名馬であれば馬のうち

読書、映画、ゲーム、その他。


読書、映画、その他。


真剣さについて

 そしてこれも真面目な話、文学とはKUSO真面目な精神が敬虔の念をこめてKUSO真面目に言葉を使うことによっては本来成立たないものではないかという気がする。もちろんこれを真面目に主張しても無駄であろうから、冗談ということにしておく。そしてこれも冗談の続きであるが、私見によれば我国ではKUSO真面目な精神の持主が大奮闘して書いたものでないと信用されない傾向がある。この作者には才能があるとか才筆であるとか言われるのは褒められたことにはならないので、そのあとには大概「まごころ」が感じられないとか才に溺れているとかの、我国では致命的な評言が来て止めを刺される。逆に悪戦苦闘の跡がありありとわかる程度にまずく書いてあれば、その真面目な努力は多とされ、文章は稚拙だが人を打つものがあるというわけで、大いに褒めてもらえる。努力賞などというものがあるのは我国だけではないかとも思うが、外国の事情に疎いので確信はもてない。*1
 いずれにしても、日本人は真面目さ、それもKUSOの付くような真面目さには頭が上らず、反面才能とか出来上がった結果についてはなるべく語りたがらないのは、何事もこの両極端においては歴然たる優劣の差が顕れるのを好まないからであるらしくて、もっぱら途中を見て努力の多寡を論ずる。これは心掛けの問題であるから、多はよしとし、寡は叱る。本来才能に差があるということは云々してはならないのである。これを平等主義という。
 ……(中略)……
 ところで文学の方ではどうかと言えば、話はやや複雑になるが、KUSO真面目であることが人を打ち、人もそれに撃たれることを好むという事情がある限り、今度はKUSO真面目である(ように見える)ことが一種の才能となり、現にそういう唯一の才能を大車輪で発揮したあげく真面目な読者を残して死んでしまった作家もいる。その残した文章とは文章とは言えない何かであるが、そこにはKUSO真面目さが充満しているのだからそんなことはどうでもいいのである。


 p.72-3, 倉橋由美子『最後の祝宴』

「自分が何いってるか判ってるの」 「判らないわ! 自分でもおかしいと思うもの!」宜野さんは目ぢからで怒鳴り返した。
「私が今いったことはつまり突き詰めればふにゃふにゃ者は死ねということで自分だってこんな理屈はないと思うわ! ねえ真剣って何かしら。私たちが普段求められている真剣さって矛盾していると思わない。ルールで決まっていないことが多過ぎない? 真剣さ一つで買えてしまうものが多過ぎるんじゃない? 真剣になるほどに行く先に落とし穴が開いてかない? 私たちが真剣さ一つで買えてしまえる反則があるのにそれを止めてくれる人がいないよ。みな真剣になれというばかりで誰も私たちの真剣さは守ってくれないじゃないね。許される努力というのは努力のほんの一角に過ぎないと今は判るわ命も未来も楽しい気持ちもまるで簡単に捨てなきゃいけんまるで罠のような真剣さがあちこちにごろごろと転がっているよ。真剣になったら死ねとばかりに、きっと本当は真剣になってなど欲しくないのね。人の言葉や努力の辛さに騙されて真剣になってはいけないのね。私前はそれを知ってた気がするわ。でももう私は真剣よ」
「だからってこんな馬鹿をしてリレーが成立するわけないでしょ前提がおかしいよ。全員出れない全員リレーなんて出来るわけが」


  loc. 772, 矢部嵩「血まみれ運動会」(『保健室登校』)

 ぼくはやさしくいった。
「ほかの人たち以上に努力すればいいんだよ」
 真剣な話をするつもりはなくなっていた。それは、このままだと根拠の無い悲観論に言い負かされるからでも、リサの悩みにつきあう気をなくしたからでもない。ぼくはリサを愛していたし、そのリサが不安にさいなまされている姿には、それがまるで根拠の無い不安に思えても、心が痛んだ。一方でぼくは、どんなに理を尽くそうと、どれだけ愛情をそそごうと、それが相手に届きそうもない状況での話し合いに、倦んでいた。結婚さえすれば、ふたりにはすばらしい未来が待っているという可能性くらいは信じてくれるようになる、と僕は思っていた。その期待に反して、リサの不安はいっそう大きくなったようで、ぼくにはもはや、自分の言葉が真実だとわからせる手段をおもいつけなかった。
「努力なら、みんなやってる」リサは鼻であしらった。「そのあげく、みんなどうなったと思う?」
 ぼくはかっとなって声を荒げた。
「そんなことを気にして、どうなるっていうんだ。現にぼくらはうまくいってるじゃないか。問題が起きたら、解決すればいい。ともかく、解決しようと努力するんだ。ほかにどうしようがある。ぼくらは結婚した、誓いもたてた。いったいほかになにをどうしろっていうんだよ」


 loc. 375, グレッグ・イーガン山岸真・訳「真心」(『ひとりっ子』)

 その力とは何か。自由はどう達成されるのか。わからない。人は誰しもこの世で孤独だ。真鍮の塔に閉じ込められていて、他者とは合図でしか意思を通じ合えない。しかも、その合図の意味づけは人事に異なるのだから、伝えられる意思は常に曖昧で不確かになる。伝える側は、心に抱く宝物を他者にわかってもらおうと痛々しいほどの努力をするが、他者にはそれを受け取る力がない。こうして、人は孤独に歩む。並んで歩く人がいても、それは同行者ではなく、ただの行路の人だ。私はその人を知らず、その人も私を知らない。私たちは、言葉のわからない外国に来た旅行者だ。美しいこと、意義深いこと、言いたいことは山ほどあるのに、実際に言えるのは会話教本の例文に限定される。頭がアイデアで沸き返っていても、口は「これはペンです」としか言えない。
 結局、印象として最後に残ったのは、とてつもない努力、の一言に尽きる。


 loc. 2760, サマセット・モーム土屋政雄・訳『月と六ペンス』

 叔父が興味を持ったのは、そんな論文が掲載されてしまう状況がどうこういう七面倒くさい話ではなく、ごくごく素朴にそんな論文をいかに効率よく作り出すかという方法だった。ソーカルの論文が審査を通過したのは、なにはともあれ、それが論文らしく見えたからに違いない。その点、不謹慎さの度合いがまだまだ足りぬと叔父は思った。ふざけ切った内容を結局真面目に書くのなら、そいつは真面目な仕事であるにすぎない。ソーカルは勿論、とても真面目な人なのだろうけれど。
 ふざけたものであるならば、ふざけたやり方でつくられるべきではないかということだ。


 loc. 85, 円城塔「これはペンです」(『これはペンです』)

ゴーン・ガール 上 (小学館文庫)

ゴーン・ガール 上 (小学館文庫)

*1:次の段落に本来改行はない