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名馬であれば馬のうち

読書、映画、その他。


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今週のトップ5:『第三の魔弾』、『世紀の空売り』、『死刑台のエレベーター』、本格ミステリ大賞評論賞部門、『キャロル』、『Empire』

レオ・ペルッツ『第三の魔弾』

 

第三の魔弾 (白水Uブックス)

第三の魔弾 (白水Uブックス)

 呪いめいた予言の出てくる話が好きだ。たぶんシェイクスピアによって植え付けられた嗜好だと思う。
 『第三の魔弾』では、絞首台に立たされたエルナン・コルテス麾下の凄腕狙撃手がその原因を作った主人公グルムバッハに対して呪いを吐く。

 「神の呪いを受けるがいい。それ(銃と三発の弾)はお前に苛立ちと惨苦をもたらすだろう。一発目がお前の異教の国王に命中するように、二発目が地獄の女に、そして三発目が――お前――自身に

 このときグルムバッハが本来的に標的にしていたのはアステカをだまし討にし、自分の部下を皆殺しにした残酷な征服者コルテスだ。だが、予言はグルムバッハがコルテスではなく、彼の撃つはずない三人を標的として照準した。そして、物語はそのとおりに動く。予言とはそういうものだから、それはわかりきっている。読者の興味となるのはグルムバッハの意に反する予言が成就するように、「どう」動いていくかで、ここの見せ方が作者の知性と腕にかかっている。そして、レオ・ペルッツがその両方を備えた作者だということは読めばわかる。
 部下を次々と失い、満身創痍でコルテス率いる立ち向かうグルムバッハの姿はどこかニュー・シネマ的というか、主人公であるにもかかわらず、亡霊っぽい。そして、軽やかだ。コルテスに監禁された部下を助けるために、大胆不敵にも単身で真正面からコルテスの陣幕に潜入したかと思えば、異母兄弟の公爵にハメられてあっさりと捕まってしまう。コルテスを殺し、脱走するための銃が必要なので自分で魔法陣を書いて悪魔を呼び出し、その悪魔を口八丁でカモってしまう。機知を備え腕っ節も強いが、どこか抜けている。
 そんなトリックスターの素質を持つグルムバッハが、忌まわしい予言を境に重苦しい悲劇に巻きこまれていく。爵位を失い、故郷を失い、片目も、部下も何もかもなくしてしまった男、そんな男にたったひとつ残された「自分」すらも呪われた銃弾は撃ちぬく。
 Nさんは『第三の銃声』を『マッドマックス2』*1に重ねていたけれども、個人的には同じ『マッドマックス』でも最新作の『怒りのデスロード』のある台詞を思い出した。「ワイブス」の一人がこんなことを言う。
 「銃弾は死の種よ。これを植えられたものは死んでしまう
 銃は運命論的な凶器だ。発射されたときから予定された一点に向かい、殺すためだけにまっすぐ飛ぶ。*2
 これもそういう話だ。定められた運命の話で、まっすぐ飛来する避けられない憎悪と死の物語だ。


マイケル・ルイス『世紀の空売り

 来月公開されるアダム・マッケイの新作『マネー・ショート』の原作。文庫化は去年。
 マイケル・ルイスのキャラ描写の手法を眺めていると、冨樫義博を思い出す。ある程度まで物語を進めたところで、唐突にそのキャラの過去(だいたい現在の人格形成に影響したエピソード)をナレーション付きの三人称視点で語る。この手法の便利なところは、読者のためにわかりやすく誇張・類型化されたキャラクターに対して独自の深みや人間性を出せるところだ。もちろん、類型的なキャラクターに類型的なエピソードを当てただけでは深みどころか浅薄になってしまうので、想起されるエピソードはオリジナルかつ刺激的かつ端的である必要がある。このハードルをクリアできるフィクション作家はなかなかいない。
 そこに来るとノンフィクションや伝記作家は便利なもので、本の題材にできるほど面白い人物はたいがい面白いエピソードに事欠かない。そういうものを取捨選択して、キャラクターのプロフィールに組みこめばいい。
 問題はそうやって出来上がったキャラクターが実在の人物と対応関係を持ってしまうことだ。『マネーボール』で主人公ビリー・ビーンの補佐として描かれるポール・デポスタは、人間を人間とみなさないハーバード卒の嫌味なガリガリギーク野郎として描かれたことをあまりおもしろく感じてなかったも聞く。
 つまりは作家としてのモラルの問題なんだけれど、残酷な事実として、そういうメソッドで書いてくれたほうがノンフィクションというのは面白く出来上がる。このフィクションとしてのノンフィクションの面白さと、ジャーナリストとしての誠実さのあいだでうまくバランスをとれる人間がいるとしたら、それは自らを「主人公」としてノンフィクション内に持ちこみ平等におもしろなさけなく描写する、ジョン・ロンソンのようなゴンゾ・ジャーナリストと呼ばれる人種くらいなのかもしれない。
 映画がたのしみ。

