名馬であれば馬のうち

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ラーメンのたまごをどう食べればいいのか問題

 たいして美味い食い物でもないどころか一食あたりベーコン七枚分ほどの寿命を減らす反滋養食にもかかわらず、ラーメン屋という帝国はなぜだか繁栄を極めており、いっこうに滅びる気配がない。
 ことさら嫌いな文化なわけでもなし、滅びないなら滅びないで結構。しかし、もし近々に滅びる予定があるのなら、せめてたまごの食べ方を教示してから滅んでほしいとおもいます。

 ラーメン屋のたまごはむずかしい。まず「たまごください」と頼むと、頼むのは大抵店員にではなく券売機のなかに入ったイルカに対してだが、ともかく頼むと無条件に半熟たまごが提供される。この時点でもうむずかしい。一般に「たまご」といった場合、全人類の半数が想起するのは生たまごであり、残りの半数が想起するのはゆでたまごだ。なぜ「たまご」と言っただけで、半熟が出てくるのか。あるいはイルカの常識ではたまご=半熟なのかもしれないけれど、イルカは胎生の哺乳類であって、たまごが身近にある動物ともおもえない。
 
 食べるときも困る。食べるときが一番困る。
 半熟とは、ようするに半分しか熟してないたまごである。だから、あつあつのスープにつけるとたちまち熟してない側の半分が溶け出てしまう。このとき、不健康なオレンジ色の卵液が油のように豚骨スープと混ざるさまをもちもちぼんやり眺めていると、ラーメン屋のおやじから怒号が飛んでくる。うちのスープはバラの骨だけで取ったピュアな味わいが売りなのに、さっそく一個百円のたまごと混ぜるとは何事か、と。ラーメン屋のおやじというのは別に自分がラーメンを作ってるわけでもないのにやたらラーメンの食べ方にうるさい。でも、店主だけあって客を怒鳴りつける権利だけは一丁前に保証されていて、怒鳴られた方はその日いろいろつらいことがあったのもあって感情が溢れてしまい、もう泣くしかない。おまえごときが泣いたところで、ラーメン屋のおやじは許さない。鬼である。鬼はおまえの涙が枯れるか、耐えきれなくなって金を払って(すでに券売機で支払っているので二重請求である)遁走するまで怒鳴りつづける。濃厚な甘い豚骨スープのはずがこぼれおちた涙ですっかり塩ラーメンのあじわい。
 
 ではどうすればいいのか。
 取りうる方策はひとつしかない。
 スープに浮かんだたまごの黄身に麺をつけて食べるのだ。
 いってみれば、つけ麺の応用だ。半分こに切られて断面を上にしたたまごを椀に、黄身をつけ汁に見立てる。ラーメン椀のなかでラーメン的な行為をエミュレーションするマインクラフト精神に満ちた処理法であるが、言うほど簡単にはいかない。
 半熟卵の黄身はねばりけがつよい。さきほどのようにうっかりもちもちしていると麺を黄身につけた拍子にたまごの舟が転覆してしまい、乗客たる黄身は全員溺死あるいは行方不明。洞爺丸転覆事故以来の惨事として責任者たるおまえは遺族やイルカやそして何よりラーメン屋のおやじからはげしく糾弾され、そのせいで心身を病んで退職し、残りの人生を精神病院のベッドのうえで「どうすればあの悲劇を防げたのか」という逆『ハドソン川の奇跡』的な後悔に苛まされながら生きることになり、のちに中井英夫がその事故を題材にミステリを書いて江戸川乱歩賞に送ろうとするが、第一部までしか書かれてなかったのでさすがに受賞はできない。ようやく塔晶夫名義で講談社から出版されるころには、おまえはすでに死んでいる。なにもかも報われない。でもそれが人生ってもんじゃないか? すべてはおまえの肉体と精神が脆弱だったせいだ。

