名馬であれば馬のうち

読書、映画、ゲーム、その他。


読書、映画、その他。


読者による読者への挑戦状――小谷野敦『このミステリーがひどい』(2015)

どういう本か

 タイトルどおりミステリーぎらいの著者による、歯に衣着せぬミステリー批判が中心となった読書エッセイ本です。タイトルは反語的表現でもなんでもなく、基本的にミステリーファ*1と正反対の価値観の言説がミステリーというフィールドで繰り広げられるだけです。
 あとSFファンが読んでもキレるとおもう。


読書エッセイのなんたるかはよくわかんないけれど

 とにかく著者のキャラが濃ゆい。
 ふだんさほど自覚しないものの自分にはどうしたってジャンル読者としてのアイデンティティが多少根付いてるわけで、まあ好きか嫌いかでいえばあんまり好きくないキャラクターです。
 ところがキャラの立っている読書エッセイというのはおもしろい。評論だとかエッセイだとかをさして「おもしろい」と言い表すときにはえてして「有用である」という意味を含んでいると誤解されがちです、が、実際問題、おもしろさとは実益から縁遠い概念です。
 私たちは読書エッセイから読み方の方法論を学ぶことはできません。なぜなら他人の感性を学ぶことはできず、その人自身にはなれないからです。その人の好き嫌いには理屈がありますけれども、それを一般化してみたところで理論にはならない。理論になってしまえば、それはもう批評でしょう。多分。
 「わたし自身が、わたしの本の題材なのだ」と吐いたのは「エセー」という言葉を(ある意味で)作ったモンテーニュで、彼は同時に「からして、こんなたわいのない、むなしい主題のために、きみの暇な時間を使うなんて、理屈にあわないではないか*2と韜晦している。これはモンテーニュから400年以上経た今でも圧倒的に正しい。じゃあなんで、公共に資するつもりのない人間が好き勝手書いた他人ごとをおもしろがれるのかといえば、そこに人間がいるからです。人間という、むなしいがゆえに興味深い主題があるからです。
 そこのあたりを、無理くりな理屈をつけてつまらなさを一般化して正当化しようとする閑人らより、小谷野という人はよほどわかっている。



 で、読書エッセイを「本なるツールを通して『好き』と『嫌い』のどちらにベットするのかで段階的に著者の輪郭を素描していくジャンルで」あると仮定するとします。
 そうした文脈上にジャンプの打ち切り漫画から発生したネットミームに「百の罵声をあびせるよりも好きなもん一つ、胸張って言える方がずっとカッコいいだろ。何が嫌いかより、何が好きかで自分を語れよ!!」という銘言があり、それに対して「何が嫌いかで自分を語れよ」なるアンチテーゼもググって4万件ヒットする程度には発されたりもしている今日このごろ、
 どちらが正しいのかいえば、どちらも正しくない。現実に好き一本ないし嫌い一本で自分を語り切るのはむずかしい。おそらくそれが可能となるとのは、筆者と読書が長期的で継続的なコミュニケーションをとれる場合に限るでしょう。しかし本一冊で、となると、なかなかにポジオンリー、ネガオンリーでは通じません。
 短期的には、好きの表明は領域を拡張する手段であり、嫌いは境界を確定する手段です。コンテンツに対してネガティブなコメントすると厳しいお叱りを受ける21世紀のわたしたちのネット社会ですけれども、こと自分を描写するとなると、「嫌い」は「好き」とおんなじくらい大切な彫刻道具であったりもします。


 

キャラ読みにも作法があるわけだけど

 そーゆー観点でみると、『このミステリーがひどい』ではけっこう綿密に「自分」が描写されています。判断材料をばらまいてくれてます。乱歩も清張も初期短編は評価する一方で長編は「ダメ」だと言い、本家『このミス』のオールタイム・ベスト短編で二位に選出された大坪砂男の「天狗」は「実にくだらな*3く、クリスティをストーリーテリングがあまりうまくないと dis り*4、『ロートレック荘』や『硝子のハンマー』や『樽』を絶賛し、D・フランシスの『興奮』を読んで「峰不二子みたいなオンが小説に出てくると、たちまち嫌になってしまう*5と表明したかとおもえば、北村薫の「円紫さんと私」シリーズの主人公の「早大の国文科の学生で、文学好きな若い女*6という人物造形にメロメロ*7だったりもする。ちなみにリアル知り合いでもある北村薫だけ、さん付けです*8。なぜか女性作家の著者近影とのその美醜に言及している箇所が複数あり、「わりあいがいっさいどうでもいい」『カラマーゾフの妹』の高野史緒の近影をみて「ちょっと眼鏡萌えだった*9とつけくわえる。死刑廃止論ぎらい。相撲が好きで、野球嫌い。SF小説に対しては存在意義を疑うほど「面白くない*10とするものの、大原まり子が「作者の写真がかわいくて、しかも聖心女子大*11という理由で『銀河ネットワークで歌ったクジラ』を買って読む。パズルが嫌い。エトセトラエトセトラ。
 先生なりの理屈がつくのもあれば、よく説明してくれないのもあって(なぜ聖心女子大生を好むのかは一切わからない)、そういう部分をこちらはこれまで提示された「好き嫌い」の情報から埋めなくてはいけません。 こういう作業がなんだか楽しいんですね。
 とはいえ作品名だけで判断材料とするのは至難なもの。そこは筆者の気遣いか、さいわいにして挙げられている作品は評価の固まった有名作が多い。しかも序盤で丁寧なミステリ読書遍歴まで晒してくだすっています。個別の情報の出し方もしっかり構成されてる。なので、ジャンル的な文脈と著者個人として文脈がどこでどういうふうにコンフリクト起こしているのがけっこうわかりやすい。Why が見た目よりフェアに判別できるつくりになっているのです。



