名馬であれば馬のうち

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なぜ『犬ヶ島』はつまらないのか。:『犬ヶ島』について・その1


野田洋次郎も参加!ウェス・アンダーソン最新作『犬ヶ島』日本オリジナル版予告



困ってしまってワンワンワワン、ワンワンワワン



――プロジェクトは犬ものをやろうという着想だったのですか? それとも最初からサムライ犬でやろうと?
ウェス・アンダーソン最初は犬ものってだけだったね。日本要素はあとからついてきた。


(脚本版)『Isle of dogs』、イントロダクションの脚本陣インタビューより


 あなたは、とは書きますが、別に特定の個人を想定したものではありません。
 こういう書き方をすることで時に拾える綾もあるでしょう。

 そのことを飲み込んでもらったうえで言いますが、

 なぜあなたは『犬ヶ島』をつまらないと感じてしまったのか。



 理由は簡単です。




 あなたが犬になれなかったから




 です。



犬ヶ島』は、観客が犬になることを前提に作られた映画です。

 人間側(㍋崎市パート)の物語がナレーションやニュースキャスターの音声などを介して三人称的に語られがちなのに対して、犬(犬ヶ島パート)側のストーリーはセリフメインで組み立てられキャラの成長なども描かれます。犬たちのほうが、人間よりもよほどヒューマニスティックです。どちらかといえば、人間側の話が従、犬側の話が主ということになります。

 ところが、字幕版でも吹替版でもいいのですが、日本の劇場で観ると人間側の物語も犬側の物語も並列して語られているように見える。そのせいでいまいち物語が焦点を結ばないというか、なんというかエモくない。

 なぜか。ウェス・アンダーソンディレクションが下手なのか。彼の仲良し映画人を集めた脚本チームが無能なのか。

 違います。ある構造上の問題から、ウェス・アンダーソンは日本の観客だけを犬にできなかったのです。


犬よ犬よ犬たちよ



ウェス・アンダーソン私は映画で描かれる犬たちが大好きです。わたしにとって、わたしたちの作品中で描かれる犬は人間なのです。


Wes Anderson Interview | The Director On His New Film 'Isle Of Dogs'


 そう、観客は犬になるべきだった。

 ウェス・アンダーソンのインタビューによると、本作では「フランス語版やイタリア語版でも、日本語の部分だけ残して英語の部分だけ現地の言葉に置き換える」*1のだそうで、つまり本作では「英語の部分=観客の言語=感情移入の対象」として措かれているわけです。裏を返せば、「字幕なしで垂れ流される日本語の部分=観客の理解できない言語=他者」となるわけです。 
 劇中で犬たちが人間たちの言語を理解できず、人間たちもまた犬たちの言語を解しないことを思い出しましょう。出版済みの脚本でも人間たちのセリフはト書きで「日本語でなんか喋る」か、あるいは通訳のセリフとして指定されているだけで、日本語部分について具体的なセンテンスはほとんど与えられていません。*2
 犬たちこそがわれわれであり、人間たちは彼らである。それが本作の体験を支える骨子なのです。


 もうおわかりでしょう。
 上記の式が通用しない言語圏がひとつだけあります。日本語圏です。
 吹替版において犬たちの言語は日本語になり、人間たちと言語的に均質化される。犬も人間もわれわれの側になってしまう。人間側のストーリーも犬側のストーリーも真正面から受け止めなければならなくなるわけで、しかも下手に看板やポスターなんかの字もわかってしまうぶん視覚的な情報量もダンチになってしまうわけで、意味の洪水にプロットの焦点がぼやけてただ見るだけで途方もなく疲れてしまいます。ただでさえウェス・アンダーソン映画は鑑賞後の疲労感がすごいのに、いつもの十倍疲れるかんじがする。

 字幕版にいたってはもっと複雑です。犬たちの英語は字幕で日本語に翻訳されるので、表面上、吹替版と同じ効果をおよぼしそうなものなのですが、しかし声的には犬たちの言語は日本語話者にとってあきらかに「他者」のもの。
 だからといって、人間側の話にノるのも難しい。先述のように三人称的に突き放した語りをしているせいもあるのですが、(人間役のキャストがほぼ日本語ネイティブで固められているにもかかわらず)本作で発せられる日本語はどこかわれわれが日常的に耳にしている日本語のBPMとズレている。ウェス・アンダーソン映画の速度でみんな話している。その違和感が劇中の日本人たちを「他者」に見せてしまいます。
 犬と人間の両方を他者の側におきつつ、スクリーン上で出来する事態をすべて把握できてしまうというかなりねじれた体験をしてしまうわけで、この障壁を突破して犬になれる人間はかなり少ないはずです。


