名馬であれば馬のうち

読書、映画、ゲーム、その他。


読書、映画、その他。


1930年代から2000年代までの各10年ごとの映画ベスト10

はじめに

 他人がなんか楽しくワイワイしながら盛り上がってるさまを眺めるのはとてもくやしいものです。わたしだってワイワイしたい。
 最近の twitter でのワイワイ案件としては「◯◯年代映画ベスト10」があります。年代ごとにベストな映画を10本挙げるとかいうやつです。それをここでやります。やりたくなるまでお気持ちの変遷については省きます。
 ちなみに twitter でベストを挙げた方々はそろって「年代ごとに10本しか選べないのキツすぎだろ」とおっしゃってます。私のほうはといえば、今まで観た映画の半数弱? くらい*1が2010年代の作品で、裏を返せばそれ以前の映画はあんまり齧っていません。人間には「知らない分野のことほど気軽に大きなことをいいやすい」という性分があります、よって2010年代以前なら出来心で10本挙げやすい。雑誌なんかのベスト本に妙にラインナップが似通うのもそのせいです。こういうのは選者の人となりがわかる一本の筋の通ったものが読んでておもしろいんですが、まあ、マスに巻かれるのが私のパーソナリティです。
 で、140文字制限のあるところだとタイトルを挙げるだけでギュウギュウになるのですが、せっかくそういう縛りのないブログでやるからには何故選んだかの理由を書きたい。付加価値によるプレミアム感というやつです。
 とは言い条、私はだいたい観た映画の内容の99%を忘れる人なんで、細かくどのシーンのどれがよかった、というよりは「ふわっと」とか「ぐんにょり」とかいったオノマトペが頻出することとなるでしょう。そこらへん、ご寛恕いただけると幸いです。
 
 以下、年代ごとの10選です。選ぶにあたって独自に「アニメは別枠で各年代ごとに一本選ぶ(ただしストップモーションアニメは一般枠)」、「ドキュメンタリーは含めない」といったルールがもうけられています。どういった深遠な理由に基づいてそういうルールが課されるのか、といったご質問については残念ながらお答えできません。わたしにもはっきりとわからないからです。

 では、はじめましょう。おおむね番号順が好きな順です。カッコ内は監督の名前。

1930-40年代

1.『桃色の店(街角)』(エルンスト・ルビッチ
2.『ニノチカ』(エルンスト・ルビッチ
3.『マルタの鷹』(ハワード・ホークス
4.『祇園の姉妹』(溝口健二
5.『市民ケーン』(オーソン・ウェルズ
6.『駅馬車』(ジョン・フォード
7.『大人の見る繪本 生れてはみたけれど』(小津安二郎
8.『極楽特急』(エルンスト・ルビッチ
9.『レベッカ』(アルフレッド・ヒッチコック
10.『狐物語』(ラディスラフ・スタレヴィッチ)

A. 『バンビ』(デイヴィッド・ハンド)


 たぶん、通して観た長編映画で一番古い作品はルビッチの『山猫ルシカ』(1920年)で、そこから30年間くらいの映画はあんまり観ていません。要するにサイレント時代の作品をほとんど観てないわけで、そういう教養を持ってないのはどうかな、とも思うのですが人は教養のために映画を観ているのではないのでしょうがなくない?
 この年代の映画は事故的に出会うといったことがあんまりなくて、しぜん、気に入った監督の作品を掘る過程で摂取していくわけで、そうなるとやはり名前が偏る。つまりはルビッチ、ルビッチ、ルビッチ。
 でもルビッチはどの年代に生まれたとしても最低三作品は入れてたと思う。
 なんなら『生きるべきか死ぬべきか』や『生活の設計』なんかもぶっこんでよかった。ルビッチは神です。ワイルダーも小津もそう言っている。
 個人的にはルビッチのいわゆるスクリューボールコメディのテンポと所作が非常に大好きで、『生活の設計』の出会いのシーンや『桃色の店』の郵便局のシーン、なんでみんなああいうのやんないんだろうとも思う。まあやれないからなんですが。ウェス・アンダーソンは『グランド・ブダペスト・ホテル』で頑張っていた。
 『市民ケーン』だいぶ昔に観ましたね。わりによく覚えています。ときどき『市民ケーン』て今観てもいうほどおもろいか? みたいなご意見を目にしますが、十二分におもろいでしょう。キチガイがアメリカン・ドリームを実現するためにがんばってやがては幻滅ないし破滅する話は普遍的に面白いです。フィッツジェラルドの時代からずっとそうです。だから私たちは今でも『ウルフ・オブ・ウォールストリート』や『ナイトクローラー』といったキチガイ成り上がり映画を見に行く。ジョーダン・ベルフォートもナイトクローラーさんも幻滅はしないところが21世紀ですが。

