名馬であれば馬のうち

読書、映画、その他。


読書、映画、その他。


麻耶雄嵩『あぶない叔父さん』新潮社

「やっぱり。叔父さんは優しいね。じゃあね。今日は本当にありがとう」
p.310

・読書会の課題本。読書会では田舎って最悪だねトーク*1に花が咲いた。
・これは最初に言っておいたほうがいいと思うのですが、麻耶信者です。考察とかしないタイプの。否定神学じゃないタイプの。まー、イモータン・ジョーを崇拝するウォーボーイズみたいなもんです。ヴァルハラで会おう、戦士たちよ。ドンドコドンドコ。



・で、なんですか。『あぶない叔父さん』ですか。もうアレですよね、『隻眼の少女』以降の麻耶作品の八割読んでいることを読書の最低条件に設定してもいいんじゃないですか。そうですね、ハイブロウな小説です。元ネタからしてハイブロウですよ、そら。
・「””””名探偵”””"からどこまで要素を抜けば探偵小説は成立しなくなるか」というテーマの名探偵ジェンガ小説第……何弾だっけ?
・帯で言うてるように今回のコンセプトは「探偵のいない」ミステリ、つまり、推理を抜いた探偵小説ってことなんでしょう。それは誰でもわかる、ってか、書いてある。
 いちおうワトスン役たる主人公は事件の捜査めいたことをやらないではないけれど、どっちかーてーと色恋沙汰に汲々としてるし、最後までクルーシャルな手がかりや情報(特に人物関係)を与えられない。
・いわゆる、直球におもしろいエンタメとしてのミステリの構成じゃないんですよ。話全体でメリハリがついてたり、二重三重のどんでん返しがあったり、わかりやすく意表をつく電撃ロジックがしくまれているわけでもない。
 それはまあそもそも、これがコンセプトありきの作品であるからで、作者のやりたいことの都合上、リニアでフラットなつくりにならざるをえない。既存の”上手い”ミステリの文法からはどうしたって逸脱してしまう。
 たとえば犯人役が某エロミステリ連作みたいに明確な悪意を持って事件全体を操作していたのなら、もっとツイストのきいたプロットにできたはずなんです。でもそういうのはやらない。やってしまうとコンセプトが台無しになってしまうから。実験が成立しなくなるから。
・そんな縛りのなかで最大限読者を楽しませようと苦心はしていて、あの枠内では最大限機能している。豪腕ですよね。誠実ですよね。「最近の麻耶は量産のために手を抜いてる」とか言ってるクソどもは首をちょんぎって別のクソの胴体へ縫いつけてやるべき。あるいはてめえがもっと良いトリック考えろ。や、これね、一見どんづまりに見えて、結構発展性のある方角だとおもうんですよね、風水的に。開拓しても誰もすまない土地ですよってだけで。



・古典的な探偵小説は、探偵、助手、犯人、容疑者、被害者という五つの人物エレメントから成り立っています。で、麻耶先生は最近作の『化石少女』と『さよなら神様』で、推理空間を探偵-助手間に限定することで「助手が信じるかどうかで真相(≠事実)が決定される」みたいなアレをアレした。『あぶない叔父さん』もその流れに位置づけて間違いない。
 言っちゃえば、『化石少女』のおもいきし裏返しですよね。インヒアレントバイスバーサ。コインの裏表。コインの鋳型は信頼や信仰で出来ている。探偵って正しい意味で神様みたいなもんで、誰か信じてくれる人がいないと成立しないんですよ。だからワトスン役って超重要なんですよ。推理単体の説得性とか信ぴょう性って話じゃないんですよ、究極的にはノリと勢いでどーにかなるんだって、っつーテンションにおもわれる。『化石少女』と『あぶない叔父さん』は。いや、ちゃんとやってるんですけどね。それとは別に、ある特殊な空間の特殊な地場みたいなものがあってって話。
 おもえば『翼ある闇』から実は「論理的に正しい推理」をシニカルに扱っているようなところはあって、そこのあたりは諸岡卓真の『現代本格ミステリの研究』に詳しい。
 もっといえば、麻耶雄嵩って先生は読者を信頼していると同時に信用してないんじゃないかな。
 おまえら頭いいけど結構ノリが八割な部分あるよね、みたいに。イモータン・ジョーみたいな作家だ。ほら、作品(=水)を出したり出さなかったりするし。ドンドコドンドコ。
 


・関係ないけどひさしぶりに国内ミステリ読むと、素人探偵をこう事件にからませるのか、だとか、こんなふうに事件と距離感を保つのか、とかそんなところに妙に感心してしまいます。

あぶない叔父さん

あぶない叔父さん

*1:田舎では文化的に参照できる媒体が限られてるから主人公とおじさんの関係があんなんになってしまう、だとか、町の外と中でおじさんの扱いが違う、だとか