ルイ・マル死刑台のエレベーター


映画『死刑台のエレベーター』予告編
 「不安げな瞳のアップから始まる映画は名作」という誰が作ったかよくわからない法則があって、『死刑台のエレベーター』もその例に該当する。
 凡百の映画ならカフェの軒先でクロワッサンをかじってるモーリス・ロネ*3で幕を引き、ちょっと気の利いた短篇ミステリみたりみたいなオチにしていただろうけど、その先を奇妙な公正さでもって描くというのが食えない。
 色々な映画を思い出しますよ。それも最近の映画を。
 マイルス・デイヴィスが紡ぐ即興的なBGMはイニャリトゥの『バードマン』おける緊迫感に満ちたジャズドラムに、暗室で「美しい思い出」が浮き出されていく様子はヘインズの『キャロル』にそれぞれ重なるんですね。

本格ミステリ大賞評論賞部門候補発表

 昨年、浅木原忍という人が連城三紀彦の全レビュー同人誌『ミステリ読者のための連城三紀彦全作品ガイド増補改訂版』を出して、それが評論賞の候補作にノミネートされたという。過去に同人誌がノミニーにのぼったことがあったかどうかは寡聞にして(だって誰も本ミス大賞の歴史なんて興味ないでしょう?)存じあげないけれど、考えてみれば飯城勇三の『エラリー・クイーン論』だって元はエラリー・クイーン専門同人誌に掲載されていたものの集成だし、去年の受賞作『アガサ・クリスティ全攻略』だって商業出版されるまでは翻訳ミステリシンジケートのブログで連載をすべて読めた。それでも商業ルートを通さない自費出版本が候補作になるのはやはり特別なことのように思われる。
 なぜなら、そこにはストーリーがあるからだ。
 それまで評論家でもなんでもなかった無名の若き趣味人が、ある日突然連城に魅了されて全作品を読み、全レビューを書き上げ、それが本ミス大賞にノミネートされる。ストーリーとしてはありえないくらいに完璧にドリーミィで、『ロッキー』大好きなアメリカ人ならこの時点でオスカー確実だと思う。

 ノミネート作を一冊も読んでない*4人間の無責任さで言ってしまうと、個人的には連城全レビュー本にこそ受賞してほしい。そうなれば、二匹目のドジョウじゃないけれど、「おれもおれも」と続く人間がきっと出てくる。アマチュアによるミステリの評論活動が活性化する呼び水になるかもしれない。
 もちろん、最初から受賞ありきで受賞させろと言ってるわけじゃない。*5ただ、夢がないところに人は集まらない。ミステリ評論界というのは、あんまり夢のない開拓地だった。当たり前だ。そもそも大多数の人間からすれば、評論というものがそんなに華々しく魅力的なわけがない。
 ところが、今年はちょっとした夢の萌芽が生まれている。結局はミステリ読者のごくごく狭い一部の内輪で終わる夢かもしれない。あるいは三度咲く菖蒲は無理だとしても、いずれ菖蒲か杜若くらいには花開いてほしい。