おねがい私の知らないことばで喋らないで、おねがい私の知らないことばで喋らないで



「聞こえるよ、アタリさん! 聞こえるよ、聞こえるよ、聞こえるよ……」


(本編より)

 言語で犬と人間を切り分けられないことは、キャラクターの関係性を呑み込む上でも障りとなります。
 先ほど「劇中で犬たちが人間たちの言語を理解できず、人間たちもまた犬たちの言語を解しない」と書きましたが、ひとつだけ例外的な関係があります。犬ヶ島に捨てられた犬スポットと、そのスポットをさがしにやってきた飼い主の少年アタリです。ふたりはシークレット・サービスが使うようなイヤフォンを通じてほとんど完璧にコミュニケーションを果たします。とはいえ、互いに言ってることを百パーセント理解しあってる様子でもない。おそらく、魂で通じ合っている。

 異言語コミュニケーションの話題において、「相手が何をいってるかよくわからないけれども、何を言おうとしているかはクリアに了解できる瞬間」がよく取りざたされるものですが、そうした奇跡のようなコミュニケーション、奇跡のような信頼がアタリ少年とスポットとの間には結ばれているわけです。異なる言語を混ぜたからこそ成り立つ関係性といえましょう。

 ところが日本語圏の観客はアタリ・スポットのどちらのセリフも理解してしまいます。奇跡が死んでしまっている。いや、実はふたりが初めてイヤフォンをつけて会話する場面は字幕版でも音と画面の力で非常に感動的に仕上がっているので奇跡は奇跡なのですが、しかしその他の場面ではどうでしょう?


 あなたは犬になれましたか?


 ウェス・アンダーソンは、映画の魔法はあなたを犬にしてくれましたか?


 スポットやチーフがアタリに語りかける場面で、すこしでも胸にうずきおぼえたのなら、
 実はもうほとんど犬になりかけているのですが。



 こうした根っこの部分でどうしようもならない上に誰も悪くない問題に悩まされるのは、かなしいものです。
 ですが、だからといって作品の価値が損なわれるわけではありません。といいますか、別に日本語しかわからなくても全然たのしめないわけでもありません。そもそも人間が完全に犬になるとか無理なのです。人間として映画館に行ってもなんら恥じることはない*3。言い忘れていましたが、字幕翻訳も吹替陣も仕事自体はすばらしい出来です。あと、各映画サイトの一般視聴者による採点平均はいまのところ結構良さげっぽいですし……。


 いや、むしろ?


 つい勢いでわら人形論法から記事をスタートしてしまったが、
 ウェス・アンダーソンが人間でも楽しめるように『犬ヶ島』を作ったのだとしたら?


 日本限定のプレゼントとしてユニークな体験をプレゼントしてくれたのだとしたら????


 むしろ日本人こそ『犬ヶ島』を観るべきなのでは???????????????



 というわけで、次は『犬ヶ島』本編の話をします。『ファンタスティック Mr. Fox』から継承している「野生」についての話です。たぶん。

 
 

*1:実際の英語版ではニュース映像や小林市長の演説などのほとんどに英語のボイスオーバーがかかっていたことを考えると、事実上「犬を言葉を現地語にする」という理解でよさそうです

*2:特にアタリは指定があったとしてもせいぜい単語レベル

*3:いちいち通訳が挟まれるので全体的に話運びがトロくなるなあ、とか、ウェス・アンダーソン作品独特のカメラとアクションの一体感にちょっと乏しいなあ、とか、昔の日本映画意識してるのかなんだか知らんがくすんだ画面の色合いがなんかなあ、という演出レベルでの不満もまあ絶無といえばウソになるわけですけれど

アメリカのピカレスクで多弁な娘たちの映画についてのメモ:『アイ、トーニャ』、『モリーズ・ゲーム』、『レイチェル:黒人と名乗った女性』

 とりあえず、「この三作って似てるよね」という思いつきからはじまったものの、おもいついてから二週間経っても、あんまりうまく膨らみませんでした。後々のためのメモとしての残しておきます。


