名馬であれば馬のうち

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『ラビング 愛という名前のふたり』の感想

『ラビング 愛という名前のふたり』( Loving 、ジェフ・ニコルズ監督、2016年、米)



映画『ラビング 愛という名前のふたり』予告


光と影のヴァージニア

 個別の愛自体になんら「特別さ」などなく、愛は常に普遍的で、だから『ラビング』は二人の出会いや生立など語らない。いきなり、黒人女性ミルドレッド(ルース・ネッガ)が白人の恋人リチャード・ラビング(ジョエル・エドガートン)に対して「妊娠したの」と告げるところからはじまる。
 舞台は1950年代のヴァージニア。白人と黒人はそれぞれ違う場所で、交わることなく生活している。
 だが、そんなことは意に介さず、ふたりの幸せは柔らかい陽光にくるまれてトントン拍子に育っていく。
 妊娠から間もなくリチャードはミルドレッドを雑草が伸び放題になっている空き地へ連れていき、「ここに僕たちの家を建てよう。結婚してくれ」とプロポーズ。二人の和合を象徴するかのような黒と白のツートンカラーに塗り分けられたフォードの1957年式フェアライン・クラブ・ヴィクトリアを飛ばし、ワシントンDCの役所でつつましい結婚式を挙げる。
 そうして新居に婚姻証明書を掲げ、ラビング夫妻の蜜月生活がスタートする……はずだった。


 不幸は、深夜、新居のドアをぶちやぶって侵入してくる。
 何者かの通報により*1地元の保安官が現れ、「ヴァージニア州では異人種間結婚は法律違反だ! ワシントンでの結婚証明書? そんなものは無効だ!」とふたりを乱暴にしょっぴいていく。
 牢獄で不安な一夜を過ごしたのち、夫のリチャードだけが先に保釈される。彼に照りつける東部の太陽が眩しい。もはや太陽は彼らの味方ではない。もはや昼間に安息はない。それから二人は夜へと逃げ込むことが多くなる。


 さらなる勾留期間と保釈金を積み、ミルドレッドも牢屋から解放される。夫婦に言い渡された刑は執行猶予のついた一年の懲役、そして、二十五年の州外追放。
 ふたりはワシントンで暮らすミルドレッドの親戚を頼って、緑豊かな故郷を離れ、街で*2暮らすことになる。
 途中で出産のためにヴァージニアに舞い戻って再逮捕されるなどのアクシデントを経たものの、三人の子宝の恵まれて、夫婦はワシントンでの慎ましい平穏を手に入れる。彼らの生活空間には光が溢れ、もはや日陰の身ではない。ツートンカラーだったヴィクトリアも、黒人街での生活に馴染んだ一家に呼応してか、黒一色の車に換わった。
 ところが、ミルドレッドには何かがひっかかっていた。狭くて危険も多い黒人街は小さな子どもを育てるのに適していない。緑多く、温かい彼女の実家のある故郷ヴァージニアでのびのびと育って欲しい……。そんな思いが募っていたある日、彼女はテレビで公民権運動のニュースを観る。もはや理不尽な不平等に縛られる時代ではない――ニュースに刺激されて、彼女はロバート・ケネディ司法長官に自分たち夫婦の苦難について手紙を出す。これがきっかけで、ふたりは全米を揺るがす憲法裁判の当事者となっていく。