 なので、おまえは、身体を鍛えだす。筋肉を鍛えたら、健全な精神もしぜんについてくるだろうと無根拠に盲信し、ジムに通う。いちばん大事なのは指先の筋力、そして箸運びの繊細さだ。おまえは練成する。おまえは練達する。誰よりもビルドアップされた肉体と、巧緻極まる箸使いを獲得する。もうラーメン屋のおやじに怒鳴られても泣きべそをかいたりしないだろう。おまえはつよい。おまえは最強だ。

 おまえは憂いも躊躇いもなくラーメン屋に入る。ラーメンを頼む。もちろん、たまごつきで。券売機のなかのイルカが何かを警告するように、きゅう、と鳴くが、慢心したおまえに届くことはない。というか、超音波なのでそもそも聞こえない。
 ほどなくラーメンが収穫されてカウンターに供され、おまえは驚く。
 
 たまごが割られていない。
 
 普通は、切る。二つに割る。そして、平面をを上にし、湾曲した尻をスープに濡らして、ふたつのミニつけ麺汁が出てくる。そのはずだった。だが、目の前にあって至福の二次曲面を具えるその完全なる楕円体は、高潔なまでに浅黒く、淫靡な黄身をどうしても晒そうとしない。おまえは二十年前の淡い初恋をふと思い出しかけるが、今思い出してみたところでなんになる? 甘美な懐旧ではなく、現実からの逃避にしかならない。
 事ここに至っては、もはや熟練の操箸技術も頑健な筋肉も無為無益だ。モミの木から削り出したと称する店特製の割り箸は、つるりとしたたまごの表面をむなしくすべるばかり。焦りは恐ろしい勢いで時間と精神を蝕んでいき、もはやおまえはラーメン屋のおやじの怒号どころか、コンビニの店員の「袋はお分けしますか?」という問いかけにすら泣き出すだろう。
 もうだめだ。
 なにもかもだめだ。
 頭が割れそうだ。
 鼻の上のあたりがじんじんと痛む。

 なぜ、誰も教えてくれないのだろう。みんなどうやっているのだろう。
 みんなどうやってラーメンのたまごを食べているの? なぜ、ラーメン屋にはラーメンの食べ方マニュアルが置いてないの? 言われなきゃわかんないじゃない? こういうの、教えてくれなきゃできないじゃない? じゃなかったら、券売機だけじゃなくて、食べるところまで全部オートメーション化してよ。
 

 そんなとき、 
「お困りですか」
 と、声をかけてきたのが隣に座っていたテッセクラトである。
 われわれより高次元なからだを持つこの正八胞体は、他人をおもいやるこころまで高次にできているらしく、堅牢な白身に守られたたまごの食し方について実に有用なアドバイスをくれた。

「卵だけ、手でつまみ出して口にいれればいいんですよ」
 
 まさにコペルニクス的転回。四次元存在にしかできない、革命的な発想である。そうして、おまえのなかでパラダイムがひとつシフトした音がなり、おまえは無思慮に指をスープに突っ込む。

 熱い。

 おまえは椅子から転げるようにずりおち、のたうちまわる。客たちの視線がいっせいにおまえへ注がれる。ラーメン屋のおやじはもちろん激怒する。
 テッセクラトは他人のふりをしている。だが、彼は最初から他人であったし、むしろ他人でなかった瞬間など毫もなかった。おまえはその認識不可能な横顔に、四次元をサバイブするものの冷徹さを知る。いくら精神を鍛えようと、けして及ばぬ領域があるのだ。そして、それは。

 ラーメン代を二重徴収されて店の外へ放り出されたおまえはもはやイルカにも劣る生き物だ。引退して余生を過ごすなどもう許されない。おまえは人間としての尊厳を、生きる資格を取り戻す必要がある。つまり、おまえが死ぬか、ラーメンが死ぬかだ。
 おまえがラーメン文化の撲滅を決意したのはまさにこのときだろうと言われている。厳密に史料に照らすと、前後数日のスパンで複数の説が入り乱れていて、学界では今も論争の的であるらしいが、おおよそ大衆に信じずるところの「歴史」というものはわかりやすく劇的でチージーなものだ。
 いまだにラーメンのたまごのただしい食べ方はわからないけれども、殺すべき対象だけは精確に識別できる。 


