名馬であれば馬のうち

読書、映画、ゲーム、その他。


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【翻訳】アドベンチャーゲームの憑在論:ノスタルジック・ホラーとしての『ナイト・イン・ザ・ウッズ』と『Oxenfree』

リンクが失われてしまった過去のミームへのトリビュート*1

喪1「いや〜〜〜〜マーク・フィッシャーさんすごく良かったですよね〜〜〜〜」
喪2「良かったですよね〜〜〜」
失われた未来の可能性にゃん「そ、そうにゃんか 失われた未来の可能性にゃんはああいうのよくわからないにゃん……どういうところがいいんだにゃん?」
喪1「うーん、知的でエモい分析とあと死んだ所かな……」
喪2「そうだなー、僕としては叙情的な文体とあと死んだ所を評価してますね……」



現代思想 2019年6月号 特集=加速主義 -資本主義の疾走、未来への〈脱出〉-

現代思想 2019年6月号 特集=加速主義 -資本主義の疾走、未来への〈脱出〉-


電気はわれわれをみな天使にしてしまった。(そしてテクノロジーはわれわれをみな幽霊にしてしまった)

 『ニック・ランドと新反動主義 現代世界を覆う〈ダーク〉な思想』(木澤佐登志)と『現代思想』の加速主義特集号を読んでて、そういえばマーク・フィッシャーと『ナイト・イン・ザ・ウッズ』をからめたどっかのおたくのブログ記事を翻訳しようとして途絶してたなー、ということを思い出した。

 まじめに訳すのめんどくなってたのは、なんかところどころ論の立て方が雑だったり、意味的にわかんないとこあったり、結論部が大学生の書くレポートみたくぼんやりとしたポジティブさで締められていたり後なんか身体的にダルくなってたりしていたせいで、まあしかしそれでもいちおうあっち(英語圏ウェブやインディーゲーム界隈)の気分の一端が顕れている文章ではあると思うし、足りない英語力をがんばって絞り出してなんとかしました。正確に著者の考えを汲み取りたい方は原文にあたってください。
 注はすべて訳者注です。


アドベンチャーゲームの憑在論:ノスタルジック・ホラーとしての『ナイト・イン・ザ・ウッズ』と『Oxenfree』(Andrew Bailey*2

levelpapers.com



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stranger things

 ネットフリックスのテレビシリーズ『ストレンジャー・シングス』*3(2016)では、やんちゃな子どもたちが中西部の小さな田舎町で”コズミック・ホラー”*4に見舞われる。

 80年代を舞台とする本作は、『惑星からの物体X』*5のようなホラー映画の古典のポスターをある場面で登場させたり、全編を通じてスティーブン・キング作品のレファレンスを多用したりと、そのインスピレーションの源泉を視聴者に隠そうともしない。

 こうした明け透けなパスティーシュはシリーズ全体のトーンを理解するのに有用である一方、文化理論家のフレドリック・ジェイムソン*6が「ノスタルジー・フィルム」*7と定義したジャンルと結びつけることもできる。ジェイムソンの主張するところでは、「ノスタルジー・フィルム」に属する映画は過去を正確に再現することを目的とせず、代わりに特定のスタイルを思わせる要素を用い、より現代的な方法論を駆使してそれらの要素を意図的に再利用するのだという。この種のノスタルジーは、新しい未来の可能性を劇的に減速させる方法でもって現在を過去の中へと埋没させる*8点で問題なのだとも。*9


 時間的崩落、80年代ホラー、そしてノスタルジーのつながりは最近発表されたふたつのアドベンチャーゲームにも見出される。すなわち、Finji Studio の『ナイト・イン・ザ・ウッズ』(2017)*10と Night School Studio の『Oxenfree』(2016)*11だ。『ストレンジャー・シングス』と同じく、どちらの作品もある若者グループが小さな町で起こった超常的なミステリーを調査する、といった内容だ。そしてやはり両作とも怪奇物語を語るにあたって1980年代的な「過去性*12」の感覚を用いている。

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oxenfree

『Oxenfree』ではティーンエイジャーたちが週末の飲み会のために近くの島に繰りだし、その島で、徐々に霊的な存在からの干渉に侵されていく。
 プレイヤーが主人公として操作するのはアレックスという青い髪の少女だ。短波ラジオで幽霊たちと交信して物語を進行させつつ、呪われた*13島の2D世界を右へ左へ歩き回るのだ。Oxenfree は、古典的なアドベンチャーゲームや横スクロールゲームの美学としての時代遅れの技術を取り入れたのに加え、ミュージシャン兼サウンドデザイナーである scntfc*14 によるシンセの利いた陰鬱なサウンドトラック*15を通して「過去」を受肉させている。

 ちょうど80年代へ先祖返りしたようなホラー映画『イット・フォローズ』(2013)*16で Disasterpeace*17 が作り上げた気味の悪い劇伴や、ジョン・カーペンター*18ウェス・クレイヴン*19の作品におけるアイコニックでエレクトリックなサウンドトラックがそうであったように、Oxenfree の音楽もまた、開発元の Night School Studio が参照しているレトロ・ホラーの空気感にぴったり合致する、不可欠の構成要素なのだ。


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it follows

 音楽評論家のマーク・フィッシャー(”k-punk"というハンドルネームでも知られる)は、この1980年代前半に始まったノスタルジックな再利用を「緩やかな未来の消去」*20と呼んでいる。アナクロニズムとレトロマニア*21による新たなスタンダードだ。

 この種の時間的脱節*22は「未来の先触れでありシニフィアンでもあるとみなされた」*23エレクトロニック・ミュージックによく顕れるという。

 そこに一種のパラドックスが生じている、とフィッシャーは主張する。現代のエレクトロニック・ミュージシャンたちが80年代的な未来への熱情を参照した作品を生み出すとき、けして訪れることのない未来の概念というノスタルジーを創造してしまうのだ。そしてそれは今やゆっくりと現在そのものになりつつある。