レンガを積んで家を建てる男

 劇中、何度も繰り返されるモチーフがある。
 工事現場で働くリチャードがモルタルを塗ってレンガを積み上げていくシーンだ。レンガを積み上げるのは東部の白人男性たる彼の生業であると同時に、「家庭を妻に任せて、外で仕事をする夫」の姿であり、家を自力で築き上げる理想的で男らしいアメリカの男性像でもある。
 積まれるレンガは、どんな場面でも常にせいぜい四五段積まれた程度の低い状態だ。それは不器用で口下手で堅実な彼のキャラクターをよく表している。
 聡い妻が家でテレビを観て時流を敏感に察知し、手紙を書き、テレビのインタビューに答える一方で、彼は朴訥にレンガを積みつづける。
 だが、外で「変化」に直接晒されるのは夫のほうだ。ヴァージニアへ出戻り、ふたりの「犯罪」の見直しを迫る裁判が始まると、仕事場に停めたリチャードの車からミルドレッドの写真に包まれたレンガが発見される。白人の同僚による、あきらかな脅迫だ。しかも、仕事場からの帰路で、不審な車からあとを尾けられたりもする。彼は妻にはそういうことを報告せず、夜、ライフルを握りしめてバルコニー立ち、周囲を警戒する。ふたりを引き裂く侵入者は、夜におとずれるものだから。
 ミルドレッドはミルドレッドで、自分や夫だけでなく子どもや全米の黒人たちの未来を背負っている自覚を持っているので、マスコミの取材に積極的に応えようとする。夫の方はその取材のせいで妻の身が危険にさらされていると知っているので、頭ごなしに止めようとする。妻は口下手な夫の不機嫌の理由がわからない。
 微妙にすれちがっていく二人の愛情が観客からすればはがゆくもあるが、それでもやはりまあ愛は愛なので、落ち着くとこへ落ち着くことだろう。


 彼の築き上げようとしている「家」とはなんなのか、という問いは*3ラストシーンであざやかに効いてくる。
 夫は妻のために、二重の意味で「家」を建てたのだ。



余談

 雑誌のカメラマン役のマイケル・シャノンが取材のために夫婦の家を訪れるシーンがあって、この人とジョエル・エドガートンが同じカットにおさまっているのを観ると、みょうな感動が湧きます。シャノンはジェフ・ニコルズ監督のお気に入りらしく前作『Mud』にも出演していましたね。
 日本では三月にソフトスルーされる同監督のSFジュブナイル『ミッドナイト・スペシャル』でもこのふたりが共演するらしい。楽しみです。

*1:劇中、「誰かがチクらなければバレなかったのに」という冷静に聞いてみれば割りとトンデモない発言が出てくる。当時のお隣さんからすれば目立つことこのうえないであろう異人種間夫婦が白昼堂々同居生活を送っていても、特に悪意をもった人物に密告されないかぎりは平穏にすむ可能性が高かった、ということだ。アメリカのド田舎の治安事情が垣間見える。

*2:街――おそらくはスラムで暮らしている黒人たちをミルドレッドが車のなかから初めて眺めるシーンで、汚らしい浮浪者たちがゴミを漁る野良犬のイメージと重ねられているのが興味深い。

*3:まあ最初から九割がたわかりきったものであるけれどそれでも

映画『ラ・ラ・ランド』の感想――夢を夢見て。

ラ・ラ・ランド』(La La Land, 2016年、米、ダミアン・チャゼル監督)


 引用が引用であることそれ自体に意味を持つような状況が成立するのは、どのような場合なんだろうか。それはおそらく、物語のあらゆる要素が「過去」で構成されている場合にちがいない。引用が主題ではなく、同種の要素の一部に埋もれていくような場合であるにちがいない。『ラ・ラ・ランド』とは、そういう映画だ。



「ラ・ラ・ランド」本予告



 失われていくものへの愛惜というのはどこにでもあるもので、『ラ・ラ・ランド』では、それがジャズ・映画館・ミュージカル・青春と多層的に塗り重ねられていく。
 オールドなフリースタイルジャズを志向するジャズピアニスト、セブ(ライアン・ゴズリング)には自分の好きなジャズを演奏して稼げる場所を持てずにいて、旧友であったキース(ジョン・レジェンド)に誘われてやっとジャズをできるようになるんだけれども、彼のバンドの曲は「一般受け」するようにアレンジされたものだった。


