名馬であれば馬のうち

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東京になる、あるいは少年は如何にして「大丈夫」になったか?――『天気の子』について

注意:本記事は新海誠『天気の子』の重大なネタバレを含みます。

(『天気の子』、weathering with you、新海誠監督、日本、2019年)



 彼はその海岸で、ひとにぎりの砂をすくう。それが「世界」だ。もちろんそれが現実に広大さをたずさえた世界であるはずがないことは、だれでも知っている。だがそれでもなお、そのひとにぎりの世界について、局地的に、個人的に、沈黙への誘惑にさからって、熱心に語らなくてはならない。


  ――管啓次郎『狼が連れだって走る月』河出文庫


映画『天気の子』スペシャル予報



 映画は少年によるモノローグから始まる。
 本来なら彼が知らないはずの少女の体験を神の視点から克明に描写する。全知であるかのようにふるまう。
 

 にもかかわらず、観客の前に登場した少年はなにも知らない。
 仕事の捜し方も、都会での生き延び方も、林立する看板やブランドの読み方も、そこに生きる人々も、世界の秘密も、故郷で感じた息苦しさの解消法も知らない。


 そうして、少年にとって触れ得ないものはすべて「東京」に集約される。東京はその本性を徹底的に隠す。そしてその不可解さは少年にとって自分より先にあるものとして映る。

 主人公・帆高が東京で出会うひとびとはみな彼よりおとなだ。彼と同じく十代で家出し、東京でタフな自営業者として生き抜いてきた須賀。高校生の帆高にとって仕事上の先輩であると同時に、ワンステージもツーステージも上の段階にある就活に勤しむ夏美。十七才(「あと一ヶ月で十八才」)と帆高より少し年上で、小学生の弟・凪との二人暮らし生活をひとりで支える陽菜。帆高たちを監視、追跡する警察。風物の由緒に詳しいおばあさん。その孫の神木隆之介。指輪選びのアドバイスをくれるどこかで見た女。

 なんとなれば、帆高より年下であるはずの凪ですら恋愛や物事の達観具合において帆高より先を行っている。なにせ、ファーストコンタクトにおいてプレイボーイっぷりを見せつける凪に対して抱いた感想は「東京の小学生って進んでるなあ*1」だ。凪もまた、不可思議のヴェールに覆われた東京の一部として帆高に理解される。


 そう、彼は東京を知らない。東京行きの船内でのビールの値段も、高校生が学生証なしでできるバイトも、都会でありうべき金銭感覚*2も、須賀と夏美の関係も、夏美の抱える苦悩も、陽菜の本当の年齢も*3、陽菜の祈りの対価も、東京に属する事柄はほとんどひとつも知らない。

 帆高にとって迷ったときに頼れる相手は(須賀や陽菜と出会ったあとでさえ)ヤフー知恵袋=インターネットであるのだけれど、しかしネットは有意な答えを返してくれない。世界は彼の相手をしている暇などないか、あるいは彼の求めている個人的な答えなど知らない。ここからネットは決してパーソナルな友人にはなってくれないという監督の思想性を読み取ることもできるけれど、今回は深入りするのはやめよう。


 なぜなら今の世界は、ランタイム二時間のあいだの世界は「東京」とイコールになっている。

 陽菜は初めて自分の家に帆高を迎えたとき、こう尋ねる。「東京に来て、どう?」
 帆高は返す。「そういえば――もう(故郷で感じたような)息苦しくは、ない」。
 すると彼女は「そ、なーんか嬉しっ」と微笑む。
 
 このやりとりから読み取れるのは、帆高が東京にとって客人であるということだ。よそから来た人間が自分の住んでいる土地にやすらぎを見出すのは、土地の人間にとっては「嬉しい」。裏を返せば帆高は陽菜と違って東京の一部ではない。陽菜と帆高は他人である。*4

 と、同時に帆高がふるさとでの息苦しさから脱して呼吸の仕方を覚えたのは、須賀のもとで取材に駆け回ることで東京の貌を知り、陽菜とも出会ったことで、彼もまた東京の一部として根を張りはじめたことの証左でもある。


 以後、陽菜を知ることと東京(=世界)を知ることは連動していく。
 晴れ女稼業を開始することで経済的にも自立*5し、晴れ間という新しい光が射すことで、ますます東京の景色が広がっていく。帆高自身の心もまた、神宮外苑花火大会での浴衣姿といった新しい陽菜の貌によって広がっていき、恋という感情に発展する。