 麺類のモンテ・クリスト伯と化したおまえは、敵側のやわらかい脇腹にまず食らいつく。イルカだ。券売機のなかで一日四時間二交代制時給三千六百円の奴隷労働を強いられているイルカは賃金が払われている時点で厳密な意味での奴隷にはあたらないかもしれないが、その悪辣な資本の論理は間違いなく現代の奴隷を意図しているであろう旨を強く主張し、おまえの復讐に力を貸す。
 イルカが券売機のボタンの灯りを利用したモールス信号で言うには、ラーメン屋のおやじは実はラーメンを作っていない。ラーメンというものは、ラーメンのたまごからできるものであり、麺はたまごの黄身、スープは白身の部分なのだそうだ。ラーメンを作るにあたっては、ただ器のなかにラーメンのたまごを割って落とせば良い。

 ラーメンがたまごからできると言うのなら、その親はなんなのだ、とおまえは尋ねる。
「わたしたちです。わたしたちフジツボ・イルカの無精卵がラーメンのたまごになるんです。
 ジェラル・ド・バリことジラルドゥス・カンブレンシスは1187年にわれわれについてこう書き残しています。
『当地にはベルナカと呼ばれるイルカがたくさんいる。自然に逆らって生まれる、まことに不思議なイルカである。バンドウイルカに似ているが、少し小さい。海に投げられたたまごから産し、メスは十分に成熟すると陸にあがってモミの木のような形へ変化する。その木とオスがつがい、ベルナカのたまごが成る。たまごは熟すと自然に木から離れ、海へと転がっていく。
 孵化しなかったたまごを割ると、しなやかでつるつるしたツタのような黄身が出てきて、これを白身と一緒に煮ると美味である。こうしたことからアイルランドのいくつかの地方では、司教や牧師が斎日にこの鳥を何のためらいもなく食している‥…』
 マンテヴィル卿やヘリット・ド・フェーアといった名だたる冒険家たちもたびたび著書でわれわれについて言及しています。
 おそらく、アイルランドでほそぼそと食されていたわれわれの無精卵に目をつけて、テッセクラトたちが日本にラーメン食を持ち込んだのでしょう」

 そう。
 券売機で働くフジツボ・イルカたちこそ、ラーメンの原材料だったのだ。
 われわれは彼らのこどもたちをすすっていたのである。
 倫理とは……。

 では、ラーメン屋のおやじにどういう役割が与えられているのかいえば、何も与えられていない。彼らはみな近所の狂人であって、きままにラーメン屋のキッチンにやってきてはてきとうに小麦粉の麺をゆがいたり、使ってもない器を洗ったり、麦飯を盛ったり、客を怒鳴りちらしたりしている。実際の業務をやっているのはテッセクラトたちで、彼らはわれわれ三次元生物には見えない空間でラーメンのたまごを器に落としたり、器を洗ったりしている。
 
 するってえとあれだな、とおまえは鼻先を意味もなく親指で拭いながら言う。あまねく四次元空間をぶっとばしちまえばラーメンは終わる。
 
「そして、われわれイルカたちも解放される。理論上は、そうなりますね。理論上は」
 
 そんなに難しいことなのか、とおまえは訊く。

「少なくとも、人間の物理理論では彼らの領域に攻め入る方法は存在しません。」 

 じゃあ、どうする。

「人間のがダメなら、イルカのがあります。
 いいですか。テッセクラトに支配された食べ物屋は何もラーメン屋だけではありません。
 和食、イタリアン、中華、フレンチ、インド料理、ハンバーガー、ケバブ屋、回転寿司……まあとにかく外食産業はどこもテッセクラトに蚕食されてしまっているんです。そしてどの分野でもイルカとカッパが奴隷として酷使されている。
 そんなテッセクラトの陰謀ネットワークの頂点に位置しているのが『ミシュラン』と呼ばれるガイドブックです。
 彼らはそのガイドブックを通じて人間の食欲を支配し、自分たちに都合のいい店に誘導している……そうそう、『ミシュラン』のマスコットキャラがいるでしょう。
 タイヤが重なった姿と言われていますがあんなのは大嘘で、その正体はテッセクラトたちの王――十六次元存在の戯画化された姿です」