 アニメ枠は『バンビ』。
 常々言ってることですが、『バンビ』を観たこともない人はもちろん、小さい頃に『バンビ』を観てなんとなく忘れかけてる人もぜひもういちど『バンビ』を観直すべきです。ビビるから。
 アニメーションのうごきがとにかくものすごい。「ぬめぬめ動く」という形容はこれのために用意されたといっても過言ではなく、のみならず動物の毛皮がふんわり膨れ上がるところとか……とにかく官能的、そうエロいんです。この動作のエロさは今現在ディズニーを含めたどこのアニメスタジオも達成できていない。ロストテクノロジーです。オーバーテクノロジーです。アトランティスです。『アトランティス 失われた帝国』じゃなくて。この快楽はたぶん言葉では伝えきれないと思います。



1950年代

1.『幕末太陽傳』(川島雄三
2.『サンセット大通り』(ビリー・ワイルダー
3.『恐怖の報酬』(アンリ=ジョルジュ・クルーゾー
4.『イヴの総て』(ジョセフ・L・マンキーウィッツ)
5.『七人の侍』(黒澤明
6.『ぼくの伯父さん』(ジャック・タチ
7.『近松物語』(溝口健二
8.『大人は判ってくれない』(フランソワ・トリュフォー
9.『現金に体を張れ』(スタンリー・キューブリック
10.『大いなる西部』(ウィリアム・ワイラー

A.『眠れる森の美女』(クライド・ジェロニミ *総監督)


 当然のごとくあんまり観ていない。現代っ子なもので。わたしが子どものころはみんな映画なんか観ずにエロゲをやっていました。
 『幕末太陽傳』はこの世でいちばんおもしろい時代劇だと思います。ちゃんばらとかはないんですけど、短いエピソードを細かくテンポよく刻んでいって、最後にフッと哀しいけどどこか爽快な後味を残してくれる。聞けば、元は落語の寄せ集めだそうですが、これと同じ手法で何かまた映画作ろうとしても、そうそう上手くいかないんじゃないかな。川島雄三の演出とフランキー堺の佇まいがとにかくキレまくってる。
 『イヴの総て』と『サンセット大通り』はキチガイがどんな手段を使ってでも成り上がるアメリカン・ドリーム破滅物語のビフォアとアフターって感じで、私の中では二本でワンセットですね。
 『恐怖の報酬』はいつ爆発するかもわからない爆薬を輸送する男たちの話ですが、とにかく観客へのストレスのかけかたが尋常じゃない。ほとんどイジメに近いですよ、これは。しかも、オチな。オチが……。
 時代のわりには全体的に雰囲気やライティングの暗い映画が多いですけれど、『大いなる西部』はカラッと晴れやかな画面で、ガンマンたちは最後は素手で殴り合う古典芸能ってかんじで、同時代の西部劇では好きな方。

 アニメ枠は実質ディズニーからどれを選ぶかの問題。50年代のディズニーではどの作品にもあまりパッションをおぼえないんですが、スタイリッシュさが光る『眠れる森の美女』でここはひとつ。
 
 

1960年代

1.『ワイルドバンチ』(サム・ペキンパー
2.『反撥』(ロマン・ポランスキー
3.『アパートの鍵貸します』(ビリー・ワイルダー
4.『切腹』(小林正樹
5.『殺しの烙印』(鈴木清順
6.『プレイ・タイム』*2ジャック・タチ
7.『日本のいちばん長い日』(岡本喜八
8.『ミトン』(ロマン・カチャーノフ
9.『裸のキッス』(サミュエル・フラー
10.『地下鉄のザジ』(ルイ・マル

A.『101匹わんちゃん』(ウォルフガング・ライザーマン)