 そして何より嗜好の傾向が一貫している、ように思われる。世の中には好き嫌いが気分次第で一貫しない人というのもいて、ぼくもその一人なわけですが、評論的な技術の巧緻とは別の部分で他人へ不快感をうえつけてしまう。エッセイにしろ評論にしろ批評にしろ感想文にしろ、読者は小説的な読み方をしている、もっといえばキャラ小説的な読み方をしている。日本人(雑な主語)はなにかと「信念のある人」*12が好きです。正義だろうと悪だろうと一徹な人格を賛美します。*13
 一貫してるというのは、つまり真剣であることの証なわけで、己の価値観を賭けているわけで、なにかしら本物っぽく見える。「本物」に。
 もちろんそんな本物っぽさは幻想にすぎず、本一冊でその人となりや本質を一から十まで把握しきるなんて不可能です。しかし、そういうのとは別の次元でキャラクターのリアリティは並存していて、僕らはこっちを相手に相撲をとります。
  

読者への挑戦状なんだけれど

 かくて書物内で綿密に作り上げられた「人間」が最終段落において「いやあなたが読んでもこのミステリーは本当に面白いと思いますよ、というのがあったら、遠慮なく推薦してもらいたいのである*14と不敵にミステリーファンに対して挑戦状をたたきつけます。挑戦状、そう、これは挑戦状にほかなりませんよ。でなければ、エドモンド・ウィルソンによる『ナインテイラーズ』評をぶちぬきで引用しますか?
 探偵小説に対し盛大な宣戦布告を行い、それに応じたミステリーファンが推薦した『ナインテイラーズ』をメタメタに腐した伝説のあのエピソードをひっぱってきますか? あるいは自らの twitter アカウントで叙述トリックの小説を募りますか?
 そう、「こちらは嗜好、性癖、読書遍歴、作品個別の評価を一切つまびらかに晒した。『正解』はきみの手の中にある。さあ、『おもしろいミステリ』を薦めてきてみろ」とフェアに挑発してきているのです。
 これが本格の精神ではなくて、なんなのでしょう。ちなみに素質としてパズラーぎらいなこともあり、クイーンのことはどう嫌いっぽい。*15嫌いっぽいですが、そのスピリットはまさしくクイーンです。
 心あるミステリーファンなら、この挑戦にたいして堂々と応じ、twitter かどこかで「先生がおもしろがれそうなミステリー」を推薦しまくるべきでしょう。そして推薦者(探偵)の想定する著者の好みと現実の先生(犯人)の好みが一致したとき、ディスコミュニケーションを超克した真のミステリー的読書コミュニケーションが実現するのです。そうして地には平和が訪れ、千年の豊穣と平和がもたらされる。
 もっとも僕にはこころなどありませんし、そもそも著者のほうでミステリーのコードが根本的に合わないみたいな部分があるので、まあ、なんだかな。

このミステリーがひどい!

このミステリーがひどい!

*1:僕の中で想定される

*2:宮下志朗・訳、白水社版『エセー1』、loc.90

*3:p. 38

*4:犯罪者になる人間には先天的な素質がある、というのはクリスティ作品の人間観とよく似ていて、皮肉を感じる

*5:p.42

*6:p. 232

*7:死語

*8:つけられない部分もある

*9:p. 212

*10:p. 152

*11:p. 156

*12:かならずしも行動レベルで自分を曲げるか否かということと一致しない。自己犠牲という手段があるせいです

*13:というのを一昨日岡本喜八版『日本のいちばん長い日』を観て思った

*14:p. 255

*15:「古典と化していて、ミステリー好きの必須教養のようになっており、英文学者が面白くもない『ベオウルフ』や、シェイクスピア以外のエリザベス朝演劇を読むように読んでいるために、今でも刊行されているのだろう」p. 108