 なんということだ。そんなやつらに勝つ方法があるのか。

「勝算は五分といったところですが……
 われわれはこう考えました。
 相手がガイドブックで人間たちの食欲を都合よくマニピュレートしているのなら、こちらも同じ手段で彼らの『フランチャイズ』から人間たちを引き離せばいい。
 つまり、あたらしいレストランガイドの創設です。
 われわれは何年ものあいだ、そのたまごを温めつづけてきたました。すっかり熟して復讐を受肉するまでね。そして今、あなたが現れて時が満ちました。
 
https://tabelog.com

 『食べログ計画』が今こそ孵化するときです。」

 食べログでやつらのラーメン屋の評判を落とせば……。

「テッセクラトたちの野望は潰える。彼らの目的がなんなのかはよくわかっていないんですが、まあそれはどうでもいいですね。さっそくとりかかりましょう」


 おまえたちは手動でテッセクラトたちの店のレビューを入力する。
 アタックをかけはじめてやっと、なぜイルカたちがおまえの登場を待ったのかが判明する。
 フジツボ・イルカたちのヒレはキーボード入力に向かず、スマホを介したフリック入力も流暢とはいえないのだ。なので、いやがらせの主力はおまえだ。イルカと人類の最後の希望。

「まずい」「うんこのあじがする」「スープの中にコンドームが入っていた」という定番disはもちろんのこと、「味は悪くないけど、料理が出てくるのに十分もかかったので星ひとつです」「店員のツラがむかつく」「そもそもラーメンというのが気にいらない」などの難癖も縱橫に駆使して、テッセクラトたちの店をじわじわと追い詰める。
 攻撃開始から三ヶ月も立つ頃には、潰れる店も出てきた。
 その一ヶ月後には二軒。
 その一ヶ月後には七軒。
 一件潰すたびに、イルカたちが総出でおまえのことをほめてくれる。
 おまえの惨めな人生にはついぞなかった幸福だ。
 おまえは勢いづく。
 ドミノだおしのように店が潰れまくる。あらたに解放されたイルカたちの歓喜の声が大波のようにうねる。カッパたちもおおよろこびだ。三軒に一軒はイルカもカッパも出てこないが、調査管理部は誤差の範囲内であると回答している。

 さらに半年後には一週間で七十三軒。
 市内からラーメン屋のみならず、外食屋という外食屋が消えた。


 その日、イルカたちの様子がおかしい。
 みな挙動不審で、おまえをみると皆目をそらす。
 おまえは不安にかられる。

 なにかまずいことをやってしまったのか?

 また、なにか間違えてしまったのか?

 また、ひとりぼっちになってしまうのか?

 おまえは何ヶ月かぶりに泣きそうになりながら、イルカたちの用意してくれたドミトリーへと戻る。
 真っ暗な部屋に入った瞬間、電源にふれてもないのにパッと灯りがつき、複数の乾いた破裂音がさして広くもない空間に響いた。
 色とりどりのリボンがおまえのからだにまとわりついている。
 おまえはわけがわからない。
 眼をあげると、イルカたちの嬉しそうな顔、そして、天井につりさげられた「お誕生日おめでとう!」の垂れ幕。