 フランス映画ばかりですね。それとアメリカン・ニューシネマ。時代に流されやすい人だよ。ほんとうは『気狂いピエロ』も下三つと甲乙つけがたいかんじだったのですが……短編(ストップモーション)の「ミトン」と入れ替えても……いや、でも「ミトン」はほんとほんとほんとにヤバいので。短編アニメでマジ感動したのはこれと最近の「ひな鳥の冒険」(アラン・バリラロ)くらいでしょうか。いやストップモーション短編ならもっとあるな。
 『プレイ・タイム』と『日本のいちばん長い日』は一見題材からジャンルまで正反対の映画に見えますが、過剰なまでの段取りへの意識という点で非常に似ているとおもいます。ジャック・タチは段取り魔ですね。犬を(たぶん)演技させずに完璧に段取らせることのできた史上唯一の監督だとおもいます(『ぼくの伯父さん』のオープニングのこと)。この段取り力をデイミアン・チャゼル先生も見習ってほしい。
 演出ではタチですが、脚本のソリッドさならやっぱり僕らのビリー・ワイルダー。『アパートの鍵貸します』は元祖反復伏線芸映画と申しますか、特にコンパクトミラーの使い方が神がかっています。
 ポランスキーはこの頃が一番好きかなあ。『袋小路』とかもいいですよね。『反撥』はナーブスリラーなのに、なんの脈絡もなく路上ジャズ・バンドを出現させて主人公につきまとわせたりする茶目っ気が好きです。オープニングが目ン玉のドアップだと名作の法則を確立した一作。
 
『101匹わんちゃん』、俗に犬を映画に一匹出すごとに自乗して傑作になっていく、といいますが*3、その伝でいくと仮に5つ星だとして5の101乗の星が輝く大名作ということになります*4。ライザーマン時代のディズニーはタッチがすばらしいですよね。今観てもモダンでフレッシュ。『バンビ』の官能とはまた別の快楽がある。
 

1970年代

1.『ナッシュヴィル』(ロバート・アルトマン
2.『ジャッカルの日』(フレッド・ジンネマン
3.『ロング・グッドバイ』(ロバート・アルトマン
4.『仁義なき戦い』シリーズ(深作欣二
5.『スティング』(ジョージ・ロイ・ヒル
6.『エル・トポ』(アレハンドロ・ホドロフスキー
7.『地獄の逃避行』(テレンス・マリック
8.『チャイナ・タウン』(ロマン・ポランスキー
9.『サスペリア』(ダリオ・アルジェント
10.『デュエリスト』(リドリー・スコット

A.『フリッツ・ザ・キャット』(ラルフ・バクシ


 他の年代は割と序列がはっきりしてますけれど、70年代はあんまりそういうのがないというか、上にも下にも飛び抜けたものがありません。
 でもやっぱり『ナッシュヴィル』は特別かな。群像ドラマとしては後の『ショートカッツ』とか、弟子のポール・トーマス・アンダーソンの初期作のほうが洗練されてますけれど、『ナッシュヴィル』はラストがね、ラストがほんとうにいいんですよ。もともとダメだったものたちが本当に完膚なきまでになにもかもダメになってしまったけれど、みんなそれに目を反らして生きていくんだな、という諦念と前向きさとの間にあるような不思議なかんじは唯一無二。それに歌がいい。総体的にも歌がいい。

 それにしても孤独な男がひとりでトボトボ歩いている映画が多いですね。二人でなんとかやっている作品は『地獄の逃避行』くらいでしょうか。しかも、あんまりみんな胸を張っているイメージではない。『ロング・グッドバイ』のエリオット・グールド、『チャイナタウン』のジャック・ニコルソン、『デュエリスト』のハーヴェイ・カイテル……みんなくだびれていてさびしげです。ベトナム戦争を経て、アメリカの男たちはみんな疲れてしまったでしょうね。そんな中で南米から飄々とやってきたホドロフスキージョン・レノンを筆頭としたアメリカ人たちに熱狂的に迎えられたのも、ある種の逃避だったのか。
 『サスペリア』は『2』にするかどうかでかなり迷ったんですよ。どちらもベクトルの違うおもしろさで、そもそもシリーズですらありませんが。

 『スティング』いいですよね。なんかどこかで映画通のひとにコケにされてましたが、なぜあの手の方々(主語)は『ニュー・シネマ・パラダイス』だとか『レオン』だとか『ライフ・イズ・ビューティフル』を貶すんでしょうか。どれも良い映画じゃないですか。
 

1980年代

1.『ロジャー・ラビット』(ロバート・ゼメキス
2.『アリス』(ヤン・シュヴァンクマイエル
3.『笛吹き男』(イジー・バルタ)
4.『アナザー・カントリー』(マレク・カニエフスカ)
5.『フルメタル・ジャケット』(スタンリー・キューブリック
6.『狂い咲きサンダーロード』(石井聰互)
7.『ホワイト・ドッグ』(サミュエル・フラー
8.『食人族』(ルッジェロ・デオダート)
9.『終電車』(フランソワ・トリュフォー
10.『動くな、死ね、甦れ!』(ヴィターリー・カネフスキー