 不満顔のセブに、キースは言う。「おまえが古き良きジャズをやりたがってるのはわかるよ。でも、ジャズは現に死につつある。おまえらみたいなのが殺しつつあるんだ。おまえはジャズバーでピアノを弾いていたけど、客は老人ばかりだっただろ? 子どもや若者が聞かない文化は滅びる。おれたちの曲なら、子どもや若者が聴いてくれる」
 セブは何も言い返さない。黙って、彼のバンドに従ってツアーに参加する。
 適者生存が科学的に正しいとはかぎらない。でも、結果的に適応したものが残るのは確かで、変わらないものは滅んでいく。そういうものだ。
 ここで、セブが墨守しようとしているジャズは本当に「古き良きジャズ」なのか、「古き良きジャズ」などそもそも実在するのか、といった疑問が湧くかもしれない。が、措いておこう。ジャズの内部事情などジャズの人にしかわからない。映画は視覚と視野をフレーミングするメディアだ。その矩形の内部では「映画」以外のあらゆる文化・芸術・歴史が相対化され、陳腐化され、ステロタイプ化される。そして、発信力と訴求力ででっちあげた「真実」で他のメディアを圧倒的に凌駕しうる。



 監督のダミアン・チャゼルはそうした暴力性でもって、画面のそこかしこに失われていく文化を愛すべきものとして刻印している。ハリウッド・スタジオ、シネコン以前の映画館、オープンなアメ車、タップダンス、ファッション、古典映画(『理由なき犯行』)、フィルム、プラネタリウムイングリッド・バーグマン、そして、ひたむきに夢を追う青春時代と愛。
 ヒロインのミア(エマ・ストーン)は女優志望のカフェ店員だ。彼女も過去からやって来た。
「なぜ、女優をめざそうと思ったの?」とセブは訊く。
 ミアは「叔母も女優だったの」と言う。
「巡業劇団のね。私は通りの向こうに小さな図書館がある家で育った。ネヴァダのボウルダー・シティ――どの家もまったく同じ見た目をしていた。十歳のときには、もう何がなんでもこの街から出なきゃ、って思うようになってたわ。そんなある日、叔母が街にやってきたの。彼女は図書館から古典映画を借りてきて、私に見せてくれた。ふたりで一日中映画を観まくったの。『赤ちゃん教育』、『汚名』、『カサブランカ』……世界があんなにも広いんだって、初めて知った。」

 
 ミアとセブ、ふたりの夢は常に過去にある。
 本作の重要な引用元の一つである『雨に唄えば』がサイレント映画からトーキーへの、過去から未来への変化に夢を託したのとは対照的だ。
 現実世界では古きものに拘ったり憧れたりするのは失敗のもとだ。だから、ふたりとも壁にぶつかってしまう。女優として、ミュージシャンとして、行き詰まってしまう。夢を追えなくなってしまう。二人の残された選択肢は、夢見た理想をごまかして妥協するか、夢そのものをすっぱり諦めてしまうか、の地獄の二択だけ。どちらを選んでも、夢見た過去を諦めることになる。

 
 わかっている。
 過去に未来はない。
 過去にある夢とは懐かしむための夢想であって、新しい自分を切り開くタイプの夢とは別物だ。


 しかし、しかしだ。
 そもそも映像とは過去を現在に夢見るためのツールではなかったか。
 何かを撮影し、記録し、再現する。どれだけ技術が発展しても、その要諦は百五十年前から変わらない。劇映画は記録された過去を現在や未来として詐称するけれども、展開される光景は常に過去のいずれかの地点で撮られたものだ。
 さらに言うならば、何かを志向するという意志は過去に起こったものを摂取したから生じるのであって、本作に即して言うならミアは古い映画を見たから今の映画をやりたくなった、セブは古い音楽を聴いたから今の音楽をやりたくなった。
 使い古された後藤明生の名言を今更繰り返すのもちょっとした勇気を要するけれど、何故小説が書かれるのかといえば、作家が「小説を読んでしまったから」なのであって、それは小説、創作のみならずあらゆる営為に当てはまる。読んでしまったから。
 ダミアン・チャゼルも過去に書かれた夢を読んでしまった一人なのだろう。それも、過剰に読んでしまった人なんだろう。
 夜観る夢と物語は本人の想像、つまり自分の見たものの範疇でしか描かれえないという点で似ている。だから、チャゼルは「観たもの」を自分の夢に出しまくる。
 結果、『ラ・ラ・ランド』は不必要なまでに古典ミュージカル映画の引用に埋め尽くされることとなる。不必要なまでに、というか事実、ストーリーテリング的にまともに機能している引用は少ない。
 過去を再現するための夢めいた引用は、たいていの場合、悲惨な結果に終わる。
 夢の文脈は純度百パーセントで本人に依るもので、他人から聞かされる「おもしろかった夢の話」が常に退屈なのはそういう文脈を理解できないからだ。