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 このところ、アメリカを騒がせたバッドアスな実在女性たちについての伝記映画やドキュメンタリーの公開が相次いでいます。
 ライバルである五輪代表候補選手を襲撃した疑いでスキャンダルとなったフィギュア・スケーター、トーニャ・ハーディングを描いた『アイ、トーニャ(I, Tonya)』。


『アイ、トーニャ 史上最大のスキャンダル』予告編/シネマトクラス



 同じく冬季五輪でスキー競技の代表選手一歩手前まで行きながらも、不慮の事故により文字通り代表の座から滑り落ちて引退。その後なんと違法カジノ経営者に転身し、「ポーカーの女王」としてロシアン・マフィアを巻き込んだ裁判にかけられたモリー・ブルームを描いた『モリーズ・ゲーム(Molly's Game)』


『モリーズ・ゲーム』ショート予告 5.11



 そして、全米黒人地位向上協会(NAACP)の支部長としてブラック・リブス・マター運動などで名を馳せるも実際は白人の生まれであったことが露見し、「黒人を詐称した白人」であると国中からバッシングを受けたレイチェル・ドレザルのドキュメンタリー『レイチェル:黒人を名乗った女性』。


The Rachel Divide | Clip [HD] | Netflix



 三者それぞれに生まれた地域、クラス、時代、細かい家族・友人関係、オチのトーン、あるいはドキュメンタリーや劇映画といった違いはあれど、いくつか共通点が見出されます。


 1.前代未聞の事件を起こし、「悪役」として全米から憎まれるはめになった女性が主人公であること。
 2.物語の山場を乗り越えても、彼女たちの人生がまだまだ前途多難であると示唆されること。
 3.一方で、彼女たちは逆風にあっても自分の意地を貫く頑固なキャラクターであること。
 4.彼女たちが人生につまづいた大きな要因が実親による抑圧であること。


 要するに、親との確執を抱えて育った女性が、自主的に発見した才覚と技能によってその親から離れて自立し、栄光をつかみかけるも自分自身に由来するゆがみが遠因となって挫折し、また一念発起して立ち上がろうとする話です。問題の発端である親とは和解したり、しなかったりします。
 まあ、それはいいんですが、共通点がもう一つ。

 彼女たちがものすごく雄弁だということ。

 それぞれ、「スタイルの源流が『グッドフェローズ』だから」だとか「監督脚本がアーロン・ソーキンだから」だとか「インタビュー形式のドキュメンタリーだから」だとか固有の事情を抱えているにせよ、トーニャもモリーもレイチェルもとにかく喋りまくる。
『アイ、トーニャ』のトーニャに至っては他者の証言と真っ向から矛盾する発言をするので作品自体『藪の中』(映画的に言えば『羅生門』)スタイルになっているのですが、ともかく三作品とも「彼女たちのなかにある声」を引き出そうとしています。
 その声は真実を証言しているのかもしれないし、そうではないのかもしれない。いずれにせよ、彼女たち自身による彼女たちの物語であることには変わりありません。
 もともとバイオグラフィカルな映画というのは、世間的には間違っているとされたり無視されたりしている人々の内情や人生を汲み取りやすくしてくれるものです。
 オリンピックのライバルを襲撃した。違法カジノを開いた。人種を偽った。
 ニュースで伝えられるのは、わかりやすく要約された情報だけです。そういうもので、私たちはなんとなく人一人の人生をわかったような感じになってしまう。ほとんどが本人以外の口から語られたものであるにもかかわらず。
 まあ、本人自身が語っているからいって、それが正しいとかぎらないのですけれども、しかし語る権利くらいはある。ワンフレーズでラベリングされがちな人々の声を聞き、世界に一定の複雑性を与える。映画とはそのための装置だったりもするわけです。