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lost river

 失われた未来の幻に満ちた現在、というこのパラドックスを定義するため、フィッシャーはジャック・デリダを援用してこの状態を「音の憑在論*24*25*26と呼んだ。*27

 さらにフィッシャーは、この終わりなき憑在論的半減期のうちで最も痛切に感じられるのは、喪失の可能性が失われることである、とも述べる。録音録画技術の発展とともに、真に終わることは何もなくなり、真に死ぬものもなくなった。そして、Oxenfree に出てくる不死の亡霊たちのように、永遠に届くことはない未来へ向かって生きることになるのだ。


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night in the woods

『ナイト・イン・ザ・ウッズ』の音楽は Oxenfree に見られるようなフィッシャー的な憑在論や「未来の消去」の源にあまりなっていない。本作のサウンドトラックはユニークかつ上質ではあるものの、こと憑在論や「未来の消去」に関して言うならゲームの舞台となる街の風景のほうに注目すべきだろう。『イット・フォローズ』や『オンリー・ラヴァーズ・レフト・アライヴ』*28、『ロスト・リバー*29、『ドント・ブリーズ*30といった近年の人気ホラー映画群と同様、架空の街であるポッサム・スプリングは「ラスト・ベルト」として知られるアメリカの一帯に位置している。*31

 中西部の広大な地域にまたがり、五大湖を臨むラストベルト地帯は、自動車・石炭・鉄鋼といった従来の主要産業の行き詰まりによる都市の衰微と圧倒的なエントロピーの感覚を特徴とする。*32このことは、ポッサムスプリングスにおいて留め板で覆われた店、朽ち果てた建物、そして廃坑となった鉱山の発見といった様々な形でプレーヤーの眼前に顕れる。

 こうした現代的な斜陽におけるある種の刻印についてフィッシャーはこう述べている。「グローバル化ユビキタスな情報化、労働力の流動化など、いわゆるポスト・フォーディズムへの移行は、仕事と余暇を組織する方法に完全な変革をもたらした。一方でここ10年から15年の間に、インターネットとモバイル通信テクノロジーは、日常的な経験の感触を皆の思っている以上に変えてしまった」

 フォード的な産業からの脱皮とモバイルテクノロジーの台頭との関係についてのフィッシャーの提言は、携帯電話会社からすらも見落とされるせいでサービスを受けられないほどに過疎化した遠隔地であるポッサム・スプリングスでこだましている。

 こうした制度の崩壊と公共・産業・企業からのサポートの欠落が組み合わさって、ポッサム・スプリングスは過去の成功に取り憑かれ、町の現在を適切に把握することができなくなっている。

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only lovers left alive

 このメタフォリカルな憑依は、ゲームの最終盤へ進むつれて現実そのものであったことが判明する。主人公が目撃していた「幽霊」は閉鎖前の鉱山で働いていた保守的な老人たちによる秘密結社だったのだ。長ったらしい会話シーケンスにおいて、これらの男たちは、鉱山の地下に棲まう”存在”に生贄を捧げることでポッサム・スプリングのゆるやかなゴーストタウン化を防げると信じているのだと明かす。

 年老いた元鉱山労働者たちは皆、成功した工業の街としてのポッサム・スプリングの過ぎ去りしイメージに取り憑かれ、将来のさまざまな可能性を認識したり現実的に考えるどころか、今を楽しく暮らすことさえもできなくなっている。『Oxenfree』の囚われた幽霊たちやフィッシャーのエレクトロニック・ミュージシャンたちのように、『ナイト・イン・ザ・ウッズ』の炭鉱カルトは実現しなかった未来という失われたコンセプトに取り憑かれている。


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night in the woods

 『Oxenfree』も『ナイト・イン・ザ・ウッズ』も2Dアドベンチャーの形式を通じてレトロな形式と美学を積極的に取り入れていれつつも、ジェイムソンが論難したような盲目的なノスタルジーとは一線を画す、失われた未来とループする時間というテーマが反映されている。

 両作は共通して、過去との向き合い方に苦悩する敵や対立に焦点を当てている。『Oxenfree』に登場する海軍士官の幽霊たちは乗船していた潜水艦の沈んだ島に縛られており、『ナイト・イン・ザ・ウッズ』においては元鉱山労働者たちのカルト団体が独自の信念体系を築き上げ、失敗した過去のなかに未来への希望を見出す。*33時間の崩壊についてのナラティブ上の問いかけに加え、これら二作はループと循環するゲームプレイ・シーケンスを多用することで、ノスタルジックな美学によって吹き込まれるであろう安易で盲目的な消費へのいかなる期待もをシステム的に粉砕する。

 
 フィッシャーが信じているように、ジェイムソン版のポスト・モダニズムーー「レトロスペクション(回顧)とパスティーシュへ向かう傾向を伴う」*34ーーが新しい文化的規範になるとするならば、『Oxenfree』や『ナイト・イン・ザ・ウッズ』のようなゲームはこのような現在の支配的なトレンドに対して積極的に向き合い、転覆したことで格別に称賛されるべきであろう。


 『ストレンジャー・シングス』のようなメディアにはたしかに強みもあるが、アーティストやデザイナーにはレファレンスや引用をもっと考え抜いてもらい、ただ古いものを再利用するのではなくて過去の文化基準や歴史に関して新しい議論を創出するような方向で過去の要素を用いることを奨励すべきだ。

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Thimbleweed Park

 将来的にも、『バイオハザード7』や『Thimbleweed Park』*35といった近年の不気味なアドベンチャーゲームが商業的にも批評的にも成功をおさめていること、あるいはリメイク版『IT』や『ダークタワー』といったスティーブン・キングの八十年代ホラー小説の映画化が注目を集めていることを鑑みるに、この種の作品が尽きることはしばらくないだろう。