 やがて、陽菜の力の秘密の一端に触れるまでになる。

 
 だが、核心の部分で帆高はまだ東京ではない。彼は陽菜の秘密のすべて――つまり、祈りが彼女の身体におよぼす影響を知らされてはいない。
 では、いつ帆高は東京になるのか。

 
 警察*6に追われるようにしてアパートから退去する準備をしながら、陽菜は帆高に「補導される前に実家へ戻ったほうがいい」と勧め、こう告げる。

「私たちは、大丈夫だから」

 この「私たち」とは陽菜と凪のみを指す。帆高は含まれていない。疑似家族的な関係を結びつつも、ギリギリのところで家族としては認められてはいなかった。

 帆高はしょせん東京の外に帰るべき家をもつ客人なのだ。そこに陽菜は線を引く。日常的に使われる「大丈夫」には場合に応じてさまざまな意味が込められるけれど、このときの「大丈夫」は帆高を切り離して守るやさしさとしての「大丈夫」だ。*7

 

 だが、帆高はその「大丈夫」を拒絶する。

「俺、帰らないよ。一緒に逃げよう!」

 それは陽菜といっしょに東京を生きることの宣言でもある。
 帆高の東京化は一段階上のステージへと移行し、より高度の秘密へのアクセス権を得る。
 

 そうしてなんやかんやがあり、最終的に彼は陽菜の秘密=東京の秘密=世界の秘密を手に入れるわけだ。
 もはや少年は無知ではない。逆に、世界の知らない秘密を自分たちが握るという立場になる。かつて東京の秘密を帆高から隠していた須賀や警察といったおとなたちは、逆転したあとの東京ではむしろ「知らない」ひとたちとして扱われる。
 ふたりだけの秘密。それは東京を滅ぼす秘密でもある。それは「僕たちは世界の形を決定的に変えてしまった」というフレーズで表現される。それは確信をもって描かれる。



 が、その確信はいったん、カッコでくくられる。
 東京になったはずの帆高は陽菜と引き離され、故郷の島へと戻される。そこで三年を過ごす。彼は大学入学を機にふたたび上京する。
 三年後の東京はすっかり海に沈んでいる。
 再会したおとなたちは「東京はもとの姿に戻っただけ」「おまえたちが世界の形を変えてしまったなんて、あるわけない」という。*8

 陽菜と帆高が体験し、ふたりをつないだ秘密は幻想だったのだろうか。ふたたび東京はおとなたちの手に戻ってしまったのだろうか。


 想いがゆらぎ、三年前のように東京と切り離されそうになる。が、陽菜と再会すると、彼はかつて得た確信を取り戻す。
 感極まって号泣する帆高は陽菜*9から「大丈夫?」と訊かれ、こう応える。


「陽菜さん、僕たち、僕たちは大丈夫だ」

 
 これが映画のしめくくりとなるセリフだ。

 逃避行直前の「私たちは大丈夫だから」の指す範囲はここで裏返る。今回の「私たち」には帆高も含まれる。東京の秘密を引き受け、雨に濡れることを、世界の変容を受け入れた先に、ようやく「僕たち」としての東京で生きることができる。
 知っているからこそ「大丈夫」ということばを吐ける。
「世界が君の小さな肩に乗っているのが僕だけには見えて」いるからこそ「君にとっての『大丈夫』にな」りうる。*10

 おたがいにとっての「大丈夫」になれるのは、おたがいしかいない。なぜなら、世界の秘密を真に握っているのは帆高と陽菜のふたりだけなのだから。


 ここに至り、ようやく線は引き直される。
 ふたりは東京になる。



天気の子

天気の子

小説 天気の子 (角川文庫)

小説 天気の子 (角川文庫)

*1:「怖ぇ〜」だったかもしれない

*2:「特売で買えっていったでしょ!」、「五千円は高すぎるかな?」

*3:と同時に彼女がバイト先を首になった理由も

*4:他者性を土地に求めるのはいろんな意味で新海誠らしい見方だ

*5:といっても携帯の費用や家賃はまだ須賀もちなわけですが

*6:来京当初から執拗に帆高を東京から排除しようとする存在として描かれている彼らが、帆高にとっては致命的な陽奈の秘密、すなわちほんとうの年齢を握り、かつ彼にそれを報せる役割を与えられている事実のはきわめて重要です。脚本のいじがわるい。