 おまえはながらく自分の誕生日など忘れていた。


 おまえは、そこで、やはり泣いてしまうのだ。
 イルカたちが心配そうな顔つきでかけよってきて、
 おどろかせてごめんなさい、
 とすっかりおまえも聴き取れるようになったやさしい超音波で語りかけてくるが、ちがう、そうじゃない、そうじゃないんだ。
 おまえはなにかを言おうとするけれども、それらはすべて目もとから溢れる涙に絡み取られて、けっきょく何もことばにならない。
 だが、イルカたちには伝わっている。
 おまえたちは共鳴している。


 おまえはいまだにラーメンのたまごの正しい食べかたを知らないだろう。
 だが、自分が何者であるかを知っている。
 それで十分だ。


動物たち

動物たち

奇怪動物百科 (ハヤカワ文庫 NF (299))

奇怪動物百科 (ハヤカワ文庫 NF (299))

救おうとするから救えない――模造クリスタル『黒き淀みのヘドロさん』

 模造クリスタルは常に世間や他人から廃棄された人間を描く。

黒き淀みのヘドロさん 1 (it COMICS)

黒き淀みのヘドロさん 1 (it COMICS)

(作者のサイトで三話目まで読めます。http://www.mozocry.com/hedrosan/01.html

 
 ここにも廃棄されかけた人間がいる。無表情なお嬢様に仕える執事の少年シャンプーボムだ。彼は、お嬢様からあまりに冷淡に扱われているので自分の人生の意味の無さに絶望しかけていた。
 そこに彼のクラスメイトであるお節介焼きの黒魔術少女レーンちゃんが現れて、少年に「人々を助ける『白馬の騎士』を一緒に作ろう」ともちかける。材料はオホーツク海のヘドロ。理屈は曖昧だけれども、このヘドロに魔術書を用いてマニュピュレートした「人間らしさ」を与えるとヘドロ人間ができあがる、らしい。要はホムンクルスみたいなものだ。
 こうして完成したのが、超ポジティブポンコツ人造ヘドロ少女、ヘドロさんである。
 ヘドロさんは自分を作ったマスター(レーンちゃん)の命令どおり、人助けのためにがんばる。
 この漫画は、概ねそういう枠組みで進んでいく。


王様になる夢を十二時間見る職人は、職人の夢を十二時間見る王様と見分けがつかない

 なんやかんやあってお嬢様と執事の件は落着、というかうやむやにされて、第一巻の後半からは「りもん先生編」がはじまる。

 りもん先生はシャンプーボムやレーンちゃんの通う学校の有名人である。とてもきさくなキャラクターで、学校の先生・生徒からの人望も篤い。学校に通い始めたヘドロちゃんにも優しく接し、学校を案内するなどしてくれる。

 だが、その実体は、自分のことを教師だと思いこんでいる近所のアホである。

 彼女の扱いに困った校長は、レーンちゃんに対して「わけのわからんヘドロ生物の通学を認める条件として、りもん先生の身元を調査しろ」と取引を要求する。
 りもん先生が頭のおかしい無害なアホであればよし、何か裏があるようなら善後策を講じなければならない。 
 が、それは学校の事情である。りもん先生を慕うレーンちゃんたちはヘドロちゃんの人間生活のためとはいえ、気がすすまない。レーンちゃんは言う。
 

「りもん先生が先生じゃないのはみんな知ってる。知らないのは、りもん先生だけ。りもん先生だけが知らない。だから、うまくいってる。だから、この事件を解決する必要はないんだ…」(p.152)

 
 りもん先生の認知が歪んでいるからこそ、まるく収まっている。彼女が正気を戻ってしまったら、認知が他の「まとも」な人と合致してしまったら、誰も幸せでなくなってしまう。レーンちゃんはアメリカ皇帝を自称した狂人ジョシュア・ノートンのエジプト版みたいな挿話を紹介しつつ、その危険性を指摘する。にもかかわらず、探偵行をきっぱりやめようとはしない。妄想狂の幸福な世界は、崩壊に向けてまっしぐらへとつきすすむ。