A『となりのトトロ


 屈指の激戦区。実質アニメ作品が三本くらい入ってるようにも見えますが、気にせんといてください。『ロジャー・ラビット』は半分は実写だし、『笛吹き男』には実写のネズミが、『アリス』の主人公は実際の女の子だからセーフというルールです。
 『ロジャー・ラビット』はおそらく映画史に残る傑作というわけではないでしょうし、ライブアクションと2Dアニメの融合という意味では『メリー・ポピンズ』はもちろん下手すればジョー・ダンテの『ルーニー・テューンズ/バック・イン・アクション』にすら勝ってるかどうか怪しいんですが、まあアニメキャラがわちゃわちゃ出てきてアホくさくてとにかく楽しいんです。楽しいって大事ですよ。エンタメですからね。
 楽しいという基準で行けば『笛吹き男』なんか最高に楽しくない映画の一つでしょう。「ハーメルンの笛吹き男」を題材にしてストップモーションアニメでまあとにかく暗いのなんの。画面が暗いし話もドス暗い。人間は絶望するしかないんだなって思う。ソ連とかチェコとかの旧共産圏のアニメってマーケティング的にはかわいさで売ってるくせに、なんか暗澹たる雰囲気のもの多いですよね。でもベクトルがプラスにしろマイナスにしろ、圧倒的な迫力で押し切られたら降伏するしかありません。
 『アリス』、『フルメタル・ジャケット』、『アナザー・カントリー』、どれもカット単位のエロティックさがヤバいです。それぞれ質的に異なる手触りですが、物語だとかテーマだとかそういうものとは別のところで永遠に観続けられるアレがある。
 『ホワイト・ドッグ』は犬映画を語る上では欠かせない一本です。別にここでは語りませんが。『食人族』とセットで観ると明日から「人間は野蛮なのだ……
わるい文明なんだ……」というアルテラさん気分で生きていけます。滅ぼしましょう。
終電車』、作品要素的にも螺旋階段だとか電話だとかトリュフォー映画の集大成みたいなものです。トリュフォーのなかでは一番好きかもしれない。そういえば『動くな、死ね、甦れ!』の感触は『大人は判ってくれない』に似てる気がします。
 ヘルツォークの『フィッツカラルド』が最後まで粘っていたんですが、内容あんま覚えてないし、『食人族』に負けました。メッセージはナレーションで入るくらいわかりやすいほうがいいですね。そのおかげで作ってるほうも絶対こんなおためごかし信じてるわけないと知れますから。
 『狂い咲きサンダーロード』は元祖ウテナ。人間がバイクになります。
 
 アニメ枠はいよいよ選ぶのが難しくなってきましたね。ディズニーは斜陽期ですが日本勢が元気で、『ビューティフル・ドリーマー』、『AKIRA』、『ニムの秘密』、『ドラえもん のび太の大魔境』、宮﨑駿、どれもいいような気もするし、どれでもいいような気もする。でもコンサバなので、『トトロ』で。


1990年代

1.『エド・ウッド』(ティム・バートン
2.『約束 ラ・プロミッセ』(ドニ・バルディオ)
3.『ナイトメア・ビフォア・クリスマス』(ヘンリー・セリック
4.『コルチャック先生』(アンジェイ・ワイダ
5.『許されざる者』(クリント・イーストウッド
6.『フルスタリョフ、車を!』(アレクセイ・ゲルマン
7.『ブギーナイツ』(ポール・トーマス・アンダーソン
8.『ファーゴ』(コーエン兄弟
9.『ファイト・クラブ』(デヴィッド・フィンチャー
10.『フロム・ダスク・ティル・ドーン』(ロバート・ロドリゲス