*7:陽菜たちは東京の一部でありながらも、東京に押しつぶされていきもする両義的な存在だ。東京の歪みを引き受けているといってもいい。彼女は人柱なのだから。その点においては彼女は東京外の人間である帆高を巻き込むわけにはいかなかった

*8:セカイ系というよばれる作品群についてはあまり真剣に向き合ったことがないのだけれど、『イリヤの空』を読んだ記憶から導き出される自分なりの要件は「良きにつけ悪しきにつけ、おとながなんだかんだで世界の全容を把握し、それに対する責任を引き受けていること」になるんだと思います。しかしまあこの二十年でおとなが世界を責任持って把握しハンドリングしているというのは嘘っぱちなんだと小学生でも知るようになってしまった。あとは細分化された体験のみが真実な世界です

*9:陽菜も泣いている

*10:エンディングのRADWIMPS「大丈夫」の歌詞から。ラストのセリフはこの歌から導き出されたものだという(『小説版 天気の子』あとがき)』

2019年上半期に観た新作映画ベスト20



 子供の頃に観たあの映画
 あの夢と希望
 現実なんて信じないで
 私は映画が好き 


 weyes blood, "Movies"



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 こうして上半期の映画ベストをきめるのも死んだ魚を錐でついたときに起こるけいれんじみてきておりますですが、でもまあ、いってみればブログの記事なんてそもそもがミオクローヌスみたいなものではないですか。発作ですよ。生きているというのは奇跡ではありませんが、奇跡みたいですね。すべてが輝いて見えますよ。

2019年の上半期ベスト10

1.『スパイダーマン:スパイダーバース』(ボブ・ベルシケッティ&ピーター・ラムジー&ロドニー・ロスマン監督、米)
2.『僕たちのラストステージ』(ジョン・S・ベアード監督、米英加)
3.『ゴッズ・オウン・カントリー』(フランシス・リー監督、英)
4.『サスペリア』(ルカ・グァダニーノ監督、米伊)
5.『ちいさな独裁者』(ロベルト・シュヴェンケ監督、独仏ポルトガルポーランド中国)
6.『きみと、波にのれたら』(湯浅政明監督、日)
7.『海獣の子供』(渡辺歩監督、日本)
8.『ドント・ウォーリー』(ガス・ヴァン・サント監督、米)
9.『ダンボ』(ティム・バートン監督、米)
10.『愛がなんだ』(今泉力哉監督、日)


 今年の上半期はなにひとつとして面白い映画にめぐりあえなかったな、という気分だったのですが、鑑賞録をめくると存外興奮している過去の自分が見出されます。
もうわたしはストーリーがわかりません。ショットはもともと知りません。いちばん重要だとおもっていたルックすらどうでもよくなって、残るのは画の断片から受信した作品のアティテュードだけです。それすらも錯覚かもしれませんが、とりあえずはそのように観ます。

