん、悲惨な話もたくさん載っている。愉しい話の十倍は載っている。そもそも戦場の笑い話なんて陰惨な悲劇と裏表だ。
 しかし本当に悲惨だったのは戦後だ。男たちと戦友になり、国家を救ったはずだった彼女たちは男たちからも他の女たちからも「戦場に行った女」「どうせ売春婦まがいのことをしていたんだろう」と差別されるようになる。*5くわえて、戦場で負った心身の傷。多くの帰還兵たちは結婚できず、また結婚しても安定的な家庭を築けるものは多くなかった。彼女たちは戦場に行ったことを恥じるようになった。
 女性兵たちは国家の記憶から忘れ去られ、彼女たち自身も恥の思いからそれに積極的に加担していった。
 著者のアレクシエーヴィチが元女性兵たちの聞き取り調査始めたのは終戦から三十年以上経ってから、本が出版されたのはペレストロイカ期になってからだ。十六〜十八歳くらいだった少女たちも老年にさしかかっていた。

「わたしたちは消えていってしまいます。あとに続くのは誰なんでしょう? わたしたちがいなくなったら何が残るんでしょうか? わたしは歴史を教えています。年老いた女教師。わたしが憶えているだけでも、歴史は三回書き換えられました。わたしは三つの異なる歴史の教科書で教えてきたのです。
 あたしたち*6が死んだあとでは何が残るんでしょう? あたしたちが生きているうちに訊いておいて。あたしたちがいなくなってから作り事をいわないで。今のうちに訊いてちょうだい。
(p.41) 

 

『アーロと少年』


The Good Dinosaur Official US Trailer 2

 ピクサー以前のディズニーのクリシェ(特に『ライオンキング』)*7を物語的及び技術的にものすごく洗練させて語り直したような感じで、プロット単位での新規性には欠けるものの、映像や細部はとにかく新鮮。特に雲と水の表現は「実写みたい」じゃなくて「実写だろ」レベル。恐竜アニメのくせに出てくる恐竜がせいぜい三種十数匹程度で、画面のほとんどはアーロと人間のガキが占めているんだけれど、それでも全然すっかすかで貧弱に見えない豊潤さ。予告で流れて『ルドルフとイッパイアッテナ』のカキワリ感溢れる背景と較べてしまってすこし哀しくなった。まあピクサーとかディズニーとかイルミネーションとかの技術と比べるほうがおかしいんでしょうけど。
 主人公のアーロの家が西部劇によく出てくるような寂しい場所にある一軒家みたいだな、と思っていたら途中からほんとに西部劇になる。テーマ的にも甘ったれたガキが一匹で外の世界に放り出され、赤ん坊を守りつつロードムービーして一人前の「男」になって帰ってくる話だからそれっぽいといえばそれっぽい。親やオトナになる物語ってのは『トイ・ストーリー』以来、ピクサー作品の一貫したテーマであるけれども、ここまでハッキリと「家族! ファミリー! 強くたくましい男!」を打ち出したのは珍しい。そこの部分とプロットのマンネリズムがピクサーのはなかで相対的に低めの評価になっている一因なのではなかろうか(去年の『インサイド・ヘッド』の記憶があまりに強烈過ぎた、ってのもあるかもしれないけれど)。

 器は使い古されていて中身も一見誰でも作れそうなシチューだけれど、具には信じがたいほど気を使っている。
 外に放り出されてから中盤に至るまでは画面をほとんどアーロと人間のガキが占める。人間のガキは言葉が喋れない。最初はアーロが一方的に喋ってるだけなんだけれど、言葉が通じないことを了解しだして、段々とジェスチャーでのコミュニケーションへ重心を移していくようになる。互いの家族の話をするくだりはその白眉。砂と木の枝だけであそこまでもっていけるのはなかなかどうかしている。終盤の雲海を利用した逆さジョーズにいたっては衝撃ですらあった。。
 ただまあシチューはシチュー、どれほど美味しく作ろうが鴨せいろにはならない。基本的にはスカーの出ない『ライオンキング』であって、人間のガキとの関係のオチは80年代の某アレ。*8
 ピクサーにとっては脚本面での冒険だった『インサイド・ヘッド』の反動で、映像実験を試みた作品なのかもしれないけれど、個人的にはずっと『インサイド・ヘッド』方面に振っていてもらいたいんですよね。