『レイチェル』には言葉にまつわるこんなシーンがあります。主人公(取材対象)であるレイチェルは白人であったことが露見して以降、SNSに何か書き込めば見知らぬ人間たちから嵐のように叩かれる状況に陥ります。たとえば、「車にいたずらをされた」と写真付きで発言をアップすれば、即座に「どうせ自作自演でしょう?」「またウソをついてるな」といった否定的なレスでツリーが埋まるのです。経歴を詐称したことで友人たちからも見放されたレイチェルを擁護する人間はいません。
 極めつきは彼女の息子がロースクールに入学するためにある大学を見学訪問したとき。大学の前でポーズをとる息子の写真をアップすると、「あんな女の息子には入学してほしくない」などと本来事件とは関係ない息子を中傷するコメントで溢れます。そのせいで、彼女に残された数少ない味方だった息子との関係が悪化してしまうのです。
 
 ふつうなら、とっくにアカウントを削除していることでしょう。なのに、レイチェルはSNSへの投稿をやめようとはしません。
 監督が「なぜネットリンチを受けるとわかっていてSNSをやめないの?」とレイチェルに訊ねます。
 彼女はこう応えます。
「何もかもコントロールできない状況で、これが唯一コントロール可能なものだからよ。言葉だけは私のものだから」


 受け手のレスポンスがどうあれ、声だけは奪えない。
 それをインフラとしてのインターネットの発展だったり、昨今の映画界をとりまくmetoo運動などと結びつけてもいいのかもしれませんが、とりあえずここでは「そういう時代である」とだけ留保しておきましょうか。

尻のウサギが僕を呼んで:『ピーターラビット』の感想

Peter Rabbit, ウィル・グラック監督、米、2018)
(わりとネタバレを含みます)




映画『ピーターラビット』予告


野うさぎのふたつの身体

 さあ、ご紹介しましょう。彼こそがピーターラビット。わたしたちの物語のヒーローです。
 青いコートに身を包んだ若いウサギ……しかも、ノーパンのね。

映画『ピーターラビット』OPより

ズートピア』になくて『ピーターラビット』にあるものとは何でしょう?


 ずばり、お尻です。

 
 お尻なら最良のが『ズートピア』にもあったじゃないか。心あるひとならジュディがズートピア警察署に初出勤するシーンを想起しつつ、そう反駁なさるかもしれません。
 たしかにスパッツでかたどられたウサギ独特の官能的なヒップラインは、なるほど『ズートピア』における達成かもしれません。しかし、あなたがたは大事なことを忘れていらっしゃる。
 ジュディにしろ、その家族にしろ、みんなズボンを履いているのです。
 どういうことか。
 どういうことだ?

 つまり、生尻ではない、ということです。


ズートピア』世界のウサギたちは、シヴィライズドされた人間の現し身であり、彼ら彼女らは種族の長所である跳躍力を支える尻*1をみずから縛ることによって、文明社会の一員たりえています。社会で生きるということは社会の型にあわせてある程度自分たちの形を削ることなので、肉食動物たちが肉食を封じる一方で、草食動物も自らの「野生」を抑えているわけです。それがウサギたちのズボンに象徴されているのですね。

 かたや、イングランドが生んだ我らが愛されノーパン野郎、ピーターラビットはどうか。
 映画にも原作にも共通することですが、ピーターラビットは基本的にマクレガーさんの農園に押し入って栽培物を強奪する野菜泥棒です。といいますか、害獣です。
 重要なのは速度。ピーターたちは生尻をあらわにして飛び跳ねます。高度に知性化された上半身と野蛮な下半身。相反する傾向がひとつの肉体に宿っていることが、「上だけ衣服を羽織って下半身まるだし」という考えてみれば不思議なピーター一家のファッションに表出しているのでしょう。ただの露出狂ではないのです。
 
 映画序盤、老マクレガーの農園を襲撃(そう、まさに”襲撃”です)するピーター一家のシーンではお尻が強調されます。
 農園へ向かって四ツ足で駈けていくピーターたちを背後からとらえる画面は自然ウサギのお尻づくしになりますし、マクレガー家の柵もウサギたちの尻をちょくちょくひっかけます。
 極めつきは老マクレガーに対して攻勢をかける場面で、ピーターは露出した老マクレガーの半ケツにセイヨウニンジンをつっこむことで、一時的な「勝利」を得ます。ズボンに身を包んだ人間を「野生」のフィールドに引き込むことで勝つ。それが彼等のドクトリンです。*2
 