A.『少女革命ウテナ アドゥレセンス黙示録』(幾原邦彦


 日本映画が入ってませんが、単に絶望的なまでに観てないだけです。
 1~4までは他の年代だったらどれもトップに置いたでしょうね。『ラ・プロミッセ』はかなり昔に一回観たっきりなので思い出補正入ってるとおもうんですが、それでもやはりラストシーンのエモさは屈指だと思います。エモいラストシーンといえば『コルチャック先生』も。なんか最後でエモくなればオッケーになる病気だな、というのはうすうす自覚しているところでもあります。
 っていうかまあリストの上半分はエモい作品ばかりです。下半分はなんというか……人が死んでますね。いや、『ファイト・クラブ』は死んでないけど、精神的にさ。
 『ファイト・クラブ』はとても哀しいお話です。それはそれとしてブラピやジャレッド・レトと殴り合うエドワード・ノートンはいいものです。
 『フロム・ダスク・ティル・ドーン』は何が良かったのか今となってはまったく思い出せないんですけど、鑑賞当時の自分のメモを観てみると「100点!」とあるので100点だったんだと思います。過去の私に免じてエモと人死にが高度に結びついた傑作であるところの『プライベート・ライアン』を押しのけて10枠に滑り込みました。イイ話だな。
 『エド・ウッド』もね、ほんとにイイ話なんですよ。要約すると「どんなに下手の横好きであろうと、自分の好きを貫くことが尊いんだ(報われないけどね)」というお話で、要するに『ユリ熊嵐』ですね。そうか? キチガイにやさしい数少ないアメリカ映画。父親と若いして以降のティム・バートン映画はどれも(『ビッグフィッシュ』とかね)好きです。


 アニメは『もののけ姫』か『ウテナ』か『ライオンキング』か。90年代はいつのまにか「エモさ」がテーマになっているようなので、エモ成分の一番強い『ウテナ』でいきましょう。

2000年代

1.『ファンタスティック Mr.FOX』(ウェス・アンダーソン
2.『コラテラル』(マイケル・マン
3.『イングロリアス・バスターズ』(クエンティン・タランティーノ
4.『ゼア・ウィル・ビー・ブラッド』(ポール・トーマス・アンダーソン
5.『その土曜日、7時58分』(シドニー・ルメット
6.『カンフーハッスル』(チャウ・シンチー
7.『ノー・カントリー』(コーエン兄弟
8.『エレクション』二部作(ジョニー・トー
9.『ミュンヘン』(スティーブン・スピルバーグ
10.『かいじゅうたちのいるところ』(スパイク・ジョーンズ

A.『千年女優』(今敏

 まあ迷いますよね。2000年以降はね。現代っ子ですからね。
 オールタイムベストの『ファンタスティックMr.FOX』は揺るがないとして、あとはどう選んだものか。コーエン兄弟とかPTAとか他で入れたんだからエドガー・ライトとかサム・メンデスとかハネケとかに目を向けるべきではないのか。
 それでも欲望のおもむくままに選ぶとこういう感じになってしまう。業ですな。
 なんか色んな意味で説教映画が多い気がします。みんな説教してもらいたいんでしょう。ある日あなたの前に殺し屋のトム・クルーズや殺し屋のハビエル・バルデムやナチぶっ殺し隊のブラッド・ピットが現れてあなたに説教をし、そして殺す。ブラピは特に説教せずに殺してるだけだったな。あとダニエル・デイ=ルイスがおまえのミルクセーキを吸いに来る。
 『Mr.Fox』、『コラテラル』、『その土曜日』あたりは「なんとなくそれなりに生きてるけど、おれの本当にやりたかったことなんなのかなあ……」映画でもあります。どれも大惨事になりますが。『その土曜日』のフィリップ・シーモア・ホフマンフィリップ・シーモア・ホフマン然とした情けなさでいい感じですが、2000年代のフィリップ・シーモア・ホフマンなら『カポーティ』も良い。ハマりすぎて逆にフィリップ・シーモア・ホフマン感ないですが。
 『カンフー・ハッスル』は生まれて初めて映画館で二度観た思い出の作品です。イイ話枠。
 ジョニー・トーはマジ迷いますよね。『エグザイル』、『ブレイキング・ニュース』、『柔道龍虎房』……別に1から10まで全部ジョニー・トーで埋めてもよかったんですが、コンサバなのでそういう冒険はできないタチのです。しょうがないので人が一番死ぬ作品を選びました。
(追記:『フィクサー』を『ミュンヘン』と入れ替えました。)

 『千年女優』はアニメ映画のなかでもマイオールタイムベスト。今敏、生き返らねえかなあ。


2010年代

 あと二年半くらいあるけど、すでになんか各年代の三倍くらいパンパンで選べなくなってる……。


90年代アメリカ映画100 (アメリカ映画100シリーズ)

90年代アメリカ映画100 (アメリカ映画100シリーズ)