トビー・フーパー『リリーのすべて』


映画『リリーのすべて』予告編

 見世物小屋めいた娼館の個室でガラス越しにストリップを見るリリー(エディ・レドメイン)のシーンが卓抜している。
 女装を通じてみずからの女性性を覚醒させたリリーが、女性の仕草をより深く研究するためにストリップを観にいく。そこで行われるストリップというのは女性の女性的なしぐさを強調することで、男性の性欲を掻き立てるものなので、AV観てセックスの技術を学ぶような微妙なずれた感がなくもないですが、「(完全な)女になりたい」という強い欲求が女体を持って生まれついた人間よりもむしろ女性的なイメージに執着し、それを模倣したがるというのはいかにもありそうな話で、そういえばジョン・ヴァーリイの<七世界>シリーズにもそういう描写があったなと思い出すわけですよ。性転換がスナック感覚で行われる世界観で、性転換初心者は映画や小説のイメージにおける異性を模倣しがちだから男性より男性的に、女性より女性的な一種カリカチュアを演じてしまう。完全なセックスという幻想は何時の時代、どこの国にも偏在している。
 リリーもそういう「完全な女性のイメージ」をゲットするためにストリップを見物します。個室に椅子が置いてあり、その椅子の真ん前に据え付けられたガラスの向こうにストリップを演じるための別の小部屋が映っている。そこにリリーにとってのイメージがある。原理としては映画と一緒です。

 ストリッパーは最初、ルーチン的にしなやかな四肢にエロティックな指先を走らせつつ、ガラスの向こうの男性(リリー)の情欲を煽っていく。リリーのほうではその動作をワンテンポ後追いでなぞっていく。
 この時代には当然マジックミラーなんてものは存在しませんから、ストリッパーはガラスの向こうの客が尋常ではない反応を見せていることに気づいてしまう。リリーのほうも気づかれたことに気づいて、ハッとなる。

 どうなるか、とリリーも観客もハラハラしていると、ストリッパーはやおらリリーの動作を模倣しだす。模倣されたのを、模倣しかえしたわけですね。
 リリーもそれにつられて扇情的に身体をくねらせる。そうするうちに、ストリッパーの動きとリリーの動きが完全にシンクロしていく。
 リリーはここで理想的なイメージと完全に同化することに成功します。それはつまり、それまで揺らいでいたリリーのアイデンティティが「彼」から「彼女」へと不可逆的に切り替わった瞬間でもある。

 こういう繊細なイメージの経済が全編通じて豊か。

リリーのすべて (ハヤカワ文庫NV)

リリーのすべて (ハヤカワ文庫NV)

 原作となったノンフィクション。しかし、著者が下手くそな小説的技法(リリーと妻のおかれた状況に応じて階下の住人が妙にハマった罵声をあげる)を取り入れてるため読むに耐えない。

ビル・コンドン監督『Mr. ホームズ』


Mr. Holmes Movie (Official Teaser)

 探偵論映画。
 探偵に必要な才能とはなにか。推理力です。推理力を構成する要件はなにか。記憶力と論理力と想像力です。
 このうち、記憶力を失くした場合、その探偵はあいかわらず探偵でいられるのか。そういう麻耶雄嵩的な引き算の名探偵論の興味で観られる作品。
 個人的に「探偵未満の人間*9が探偵になる」探偵小説が好きなんですが、その逆をとって「名探偵が探偵じゃなくなっていく」プロセスを描く系というのはなかなかに新鮮でした。いっぽうで、名探偵から名探偵要素を剥ぎとっていくとそこに残るのは人間なんだよ、ラブなんだよ、人間の気持ちを慮らない本格探偵はクソなんだよ、という押し付けがましい現実讃歌も多々垣間見えて、まだ「そこ」なのかよと思わなくもない。