 ところが映画中盤から、今度は尻と正反対の部位が重要な意味を帯びてきます。頭です。


動物を追う、ゆえにわたしは(動物)である。

 
 ウサギがひたいをくっつけ合う行為は、劇中では「謝罪」と説明されます。
 ピーターたちにとって頭は相手と和解するための器官であり、ここでも野蛮なお尻と対比がなされているのですね。
 もっとも老マクレガーに変わってピーターと対峙することになった新マクレガー(ドーナル・グリーソン)とは、この「謝罪」がうまくいきません。
 というのも、マクレガーがピーターの敬慕するビア(ローズ・バーン)と恋仲になってしまうためで、恋とは縁遠いティーンウサギであるピーター*3も「やさしいお隣のおねえさん」であるビアを取られてしまうことに焦りと怒りをおぼえているのです。*4
 ピーターはマクレガーの寝起きするベッドにトラバサミをしかけ、やはりお尻を攻撃します。ですが、一方で、中盤以降からピーターたちのお尻はあまりフィーチャーされなくなる(ように見える)*5。ピーターはだんだん「野蛮」ではなくなっていくのです。
 その後、詳細は省きますが、なんやかんのあって、ピーターは情緒面でティーンエイジャー的な成長を見せ、マクレガーとも仲直りします。

 そうした点で、本作は知性ある野蛮人だったピーターが(父を殺し土地を奪った)文明と和解し、「人間的に」洗練されるまでの成長物語ともいえるわけです。
「動物を文明化して争いをなくす」という意味では『ズートピア』とほんのり似てるといえなくもない。


 劇中で最も印象的な「頭」の使用シーンは、ピーター、ビア、マクレガーの三者が決裂してしまったのち、ハロッズに復職したマクレガーをピーターが説得してビアのもとに連れ帰ろうとするくだりでしょう。
 ピーターたちを始めとした物語世界の動物たちは喋ることができるのですが、それは基本的に人間には通じないという設定です。マクレガーが農園にきたばかりのときも、袋に捕らえたピーターの従兄弟を掲げて周囲の野生動物たちに「おまえたちもこうなるぞ!」と脅迫するのですが、直後に「なんで俺は野生動物と話そうとしているんだ!」とセルフツッコミをします。
 では、人間と動物との言葉は通じないのか、といえばそういうわけでもなく、ハロッズを舞台にピーターたちが騒ぎを起こすシーンで、子どもにぬいぐるみと勘違いされたピーターの従兄弟が喋るウサギ人形のふりをします。

 つまり、劇中世界において、人間と動物は「コミュニケーションが通じるはずなのに互いに通じようとしない」関係なのです。

 ハロッズの再会シーンで、ピーターとの会話が成立すると気づいたマクレガーは「そりゃ喋れるだろうさ!(I knew you could talk!)」とうめきます。
 そして、これまでの悪事についてのピーターの全面謝罪を聞き、いっしょにビアのもとへ向います。そしてビアとも(やはり上半身を介した)コミュニケーションを通じて和解する。
 それまでピーターたちは暴力やいかにも動物っぽい媚態を通じてしかマクレガーがビアとコミュニケートしてこなかったわけですが、ラストに至ってようやく「対等な相手」として互いをリスペクトしあえる関係になるのです。
 外見で話が一切通じないと判断していた相手が実は対話可能な「人間」だった――一見おバカスラップスティックムービーに見える本作ですが、実は今日的なトピックを奥底に秘めたイイ話なんですね。


ピーターラビットのおはなし (ピーターラビットの絵本 1)

ピーターラビットのおはなし (ピーターラビットの絵本 1)

*1:兎肉ではもっとも美味な部位とされます

*2:ちなみに劇中でピーターたちが「先に僕たちがここに住んでいたのに、あとから人間が来てかってに占領した」という趣旨の発言および再現シーンが映ります。原作にはたしかなかったと思うのですが、「アングロサクソンが先住民を追い出してエンクロージャーする」構図は監督のウィル・グラックの出身国であるアメリカ合衆国の成り立ちを想起させます。ここにも(政治的にやや安直であるものの)「野生VS文明」の構図が仕込まれているのですね。

*3:監督のウィル・グラックのインタビューによると「ピーターはティーンエイジャーのイメージで、妹たちはトウィーン(八〜十二歳)くらいのイメージ」とのこと

*4:このあたりの感情の機微は劇中でピーターの口からすべてセリフでギャグっぽく説明される。親切設計です

*5:一度観ただけなのでもしかしたら勘違いかもしれない