名馬であれば馬のうち

読書、映画、その他。


読書、映画、その他。


なぜアメリカの殺人鬼は説教が好きなのか問題――ドラマ版『ファーゴ』

 アマゾン様のプライムビデオでドラマ版『ファーゴ』を全部観ました。これがまた大変にすばらしい。なんてったって人が死ぬんですよ、きみ、人が死ぬんだ。たくさん。たえまなく。ゴミのように。ゴミのような人間たちが。

 ビリー・ボブ・ソーントン演じる殺人鬼マルヴォは、いかにも死神そのものな超然とした雰囲気をまとった男で、何が「ソレっぽい」って事あるごとに謎めいた喩え話やレトリックを使う。
 彼はその圧倒的なカリスマとさわやかな弁舌でもって、気弱な保険外交員だったレスター(マーティン・フリーマン)を極寒地獄巡りへとひきずりこむわけですが、その契機となったシーンでもなんだかよくわからないけどかっこいいレトリックでぼんくらレスターを啓発します。

マルヴォ「君の問題はだね、人生の大半をルールを気に病んで生きていたということだ。『そんなもの』は存在しないのに。俺たちはその昔、ゴリラだった。取るか取られるかがすべてだった。実際のところ、今日の君は昨日の君よりも『男』なんだよ」
レスター「どうやってわかる?」
マルヴォ「赤潮だよ、レスター、俺たちの人生は赤潮だ。他人がひねりだしたクソを毎日食わされる。上司。女房。そんなやつらにすり潰される。もし屈したままなら、君のもっとも深く大事な部分*1はいまだにサルなのだとやつらに思い知らせないままなら……君は洗い流されるだけだ」


 マルヴォにかぎらず『ファーゴ』は全体として、「より"強い”喩え話やアネクドートを披露したほうが強い」みたいな暗黙の掟があります。劇中、とあるキャラが艱難辛苦を乗り越えて”"圧倒的成長”"を遂げるんですが、その成長も「演説のうまさ」で表現される。舌のドラマなんです。言葉のドラマなんです。


アントン・シガーのジレンマ

 そういえばアメリカの小説や映画を見渡してみても、登場人物みんな説教じみた喩え話や一口話ばかりしている印象がある。一見本筋に関係ない話をしているようで、実はそれが作品の核心部分をついていたり、あるいはもっと直截的に、ある人物の行動や状況を聖書かなにかのエピソードに重ねてみたり*2


 なぜそんなんばかりなのでしょうか。
 世界で最初にドラマにおけるメタファーを重視したのはアリストテレスというよくわからんおっさんであり、詩人の技術であった直喩表現を弁論術の一種として評価したのもこのおっさんです。なあんだ、じゃあみんな古代ギリシャ人の影響なんやね、で済むかといえばそう簡単な話でもなく、じゃあ、ドラマ版『ファーゴ』やコーエン兄弟コーマック・マッカーシーに出てくるような直接的でも論理的でもない、わけのわからん喩え話の効用ってなんなんだ、みたいなことになってくる。
 物事の機能を測るためには、実例から帰納して抽象化するのがいちばん手っ取り早く、さいわい我々は喩え話を最も実際的に活用した装置を既に知っています。宗教です。


 すげえ雑に言うと、神、特に一神教の神というのはおおよそ人間の認識能力では完全に把握することは不可能であり、よって言語では直截的に説明できないもん、みたいなざっくりした了解があって、しかし伝道や説教をするにあたって言語が必要になってくる。そういうジレンマをかかえています。
 そんなもん、単に設計上のミスだし最初からやりなおしたほうがいいんじゃないの、とおもわれるでしょう。が、そんなこと言うたかて、あの日走りだした僕らはもうとまらないわけで、神を使わずに神を説明する方法に窮した挙句の最終手段が喩え話ってことになります。
 新約聖書が喩え話にあふれているのはそういう理由からです。ジーザスが弟子に色んなようわからん喩え話を行ってそれをそいつらがまあ正直わからんけどいちおう書き留とくかと思ったおかげです。ブッダなんかも一口話好きよね。

 そして譬えとは一意的言語によって論理的認識としてはとらえられない真実を伝えようとする文学型式である。たとえばわれわれが放蕩息子の譬えを読む場合、放蕩息子を迎え入れ、勤勉な息子のそれに対する不服を抑える父親の不合理な態度に対してそれぞれ疑問を持つかもしれない。しかしその疑問に対する論理的な怪盗がこの譬えのなかに潜められているのではない。そうではなくて、われわれがその疑問を疑問とし、疑問とすることによって或る態度を自分自身ではとる時に、イエスがこの譬えによって表現しようとしたことが伝わるかもわからない。言いかえれば、譬えが伝えようとすることには直接に伝達することが可能であるような客観的真理ではなく、主体的な真理であるということである。そして信仰とは常に主体的問題である。