『ダンボ』とかまあ、たぶん誰もいい作品だなんておもってないんでしょうけれど、原典に対する態度がとにかくうつくしい。ディズニーの実写リメイクはバートンにこれを撮らせただけでも大いに意義があったのだとおもいます。おもいたいところです。
 原作ものに関しては『海獣の子供』もなかなか極まっていましたね。あるインタビューで渡辺監督が「眼の描写は意図的に原作より頻度を増やした」と言っていて、そうですね、模倣を本物っぽく信じ込ませるには本物より過剰ではなければならないんです。アニメや映画は多分みんなそうです。てきとうにレンズを向けて動画や写真として切り取っても、その像はわたしたちにとっての現実にはなりえない。だからそう、「五十嵐大介のまんがは『眼』だ」とわたしたちがとらえているならば、五十嵐大介のまんがの映画化はもちろん過剰に眼であふれていなければならない。あたりまえの話ですよね。
 誠実さや熱情も良いものですが、ときには不遜さも愉快に味わえるときがあって、グァダニーノ版の『サスペリア』はその例。こんな傲岸不遜なリメイクをつくるひともいまどきいないでしょう。自分は歴史や社会や人類をすべて見通していて、それを曇りなく映すことができる、という今や失われてしまった古典的な西洋知識人特有の傲慢さを受け継いでいるヨーロッパの映画監督でもどこかそのアナクロニズムにさめてしまっているラース・フォン・トリアー*1などと違ってグァダニーノは真剣です。真剣に、ここ七十年(百年?)のヨーロッパ文明における諸問題すべてを二時間半の映画で語りつくそうとしている。まじめすぎてばかというか、メガロマニアというか、でもダンサーたちの肉体性でギリギリ地上から浮かないだけの質感を担保しているのだから、やはり良くもわるくも頭はいい。
 一方で『ちいさな独裁者』はこちらもただしく生真面目な皮肉であって、特に収容所に爆弾が降ってくるタイミングの古典的な完璧さはおそろしく感動的です。全編がタイミングと間のコメディでできているので、別にカラーで観ようが白黒で観ようがこの愉快さに影響はない。
 やはりタイミングを生真面目にきざむ映画がいいよ。『ゴッズ・オウン・カントリー』と『僕たちのラストステージ』も、それぞれメイン二人のすれ違いと同期のドラマがものすごくよかった。特に『僕たちのラストステージ』の徹底っぷりはすごかった。タイミング以外に愛や友情を語る手段なんて存在するんだろうか。『愛がなんだ』のよさもなんだかんだ視線のタイミングの生真面目さに起因するのでは、という気もしてくる。「オフビート」すら結局はビートに回収されてしまうのです。ふだんはあまり心地よく感じられない湯浅政明のハズし芸も、ある程度型にはまった『きみと、波にのれたら』では極上の体験に仕上がった。
 タイミングという点では、『スパイダーバース』は少々調子っぱずれところが目に付きました。ところが圧倒的に今年上半期の第一位です。これはもう仕方がなくて、わたしは『ロジャー・ラビット』の昔からずっと、異なるレイヤーに属するキャラクターたちがひとつの平面に共存している世界に弱い。脆弱性です。これまでもアップデートされてこなかったのだから、これからも修正されることはないでしょう。画だけではなく、キャラクター間の感情がレイヤー化されているのも地味にうまかったですね。ソニーにはロード&ミラーの映画を一年に最低一本はつくることを義務付けてほしい。
『ドント・ウォーリー』、ホアキン・フェニックスが主演している映画はだいたい良い。

+10

11.『シシリアン・ゴースト・ストーリー』(アントニオ・ピアッツァ&ファビオ・グラッサドニア監督、伊)
12.『バーニング 劇場版』(イ・チャンドン監督、韓)
13.『COLD WAR あの歌、2つの心』(パヴェウ・パヴリコフスキ監督、英仏ポーランド
14.『コレット』(ウォッシュ・ウエストモアランド監督、米英ハンガリー
15.『魂のゆくえ』(ポール・シュレイダー監督、米)
16.『フロントランナー』(ジェイソン・ライトマン監督、米)
17.『シャザム!』(デイヴィッド・F・サンドバーグ監督、米)
18.『ある女流作家の罪と罰』(マリエル・ヘラー監督、米)
19.『ハイ・フライング・バード―目指せバスケの頂点―』(スティーブン・ソダーバーグ監督、米)
20.『FYRE:夢に終わった最高のパーティ』(クリス・スミス監督、米)


『魂のゆくえ』と『フロントランナー』と『ある女流作家の罪と罰』と『FYRE』は負のアメリカの話でしたね。アメリカ人にはこの先もアメリカンドリームの歪みや挫折を描いてほしい。『ハイ・フライング・バード』もアメリカのおはなしなんですが、やたらにポジティブというか、90年代に置き忘れてきた爽快さを残しています。今となっては貴重です。
 上半期のスーパーヒーロー映画では『シャザム!』がよかったですね。下半期カウントの『スパイダーマン:ファー・フロム・ホーム』もですが、ギャグで笑えるところがよい。
シシリアン・ゴースト・ストーリー』は作者の私的な感情というか願いが史実を捻じ曲げてイリュージョンを起こす、という点でビネの『HHhH』に似ています。*2

 だいたいそんな感じです。下半期もよろしくお願います。


*1:『ハウス・ジャック・ビルド』は彼のそうした真摯さの発露した結果の失敗なのだと思います。けして全面的につまらないわけではないですが

*2:『HHhH』も今年『ナチス第三の男』という邦題で映画化されていましたが、しまりのない作品になっていましたね。ワシコウスカまで使っておきながら……。

繰り返されて壊れていく死のストーリーテリングーー『KATANA ZERO』について



 テレビ 日毎の嫌悪嫌悪
 なめらかな饒舌 操作された快活さに接するたびの
 安逸さという字はどう綴るの


 ーーハイナー・ミュラーハムレット・マシーン」岩淵達治・谷川道子訳


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Katana Zero - Launch Trailer