ミスター・ホームズ 名探偵最後の事件

ミスター・ホームズ 名探偵最後の事件

 原作本。未読。映画ではミステリ的に詰められているべきなのに詰められていない場所が目立っているため、気になるところではある。
 

ビッグデータ・ベースボール』

 カネ無し、スター無し、人気無しの三重苦を背負った負け犬メジャー球団ピッツバーグ・パイレーツビッグデータを活用し、既存の価値観から見放された隠れた優良選手を拾いまくって勝てるようになりましたって話。
 ご覧のように、『マネーボール』とだいたい同じストーリーラインで書かれている。しかし、著者の生真面目さと時代的にデータの解像度を上げざるを得なかったせいとで読み物としてのエンタメ性は『マネーボール』に劣るだろうか。*10
 それでも単なる惰性で続いてるだけの「伝統」が、データによる合理的な視点からハッキングされていくのは快楽的であり『マネーボール』に負けない俺TUEEEE感に満ちている。

 『マネーボール』は打撃の指標における革命だった。アスレチックスのGMであるビリー・ビーンは多少守備に難があると言われている選手でも、打撃(=出塁率OPS)の良い選手を登用した。
 これはアスレチックスが守備を重視しなかった、というよりは、できなかった、というほうが正しい。守備に関しての指標が打撃面での指標ほどの信頼性に欠けていたからだ。野球において守備で数値化されるのはせいぜいエラーと捕手の盗塁阻止率程度。*11そのうえエラーは判定する審判の主観によって判断される欠陥指標だ。ことによったら「守備範囲が広いおかげで難しい捕球を行う機会の多い野手」が「守備範囲が狭いせいで平凡な打球しかさばけない野手」よりも過小評価されるおそれすらある。
 しかし、基本セットプレーで測定しやすい打撃に比べて、守備は何をどういうふうに測ったらいいのかわかりにくい。すくなくとも『マネーボール』の出た2002年時点ではそうだった。

 その後、『マネーボール』革命で野球におけるデータの重要性――セイバーメトリクスが認知されるようになると、より多くのデータを集めようとする企業が現れた。その会社はピッチに精密な測定機器を設置した。それによってグラウンドをグリッド化し、選手の動きを逐一捉えられるようになり、守備面でより多くのデータ収集が可能となった。
 各球団に送られるデータ量も飛躍的に増大し、一年に送られるデータ要素は2000万*12から一気に数十億に膨れ上がる。送ってくるほうはデータの活用方法までは教えてくれない。どう活かすかは各球団のデータ分析部門にゆだねられる。ピッツバーグ・パイレーツはこのデータ分析に、未開拓の「守備の解析」に賭けた。
 優秀な新選手を獲得する余裕のないパイレーツは、既存の選手を用いつつ勝つという無茶ぶりを通さねばならなかったのだ。

 その結果生まれたのが極端な守備シフトだった。
 野手の守備位置は長い野球の歴史の中でもほとんど手のつけられていない分野だった。ときどき状況や打者に対しては極端な守備シフトが敷かれることはあったものの、ほとんどの場合は見慣れた等間隔のシフトを野手は守った。
 それをピッツバーグ・パイレーツは変革した。
 極端に守備陣を右へ寄せ、三遊間をがら空きにすることなど日常茶飯事となった。特定の強打者対策としてではなく、普通ならシフトを必要としない十人並みのバッターに対しても千万変化の守備シフトを敷いた。
 選手たちは困惑した。
 なるほど、データ上はこのバッターは右方向にゴロを引っ張りやすいのかもしれない。しかし、シフトを見てうまうまと左へ流して打ったらどうする? ヒットを防ぐどころか、単打だった打球がツーベースになるかもしれないんだぞ?
 特に不満をいだいたのは野手ではなく、投手たちだった。シフトのせいで失点したら、野手のエラーではなく投手の防御率に計上される。そのせいで査定が下がったらどうしてくれるんだ。
 
 パイレーツのデータ分析屋たちと首脳陣はどうしたか。説得した。並の苦労ではない。せいぜい大学三部レベルでしかプレーしたことのないコンピュータ・オタクどもがいくら「相手がシフトに合わせて流し打ちしようとしたとしたら、ゴロではなく凡フライになる可能性が高い」と理を説いても、プライドの高いメジャーリーガーは納得しない。
 データ分析屋たちは選手の輪に積極的にとびこみ、日常での対話を通じて選手たちの信頼を勝ち得た。