 しかしながら、観衆としての我々はレファレンシャルな時間の閉じられたループを作り出すことを求めるのではなく、新しい創造的な作品を促進することにこそ努めなければならない。我々は批評的な観衆として(フィッシャーの憑在論的ミュージシャンやジェイムソンのノスタルジー・フィルムのような)未だ描かれていない可能性を放棄した過去からの既視感のあるビジョンではなく、未知の未来の目覚めを希求せねばならない。
 
〈おしまい〉


わが人生の幽霊たち――うつ病、憑在論、失われた未来 (ele-king books)

わが人生の幽霊たち――うつ病、憑在論、失われた未来 (ele-king books)

*1:™いとう階

*2:ブログの自己紹介によれば、「トロントのヨーク大学で視覚文化と美術史の博士課程に在籍する院生」らしい

*3:『ナイト・ミュージアム』シリーズのショーン・レヴィが製作に携わり、ダファー兄弟がクリエイターを務める大人気ジュブナイルSFホラードラマ。本文中で述べられているとおり、80年代ホラーへのリスペクトで埋め尽くされている。シーズンの変わり目ごとに iOS 用のゲームをリリースしているが、それもレトロゲームオマージュだったりで、ノスタルジーのかたまりのような作品。

*4:一般名詞のようなツラをしているが、世界的にH・P・ラブクラフトが創始したクトゥルフ神話に属する物語群を指す。

*5:ジョン・カーペンター版。地球を征服する気まんまんで宇宙からやってきたはいいものの、降り立った先が南極だったためさっそく失敗しかけるかわいそうな寄生生物がイヌなどを乗っ取りつつ悪辣な原住生物の魔手を逃れて必死に生き延びていく愉快なサバイバルアドベンチャー映画。ジョン・W・キャンベルJr. 原作でこれまで三回くらいリメイクされているが、SF映画のマスターピースとして主に言及されるのはこの1982年版。最近翻訳されたピーター・ワッツの短編集『巨星』にもオマージュというかトリビュート作品が載っていましたね。

*6:1934- 日本語版ウィキペディアでは「思想家・フランス文学研究者」、英語版では「文芸批評家・マルクス政治学理論家」となっている。文化批評、およびポストモダニズムと資本主義に関する分析でつとに有名。

*7:『わが人生の幽霊たち』の五井健太郎訳ではオミットされているというか、特にキータームとして扱われていない。

*8:collapses the present into the past

*9:“(『白いドレスの女』[1981年のローレンス・カスダン監督映画。どうでもいいが、『わが人生の幽霊たち』では最初、原題にそのままカタカナをあてた『ボディ・ヒート』と訳されていて、次に出てきたときは邦題の『白いドレスの女』になっている。『ボディ・ヒート』という邦題の別の映画も存在するのでややこしい。]に登場する)モノたち(たとえば車)は、技術的に見て八十年代の製品なのだが、映画のなかのすべてが、そうした直接的に現代を指示するものをぼかし、それがノスタルジックなものとして受け取られるように、つまり、歴史を超えた永遠の三〇年代とでもいえるような、なんとも定義しようのないノスタルジックな過去のなかにある物語の舞台をなすものとして、受けとられるように配されているのだ。現代的な舞台設定をもったこんにちの映画でさえも侵食し植民地化してしまうノスタルジー映画(nostalgia film)という様式の登場は、私にとって、ひじょうに徴候的なことに見える。あたかも、なんらかの理由でこんにちではもう、私たちじしんの現在に焦点を定めることができなくなってるかのようであり、私たちじしんのいまの経験にたいする美的な表象を生みだすことが不可能になってしまったかのようである。 ”ーー『カルチュラル・ターン』フレドリック・ジェイムソン、合庭惇、河野真太郎、秦邦生訳、作品社

*10:大学を中退して故郷の田舎町に帰ってきたネコの女が昔の友だちグループとつるみつつ、バラバラ死体の謎を追っていく(?)アドベンチャーゲーム。傑作。Steam、PS4、Switch などで販売中。日本語化有

*11:高校生のグループが打ち捨てられた孤島に忍び込んでパーティを開こうとしたところその島の幽霊たちに取り憑かれてしまったので短波ラジオで別次元への扉をひらきつつどうにかするみたいな内容だった気がする。ぼんやりした英語理解でだいぶ前にクリアしたものだからあんまり憶えていない。Steamなどで販売中。未日本語化

*12:pastness

*13:haunted

*14:シアトル出身のミュージシャン、サウンドデザイナー。『Oxenfree』の他のゲームサウンドトラックとしては『Old Man’s Journey』(2017)、ドラマ『Mr. ROBOT』のアプリゲーム(2016)など。今年発売予定である『Oxenfree』のスタジオによる最新作『Afterpary』でもコンポーザーを務める。ちなみに『ナイト・イン・ザ・ウッズ』のスタッフが在籍する Late night works club の作品にも音楽を提供しているというつながりも。

*15:80年代的なシンセサウンドをリファインした「シンセウェイヴ」というジャンルはインディーゲーム界でもちょっとしたトレンドとなっている。元祖はHotline Miami、最近の作品だと『Katana Zero』なんかがその代表に挙げられるだろう。その影響はゲーム外にも波及していて『プロメア』なんかは少なくとも一曲は八十年代を意識したシンセ曲が挿入されていたりして(パンフによる)、流行ってんなーという感想。

*16:デイヴィッド・ロバート・ミッチェルの出世作。セックスで感染するやばい呪いにかかるとさまざまな形態をとるものすごくやばい存在においかけられるようになってしまい、おいつかれると死ぬ

*17:FEZ』や『Hyperlight Drifter』といった名作の楽曲をてがけたインディーゲーム・ミュージック界のマエストロ。デイヴィッド・ロバート・ミッチェルとのコラボを皮切りに映画音楽にも進出。http://proxia.hateblo.jp/entry/2018/10/11/033747

