名馬であれば馬のうち

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クリスチアナ・ブランド『薔薇の輪』

 トラの子供は基本 cub である。

ブランドについて語るときわたしたちが語ること

 クリスチアナ・ブランドは英国黄金期本格の最右翼とかいいますか、本格オブ本格みたいなものを求められてはそういうもの以外を訳されると「こんなの私たちのブランドじゃない!」とファンからキレられるので*1難儀だなあ、と愚考する次第なのでありますが、今回はまあなかなかに本格で、しかしそうなってくると、逆に「そこそこ本格程度じゃ満足できないわ! ブランドはもっと良い物が書けるはず!」との声があがるので、なんでも比較論で論じるのはよくねえじゃねえかな、ここで一度立ち戻ってみて、ブランドの本質を「本格」で量ることについて一度問いなおしてほしい、もういちどおのおので「クラスチアナ・ブランドとはどういう作家であるか? 何を志向していたのか?」について考えてほしい。
 「ブランドってめちゃくちゃ頭いいけど基本上から目線だよね」だとか「自白合戦がなきゃね」だとか、まあ僕が言ったことなんですけれど、ほんとうにそれはブランドなのか、単に紋切り型に逃げてブランドと真に向き合っていないのではないか。私たちはブランドにまつわる言説を、山口雅也の定義を一度疑ってみる必要があるのではないか。わたしたちの、わたしたちによる、わたしたちのための新しいブランドを更新すべきなのではないか。
 何が言いたいかって言うと、これがいわゆる「Brand New Day」ってことです。

 

 

 初めて観たけどクソださいMVだな……。


あらすじ

 で、『薔薇の輪』ですが。
 足に障害を抱えた美しい娘「スウィートハート」との母親である自分の心温まる文通的なエッセイを新聞に連載している女優のエステラさん。
 実はこのエッセイ、秘書のバニー嬢とともに作り上げた一種のフィクションなんですね。
 というのも、スウィートハートさんは足だけでなく色々なところに困難を患っておりまして、ちょっと文通なんかできる状態じゃないのですね。ついでにいえば、とても他人の同情をひけないクラスにブサイクなんですね。
 そんなわけで、秘書のバニーさんがスウィートハートを演じて手紙を代筆しているんです。美しい金髪のたおやかな、いい子ちゃんのスウィートハートを。悪いですね。怖いですねー。
 でも良い話に弱いのは古今東西いずこもおなじ。スウィートハートは善良なイギリス市民たちのあいだで大ブームになるんですね。売れない女優だったエステラさんも一気に売れっ子になります。書籍化、小説化、映画化、関連グッズで大儲け! 笑いが止まりません。
 そんなPTAと細田守が見たら大激怒な商法で人生の絶頂にあったエステラさんでしたが、ある日彼女の幸せに水をさすクソ野郎が現れます。
 夫のアルです。この男も、悪いですねー。なんてったってギャングです。人を殺しております。おかげで長い間服役してたわけですが、ようやくのことで釈放されて、愛しい娘に会いに戻ってくるわけですね。
 まあ、いくら外道といえど、娘に会いに来るくらいのことは許されてしかるべきだと考えるのが人情。
 ところが、ここでブランドのキャラ造詣の技術が冴え渡ります。
 元をただせばスウィートハートが障害を持って生まれてきたのも妊娠中のエステラをアルがぶんなぐったせいなんですね。ところが獄中で患った心臓病により彼は余命いくばくもない身となりました。
 このままみじめに一人で俺は死ぬのか、俺にはなんにもない、なにも……そう考えていた矢先にイギリスでスウィートハートブームがおこります。なんにもない? いや、あるじゃないか。俺はこの美しく、けなげで賢い娘の父親だったんだ!
 死にかけのDV亭主は自分の人生を救済すべく、出所後すぐ田舎で療養している娘に面会させるようエステラに要求します。
 もちろん、エステラは困り果てますね。なんたってったって、「美しく、けなげで賢い娘」スウィートハートはどこにもいないわけですから! 「本物」のスウィートハートは言葉もろくに喋れない、気むずかしいせむしの娘。到底アルの人生に救済をもたらしてくれそうにありません。どころか、そんな娘をみたらいったいどんな行動に出るやら……。キレて暴れだしたり、いや、もっと悪いことに、自暴自棄になってエステラたちの嘘を新聞社にバラすかも……。
 しかし、いつまでもいい逃げできるものでもありません。
 肚をくくったエステラとバニーは、アルを連れて療養先のウェールズの村へ車を走らせます。
 そしてその村こそ、われらが名探偵、チャッキー警部の管轄だったのです。


