名馬であれば馬のうち

読書、映画、その他。


読書、映画、その他。


J・P・マンシェット、野崎歓・訳『殺戮の天使』

 淫蕩にして冷徹な女たちよ、この書物をあなたたちに捧げる。
p166


 その女は自転車に乗ってやってくる。自転車でもバイクでもなく自転車なのが重要だ。
 彼女は美貌と巧言を手管に街の上流階級へと潜りこみ、じっと息を潜める。揉め事を探す。誰かが誰かを殺したいと思ったそのときに、彼女は手を差し伸べ、「自分は殺し屋を知っている。お金を払えばその人に依頼を仲介してあげる」とたらしこむ。その殺し屋とは、もちろん彼女自身のことだ。

 1
 
 ハンターは六人だった。五十がらみの、あるいはもっと年取った男たちに、冷やかし半分らしい若者が二人混じっていた、全員、格子縞のシャツに羊皮のベスト、カーキ色の防水コートという格好で、ブーツやショートブーツを履き、ハンチングを被っていた。若者の一人は痩せこけた体つきで、年配の男たちのうち、白髪を短く刈り込み眼鏡をかけた薬剤師も、やはり痩せ型である。ほかの面々は赫ら顔に太鼓腹で、とりわけルカールは目立っていた。二連発ないし三連発の猟銃に小型散弾を込めてあったが、それは狩りの目的が野鳥だからだった。犬は三頭、フレンチポインター二頭にゴードンセッター一頭を連れてきてあった。北東の方角のどこかに、別のハンターたちがいるらしかった。一キロ、あるいは一キロ半隔たったところで、銃声が一発、さらにもう一発響いた。
 一行は荒涼とした湿地帯のはずれに出た。十メートルほどのあいだ、人の背にも届かぬ高さの白樺の若木に沿って進むと、やがて丈高い木立になり、白樺やポプラが葉をそよがせていた。それにまじって低木も生えていた。一行はばらけ始めた。ところどころ水溜まりがあった。北東方向から、また鈍い連射音が四、五発聞こえてきた。少しすると一行は、分散することに決めた。狩りを始めて三時間、まだ何の獲物もない。皆は失望し、苛立っていた。
 ルカールは枯れ葉の朽ち果てた、湿った狭い窪地に降りていった。足下が少々おぼつかないのは、太鼓腹の重みで前につんのめるせいだった。かかとを踏んばってブレーキをかけ、頭を後ろに反らす。西洋ナシ型に尖り、赫らんだ禿げ頭は、コマンド隊員風の緑と栗色が迷彩色になったハンチングに隠れていた。顔の皮膚も赤く、眼はあざやかなブルーで、眉は白くなっている。低い鼻が反り返り、大きな鼻孔から白い鼻毛がのぞいていた。彼は谷底で止まって一息ついた。猟銃を木の幹に立てかけ、自分も木に寄りかかった。機会的に胸ポケットを探ってタバコを探してから、禁煙して三週間になることを思い出し、手をだらりと落とした。冴えない気分だった。突然、百メートルそこそこの地点で銃声が等々力、それに続いたしつけの悪い犬が一声吠えた。ルカールは犬を連れてきていなかった。でっぷりとした尻を木の幹に押しつけたまま、彼は上半身を起こし、口を開けて銃声のした方角に耳をそばだてたが、聞こえるのは木の葉のざわめきばかりである。やがて、背後の谷を誰かが降りてくる足音が聞こえた。大儀そうに振り向くと、四歩ほど離れた谷のふもとに、若い女が一人、明るい茶色の、丈の長い防水コートをほっそりとした体にまとい、パトガス*1を履き、褐色の長い髪に丸いレインハットを被って、みじろぎもせずに立っていた。16口径のピストルが吊革で肩にかかっている。
「これはこれは、メラニー・オルストちゃんじゃないですか!」ルカールはあわてて尻を木から離し、腹を引っ込めながら叫んだ。「びっくりだな! いったいどうしたんです? お嬢ちゃんには二度とお会いできないものとばかり思っていたが……」
 女はうっすらとほほえんだ。歳は三十か三十五といったところである。栗色の目に端正な顔立ちをしていた。微かなほほえみのせいで、唇がわずかにめくれ、小粒で歯並びのいい歯がのぞいた。ルカールは、お嬢ちゃんと言いながら女に近づき、さも父親然とした声音を使いつつもブルーの大きな目で女のほっそりした体を眺め回し、それにしても狩りなど絶対にせず、そもそも昨日の午後みんなに別れを告げてタクシーで駅に向かった彼女が、いったいなぜここにいるのかと驚きを隠せなかった。
「いやまったくびっくりだ、でも大歓迎ですよ!」と彼は叫び、女は16口径を手に取って彼に向け、相手の顔から笑みが消えないうちに腹に銃弾をお見舞いした。
 男は腐った葉でいっぱいの斜面に仰向けにころがった。上半身に穴が開き、カーキ色のコートが衝撃で顎までまくれ上がり、格子縞のシャツはズボンから半分はみ出していた。剥き出しになった禿げ頭が、がっくりと横に垂れ、頬は泥に埋まり、目と口は開いたままで、ハンチングが地面に引っくり返っていた。口の中で唾がきらきらと光り、かすかに瞼が震えたかと思うと、男は死んだ。遠くで軽やかな銃声が三度聞こえた。若い女は姿を消した。

p3-6


 この雪中の冒頭にスカスカの版組がよくマッチしている。
 本場以上にハメット流ハードボイルドをつきつめたフレンチ・ノワールの極致ですね。

*1:頑丈な布地の靴