*18:『ハロウィン』や『遊星からの物体X』、『ゼイリブ』などで知られるホラー映画界の巨匠。自作の劇伴を手がけることでも知られる。最近は音楽制作に熱中して映画からは遠ざかってるご様子。

*19:エルム街の悪夢』や『スクリーム』を手がけたホラー映画界の巨匠。ちなみに『エルム街の悪夢』の音楽はチャールズ・バーンスタインで、クレイヴンとは『デッドリー・フレンド』でも再タッグを組んでいる

*20:もとはイタリアの著述家、フランコ・”ビフォ”・ベラルディが『After the Future』において使ったフレーズ。フィッシャーはこれを彼が『資本主義リアリズム』でも説いた再帰的無能感の文脈で使った。”二十世紀の実験的な文化が、新しさなど無限に可能であるような気にさせる遺伝子組換え的な熱狂にとらわれていた一方で、二十一世紀は、有限性や枯渇という屈辱的な感覚によって虐げられている。いまこそが未来なのだという気分にならないのである”ーー『我が人生の幽霊たち:うつ病、憑在論、失われた未来』マーク・フィッシャー、五井健太郎訳、ele-king books

*21:文字通りレトロなものごとが大好きなひとたち

*22:temporal disjunction

*23:「The Metaphysics of Crackle: Afrofuturism and Hauntology」より

*24:sonic hauntology

*25:The Metaphysics of Crackle: Afrofuturism and Hauntology」

*26:http://k-punk.abstractdynamics.org/archives/007230.html

*27:憑在論はデリダが『マルクスの亡霊たちーー負債状況=国家、喪の作業、新しいインターナショナル』で提唱した概念。”憑在論とは、潜勢的なものの働き(Agency)のことだと考えてみればいい。亡霊を超自然的ななにかとして理解するのではなく、(物理的には)実在しないままに作用するなにかだと考えるのである。……ひとつめが示しているのは、(実際上は)もはやないもの、だがひとつの潜勢的なものとして効果をもったままにとどまっているものである。(トラウマ的な反復強迫、不可避の繰り返しがこれにあたる)。そして憑在論のふたつめの意味が示しているのは、(実際上は)いまだ起こっていないもの、しかし潜勢的なものとして効果をもっているものである(いま現在の行動に明確なかたちを与える、ひとを引きつけるなにかや予測のようなものがそれにあたる。”ーー『わが人生の幽霊たち』)

*28:2013年のジム・ジャームッシュ監督映画。不老不死のヴァンパイアの夫婦が世界をさまよいながらチルでヒッピな日常を送る作品で、個人的にはジャームッシュの最高傑作なんじゃないかと思う

*29:2014年のライアン・ゴズリング初監督作。ゴズリングもニコラス・ウィンディング・レフンみたいな映画が撮りたかったんだなあ、ということがわかる。公開直後は批評的にけっこう叩かれたけれど、アメリカでは数年後にカルト映画としてコアなファン層を確立したらしい。ふつうにあんまりおもしろくなかった記憶がある

*30:2016年のフェデ・アルバレス復活作。盲目のおじいさんの家に盗みに入った若者たち。しかし侮っていたそのおじいさんは実はすごうでの元軍人で……というサイコーな内容であり、サイコーの伏線芸映画。同監督で続編の企画も進行中。

*31:上記四作品に共通しているのはゴーストタウンと化したデトロイトで撮られていること。デトロイト自動車産業の低迷で住民の流出が続いており、空いた土地を撮影の舞台としてフィルムメイカーたちに安価で提供するフィルムコミッションを盛んに行っている。

*32:これらの街は現実では2016年の大統領選でトランプ当選に大きな役割を果たした

*33:“取り憑くこととはつまり、失敗した喪なのだと考えることができる。それは霊を手放さないことでありーーけっきょくはおなじことだがーー幽霊がわれわれに見切りをつけることを拒むことである。亡霊は、われわれが、資本主義リアリズムに統治された世界のなかで見つかる平凡な満足のなかで生きていくのを許さないだろうし、そうした平凡な満足で妥協するのを許さないだろう。”ーー『わが人生の幽霊たち』p.45

*34:”ジェイムソンのいうようなポストモダニズムつまり回顧やパスティシュへの傾向をもったものとしてのポストモダニズムは、自然なものとなっているのだ。たとえば、驚くような成功を収めているアデルのような歌手を例としてとりあげてみよう。彼女の音楽はことさらにレトロなものとして売り出されているわけではないにもかかわらず、それが二十一世紀に属してることを印象づけるようなものは、そのどこにもありはしない。きわめて多くの現代的な文化生産物がそうであるように、アデルのレコードのなかには、曖昧だがしかし拭いさりがたい過去の感覚が、特定の歴史的な時間を思い出されることのないままに飽和しているのである。……新自由主義的でポスト・フォーディズム的な資本主義の到来は、いったいなぜ回顧やパスティシュの文化へと傾いていくのだろうか。おそらくわれわれはここで、いくつかの暫定的な推測を提示してみることができるはずである。ひとつは消費に関わるものだ。新自由主義的な資本主義が連帯や治安を破壊したことが、その埋め合わせのようにして、価値の定まったものや慣れしたしんだものへの渇望をもたらしたとはいえないだろうか。ーー『我が人生の幽霊たち』p34-35

*35:80年代を舞台にしたネオノワール・ミステリー(自称)アドベンチャー。そのクラシックかつ緻密なビジュアルとストーリー、ユーモアが評価され、metacritic では84点をマークしている。Epic や Steam で販売されているものの、未日本語化。https://store.steampowered.com/app/569860/Thimbleweed_Park/?l=japanese

わたしたちが絶滅させてはいけない現代忍者エスピオナージュまんが『ヤオチノ乱』について

これまでのあらすじ(スキップ可)