*1:自分的にはけっこう衝撃的な割合で、自分は映画が好きというより映画館に居るために映画を観てるのかな……などとドン・デリーロの小説みたいなことを考えました。

*2:ただし観たのは「新世紀修復版」のほう

*3:今考えた

*4:作中では101匹より多いから本当はもっといく

『20センチュリー・ウーマン』に関する覚書

今年ベストクラスの映画です。
気になったところでまとまりそうなところを箇条書きで。



「20センチュリー・ウーマン」予告編

海(辺)と土と空

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上が『20センチュリー・ウーマン』の、下が『ザ・マスター』のファーストカット。



20センチュリー・ウーマン』は波打つ海を直下に眺めたショットからはじまる。ここでわたしたちはポール・トーマス・アンダーソンの『ザ・マスター』をひきあいに「ファーストカットが波打つ海な映画は大名作」という法則を謳うこともできる。けれども、思い出してほしい。『ザ・マスター』で波状していたのは船による航行の結果であって、『20センチュリー・ウーマン』での何者にも妨げられない本物の波とは違う。
 『ザ・マスター』は「船」に乗っているひとびとの物語だった。かたや『20センチュリー・ウーマン』の登場人物たちは波打ち際であるサンタバーバラに封じこめられている。もちろん、若者たちが過半数を占めるこの映画においてそんな束縛は一時的なものでしかないのだけれど、既に五十の坂を越した母親(アネット・ベニング)にとっては終着点だ。
 そこは何かにつながる場所でもある。日本では主に文字通りの彼岸として用いられがち(最近だと『武曲』)な浜辺は、『大人は判ってくれない』以来の文脈だと行き詰まりであると同時に本当の行き止まりでないところ。船出の場、外から何かが運ばれてくる場。
 だからかもしれない、彼女は息子(ルーカス・ジェイド・ズマン)の育て方に行き詰まったときは決まって浜辺に行く。エル・ファニンググレタ・ガーウィグに「子離れ」の協力を頼む直前も、それを取り消そうと息子を説得する前も極めて短い浜辺のシーンが挿入される。彼女は押し寄せてくる息子の成長という荒波に、彼女なりに対処しようと奮闘しているのだろう。

 では、ベニングはやはり『ザ・マスター』と一緒で船長的な存在なのか。海の人なのか。違う。『ザ・マスター』のファーストカットと『20センチュリー・ウーマン』のファースト・カットで決定的に異なる点がある。視点の高さだ。つまり、『ザ・マスター』があきらかに船の後尾(くらい)の高さから撮影したものであるのに対し、本作は高高度から波を捉えている。眼は空にある。
 本作を最後まで観た人ならおわかりだろうけれど、最後にベニングは子供の頃の夢だった「飛行士」になる。彼女は空の人だ。
 だからなのか、ガーウィグに大地の神秘を語り、母なる地球と合一する瞑想を好み、のちに趣味が高じて陶芸家になる土の人、居候のウィリアム(ビリー・クラダップ)とはやはりくっつかない運命にある*1。雲の高きに舞う鳥は、地上で羽根を休めてもまた飛びだっていくものだ。だからこそのラストカット。最初のカットとは対になるものであると同時に、答え合わせでもある。


マイク・ミルズにおけるネコとイヌ

20センチュリー・ウーマン』では主人公家の飼い猫が優雅な存在感を放っている。
 ネコとくればイヌ。マイク・ミルズのイヌといえば前作『人生はビギナーズ』における主人公の忠犬アーサー(コズモ)が思い出される。これには単なる偶然以上の作為を見出さざるをえない。
 なぜなら、『人生はビギナーズ』はミルズの父親がモデルの、『20センチュリー・ウーマン』はミルズの母親がモデルの、どちらも半自伝的映画なのだから。
 『ビギナーズ』のアーサーは死んだ父親と主人公自身の曖昧な弱さを具現化した存在だ。元は父親の飼い犬で、父の死後に主人公へ引き取られた。彼はとても寂しがりやだ。主人公がパーティへ出かけるために他人へ預けようとすると、切なく喚いて結局主人公を呼び戻す。
 一方的に主人公へ依存しているかといえばむしろ逆な面もあって、主人公のほうでもアーサーの「声(主に人生に関する助言)」が聴こえてきたり過剰な擬人化をほどこすなど依存の兆候が見え隠れする。
 物語上でも、アーサーとの別離が亡き父親に引きずられてきた生活に対する一区切りとなる。アーサーは映画本編全体でも『20センチュリー・ウーマン』のネコに比べてかなり大きな比重を占めているので、詳しい活躍は本編をご覧になってほしい。

