名馬であれば馬のうち

読書、映画、その他。


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ショートショートに対する印象――リディア・デイヴィス『サミュエル・ジョンソンが怒っている』(原2001→訳2015、岸本佐知子・訳)


 蘇格蘭*1には樹というものがまるでない。


 p. 58, 「サミュエル・ジョンソンが怒っている」


 スコットランドに対する煽りスキルでその名を歴史に残す十八世紀ハノヴァー朝の文人サミュエル・ジョンソン博士が何に対して怒ろうと彼の勝手なのですが、それにしても樹がないごときでちょっと短気すぎる。
 実際にこのセンテンスを記したのは、二十一世紀のアメリカ人リディア・デイヴィス。記した、というのは少し語弊がありますね。訳者解説によると「『サミュエル・ジョンソン伝』で知られるボズウェルの日記のなかの一文を二つに区切って、前半をタイトルに、後半を本文にしたもの」*2らしい。ボズウェルというのはサミュエル・ジョンソンのストーカーみたいなひとで、その人が「怒っていた」と書いた以上、サミュエル・ジョンソンが十八世紀のいずれかの時点で「怒っていた」のは事実とみなされるべきです。おなじく当時のスコットランドが不毛であったのも(ジョンソンだかボズウェルだかが見聞した範囲で)事実だったのでしょう。
 その二つの事実を繋げてサミュエル・ジョンソンが、スコットランドに樹がないことを怒っているかのように組み替えた。
 制作背景を知らないと、まるでわけがわからない。読者が知らないことを前提に書かれているもので、知らないままに読んでもいいのですが、すると今度はサミュエル・ジョンソンが広漠としたスコットランドを前にブチ切れてるイメージしか受け取れるものがなくなるわけで、どうやら作者はそれでいいと考えている。

「私は、自分の短い小説が、ある種の爆発のように、読み手の頭の中で大きく膨らむものであってほしいと願っているのです」

 p. 236、訳者解説より


 七月生まれで御年六十八歳を数えるリディア・デイヴィスは、本国では「<一行小説の>」*3と姓名の前に冠されるほど簡潔なスタイルで知られています。本邦で一行小説といえば、飯田茂実なんかが思い浮かぶわけですが、じゃあデイヴィスも『一行小説集』みたいにストイックにワンセンテンスへこだわり続けているかといえば、すくなくとも本書でみるかぎり、きっかり一行でおさまっているのはあんまり多くありません。見たかんじ、一ページ小説、といったほうがいいのかもしれない。
 一ページでも一行でも小説にしちゃ異常に短いわけで、デイヴィスとしてはあくまで読者を爆発させるための必要最小限を書いているのでしょう。
 星新一が小説に関するストーリーテリングの必要最小限であるように、ルナール『博物誌』が小説に関するウィットの必要最小限であるように、本書は小説に関する印象の必要最小限なのです。


 その印象を作り出すために実験小説じみた手間をかけているらしいのですが、訳者解説で解いてくれるのは先の「サミュエル・ジョンソンは怒っている」とキュリー夫人の生涯を追った「マリー・キュリー、すばらしく栄誉ある女性」くらいで、残りの五十四の短編群は無手勝流で挑まねばなりません。
 つまり、デイヴィスが投げてくる生の印象と少林寺三十六房しなければならないわけで、これがたった二百四十ページの薄い本にもかかわらず、そうとう疲れます。
 大事な資質である集中力を欠く貧困な読者にあっては、どんな短編集でも収録作をすべて面白く感じる体験はなかなかに稀有で、五十六もあればなおさらです。それでもおおかたは面白く(「マリー・キュリー、すばらしく栄誉ある女性」、「私たちの旅」、「面白い」、「陪審員」、「古い辞書」、「甲状腺日記」、「楽しい思い出」、「患者」、「植字工アルヴィン」、「身勝手」、「若く貧しく」、「お金」あたり)読め、あんまり乗れないような短編でも一文の切れ味は安定しているのでそういう快楽もあります。どうしても退屈なパートもあって、そういうときは眠ればいい。


 まぶたを鼓して読んでいるうちに、それなりに一貫したパラノイアが見えてきたりもします。
 葬儀屋に当てた手紙で葬儀屋の無神経な用語をなじる「ある葬儀社への手紙」、甲状腺機能の障害による思考能力低下とそれとは関係なく会話に出てきた言葉をやたらメモる癖が合わさってやたら語義やら語源に対してパラノイックなる女性を描いた「甲状腺日記」、韻踏み遊びに満ちた「刈られた芝生」、語り手のしゃっくりのせいで文と文との隙間が虫食いみたいに飛びまくる「口述記録(含しゃっくり)」、植字工が主人公の「植字工アルヴィン」、夫婦が互いに互いの貢献度を数値にしあってプラマイゼロの対等な関係であるか確かめようとする「財政」、年老いて投書マニアになった父親の記録「ボイラー」。
 これらと二三行で終わる超短編を並べてみるとどうやら、言葉に対する何がしかのオブセッションを抱えているようで、それもまた印象でしょうか。




探偵サミュエル・ジョンソン博士 (論創海外ミステリ)

探偵サミュエル・ジョンソン博士 (論創海外ミステリ)

サミュエル・ジョンソンが探偵役、ボズウェルがワトソン役のミステリ。よく覚えてない。

*1:スコットランド」とルビ

*2:p.239

*3:p.236