 せがわ版『甲賀忍法帖』を読んだよ。

 『伊賀の影丸』を読んだよ、『忍空』を読んだよ、『カムイ伝』を読んだよ、『ムジナ』を、『ニンジャスレイヤー』を、『NARUTO』を、『あずみ』を、『アイゼンファウスト』を読んだよ。楽しかったよ。楽しかったね。

 そうしてたどり着いた2019年のわたしたちの忍者的気分は最悪だ。ひとことでいえば不感症に近い。もうどんな伝奇バトルにもロマンを感じなくなってしまった。忍者が出てくるものには特に。

 いまや忍者はサンタクロースやキャベツ畑のコウノトリと同等の、ベタで新鮮味のない空想生物に成り下がった。江戸時代に閉じ込められ、昭和に置き去りにされた憐れむべき講談本の絶滅種。

 奇跡や魔法が廃れたように、もはやどこにも忍法は存在ない。池袋の駅前に立つとそれがよくわかる。

 道行く人々はどいつもこいつも世間のツラだ。あなたは幻想ではなく現実が見通している。やつらは同程度に精気がなく、ありふれていて、特徴に欠ける。カジュアルにまとめた金髪のポンパドールにジャージを着たヤンキー風の女性、Bボーイファッションに身を固めたごつい男、いかにもトロそうなパーカー姿の男の子、近寄りがたそうな雰囲気を放つ三白眼の少女。


 それでも。もし。


 もし彼ら彼女らが全員忍者だったとしたら?


 池袋駅前の人混みを縫って『ジョン・ウィック2』ばりの暗闘を繰り広げているとすれば?


 あの日のロマンは死んでいなかったとすれば? 

 薬師寺天膳のように?


 ほんとうは、「そちらの方」が現実だとすれば?


『ヤオチノ乱』のご紹介

comic-days.com


『ヤオチノ乱』(泉仁優一*1)は、現代日本において唯一実効的なプロのスパイ組織として生きる忍者の一族ーー八百蜘*2一族を描いたエスピオナージュまんがです。

 物語は八百蜘一族内における「最終試験」から始まります。全国各地から集められた一族の若手数十名が宗家と呼ばれる中枢入りを競い、ランダムに割り当てられた二人一組でサバイバルマッチを行うのです。

 戦いの舞台はJR池袋駅を中心とした二キロ四方。このフィールドに主人公コンビであるキリネとシンヤ*3は五万円のみを与えられ、身一つで放り出されます。

 衣食住から戦いの装備に至るまで、すべてその五万と自らの創意工夫でまかなわければなりません。

 幼少のころから宗家の一員となるべく鍛えられてきたエリート忍者のキリカは、プロ意識に乏しいぼんくら男子のシンヤにいらだちをつのらせつつも、宗家の期待に応えるべく街に潜むライバルたちをあぶり出していくのですが……というのが序盤(二巻終わりまで)の内容。

『ヤオチノ乱』のなにがよいか

 その魅力はなんといっても地味さ。
 地味が魅力ってなに、忍者バトルものが地味でいいの? と疑問におもわれる方もいるかもしれませんが、本作における「地味」は「シャープでスタイリッシュ」と同義です。

 主人公を含めた八百蜘の忍たちは、異能バトルものに出てくるような派手な術をふるったりはしません。

 彼らの「忍術」は変装や追跡といった、あくまで情報戦のためのもの。そう、情報戦。『ヤオチノ乱』は忍びたちを戦士ではなく、現代的なスパイとして再定義します。


「忍術」同様、忍者ものによく出てくる便利アイテムもあまり登場しません。てぶらで「試験」に行かされるわけですからね。どこまでも自給自足が要求されます。キリネたちはテープやソーイングセットやサングラスや水風船といったありあわせのもので即製のトラップを作り、ファミレスのストローやその袋、調味料の唐辛子から武器をこしらえるのです。

 そしてトラップは寝ぐらとなるネカフェや路地裏にしかけ、食べ物はデパートの試食コーナーや討ち果たしたライバルの所持品から調達する。そうした生活臭が逆に「日常のなかに潜む忍者」のロマンを芳しいものにします。


 キモとなるバトルそのものも実にハードコアです。いちおう忍者なのですから肉弾戦でも常人離れしてつよいはつよい。しかし同時に少しでも状況が不利だったり不透明だったりすれば即逃げます。戦うより逃げたり隠れたりする場面が多いくらいです。

 そのような警戒心の強い忍びをどうやって捕捉し、自分たちに有利な状況へ持ちこむか。それが「試験」における焦点となります。

 探索と追跡と逃走の緊迫感がデフォルメされながらも乾いてカッコいい画風によく合います。そうなんですよ。カッコいいんですよ。クールなんですよ。


 主人公が千円のCD買う時に一万円渡してお釣りを受け取る描写でドキドキできるマンガがありますか?


 CIA(エシュロンを使用可)にケンカふっかけてこてんぱんにされた公安が泣きながら忍者に助けを乞うマンガが他にありますか????(あ、これは三巻以降の内容だった)


「試験」後はさらに世界が拡がり*4、インターナショナルでワクワクなハードボイルド諜報戦に入りこんでいきます。
 つまりは楽しさも百倍に!
 