 守備シフト(と各種新しい評価軸)を取り入れた2013年、パイレーツは21年連続負け越しを免れたばかりでなく、ひさびさのプレーオフへ進出した。誰も予想しなかった大躍進だ。パイレーツはほとんど補強を行わず、なけなしの予算を叩いて買ったフリーエージェント選手はどれも「終わった」選手ばかり。ファンやマスコミからは「パイレーツは勝てなさすぎてやけになっている」と絶望的に批評したほどだった。ところが代わり映えしないパイレーツと「終わった」選手たちは活躍しまくった。
 その後、2014年、2015年と三年連続プレーオフ進出。最低クラスだった入場者数も急上昇した。
 それでも地区優勝、ワールドシリーズにまで至らないのは、やはり『マネーボール』っぽいというか。
 パイレーツの人々は自分たちの守備シフト革命のアドバンテージはしばらく続くだろうと考えていた。野球界は保守的な風潮が強い。そういった人々が「データなんかで野球がわかるわけがない」とセイバーメトリクスに反撥しつづけてきた。
 ところが、メジャーリーグはパイレーツの予想を裏切った。パイレーツが20年ぶりのプレーオフ進出を果たした翌年の2014年には他の球団も次々と極端な守備シフトを敷くようになったのだ。
 今では「メジャーリーグの守備シフト」は日常的な光景だ。そのせいで、メジャーリーグは投高打低に拍車がかかっているというデータも出ている。
 
 セイバーメトリクスを進化させてきたのは BaseballProspeticves.com などに代表される市井のデータオタクたちと彼らのオープンソース文化だった。データ会社も彼らのデータ利用を奨励とまではいわないまでも黙認し、その解析を通じてオタクたちはメジャー球団の中枢で仕事するようになった。
 現在、データ会社の提供するデータは素人の扱える許容量を超え、提供先以外には機密とされているデータもある。
 野球は変わらないスポーツだった。等間隔に並んだ守備シフトはその象徴だったといってもいい。その変わらなさが野球に対する人々のノスタルジーの根源ともなってきた。
 だが、その聖域ももはや壊されてしまった。野球がこの先どう変化するなんて、もう誰にもわからない。
 最適化されつづけ、進化していく野球。その果てを、ちょっと見てみたい気もする。
 

『殺人を無罪にする方法』一話、二話。

 アメリカのクライム・サスペンスドラマ。
 アメリカのロースクールに通う大学生たちが犯してしまった犯罪の顛末と、彼らを結びつけることになる刑法入門のクラスでの日常、それらの時間軸が異なる二つの物語が並行して語られる。
 なんといっても強烈なのはヴィオラ・デイヴィス演じる刑法入門の教授。「無敗」の異名をとる現役の弁護士だ。
 タイトルの『殺人を無罪にする方法』(How to get away with murder)は、教授が最初の授業で行う挨拶に由来する。「授業名は『刑法入門』……でも私はこう呼ぶ。『殺人を無罪にする方法』と」
 彼女はたとえ依頼人が真犯人だろうがためらわない。「勝つためならなんでもやる」と公言するバリバリのマキャベリストだ。第一話では、なんと係争中の事案を授業のトピックとして扱い学生たちに裁判に勝つためのアイディアを捻出させようとする。いいのか、それ。

 勝つために手段を選ばないダークヒーロー的弁護士、というと『ダメージ』のパティ・ヒューズを思い出す。『ハウス・オブ・カード』の政治家にしろ、『サンキュー・スモーキング』のロビイストにしろ、言葉を弄する職業の人らは倫理観なんて踏みにじってなんぼ、というのがエンタメ業界にはあるんでしょうか。こうした職業に対するヒューマニズムの欠如を疑う不信感は根深い。

 

IAMX - "I Come With Knives" - (Official Video)

 一話の最後のほうで流れる IAMX の「I come with Knives」。


ジェイソン・ライトマンサンキュー・スモーキング

 Amazonビデオでジェイソン・ライトマンがクリエーターをつとめた『カジュアルズ』が配信されたので、観る前にジェイソン・ライトマンについて勉強することにした。
 『サンキュー・スモーキング』はJライトマンのデビュー作。レトロで洒脱な画調に多用されるシンメトリックな構図、オフビートな笑いと、ウェス・アンダーソンに近いにおいを感じる。
 彼の好きな映画のかおぶれを見てみると、直接ウェス・アンダーソンを意識したというよりは、キューブリックジョン・ヒューズを経たもの同士の収斂進化なんだろう。ちなみにリストにはアレキサンダー・ペインの『ハイスクール白書』も挙がっていて、なんだかよくわからないが妙に腑に落ちる。