 だけど、チャゼルはこの夢のジレンマを強引に解決してしまった。
 自分の夢を、登場人物と観客それぞれの脳みそにむりやりぶち込んでしまったのだ。映画の暴力性を利用して、自分の夢で画面の内から観客席までを憧れで染め上げてしまった。
 それを私たちはラストの十分に観る。
 私たちはありえたかもしれない過去を、夢として観る。夢とわかって、観ます。このバランス。その夢が短いピアノ曲一曲のなかに凝縮されています。
 思います。あ、これって映画なんだ、と。これも映画なんだ、と。限定された時間に濃縮された夢を追体験し、共有すること、そういうのって、とっても映画なんじゃないか、って思うんです。だからこそ、美しいんです。画面で展開されている原色の『巴里のアメリカ人』もどき以上に、現に映っているライアン・ゴズリングエマ・ストーンのダンス以上に、綺麗なんです。
 それはどちらの夢でもあるから。
 夜見られる夢であると同時に、未来に浮かぶ夢でもあるから。

2016年に観た新作映画ベスト25とその他

ベストといいますか、この一年書いた感想のまとめといいますか。
今年は去年ほど映画を観ない気がします。

映画トップ10

1.『クリーピー 偽りの隣人』(黒沢清監督)

 ホラーやサスペンスに共通して重要な要素に「不吉さの予感」がある。人がただ歩いているシーン、談笑しているシーン、食事しているシーン、そういうなんの変哲もない日常が次の一瞬にはもう粉々に砕け散っているかもしれない、そういう破壊的な恐怖がホラーをホラーに、サスペンスをサスペンスにならしめている。人間の一挙手一投足あるいは感情ですらも、すべて暴力的な所作になりうる空間があるとすれば――あるのか? ある。『クリーピー』は、それを作り出した。

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2.『ズートピア』(バイロン・ハワード&リッチ・ムーア監督)

 仮想敵を立てるのは卑怯だと承知してはいるけれど、言わせてほしい、世間には『ズートピア』みたいなウェルメイドな作品を指して「完璧すぎてつまらない」という人がいる。いい子ちゃんすぎるというのだ。われわれは異常なものを観に映画館に来ているのであって、健常なものなんか映画館に溢れているじゃないかと。
 大きな間違いだ。「完璧すぎる」というのは、そもそもが異常な事態だ。人や物事には、ふつう、なにかしら欠落がある。去年の映画でいえば、『スティーヴ・ジョブス』(ダニー・ボイル監督)を観た人ならわかるかもしれない。完璧さを徹底して追求する人、追求できてしまう人は何かがおかしい。
 我々が『ズートピア』に惹かれてやまないのは、この映画が無限に汲み尽きない狂気の鉱脈だからだ。それはディズニーというブランドそのもののコンセプトでもある。完璧な狂気。

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3.『ハッピーアワー』(濱口竜介監督)