 しかし……ですよ。
 こういった作品を「地味」以外になんと表現すればよいのでしょう。どう褒めればよいのでしょう。どうおすすめすればよいのでしょう。
 あまりに低温でクールすぎて”良さ”を言語化しづらい。こうしたまんがの命は儚く短いもので、私たちはもう二度と失いたくはない。
 なにかないか。なにかふさわしいことばはないか……。



 ???「ほっほ、お困りですかな」



 !? そのブラックなボイス、六尺に達さんばかりの米津玄師じみたシルエット……あ、あなたは……



f:id:Monomane:20190516023655p:plain
(作・長谷川等伯



 !!!!!!!千利休!!!!!!!!!!



f:id:Monomane:20190516023926p:plain「さすがですな。そこまで感じ入っておられるとは……」


 ですが宗匠、果たして下々にまでこの””良さ””が伝わるかどうか……。
 遠く南蛮(アメコミ)に至るまで、地味で良いなどとは聞いたこともござりませぬゆえ……。



f:id:Monomane:20190516023926p:plain「私は茶頭以前にしがない魚問屋……その私ですらシコいのです。いずれ誰もに伝わることでしょう」



f:id:Monomane:20190516023926p:plain「そう……この”””良さ””をこうとでも申しておきましょうか」




ヤオチノ乱(1) (コミックDAYSコミックス)

ヤオチノ乱(1) (コミックDAYSコミックス)

f:id:Monomane:20190516023926p:plain”渋い”と」



 さすが宗匠〜〜〜〜〜〜〜〜〜。
というわけで平成最後にして令和最初の激シブまんが『ヤオチノ乱』をよろしくな!!


〜〜完〜〜


へうげもの(4) (モーニングコミックス)

へうげもの(4) (モーニングコミックス)

本日の引用文献。


本日は引用していないが忍法帖シリーズは全人類が毎日参考にすべき文献である

*1:「もとじんゆういち」と読む

*2:やおち

*3:どちらも見た目は高校生くらいっぽいけれど、実年齢はよくわからない

*4:拡げるときの世界観の提示のしかたもうまい

第二十八回東京文学フリマで買った本を読む+メモ

これまでのあらすじ

 世に「しるもしらぬも逢坂の関」という佳歌があって、逢坂とはつまり今の滋賀県大津あたりを指すのだけれど、これが天橋立や箱根すら越えて江戸の木戸となると知らないひとばかりです。

 五月五日、わたしは東京は神保町で京都大学ミステリ研究会の主催するトークショーに来ていました。

 開演前の短い時間、受付ロビーはなごやかに談笑を交わす人々で溢れています。わたしはひとりその輪からはずれ、身の置き所に迷っていました。

 もともと京大ミステリ研四十五周年の祝賀記念の一貫として開かれているだけあって、京大のひとが多い。それも四十五年ぶん、約二十世代です。瓜実顔の初々しい若者から二十歳の成人式からこの方ずっとミス研ヤクザで通してきたような怖そうなおじさんもいます。見知った顔もいないではありませんが、この圧倒的アウェイ感にあっては敵地の知己など敵にひとしい。こころを許してはなりません。関西の弱小大学ミス研勢は例外なく、「京大に復讐せよ」と教えられて育ちます[要出典]。「復讐」の動機が具体的になんなのかは示されずじまいで、おそらく妬み嫉み僻み羨みの言い換えとみんなうすうす気づいていましたが、それでも愛すべき先輩たちのいうことで、内心気持ちがわからないのでもないので、なるべく守ろうと意地をはります。惻隠の情という言葉を今日は学んで帰ってください。

 それでもトークショーが始まってしまえば、取り憑いていた怨霊のことなど忘れ、円居挽我孫子武丸日暮雅通、青崎有吾四先生の軽妙なミス研よもやま話をあまさず愉しむスウィートなわたしがいます。しかしあの三十分間、開場から開演までの三十分間にあっては不安しかともだちがいませんでした。

 京都に帰ったら『ヤオチノ乱』のレビューをブログに書いて、『アクタージュ』の二次創作について考えるんだ……と必死に自分へ言い聞かせ、受付ロビーのすみで震えながら、希死念慮をなんとかおし殺そうと悪戦苦闘しているとき、向こう側のすみで談笑している二人組の片方と目が会いました。彼は親しみ深げな笑みを浮かべると手をふりながら、こちらへ近づいてきます。


「千葉さんやないですか〜」

   
 Nくんです。京大ミステリ研出身者では数少ない友人のひとりです。わたしは先輩の教えや孤高の気概をたちまち放り出して、仔犬(ポメラニアンがいいな)のように彼に駆け寄りました。やっと手を差し伸べてくれる存在がいた。雲の上からカンダタに糸を垂らしてくれたおしゃかさまのような……と芥川を連想したのはその三日目に参加していたデイヴィッド・ピース講演会の影響だったでしょう。


 しかし、安心したのもつかのま、わたしは彼の風体に異なる感じをおぼえました。得も言われぬ禍々しさに戸惑いました。よくよく目を凝らすと、Nくんの着ているTシャツ……ピクトグラムめいた燃える本の下部に印字された「Fahrenheit 451」……。

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 そう、ブラッドベリ華氏451』のTシャツです。ハヤカワが売ってたやつです。
 神保町という本の聖地において開かれる本を愛する人々の集会で燃える本の描かれたシャツを着てくる、この勇気、この蛮勇。養豚場にトンカツの描かれたシャツを着てくるようなものです。

 
 この男……ここまでロックであったろうか……? 
 こんなシャツでいったい何を伝えたいのだろうか……?


 と、しばし三日会わざるうちにすくすく育つ、男子という名の青山の威容に刮目しおののいていたのですが、Nくんはかまわず話しかけてきます。

「明日、文フリいかはるんですよね?」

 そのことばにハッとします。ささやかに蒙が啓かれます。
 六日の東京文フリ。そして『華氏451』のシャツ。

 なるほど、これは彼なりのちょっとした考案だったのです。

 
 わたしは、行くよ、と答えました。
 彼は満足気にうなずくと、それ以上その話題に触れず、ただシャツを誇るように立っていました。わかりますよね? とでもいいたげに。

 
 ああ、わかったとも。
 燃やさねばだよね。


 かくして、わたしは五月六日の東京文フリで本を買いました。
 知るも知らぬも、本は本です。


文学フリマで買って読んだ本

 レビューというよりメモに近い。購入の参考にはならないでしょう。

『深界調査記録』もちくず倉庫

・いわゆるネットロアというか、ホラーな都市伝説の調査記録。調査といっても実際に噂の源泉になっている場所は訪れず、もっぱらネットや書籍の情報を追っていて、そのかぎりではよく調べてあるとおもう。
・実際に起こった事件が地元住民のあいだで長い間噂されていくうちにディテールがおぼろになっていき、ネットへ都市伝説として吐き出される過程が複数例示されていて興味深い。