 前述のように、ヘドロちゃんは人助けのために生み出された白馬の騎士だ。ヘドロという悪から生み出された善である(というように作中では言われる)彼女はまったく裏表なく、純粋な善意と熱意でもって皆を助けようとする。
 その行為は歪みを矯める、という意味において治療ともいえるかもしれない。
 彼女自身が悪から善へと変換されたように、彼女は「間違った状態」にある他人を「正しい状態」へと(彼女自身意図する意図しないにかかわらず)戻してしまう。その過程で歪みの膿みたいなものが表出してしまい、トラブル化する。
 
 「お嬢様編」では、お嬢様と執事との閉鎖的で異常な関係に初めての健全な他者として現れた結果、お嬢様を狂わせてしまうし、「りもん先生編」では、先生の異常性を追求することが先生を追い詰めていく。
 人助けのはずが、介入することや解決することそれ自体が不幸を引き起こしてしまう。それは模造クリスタルの代表作である『金魚王国の崩壊』で見られた、虐待されたバッタを救おうとして結果的に不幸なバッタをふやしてしまう主人公みかぜちゃん的なジレンマだ。あるいはこの救いのない無常さこそ模造クリスタル的世界観のキモと言い切ってしまってもいいのかもしれない。


 人間は、どうすれば。
 
 

模造クリスタルという人

 『金魚王国の崩壊』というメンタルの弱った人に人気のウェブ漫画クラシックがあり、さっき引いたバッタの話でいえば、小学生男子がバットの肢をもいで作った肢なしバッタを自然を愛する少女が買い取り、まもなく死なせてしまい、むなしくなっていると翌日に同じ男子からまた肢なしバッタを売りつけられそうになりキレるみたいな、病的な内容です。倉橋由美子はかつて、中井英夫の小説を病気のときに読むといいのはそれが病的な小説だからなのではなく脳に刺激を与える知的な喜びにあふれた小説だからだ、的なことを言ってたと記憶してますが、中井英夫中井英夫でまあいいとして、病的なフィクションも病人には効くんだと思います。ほら、ホメオパシーって疑似科学、あるじゃないですか。

 で、そんなメンタルに効くレメディである『金魚王国』の作者が模造クリスタル先生です。ネットやコミティアで精力的に活躍したのち、四年くらい前に『ビーンク&ロサ』なるキテレツな作品で商業デビューを果たしました。で、第二冊目の単行本として今年出たのが今回紹介した『黒き淀みのヘドロさん』(it COMICS)というわけです。
 amazon で名前を検索すると panpanya (『動物たち』『足摺り水族館』)や派手な看護婦(『魔女団地』)などの漫画家たちがついでにヒットしますが、まあ、そういう感じの漫画家です。
 ここはいい所ですね。なんて世界は目新しいんでしょう。すべてが光って見えますよ。

『モアナ』はいかにしてプリンセスという名の呪縛に打ち克ったか

*公開初日かつコンセプトの話が主なのでストーリーの話はほぼしてませんが、「こういうオチにはならない」と明かしている点においてはネタバレです。

モアナ「あのね、わたしはプリンセスじゃない。族長の娘だよ」
マウイ「いいや、プリンセスだね。ドレスを着て、動物の相棒をつれてるんなら、プリンセスだろ。ナビゲーター(Wayfinder)にはなれない」


映画『モアナと伝説の海』日本版予告編


 先に『モアナと伝説の海』(原題: Moana)の核心となる革新性*1について触れておきます。


 『モアナ』は、プリンセス物語ではない初めてのディズニー・プリンセスものです。


 どういうことか。
 ディズニーのプリンセスものを構成する二大要素がございまして、つまり、「お姫様」と「愛」です。これらに「歌」と「動物」を加えて四大元素といきたいところですが、まあ今回はさておいておきます。今回は「お姫様」と「愛」のみに注目しましょう。