 父親と息子を半々で分け合っていたのが『ビギナーズ』のアンニュイなイヌだったが、『20センチュリー・ウーマン』の自由奔放なネコは100パーセント母親だ。
 ネコは常に母親を伴って出現する。大抵は、ベニングが物思いにふけっているシーンだ。そして彼女が思案しだすや、ネコはぴょんと飛んで画面外へと消えてしまう。ネコはベニングの奔放さを表すと同時に、その胡乱さや迷いをも示唆している。
 ネコが彼女の思考と連動する存在であることは、家族に断りを入れずにロサンゼルスへ出かけた息子が帰ってくる直前、ベッドの上で彼女がネコをさわって話しかけるところによく描かれている。ベニングは他人としてネコではなく、自分の分身に言い聞かせるように話すのだ。
 
 イヌであるところの父親とネコであるところの母親、(生物学的にはまったく対立する必要がないのだが文化的には)対立する(しているということになっている)ふたつの種がなぜ結婚してしまったのか。最初から離婚は目に見えていたのではないか。
 この疑問に対する解答は既に『20センチュリー・ウーマン』の劇中でベニング自身の口からなされている。

「あの人が左利きだったからよ。
 私は右利きで、だから朝に二人で新聞を読みながら株価をチェックするときに、彼は左手で値を書きながら、右手で私のおしりを掻いてくれた」
「それだけ?」
「それが好きだったの」

 まったく対照的な二人だったからこそ、なのだろう。


エル・ファニングの階段。

 十五歳のズマンの部屋に毎晩、二歳上のエル・ファニングが泊まりにくる。ふたりのあいだに、いっさいの性的な接触はない。ただ同じベッドで眠るだけだ。
 エルファに恋心を寄せる思春期少年ズマンはこの中途半端な関係に悶々とした毎日を送っているわけだけれども、ところで彼女は二階に位置している少年の部屋までどうやって侵入するのか。
 あらかじめ、彼の部屋に通じるハシゴが設置されているのだ。なぜハシゴがそこにあるのか。家が普請中だからだ。古い屋敷を戦後に買い取ったため、ベニングがクラダップの助けを借りて、毎日ツナギに身をつつんで改装工事を行っている。

 家、家、家。またアメリカ人の映画に家が出てきた。
 しかも、工事中の家だ。さすがに『許されざる者』に出てくる保安官の家のような邪悪さはないけれど、未完成であることはそのままベニングの未完成の家庭状況に対応している。
 そうした未完成な家に住む未完成な家庭の未熟な子どもの心のすきまにハシゴをかけて、毎晩エル・ファニングは少年をふりまわしにやってくる。イレギュラーな訪問手段*2を使うのは彼女も少年とどうなりたいのかよくわかっていないからで、だから一緒にモーテルへ連れ立って一対一の生身の人間として接したときに、それまでの仮初の関係が崩れ去る。そのコテージに出入りするための扉は一つしかない。
 

突然出来た友だち以上義姉未満の存在としてのグレタ・ガーウィグ

(ここにシチュエーションがよく似ているといえなくもない二作、姉弟版であるところの『20センチュリー・ウーマン』と姉妹版であるところの『ミストレス・アメリカ』のそれぞれにおけるグレタ・ガーウィグについて書くつもりだったが既に記事が長くなってしまったので、まあまた今度ということで。) 

*1:ベニングのキッチンが鮮やかなレモンイエローで、クラダップの寝室が青で染められそれぞれ「色分け」されているところにも注目したい

*2:このイレギュラーな訪問手段の使い方が最上級に上手いのが『アナザー・カントリー』

新潮クレスト・ブックス全レビュー〈7〉:『人生の段階』ジュリアン・バーンズ

『人生の段階』(Levels of Life、ジュリアン・バーンズ土屋政雄・訳、著2013→訳2017)


人生の段階 (新潮クレスト・ブックス)

人生の段階 (新潮クレスト・ブックス)


 小説なのかノンフィクションなのか判別がつかない。*1奇妙な書物である。『イングランドイングランド』や『フロベールの鸚鵡』を書いたジュリアン・バーンズを「奇妙」と評すほど無意味なことはないけれど、そんなバーンズ作品でもとりわけ異色であることには間違いない。


 本書は二つの国と三つのチャプターから成る。

 第一章「高さの罪」では、十九世紀の気球ブームにまつわるエピソードが気球乗りにして写真家のナダールことフェリックス・トゥルナションを中心に記述される。
 章題が指すのはイカロスの寓話だ。神に近づくことを夢見た人間イカロスは、その傲慢さを咎められて飛行中に偽の翼を焼かれ墜死する。爾来、ヨーロッパ人は飛行を禁忌としてきたわけだが、気球の登場がその「罪」を克服し、人類を新時代の冒険へと誘った。同じく近代を象徴するツールであるカメラを携えたナダールはその象徴というわけだ。