『立ち読み会会報誌 第二号』立ち読み会

殊能将之の『ハサミ男』、『美濃牛』、『黒い仏』に付せられた「参考・引用文献」をひとつひとつ丹念にあたって文献ごとの引用箇所を正確に洗い出す労作。
・表紙がダントツに好き。元ネタは本を読めばわかります。
・単に点をいくつも打っていくのではなく、浮き出た点を線としてつないで殊能将之への深い理解につなげるあたり、孔田さんじゃないとできない知的な落ち穂拾いですね。
・娘が生まれるとわかった孔田さんがロスマクや結城昌治を読めなくなるくだりはアツい(アツい?)
・巻末の創作を読んで、『異色作家短篇集リミックス』で孔田さんがやりたかったことがなんとなくわかった気がした。気がしただけかも。

『Re-Clam vol.2』Re-Clam編集部

・論創海外ミステリ特集。
・論創編集部のひとたちにインタビューしてるんだけれど、やっぱりすごい人たちが集まってるんだなとおもう。
・森先生のはしゃぎっぷりもすごい
・付録? の短篇「不吉なラムパンチ」(クリスチアナ・ブランド)、短篇ながらのこの犯人像とサービス精神満載なややこしい構成はブランドにしかできないな、という感想。なにげに探偵のキャラと犯人のキャラが対になっているのもいい。そういえば、探偵小説研究会の『CRITICA』十三号(出たのは去年の夏だけれど)にも市川尚吾がブランド論を寄せていて、そこにまるごと割られていた『はなれわざ』のあらすじを読んで、あらためてややこしいプロット書くひとだな、とおもった

『ルヴェル新発見傑作集 「遺恨」』エニグマティカ叢書

モーリス・ルヴェル東京創元社から『夜鳥』という短篇集が出ていて、「フランスのポオ」と称されているらしいのは知っているけれど、読んだことはなかった。
・収録作はいずれも十ページ前後の短編で、語り口は古風であるものの、センテンスレベルでは平易なのでさらっと読める。主人公がある出来事をきっかけにエクストリームな状況に追い込まれ、悲劇的な決断を下す。そんな話が多い。あとほぼ人が死ぬ。
・お気に入りは、迫り来る火の手から家族を守るために老鐘楼番がある行動に出る「鐘楼番」と、亡き妻の遺した二児のどちらかが不義の子ではないかと疑う父の煩悶を描いた「どちらだ?」。
・「仮面」も買ったのでいずれ読もうかな。悲しい気分になりたいときに。

『whodunit best vol.5』京都大学推理小説研究会

・大学ミス研(ミステリ研ではない)に属していた身でいうのもなんですが、「犯人当て」は書くのも読むのもそんなに好きじゃありません。理由はそのときどきで変わりますけれど、主として「自分が勝てないゲームはダルい」というワガママな性分から発するものです。
わたしのいたミス研では二年か三年に一度くらいの頻度で、京大でもすなる犯人当てというやつをやるぞっ! という機運が昂まり誰かが犯人当てを書いていたのですが、思ったより盛り上がらないのでブームにもならず文化にも育たず、一回こっきりで消滅します。わたしも書きました。ゴミでした。
・にもかかわらず、このフーダニットベストは心に響いた。犯人当てはあいかわらずよくわかんない。犯人当てに付されている京大ミステリ研会員たちによる解説、作者の人物像、そしてミステリ研と犯人当ての歴史がアツいのです。特に研内における犯人当ての歴史を綴った「犯人当て史を振り返る二〇一四」(高村優子)は犯人当てという競技の発展を記録した競技史であるとともに、そこに確かに息づいていた若者たちの熱気を封じた青春の記憶でもある。こういうの好き。

『SFGeneration 2018 特集:ゲーム』SFG

・SFであれば、小説や映画はもちろんゲーム、現代アート、音楽、都市(川崎)、大学SF研までもいちいち採取してレビューをつけようとする、メガロマニアックといったら失礼だけど、そんな形容がぴったりな本気のSFジン。
・エディトリアルまわりがカッコいい。写真も。あそびページの vaporwave 感もすき。
・ゲームレビューでわりとマイナーめのやつも取り上げてくれてるのがうれしい。小説レビューでは絶版のやつもためらいなくラインナップしてて罪作りだな、っておもう。
クロスレビュー企画やる同人誌はいくらでもあるんだろうけど、ファミ通でイラスト描いてる本人(荒井清和)をひっぱってきたのは初めて見た。
ツイッターでSFファンダム?界隈に関するマニフェストっぽいことぶちあげててそれきっかけで、すげー、と注目しだしたのだけれど、界隈に疎いせいか団体としての出自がよくわかんない。疎くてもすごそうなものには寄っていってしまう。文フリのスペースでは若いお兄さんと白髪のおじさんが親子みたいにして座っていたけれど、けっこうレンジの広いサークルなんだろうか。謎はつきない。

『イゾラドとの遭遇 NHK特番「大アマゾン 最後のイゾラド 社の果て 未知の人々」と1975年に遭遇した記録』今関直人

・2016年に放送された、アマゾンの少数先住民についてのNHKドキュメンタリーを観た著者が、「そういえば、俺こいつらに四十年前に会ってたじゃねえか!」と思い至り、その時の手記というか日記を冊子にまとめた。そういうもの。
・日記は日記なので特にキャッチーな出来事など発生しないまま、獏や野鴨を狩りつつ川を遡っていく。
・アリクイは手ごわいらしい。
・あとなんか現地の小説家からもらった作品を翻訳したとかいう触れ込みの本も売っていて、そちらも買った。まだ読んでないけど聞き慣れない単語にあふれてて楽しげ。