 五時間半ある。二度の休憩を挟んで、六時間。個人的には三時間以上の尺を持つ映画を映画と呼びたくはないのだけれど、まあ実際に映画として公開されている代物だし、映画的なモーメントに満ちているし、なによりものすごくものすごくものすごく面白いのだから、個人的な定義などいくらでも曲げてよくないか?
 なぜおもしろいのか。コミュニケーションとディスコミュニケーションをテーマにしたサスペンスだからだ。この組み合わせは、超々長尺の作品を撮るにあたっての最適解といえる。コミュニケーションが切れたり繋がったりするのは下世話な僕たちの本性を捉えるし、そこにハラハラドキドキのサスペンス性が加わればもう時間なんてものはなくなったに等しい。画面にかぶりついたまま光陰が矢のごとく過ぎていき、気がつけば陽はとうに暮れている。*1

4.『ドント・ブリーズ』(フェデ・アルバレス監督)

 とてもとてもとてもおもしろい、の一言に尽きる。

5.『バタード・バスタード・ベースボール』(ウェイ兄弟)

 Netflix 限定。
 カーク・ダグラスのお父さんがかつて所有していたマイナー野球チームの伝説を負ったドキュメンタリー。ベースボールがアメリカの神話であることがよくわかるし、そういう意味ではフィリップ・ロスの『素晴らしきアメリカ野球』やケン・カルファスの『喜びと哀愁の野球トリビア・クイズ』、あるいは映画*2『フィールド・オブ・ドリームズ』にも比肩する。

 まあ詳しくは以下。

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 それにしても、このころはキチガイみたいな文章量書いてましたね。キチガイだったんでしょうか。

6.『人生はローリング・ストーン』(ジェームズ・ポンソルト監督)

 めんどくさいワナビとめんどくさい作家のロード・ムービー。
 インディーズの監督には人間のめんどくささを描く人も多いけれども、自分にはジェームズ・ポンソルトのそれがしっくりきます。

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7.『ファインディング・ドリー』(アンドリュー・スタントン監督)

 アイデンティティの喪失による孤独を描写した作品としてはあらゆるフィクションのなかでも最高峰。
 
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8.『ディストラクション・ベイビーズ』(真利子哲也監督)

 人が人を殴る。とりあえず殴る。なにがなんでも殴る。そういうものが最高なのはしょうがないんです。映像は暴力を映すのに適したメディアなんですから。
 

9.『映画 聲の形』(山田尚子監督)

 山田尚子という闇を、人類が超克できる日は来るのだろうか。
 
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10.『ミストレス・アメリカ』(ノア・バームバック監督)

 なんだかよくわからないけどパワフルでクズな義姉(予定)についていって、それをネタに小説を書こうと目論むクズの話。去年は劇場公開された『ヤング・アダルト・ニューヨーク』もあったけど、バームバックの最高傑作はこっちだと思う。そうですね、アメリカの神話みたいな話ですよ。ゴッドではなく、ゴッデスの。
九月に観た新作映画短観 - 名馬であれば馬のうち

+10

11.『レヴェナント 蘇りし者』(アレハンドロ・ゴンサレス・イニャリトゥ監督)

 クマに襲われたディカプリオがだんだんクマになっていくところがよかった。

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12.『ザ・ギフト』(ジョエル・エドガートン監督)

 クズ野郎映画の傑作。「実際にいそう」なクリーピーさでは『クリーピー』に優るし、物語を悪用するのは物語によって復讐されるという説話の構造も巧い。

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13.『マダム・フローレンス! 夢見るふたり』(スティーヴン・フリアー監督)

 こういうダメ人間同士が支え合って世界を構築する話を観ると自動的に泣く。

14.『ハドソン川の奇跡』(クリント・イーストウッド監督)

 語り口のテクニカルさでは群を抜いている。法廷ドラマに「人間要素」を持ち込んで、しかもそれがロジカルに成功する点でも斬新。*3
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15.『ブルックリン』(ジョン・クローリー監督)

 ミア・ワシコウスカ映画を観るのは義務であるが、シアーシャ・ローナン映画を観るのは権利である、とルソーも言っている。*4
 一人暮らししてる人はだいたい感動するんじゃねえかなあ。あと、服飾が抜群にキュート。

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16.『淵に立つ』(深田晃司監督)