 
 本作の主人公(アーロン・エッカート)はタバコ業界のロビイスト。タバコの安全性を訴えて、需要を守るのが仕事だが、彼はハナからタバコの安全など信じてはいない。週末には銃器業界、車業界のロビイストとレストランに集まって「自分の業界が殺している人間の数」を誇り合っている。
 そんな彼が、新聞記者から「なぜ信じてもないのにこの仕事を?」と尋ねられてこう答える。
「ローンの返済のためさ。みんなそうだよ。賃貸で満足する世の中になったら、平和になるだろうさ」

 生活にするのは金が必要で、金は働かなければ手に入らない。主人公もこうも訊かれる。「他の仕事をなんでやらないの?」。主人公は言う。「僕はロビイストに向いてるんだ(good at)」。
 世の中の仕事の大半に大義などない。与えられた仕事だからそれをやっているにすぎない。他の仕事でもいいのなら、今の仕事でもいいはずだ。
 タバコによって日に数百単位で人が死んでいく。それは主人公にとって不可視の死だった。肉親でも友人もない、関係ない人の死だった。だからこそ目をそらしてローン代を稼ぎ続けられた。

 凡庸な小悪人である彼がゆらぐ瞬間が二つ、訪れる。
 一つは、長年マルボロの広告塔をつとめたのち肺がんを患い、タバコ会社を訴えた男の説得のためにその人の家を訪れたとき。男は自分の病は発覚したときに、株主総会で「良心を鑑みて、タバコの宣伝をやめるべきではないのか?」と会社に訴えたが、会社は逆に「あなたのご病気については同情するが、タバコが原因という証拠はない」として切り捨てた。また、広告塔だった事実ももみ消されそうにさえなった。
 男はタバコ業界にいた人間だ。それも広告宣伝という、主人公と同じ分野のプロフェッショナル。主人公はそこに、未来の自分の姿を見る。

 もう一つは、議会に召喚されたときにライバルであるタバコ規制派の議員からこう質問をなげかけられたときだ。
「あなたにはお子さんがいますね。その子が十八歳になったら、あなたは彼にタバコを吸わせますか?」
 主人公は言葉に詰まる。いつもなら「ええ、もちろんです」とぬけぬけと答えるはずだが、いざ当人に見られている前でその質問をつきつけられると答えられない。
 
 彼は倫理や道徳を欠いたサイコパスなどではけしてなく、だからこそおそろしい。
 

*1:戦争から長く遠くへだたって人々からすればファンタジックで痛みに満ちたエピソードの数々と叙情的な文体は、カレン・ラッセルやジュディ・バドニッツといった現代アメリカ奇想文学最前線の作家たちを思い出させる

*2:訳者あとがきより

*3:ソ連は優秀な女性スナイパーを多く輩出した

*4:18世紀の女海賊

*5:この「戦時における女性の社会的地位の向上と終戦に伴うバックラッシュ」は、おなじく第二次世界大戦中に銃後の人手不足を解消するために多くの女性が社会進出を果たしたアメリカの状況にかぶるところもある。アメリカと異なったのは、その経験がその後の社会運動への布石とならなかったことだ

*6:原文ママ。同一人物の発言なのに一人称が揺らいでいるのは原書でもゆらぎがあったからだろうか?

*7:あとピクサー以後だけど夜に光る虫飛ばせばキレイだよね、っていうのは『ラプンツェル』を想起する

*8:あれがホモ・サピエンスの台頭を表しているのだとしたら、同時に食物連鎖ヘゲモニーをめぐって人間と恐竜がいつかは敵対するであろう末路をも暗示しているということでもあって、ますますそれっぽい

*9:かならずしも探偵ワナビとはかぎらない

*10:ルイスは「キャラ」を作るにあたってのエピソードの取捨選択に長けている

*11:ちなみに日本プロ野球機構で公式に公開されている野手の個人成績データは打撃・走塁のみで、エラーすら含まれていない。

*12:これでもアメリカでプロ野球が始まって2010年くらいまでの集められたデータと同量