ひとひら怪談』薄禍企画

・例のシリーズの新刊
・作者名確認しないで読みはじめて、いいなあ、と思った二編ともが藍内友紀の作だった。早川から単行本を出しているらしいので読んでみようかなとなりました。矢部先生はもはや前衛詩の領域だとおもう。
・「『キズが超小さいフック』で5kgまで耐えられる」ってなんだろう

『華文ミステリガイド特別編 華日大学ミス研競演』風狂奇談倶楽部

・最初のページめくったら並んで出てきた復旦大学推理小説研究会の人とワセミスの人のハーモニーがいかにも十年来のミス研同期って雰囲気で笑けた。ミス研の人間にはユニヴァーサルな規格が存在する。5日のトークショーもそうだった。知らないはずなのに、知っているようなひとばかり。
・華文(中国語圏)ミステリ特集。早稲田と復旦で犯人当て小説を交換してバトルするなどおもしろい企画をやっている。
・秋好亮平「華文イデオロギー小考」。ちょうど先日『ディオゲネス変奏曲』で読書会をやったときに中国・台湾・香港のミステリ事情を知りたくて調べて、んー、よくわかんないですね、って無様を晒したところだったので、もうちょっと早くこれが欲しかった。台湾中国におけるミステリ受容史の編纂が待たれる。

『RIKKA vol.1』RIKKA ZINE

英語圏のSF/ファンタジー雑誌に投稿している日本人作家、SFで修士号を取った台湾のSF翻訳家、英米SFを訳しまくっている中国の翻訳家、日本の小説事情にやたら詳しい韓国のSF作家兼翻訳家、日本に居ながらにして英語小出版社を立ち上げそこで作家・編集活動を行う元ホスト*1などのインタビュー集。要するに東西のおもしろSFにんげん大集合、
・オガワ・ユキミ先生のインタビューは文章から知り合いに多い系の人だとわかるので安心感がある。
・台湾の翻訳家インタビューでの「70年代80年代に台湾で育った男子はみんな『マジンガーZ』などの日本のSFアニメを観ていた」という発言で『ぼくは漫画大王』で見たやつだ! となった。台湾ミステリと台湾SFの根っこがおんなじところにあるのだとしたらちょっとおもしろい。SFはミステリに比べて市場がかなり狭いっぽいけど。
・当然かもしれないけど、アジア圏のSF翻訳家は兼業翻訳家が多いっぽい。いつのSF大会だったか、大森望か誰かが「僕たちがSF翻訳専業で食っていける最後の世代になるだろう」みたいなことを言って記憶があるけれど、専業翻訳家という存在自体が世界的にはイレギュラーなのかもしれないなとおもった。
・中国のSF雑誌名「不存在日報」ってめちゃくちゃかっこよくない?
・「板垣恵介刃牙シリーズは、もはや思弁小説である」
・韓国の異世界転生は「漢江に投身自殺しようとしたらポータルができて異世界に」
・そりゃベイリーが最近復刊してるとか聞かされたらビビるよね。

『雨は満ち月降り落つる夜』笹帽子

・いわゆる雨月物語SF合同。雨月物語を下敷きに各作家がSF短篇を書いておられる。各編のあらすじは下記。
www.sasaboushi.net
・古典の素養がないもので、雨月物語と聞くと高井忍、吉備津の釜と聞くと日影丈吉が思いうかぶのですが、そういう見当はずれな読者でも読めばちゃんと楽しめるようになっている。わりとスペキュレイティブなやつに寄ってる印象。もとが幽霊譚ばかりなので幽霊という存在をどうSF的に解釈するか、みたいなところで最近の個人的な興味ともかぶってて、まあそれはいいんです、楽しく読めればね。
・高度に発達した怨霊人工知能より怖いのはアップデートしないヒューマンのエラーだよね、とか、さまざまに姿態を変えてビームを放つウオとか、大師さまに感謝、とか、正太郎はやっぱりクズなのだな、とか、ソルジェニーツィンマッシュアップとかどうかしてるなー、とか、蛇女百合かとおもったら宇宙かー、とか、「貧福論」は資本主義の話といえば資本主義の話なのだけれどこうなってしまえばよくわかんないがいっそ愉快だな、とか細かい部分でのフィーリングッドは多いのだけれど、オチの景色が好きなのは「荒れ草の家」と「飛石」でしょうか。特に前者は健気でかわいい。
・あとで聞いたらすごい勢いで完売したそうで、友人に頼まれたものとはいえ、ひとりで二冊購入したのは不作法だったかな。まあいいです。わたしは知らない人のかなしむ顔より、知っている人のよろこぶ顔がみたい。郵送で届けたので顔は見れませんが。令和ですね。
・そしてここに本書のKindle版がある。アンリミテッドなら事実上ゼロ円で読み放題。文フリの本と秋の空は違うもの。すぐさま移り変わるものでなし、菊が鮮やかなのも今日だけでなし、読むという気持ちがあれば、秋開催の季節になったからといってなんだというのです、と円城塔ならおっしゃるのでしょうが、文フリの本など買っては積んでしまうのが人の性です。だとしたら、マウスの赴くままに買って、その場で読み尽くすのも乙なものですよ。

雨は満ち月降り落つる夜 (雨月物語SF合同)

雨は満ち月降り落つる夜 (雨月物語SF合同)

  • 作者: 笹帽子,cydonianbanana,17+1,Y.田中崖,志菩龍彦,雨下雫,シモダハルナリ,鴻上怜,murashit
  • 出版社/メーカー: 笹出版
  • 発売日: 2019/05/08
  • メディア: Kindle
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『ヤオチノ乱』について書きたいと願います。これは願いです。

*1:最初「英国人」と書いてましたが、勘違いでした。イタリア人とオーストラリア人とのあいだに米国で生まれたかたです