プリンセスいじりの歴史

 90年代にディズニーは新たな可能性を模索するなかで、この二大要素のうち「お姫様」の見直しに着手します。その結果生まれたのが、『アラジン』のジャスミン(アラブ系)や、『ポカホンタス』(アメリカ先住民)のポカホンタスといったマイノリティ人種のプリンセスたち。中国を舞台にした『ムーラン』のムーランは単にマイノリティというだけではなく、男たちに混じって戦争に加わる「戦う」プリンセスでもありました。
 しかし、彼女たちも結局ラストでは「王子様と末永く幸せに暮らしましたさ」で終わるハッピー・エヴァー・アフターの重力に取りこまれます。そこがディズニーをして長らく「なんだかんだで旧来の女性像を押しつけているだけじゃないか」と批判される要因となってきたのです。

 2008年にピクサーを合併してジョン・ラセターとエド・キャットムルがディズニー作品を仕切るようになってからも「プリンセスはいじるけど、お定まりの結婚エンド(とそれに付随する恋愛)はいじらない」という姿勢はさして変わりませんでした。
 2010年の『塔の上のラプンツェル』は、批評的成功と商業的成功の両面でついにディズニープリンセス・ミュージカルを復興したという点においてエポックメイキングでした。が、この作品においても冒険を通じて相棒役の男性キャラとの愛情が育まれ、最後は結婚して終わります。

 そして、2013年の『アナと雪の女王』。アナ雪の何がディズニー的に画期的だったかといえば、「疑うべきは「お姫様」の形態ではなく、「愛」のあり方だったのでは?」と気づいた点に尽きます。それまでディズニーアニメで描かれてきた「愛」とは主に男女間の恋愛(初期には結婚そのもの)であり、それが女性としての幸せに直結していました。
 でも、愛ってそれだけなの? もっと愛って色んな種類があるんじゃないの? ――そうした疑問*2がアナ雪をあのユニークな結末へと導いたわけです。プリンセスものという形式にあえて則ることで、その批評的な再解釈の効果を最大化したのですね。

アナ雪以後の作品としての『モアナ』

 企画自体はアナ雪の完成以前から立っていた『モアナ』ですが、観客はやはり「アナ雪以後のプリンセス物語」と位置づけて観ます。
 第一印象として、『モアナ』はまた「お姫様いじり」に退行したかのように見えます。モアナはポリネシアンとしては初めての「プリンセス」です。南太平洋を舞台にしたディズニー映画は『リロ・アンド・スティッチ』があります(『モアナ』でも非常に目立つ形でオマージュが捧げられています)が、作品内容とリロの幼さ(五歳)から公式であれ非公式であれ、まずディズニープリンセスに含まれることはありません。
 何より、モアナの隣に控えているのは逞しい筋肉ムキムキの半人半神の男性マウイ。これまでのスマートでハンサムなプリンス像からはかけ離れていますが、観客は「ああ、このベビーフェイスのマッチョマンといい感じになるんだろうな」とある程度予期します。

 
 ところがどっこい、本作には恋愛要素がほぼ出てきません。もっぱら、モアナとマウイのコンビによる冒険と自己探求が描写されます。もちろん、物語が信仰するにつれ、二人の絆は深まっていきます。が、それが恋愛感情へと昇華されることはありません。二人はあくまで相棒(buddy)なわけです。


 ジョン・マスカーとロン・クレメンツのディズニー最年長監督コンビは、インタビューでこう答えています。

マスカー:ジェンダーに左右されないお話にしました。ロマンスもなし。
クレメンツ:彼女はこの映画のヒーローであり、英雄的な旅に出て、海とつながったスーパーパワーを持っています。そういう意味でも、やはりスーパーヒーローなのです。彼らは仲間(buddy)であり、だからこそ助け合う。
http://www.denofgeek.com/uk/movies/moana/45647/ron-clements-john-musker-interview-moana-disney-animation

 