――p. 48, 小田垣雅也, 『キリスト教の歴史』, 講談社学術文庫


 世界を主体的にどう捉えるか。実はこれがドラマ版『ファーゴ』のエッセンシャルな部分でもあります。



 殺人鬼マルヴォは傍から見ると不可解きわまりない男です。
 たまたま病院の待合室で隣り合ったみじめな男に「俺たちはサルだ。世界にルールなんてない。自分が今でもゴリラだとやつらに思い知らせてやれ」と活を入れたとかと思えば、滞在先のモーテルの従業員とオーナーをそれぞれそそのかして仲違いさせたりする。アタマの足りない兄弟を騙して喧嘩させる。
 迫力とゴリ押しで警察や郵便局といった公的機関のルールをねじまげる。
 わけのわからない謎々を出しておいて、答えを教えない。
 大手スーパーチェーンのオーナーに脅迫状の出し主を探って欲しいと依頼されたときのやりくちはもうめちゃくちゃで、脅迫犯をふんづかまえたと思ったら今度はそいつの側について、逆にオーナーをあの手この手で追い詰めまくって金をせびる。このときの脅迫手段も独特で、もとは信心深かったけれど成功した今はそうでもなくなったオーナーの性格を突き、『出エジプト記』にある「十のわざわい」を模したいたずらで彼の原罪意識を責めたてるのです。その結果、オーナーはだんだんと宗教的なパラノイアに陥っていきます。


 つまり、といいます。
 言ってみれば、マルヴォは「言葉によって他人の視座をずらし、世界の別の(たいていの場合、悪い)面を見せてやる」役割を持った説教師*3なのです。そこが彼のカリスマ性の所以なのです。メフィストフェレスなのです。
 彼にかかわった人々はことごとく世界に対する認識を一変させられ、そして世界自体もその歪んだ認識に応じて変容します。


原作『ファーゴ』とドラマ『ファーゴ』のアティテュード

 そんな彼に善き人類は勝てないのか。立ち向かうにはどうすればいいのか。
 メインキャラクターのひとりにモリー(アリソン・トルマン)という女性が出てきます。彼女は持ち前の洞察力で劇中の「事件」の真相に勘づき、正義感ととある個人的な事情から、マルヴォを追います。
 彼女のキャラクターは原作となった映画版『ファーゴ』の主人公であるマージ(フランシス・マクマーナンド)とも重なり、この世界の良い面やイノセンスを象徴しています。
 ただ、マージが世界を「こちらがわ=善なる世界」と「あちらがわ=悪人のいる、不可解な世界」にわけて、理解不能な「あちらがわ」を切り捨てていたのに対し、モリーは「あちらがわ」もまた現実の一部であることを知り、ソレに対してどう対峙すればよいのか悩みます。
 そこのあたりがよく出ているのが、蜘蛛のエピソードです。
 彼女は友人*4の女性から「自分の友達の体験談」としてこんな話を聞かされます。
 その友達の友達は首に蜘蛛の卵を産み付けられておりました。しかし、それに長いこと気付かず生活をつづけ、ある夜、就寝中に孵化した蜘蛛の赤ちゃんたちに首を食い破られたのです。
 それだけの話。
 モリーは、後日、捜査の協力者である男性警官とその娘へそれを「友達の友達の話」として語って聞かせます。その時、つぶやくのです。

「そんなことが起こるような世界に生きたいと思えるかどうか、私はわからない」


 この「蜘蛛」は、明らかに世界のネガティブな面を表す存在として語られます。
 この世界には、自分たちの知らない恐ろしい場所があり、そこでは恐ろしい人間たちが、恐ろしいことがやっている。その現実に怖れを抱いている。
 到底打ち勝てないようなこの現実にどう立ち向かえばいいのか。
 その答えがドラマシリーズのラストシーンでさりげなく、やはり蜘蛛にからめて提示されるのです。


 起こる出来事は一話から十話を通して悲惨につぐ悲惨で、表面上は希望なんて何もないような終わり方です。
 けれど、よくよく見れば、最後の最後で一抹の希望を謳おうとしている。厭世的なコーエン兄弟の世界観とドラマ版は、一見非常に似通っているようで、決定的に異なった趣向の作品なのです。



ドラマ。


の原作。

*1:deep down where it counts

*2:エデンの東』とか

*3:劇中、ニセの身分として牧師に扮したりもします

*4:精確には友人の妻