 クリーピーな隣人映画その三。道具立ては『聲の形』に近い。でも、冒頭のメトロノームに象徴されるように、テンポの映画ですね。一家四人の食卓で、浅野忠信の早メシ芸をフルレングスで見せるその心意気。

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17.『この世界の片隅に』(片渕須直監督)

 玉音放送を聞いた皆が「あー戦争終わった終わった」モードに入るなか、すずさんだけが「一億総玉砕するんじゃなかったのかよ! だったら、最後までやれよ! みんな死ぬまでやれよ!」とキレるシーン良かったですよね。こういうキレかた好きです。

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18.『エブリバディ・ウォンツ・サム!!』(リチャード・リンクレイター監督)

 永遠ではない永遠を永遠にするために映画はあるのだ、と気づいた最初の人類なんじゃないかな? リンクレイター。

19.『スロウ・ウエスト』(ジョン・マクリーン監督)

 新人としては今年最大の収穫。ウェス・アンダーソンっぽく西部劇をやる、とそれだけ聞いたら Youtube でよくみかけるパロディ映画以上のクオリティにはならないな、と思うんだけど、ちゃんとどう語れば映画になるのかを監督が熟知しているのでおもしろい。
 ウェス・アンダーソンフォロワー映画といえば、昨年は『僕とアールと彼女のさよなら』がありましたね。こちらもなかなか観せてくれる。

20.『神聖なる一族 24人の娘』(アレクセイ・フェドルチェンコ監督)

 寒い土地で性にまつわる益体のない寓話を24篇垂れ流すだけで極上の時間を過ごせるという新発見。

+5

『DOPE ドープ!』
『さざなみ』
『ロブスター』
サウルの息子
『日本で一番悪い奴ら』

各部門賞

(自分の中で)ブレイクスルー俳優

ジェシー・プレモンス - 『ブラック・スキャンダル』、『ファーゴ』S2、『疑惑のチャンピオン』、『ブリッジ・オブ・スパイ』 
 ドーナル・グリーソン - 『エクスマキナ』、『ブルックリン』、『ソング・オブ・ザ・シー』、『ブラックミラー』S2、『レヴェナント』
 シャメイク・ムーア - 『DOPE』、『ゲット・ダウン』
 テッサ・トンプソン - 『ディアー・ホワイト・ピープル』、『ボージャック・ホースマン』
 ジェニファー・ジェイソン・リー - 『ヘイトフル・エイト』、『アニマリサ』
 ベン・キャロラン - 『シング・ストリート』
 トム・スウィート - 『シークレット・オブ・モンスター』

 あくまでの僕のなかでブレイクした俳優なので……『ナイト・オブ』観てりゃあリズ・アーメッド(『ローグワン』)も入ってたかも。ベン・ウィショー(『ロンドンスパイ』、『パディントン』、『ロブスター』、『白鯨との闘い』、『リリーのすべて』)も迷ったけど、やはり去年の『ホロウ・クラウン』S1だよな、ということで。

歌曲部門

☆シング・ストリート「Drive it like you stole it」(『シング・ストリート』)

Sing Street - Drive It Like You Stole It (Official Video)

 RADWIMPS 「前前前世」(『君の名は。』)
 クリストファー・ウォーケン「I wanna be like you」*5(『ジャングル・ブック』)
Sia「unforgettable」*6(『ファインディング・ドリー』)
 仁科カヅキ、大和アレクサンダー「EZ DO DANCE -K.O.P. REMIX-」*7(『劇場版 KING OF PRISM』)
 中田ヤスタカ「NANIMONO (Feat. 米津玄師)」(『何者』)
 コモン, ビラル & ロバート・グラスパー「Letter to the Free」(『13th ――合衆国憲法修正第十三条――』)
 リンジー・スターリング(ft. アンドリュー・マクマホン)「Something Wild」(『ピートと秘密の友だち』)
 コトリンゴ「たんぽぽ」(『この世界の片隅に』)
 