ブランドのキャラ

 『薔薇の輪』に出てくる人物は基本的に身勝手です。小市民の弱さからくる利己ではなく、根本的に一本ネジの外れた自己中クソ野郎どもです。
 人気のために娘を「偽造」する母親、それを発案し主導する秘書、社内での出世のために嘘であると知りつつ感動物語に加担する記者、本物のスウィートハートを世間の目から隠すために田舎で相応の金をもらいつつ匿う夫婦、自己救済のためだけに過去を忘れて嘘の娘を要求するクソ親父……。
 しかし彼らは自らのクソさから目をそむけ、あるいはクソさをある程度自認しつつも、自分の見たいものだけしか見ない。それはたとえば、現金であったり、理想の娘であったり。
 たとえば、アルの心情を綴った以下のシーンなどすばらしい。

 ケチな連中を始末するのは、必ずしも気持ちのいいものではない。ときには女やこどもたちまでも身をすくませて見守る前で、夫や父親を手際よく非常に撃ち殺さなければならなかった。だがそうした場合には、かならず埋葬の面倒を見てやった。アルはあちこちの葬儀屋や花屋にも触手をのばしていたが、そうした店からの"保護料"の大半は現物納だった。もとより、アルの稼業にはおびただしい葬式がつきものなのだ。それに、しばしばその後の面倒も見てやった。相手の事務所や店を修復不可能なほどぶち壊すのは、よほどの場合だった――誰が金の卵を生むガチョウを進んで殺したりするだろう? しかしときには、同じような抵抗をもくろむ馬鹿者どもへの見せしめとして必要なこともある。それ以外の場合には、遺されたものたちが事業を立てなおし、"保護料"を払えるようになるまで助力してやった。結局のところ、こちらは最初からその支払いを求めていただけなのだ。
 だがアルの場合は――彼がこんな恐ろしい、無情な最期を迎えねばならないような何をしたというのだろう? 大きな、悲しげな茶色い目に自己憐憫の涙が溢れた。それに彼の小さな娘――か弱い、病身のスウィートハートは? 彼はただ、死ぬ前に彼女に会いたいだけなのだ。

P56-57

 
 
 さんざんこれまでの悪行をならべといて「こんな恐ろしい、無情な迎えねばならないような何をしたというのだろう?」ですよ。いささかコミックチックではありますが、ここまで華麗でありえそうな自己正当化はなかなか描きえない。
 彼らの偽善っぷりは一見とてもエクストリームで特殊な形態なように見えます。
 ですが、その実、『薔薇の輪』で告発されているのはスウィートハートの感動物語にとびついて消費する一般大衆であったりもします。
 なぜエステラたちがありのままのスウィートハートを世間の耳目に晒さないか、といえば、

 世間は残酷よ。愛らしい無力なものにはちやほやするくせに、とくに目に快くない無力なものには見向きもしないの。
p.23


 だからです。
 秘書のバニーは「ちょっと物分かりのいい大半の読者は、手紙を本人が書いたのではないことを知っている」とうそぶきます。世間は嘘を嘘として受容しつつも、その快楽にあらがえず消費してしまうのであると。そして、いつしか快楽が嘘を嘘でなくしてしまう。その最も極端な表出が本書の愉快な登場人物たちなのです。 


 チャッキー警部はそんな欺瞞を暴く名探偵です。彼は美しい妻と平穏な生活を営み、その人生に裏表はありません。
 ゆえに彼は作中で発生する、ある事件における容疑者どものエクストリームな嘘つきっぷりに翻弄されまくります。生真面目な彼は、嘘には1か0かしかないのではないかと考え、その桎梏にハマりまくります。
 そんな彼のトライアル・アンド・エラーっぷりが愉しくもいじわるな一冊です。

薔薇の輪 (創元推理文庫)

薔薇の輪 (創元推理文庫)

 

*1:実際にキレてる人は見たことない。古典ミステリファンは温厚な動物なのである