 千街先生は良いこと言うなあ、の図。


トッド・ヘインズ『キャロル』


映画『キャロル』予告編 90秒ver

 白状すると開始一時間くらい寝てた。もちろん、映画が退屈だったわけじゃなくて、体調がちょっと芳しくなかったのだった。それでも、原作をあらかじめ読んできたおかげで正気に還ったとき自分がどこの地点にいるのかは即座に了解できたし、わりかし素直に楽しめた。
 原作との比較で言うと、と原作を読んでいるといつも原作との比較をやってしまうのでシネフィルの人たちに怒られそうだけど多分ここを読んでいるシネフィルの人などいないので安心して原作との比較を言うと、原作にあった要素やキャラやシーンを結構ざっくり切っていたにもかかわらず、ちゃんと映画的にそこらへんを補完していて、豊潤さにおいてハイスミスにひけをとっておらず、こういう「映画化」もあるのかとちょっと驚かされた。
 原作では主人公であるテレーズは老い(=若さを失うこと)を漠然と恐れるふわふわしたサブカルクソ野郎として描かれている。彼女は幼少期を過ごした孤児院*6のシスターへの淡い恋慕(未満の感情)から抜け出しきれず、恋人である画家志望の男性とはあいまいでプラトニックな関係をつづけ、かつてはデザイナーとして活躍しながらも現在は落ちぶれているバイト先の同僚女性に嫌悪に近い感情を抱く。
 幼少期のピュアネスを象徴するシスターと老いへの恐怖を象徴する同僚はどちらもテレーズにとってのトラウマであり、「今まで出会った男性の中では一番好きだけど、どうしても愛することができない」恋人は彼女自身の不定形の感情を映す鏡でもある。
 このなんとも言い表しがたい不安を描く序盤はサスペンス作家としてのハイスミスの技巧が遺憾なく発揮されている。テレーズが過去の栄光にすがる同僚を冷ややかに内心で批評しながら同時に自分へ直結する絶望に気づいてとても嫌な気持ちになるシーンは読んでて「いつものハイスミスじゃん!」としか思えない。

 そこへキャロルが現れて何もかもが鮮明に塗り替えられる。

キャロルに出会うまでは誰も愛したことがなかった。シスター・アリシアに対する想いさえも愛ではなかった。*7

 そうして、彼女は幼き日の淡い思いを捨て、老いた同僚に対する仏心を持つようになり、恋人を捨てる。視界がはっきりしてくる。そこからはピュアで美しいラブロマンスだ。前半と後半では同じ作者の作品とは思えないほどにトーンが違う。もっとも、意地悪さはどうしてもついてまわるんだけれども。

 ところが映画ではシスター・アリシアも老いた同僚もいなくなっている。テレーズのキャラクターを構成する重要な要素をばっさりカットしておいて、どうして原作と同様の機微を描ききれようか。ところが、ヘインズは、それができてしまった。シスターも同僚も抜きで、ぬるま湯的な若さへの逢着と醜い老いへの不安、ひいてはぽんやりしたテレーズの内奥を完全にビルドインできてしまった。

 それらはテレーズを演じるルーニー・マーラの繊細な演技と演出、そして巧みな衣装術*8によって達成されている。いかんせん寝ていたせいですべては拾いきれてないんだけれど、まあたぶん週末にはまた観に行きます。


『Empire 成功の代償』


「Empire/エンパイア 成功の代償」Trailer 2016年3月レンタル配信/2016年4月DVDリリース

 Huluで配信しているものをシーズン2から観始めた。
「余命宣告を受けたヒップホップ界のスターであり、有名レーベル『エンパイア』の社長でもある主人公のテレンス・ハワードが自らの『帝国』を三人いる子どものうちのどれに継がせるかで悩む、『リア王』ベースの家族ドラマ」という程度の前提知識でいきなり観始めても物凄く面白い。
 アメリカでは金があるやつのが強いんだなあ、ということがよくわかる。

 ちなみに第一話ではテレンス・ハワードの麻薬売人時代の元締めである大物ギャングが出てくるんだけど、それがクリス・ロックなんで全然強そうに見えない。ご愛嬌。

*1:「流れ者が現地人vs侵略者の争いにまきこまれ、侵略者を倒すという物語が回想形式でサンドイッチされる」ところが

*2:実際には飛ばない。イメージの話だ

*3:自らを取り巻く事態をようやく了解して放心しながらもクロワッサンをひとくち齧る姿が好い

*4:連城全レビュー本含む

*5:と言っとかないと勘違いする人も出てくるだろうから一応釘をさしておく

*6:だったかな?

*7:loc.1076

*8:テレーズの服装の変化で成熟具合がわかる