 第二章「地表で」では、第一章でもそれぞれ気球乗りとして言及された英国人冒険家フレッド・バーナビーとフランス人女優サラ・ベルナール恋物語が綴られる。
 どちらも実在の人物だ。バーナビーはヴィクトリア朝を代表する冒険家で、伊藤計劃の遺作『屍者の帝国』(で円城塔が引き継いだパート)では豪放磊落な人物として描かれているが、本作ではむしろ繊細な青年といった印象。ベルナールはベル・エポックを代表する女優で、ユゴーオスカー・ワイルドとも交流を持ち同時代の文化に大きく貢献した。
 ベルナールは恋多き人物として知られているが、バーナビーと付き合っていたという史料はおそらく存在しない。第一章とは打って変わって、この章はバーンズの創作だ。
 だから、冒頭に宣言される「これまで組み合わせたことのないものを、二つ、組み合わせてみる」は第一章とまったく同じだけれど、続くセンテンスが違う。「うまくいくこともあれば、そうでないこともある。」
 続く文章は気球の技術についてのもので、つまりバーンズは愛とその行く末を気球になぞらえている。

 実際に、地に這いつくばる人間がときに神々の高みに達することがある。ある者は芸術で、ある者は宗教で、だがほとんどは愛の力で飛ぶ。もちろん、飛ぶことには墜落がつきものだ。軟着陸はまず不可能で、脚を砕くほどの力で地面に転がされたり、どこか外国の鉄道線路に突き落とされたりする。すべての恋愛は潜在的に悲しみの物語だ。(p.46)


 悲しみの物語であるところの恋愛はそのまま第二章のベルナールとバーナビーの顛末を暗示すると同時に、第三章のバーンズ自身の物語を予告する。


 第三章「深さの喪失」では、妻を病気で失ったバーンズの彷徨が描かれる。人生の半分を共に過ごした伴侶を亡くした老小説家は、世界に対する関心をなくし、友人や知人たちの言葉や態度に反発し、妻を想起させるあらゆる出来事に涙し、やがては希死念慮を抱くようになる。
 妻の死は彼の趣味すら変える。以前は興味を抱けなかったオペラがきゅうに理解できるようになる。彼は『オルフェオとエウリディーチェ』を観劇しにでかける。イカロスと同じくギリシャ神話に材を取ったオペラで、オルフェウスという男が喪った妻を取り戻しに冥界まで降り、妻の手を引いて現世へ戻ろうとするも、「冥界から脱出するときは決して振り返っていけない」という禁忌を破って妻のほうを振り向いてしまったために再度妻を失ってしまう話。
 最初、バーンズはオルフェウスをバカげた愚か者と考える。絶対ダメと念を押されたはずのルールをなぜ破ってしまうのか。結果がわかりきっているのに、なぜ、と。しかし『オルフェオ』を観たバーンズは一転してオルフェウスに共感する。

 どうして見ずにいられよう。「正気の人間」なら決してしなくても、オルフェオは愛と悲しみと希望で正気をなくした男だ。ほんの一瞥のために世界を失うようなことをするか。もちろん、する。世界は、こういう状況で失われるためにある。(p.115)

 
 墜落するとわかっていてもやめられない。その物語が今のバーンズには納得できる。
 ギリシャ神話、写真、オペラ、愛のメタファーとしての気球、バーナビーとベルナール、イギリスとフランス……反復はパターンを構成する。そしてパターンによって人生は物語化される。バーンズは言う。「たぶん、悲しみはすべてのパターンを打ち壊すだけでなく、パターンが存在するという信念を破壊する。だが、私たちはその信念なしには生きていけないと思う」

 壊れてしまったパターンを直すために断片的な事柄から要素を見出し拾いあつめること。それこそが作家としてのバーンスが行わずにはいられなかった自己セラピー、作中のことばを借りるなら「グリーフ・ワーク」だ。それはそのまま小説を書く作業でもある。本を読み、文豪たちの名言を引き、気球や写真について調べ、ひとつの組織された虚構を著述する。
 その結果として、本書が生まれ、ジュリアン・バーンズはなお生きている。

(2064文字)
 

*1:英語版 wikipedia の作者ページでは「Nonfiction, memoir」にカテゴライズされている