ジョン・マスカー:私たちはモアナは新しい種類のプリンセスであると想像しました。冗談まじりにですが、「バッドアスなプリンセス」としてキャラ付けしたんです。私たちは彼女を冒険アクションのヒーローと考え、青春成長譚(coming-of-age story)として物語を作ったんです。
http://www.denofgeek.com/uk/movies/moana/45647/ron-clements-john-musker-interview-moana-disney-animation

 
 アナ雪でさえ主眼に置いていた「愛」からプリンセスを解き放とうとしたわけです。いくら冒険しようが、いくらおてんばで男勝りな性格に設定しようが「愛」がプリンセスを縛ってしまう――と考えたかどうか。
 「愛」ではなく冒険重視の姿勢はクライマックスの改変からも伺えます。当初考えられていたエンディングはモアナがあるキーアイテムをある場所に埋めこむために海の中へダイブして、そこで閉じ込められてしまい、マウイが救助にかけつける、というものでした。ところが、この案は「あまりにマウイがヒーロー的になりすぎる」という理由で却下され、完成版のモアナが主体的に活躍する案へと変更されたのです。
 そうして『モアナ』は、Time 紙の Eliza Berman が指摘するように、プリンセス物語やラブ・ストーリーというより自己発見の物語となりました。

 別のインタビューで監督たちは作品のテーマは「内なる声を聴け。すべてはそこにある」であるとも言っています。*3
 どうすれば幸せを手に入れられるか、というよりも、自分は何をやりたいか、何をすべきなのか、自分は何ものなのか、どこからやってきて、どこへ行くのか、そういった過去と未来のアイデンティティを探ることこそが本作のキモなのです。
 そのことがよく表れているのがミュージカル部分。それらはすべて「自分(たち)について」の歌です。人物紹介ソングはミュージカルの基本ではありますし、近年のディズニープリンセスものでアイデンティティがらみの歌が出てくることもさして珍しいわけでもなかったのですが、それにしても『モアナ』は多い。アナ雪でさえ、「扉を開けて」があったのに。*4
 そして、「自分とは何者なのか」という問題意識の点でマウイとモアナは相似していて、それが二人の間に結ばれる絆のきっかけとなります。
 

 本作は旅と冒険のスペクタクルに溢れています。しかし、エンディングの先にあるのはハッピー・エヴァー・アフター式の落ち着いた幸せではなく、さらなるスペクタクルと探求の日々です。
 ある人にとってはディズニー映画がアナ雪でさえ描かれていた「愛」を捨てたように見えるでしょう。ある人にとってはディズニー映画がこれまでとは別種の「愛」を獲得したように思えるでしょう。
 一方で、モアナはプリンセスでありつづけます。しかし、それはお城で着飾って王子様とダンスする、という意味でのプリンセスではありません。人々の行くべき未来を示し、道を果敢に切り拓いていくリーダー的存在、劇中での言葉を借りるなら、「族長(チーフ)」です。
 最初に「プリンセス物語ではない初めてのディズニー・プリンセスもの」だと言ったのは、そういう意味です。なんか書いてくうちに、最初の意図と違ったような感じになったかもですが、まあ、ともかくもそういう感じです。


*1:not ダジャレ

*2:まあアナ雪が実際にそうした問題意識でもって制作されたかどうかはまた別にして

*3:また別のインタビューではプロデューサーも同様の趣旨の発言をしているので、チームとしての共通見解なのでしょう

*4:そう、「扉をあけて」はラブソングです。思えば、ディズニーミュージカルのド定番は「A whole new world」にしろ、「Can you feel the love tonight」にしろ、「Beaty and the Beast」にしろラブソングばかりですね。ラブソングであればプリンセスとプリンスのデュエット曲になるのでそこに感動的なケミストリーが生じますし、主演同士が揃いぶむというので映画のクライマックスにも据えやすい。プリンセス・ミュージカルのパロディを志向するアナ雪にとって、「扉を開けて」は避けては通れない道であり、これがあるからこそプリンセスが孤独に歌う「Let it Go」が活きるのです。