 こどもの頃、英語の先生(オーストラリア人だった気がする)に最近遊んでいるゲームについて訊かれた。

「マリオのゲームをやっています」

 マリオのゲームではどんなことをやるの、と重ねて問われて、「たくさんのマリオを死なせます」と返すと、先生は弾けるように笑った。


 積み重なっていく無数のマリオの死体。それがプラットフォーマーと呼ばれるゲームジャンルのリアリティだ。世界のどこかで少年少女たちが銃やナイフを振り回すたび、「ゲーム感覚」というフレーズが陳腐に繰り返されていくけれど、わたしたちはいまだかつて「ゲーム感覚」の意味するところを真剣に考えたことがあっただろうか?


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 クリボーに触れ、ドッスンに潰され、穴に落ち、マリオは無限に死んでいく。無際限にリスポーンされるからといって、かならずしも死のつらさを希釈してくれるわけではない。むしろ、濃くなる。”コンティニュー”とは「継続・持続すること」だ。絶え間ない阿鼻地獄をわたしたちは味わいつづける。

 プラットフォーマー(アクションゲーム)特有の終わらない死の感覚を体験あるいはストーリーとして組み込んだインディーゲームはいくつか存在する。近年で目立つタイトルだと、Celeste、Outer Wilds*1、The Messenger、Dead Cells あたりだろうか。


proxia.hateblo.jp


proxia.hateblo.jp



 これらはいずれも死んで覚えるタイプのゲームで、だからこそプレイごとの死の理由付けが重要になってくる。なぜ君は死ぬのか。単に「次の周回で上達できるから」以上に、その”ゲーム感覚”的な終わりの持続になんの意味があるのか。
 もはやわたしたちは、いや誰よりもおそらくは制作者たち自身が積み重ねられたマリオたちの空虚さに耐えきれなくなってしまった。
 だから Celeste の死は希死念慮との闘いのメタファーとして取り込み、The Messenger の死はそのためのキャラクターやギャグを生み出し、Dead Cells の死は世界観に、Outer Wilds はストーリーそのものに組み込んだ。*2


『KATANA ZERO』における発露はユニークだ。
 ステージ中にいくらキー操作をあやまろうと、キモノめいたバスローブを着たヤク中のサムライ*3が実際に死ぬ(=ゲームオーバーになる)ことはない。ステージの最初から自動的にリスタートするだけだ。ステージクリアにいたるまでのトライアル&エラーはすべてサムライが「クロノス」と呼ばれる薬物*4によって得た超感覚によるシュミレーションであり、「クリア」したときに得られる正解のルートのみを正しい未来として剪定する。ガイ・リッチー版の『シャーロック・ホームズ』を想像してもらえるとわかりやすい。あるいは『エースコンバット』シリーズを。*5


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 ステージクリア時に再生されるリプレイ動画が90年代風のビデオ映像の形式を取る点に注目したい。
 リザルト動画はシミュレート中の画面とは違い、無音の、色褪せた灰色の映像として出力される。そこに不断の挑戦によって困難を乗り越えた快感は芽生えない。むしろステージをクリアして物語を進行させていくことが事態を悪化させるのではないか、という不吉さをプレイヤーに植え付ける。そして、その予感は的中するのだ。
 ゲーム中のストーリーはアクションステージと交互に語られるわけだが、ここでもVHS的な手法、つまりはグリッチ*6が多用される。サムライのおぼろげな記憶が呼び起こされるとき、彼の意識が混濁し撹拌されるとき、グリッチは世界の歪み、あるいは裂け目として出現する。*7
デッドメディアは死の感覚にお似合いなのかもしれない。


