名馬であれば馬のうち

読書、映画、その他。


読書、映画、その他。


ロベルト・ボラーニョ、野谷文昭・訳『アメリカ大陸のナチ文学』(1996, 訳2015)

書き出し

 エデルミラ・トンプソン・デ・メンディルセ
                    一八九四年ブエノスアイレス生まれ――一九九三年ブエノスアイレス


 十五歳のときに処女詩集『パパへ』を出版、これによりブエノスアイレスの上流社会の並み居る女流詩人のなかでささやかな地位を得た。以後、二十世紀初頭のラプラタ河両岸において抒情詩と趣味の良さで他の追随を許さなかったヒメナ・サンディエゴとスサナ・レスカノ=ラフィヌールがそれぞれ率いるサロンの常連となった。最初の詩集は、当然予想されるように、親への思い、宗教的省察、庭について詠ったものである。修道女になろうという考えを抱く。乗馬を習う。


p. 13

どういう本か。

 傑作です。


もう少し詳しくどういう本か。

 主として二十世紀に活躍した作家たち、それもファシスト寄りと見なされる立場の人びとについての評伝集です。
 特異なのは、名前の出てくる作家たちのいずれもが wikipedia で検索してみてもヒットしないことで、要するに彼ら彼女らは実在の人物ではない。すべてボラーニョの作り上げた架空の作家たちなのです。
 架空の◯◯についての評論、といえばかしこくも私たちはスタニスワフ・レムの名を思い出すわけです。が、そういう寒い国の作家を思い出してみたところでチリ生まれのボラーニョと(彼自身レムを読んでいたにしろ読んでいなかったにしろ)格別深く関係しているわけでもありません。
 


 人間が生きて、死ぬ。その歴程をボラーニョは大体三〜十ページ程度で語りきってしまう。なにせ「アメリカ大陸」全土の作家たちを扱うのですから、気宇壮大というかなんというか。
 たとえば、アルゼンチンの文学界を政治・文化両面で支配してるようなしてないような一族がいます。
 若くして何冊もの衒学的大著を世に出しながら、精神を病んでしまって最期には誰からも相手されなくなった哲学者がいます。
 いわゆる縦読みを駆使してヒトラーを称える小説を書いた決闘狂のキューバ人がいます。
 通りの名前に冠せられるほど一部の識者からは讃えられるものの、生前も死後も決して一般に認められるどころか採用してくれた雑誌の編集人にも読まれすらしなかったチリの詩人。
 家庭内にスペイン内戦を持ち込んで、共和国派である夫と激烈な夫婦げんかを繰り返したメキシコのフランコ派女詩人。
 チリのど田舎に形成された謎の亡命ドイツ人コミュニティ*1が産んだ前衛詩人。
 科学知識ゼロな上になぜかナチス的モチーフが頻出するだけの平凡なSF作品を量産したグアテマラSFの巨匠。
 ブラジルの「死の部隊」*2で日常的に殺しを働く傍ら、骸骨をモチーフにした作品を書きまくり、やがてパリで首を吊った犯罪小説家。
 人格や作風の異なる複数のペンネームを駆使して他作家からの剽窃のみからなる詩を作り上げ、名声を得たハイチの才人。
 ギンズバーグと親しくなるも、彼に関係を迫られたショックでホモフォビアの差別主義者になったアンチ・ビートニクアメリカ人詩人。
 一生涯を獄中で発刊した文芸誌の編集とそれへの作品投稿に捧げたテキサス人。その獄中文芸誌が産んだ天才詩人であり、大量殺人犯の死刑囚。
 名門サッカーチーム、ボカ・ジュニオルスのフーリガンチームのリーダーをつとめたサッカー詩人。夭逝したその兄の後を継いでフーリガンチームのリーダーに就任し、数奇な運命をたどったユーモア詩人。
 ボラーニョと関わりのあった<忌まわしき>ラミレス。 
 


 そういう人たちが最初の一行で生まれて、最後の一行で必ず死ぬ。だから初めの段落とラストの段落がどれもうつくしい。その荒涼とした閉じた儚さはレムやシュウォッブよりかは、山田風太郎の『人間臨終図鑑』を読んだときの、あの奇妙なおかしさを想い起こさせます。
 作家たちはドイツもこいつも個性がばらばらです。一貫性や相同性があまりありません。多少人物間で絡みはあったりするものの、基本的には「ナチ、ファシスト」という緩いキーワードで南北アメリカ大陸二万五千六百キロを縦断させてしまいます。
 ファシストといっても国によって千差万別だし、そもそも積極的にコミットするかどうかで熱意の差もある。なかには何の説明も脈絡もなく「アーリア人原理主義組織に入りました」という人物も出てきます。ファシストとどうであったか、というよりは、作家としてどうであったのか、というところに比重がおかれていて、文学者の評伝としてただしいスタンスであるような気がします。
 で、そういうものを読まされていくうちに、お前は果たして、ホットなのか、クールなのか、と問いただしたくなってくる。文体まで八割淡々と書かれているかとおもえば、残りの二割で急にエモくなる。内容も人が理不尽に死ぬ。露骨に死ぬ。弾圧される。無視される。恵まれない人間ばかりだ。どう受け止めればいいのか。戦術としてはやはり半笑いでやりすごすしかない。
 どういう距離感だ。
 距離感や差といえば、そもそもアメリカ大陸はナチスの暴虐に対して傍観者でありつつも同時に当事者(特に戦後)であった、という考えてみれば妙なポジションでありました。
 別にボラーニョがそういう作家であるというわけはおそらくというか絶対にないわけですけれども、何事もサプリメンタルな効用を求める世の中にあって本書は、「まあ人生って当事者でいて傍観者なような、傍観者でいて当事者なような事柄ばかりでどういう間合いを測っていいのかわからないよね」的に機能するのではないでしょうか。しませんね。まあ、本なんて、おもしろければ良いのです。

アメリカ大陸のナチ文学 (ボラーニョ・コレクション)

アメリカ大陸のナチ文学 (ボラーニョ・コレクション)

*1:名前は変えてあるが、実在するコミュニティであるコロニア・ディグニダ(現ビジャ・バビエラ)がモデル

*2:軍事政権や資本家が左派を弾圧するために組織した暴力部隊