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The external world より


 グリッチを世界の歪みとして意図的に使うアーティストといえば、まっさきにあがるのがアニメーション作家のデイヴィッド・オライリー
 彼が『アドベンチャー・タイム』のゲスト監督に迎えられた第60回Aパート(シーズン5、第15話)、その題も「A Glitch is a Glitch*8」では、悪役の陰謀によって劇中世界がバグに飲み込まれ、いたるところでキャラがノイズとともに消失したり、ありえない変化を遂げたりする。
 Katana Zero の文脈に最も近いのは『THE EXTERNAL WORLD』だろうか。冒頭、ある少年がグランドピアノを弾いては隣に座る教師からひっ叩かれて「もう一回」と命じられ、同じパートを何度も弾きなおさせられる。
『THE EXTERNAL WORLD』は短いスケッチの連続で構成されるが、ピアノの少年を含むいくつかのスケッチやキャラクターは反復され、再登場のたびに世界ごと「崩れて」いく。スケッチの切り替えは失敗や事故がトリガーとなることが多く、反復ごとにひずみが生じ、あらたな失敗や事故を誘発する。やりなおすがゆえに歪んでいき、ますます失敗が運命づけられていく世界。その感触を、1980年代よりこの方、テレビゲームを経験したわたしたちすべてが共有している。


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 死ぬことそのものは痛みではない。繰り返すことの痛みだけがプラットフォーマーのリアルだ。それがゲームの感覚だ。失敗は暴力的な途絶でしかありえない。
 やりなおしによって閑却されていく可能性の先に正解のルートをつかみとる。その正解は積み上がった死体から逆算されたものであり、私たちは犠牲にしてきた自分の分身たちに対する罪悪感を忘れることができない。

 グリッチは叫びだ。ありえた可能性とありうべき現実を行き来する唯一の手段であるとともに、果てしないリピートとコンティニューによって傷つけられた世界の悲鳴だ。傷つきえない私たちの傷を、世界が肩代わりしてくれる。
 Katana Zero においてサムライのライバルとして立ちはだかるあるキャラは、サムライと同じく薬物による時間感覚操作+リセット能力を有している。対峙したふたりは互いに殺すたび、殺されるたび、可能性を幾度となくやりなおす。繰り返しの果てに、そのキャラはこう問う。


おまえは人殺しが楽しいんだろ? クロノスがくれた永遠の命、時間の自動リセット。そんなアタシたちにとって死は無意味だ。だって死んだら、勝手に巻き戻るんだから。アタシたちは、人を殺すことでしか死を実感できない生き物なのさ


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 このセリフは主人公と同時にプレイヤーにも向けられている。
 敵を殺し、クリアしたときにようやく反復してきた死の無意味が報われる。死を実感できる。それがゲーム体験の楽しさだ。原罪だ。そのことをわかっているから、褪色したリプレイ画面で悟ってしまうから、わたしたちは Katana Zero で真に爽快感を得ることはない。
 しかし爽快感の欠如が、必ずしもゲームとしての快楽の無縁さと直結するわけではない。後ろ暗さの経験が、ダークなストーリーに呼応して不思議で独特なプレイフィールを生み、それを私たちの脳は「楽しい」と知覚することだろう。
 楽しいと感じることが倫理的に正しいのかどうかは別にして、だけれど。


 Katana Zero はプラットフォーマーについてのプラットフォーマーだ。
 わたしたちはなぜコンティニューするのか。なぜやりなおすのか。なぜ敵を殺すのか。なぜ自分を死なせるのか。なぜ生きるのか。
 その答えを探すため、私たちはキモノ姿のヤク中サムライに刀をたばしらせる。


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*1:厳密にはプラットフォーマーではない気がする

*2:死による回帰をストーリーそのものに組み込む試みは日本のアドベンチャーゲームでかつて飽きるほど行われたが

*3:ドラゴンというコードネームで呼ばれる

*4:もちろんギリシャ神話における時間の神に由来する

*5:もちろんインディーゲームファンなら『Braid』を想起してしかるべきなのだが

*6:辞書的には「予期しない細かなエラー」であるけれども、ここでは画面の乱れ、一種のノイズとして捉えていただきたい

*7:本来は堆積していく「失敗」であり、時間操作による主人公の時間の肌感覚に近いプレイ画面のほうが鮮やかなカラー映像として提示され、客観的な「現実」であるリザルト・リプレイ映像のほうがノイズに満ちた生気のないモノクロ画面で再生されるという顛倒は興味深い。「現実」のほうが"偽物"なのではないかというグノーシス的な感覚をプレイヤーに与える。その感覚はかつて夢見られていたはずのものが現在に連続していない21世紀的なリアリティとよく似ている

*8:邦題は「コワレタセカイ」