作曲部門

☆Disasterpeace 『イットフォローズ』
 小野川浩幸『淵に立つ』
 エイドリアン・ブリュー「ひなどりの冒険」
 ブルーノ・クーレイス&キーラ『ソング・オブ・ザ・シー』
 カーター・パーウェル『キャロル』
 牛尾憲輔『聲の形』
 坂本秀一『溺れるナイフ

クマ映画オブザイヤー(Kumamiko d'Or)部門

☆『レヴェナント』
 『ジャングル・ブック
 『パディントン
 『ディズニーネイチャー/クマの親子の物語』
 『くまのアーネストおじさんとセレスティーヌ』(DVD発売)

長編アニメーション部門

☆『ズートピア
2『聲の形』
3『この世界の片隅に
4『ファインディング・ドリー
5『劇場版 探偵オペラミルキィホームズ

アニメ映画ついてはだいたいこちらで書きました。
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あと『ひな鳥の冒険』を讃えるために短篇アニメ部門もやろうとしたけどノミネーションするほど数足らなかった。
ケヴィン・ダートのこれとかいいですよ。

Netflix でしか観られないでしょう部門

☆『バタード・バスタード・ベースボール』
2『タンジェリン』
3『最後の追跡』
 『13th ――憲法修正第十三条――』
 『サイレンス』
 『ディヴァイン』
 『ディアー・ホワイト・ピープル』
 『カンフー・パンダ3』
 『マイ・リトル・ポニー:エクエストリア・ガールズ - フレンドシップ・ゲーム』
 『粒子への熱い想い』

Netflix is 神。
『タンジェリン』はiPhoneで撮影した低予算映画。トランスジェンダーの売春婦が刑務所から出所してきて元カレを探す話。アツい友情話です。
『最後の追跡』は Netflix オリジナル映画で、アメリカでは各紙の年度ベストテンにランクインしてますよね。「奪ったものもまた奪われゆくのだ」という無常さが佳い。
『13th』は『グローリー(Selma)』の監督がとった黒人差別についてのドキュメンタリー。あらゆる意味で、観るべき映画です。『ディアー・ホワイト・ピープル』とセットでね。
 特に推したいのは『サイレンス』。スプラッタホラー版『聲の形』ですね。ぜんぜん違うぞ。監督のマイク・フラナガンは間違いなく今後のアメリカホラー界を代表する人物になる(というか、もうなっている)ので、『オキュラス』と伏せてよろしくお願いします。

ソフトスルー部門*8

☆『人生はローリング・ストーン』
2『ミストレス・アメリカ』
3『スロウ・ウエスト』
 『ワイルド・ギャンブル』
 『遥か群衆を離れて』
 『愛しのグランマ』
 『ミニー・ゲッツの秘密』
 『アノマリサ』
 『ナイト・ビフォア』
 『僕とアールと彼女のさよなら』

『ワイルド・ギャンブル』はクズ野郎俳優ベン・メンデルソーンのクズ野郎っぷり(ダメ人間方面)が遺憾なく発揮されたクズ野郎映画。お相手はデッドプールさんことライアン・レイノルズだから二度クズ美味しい。
『遥か群衆を離れて』はトマス・ヴィンターベア待望の新作。名作文学を映画化した恋愛文芸映画なんですが、ほとばしる変態性が止まらない。特に男がフェンシングの剣をヒロイン(キャリー・マリガン)に素振りするシーン。メタファーにしてもはしたなすぎです!『愛しのグランマ』、佳作とはこういう映画を指すのでしょう。

シアターライブ部門

☆『人と超人』
2『戦火の馬』
3『ロミオとジュリエット
 『ジ・エンターテイナー』
 『ハムレット
 『冬物語

映画館通いを怠けているとすぐに上映が終わるナショナル・シアター・ライヴ。今年はケネス・ブラナーがはじめたKBTLもはじまりましたね。
今年はなんといっても『人と超人』。不朽なるバーナード・ショーの人間観察に万歳。

このクズ野郎俳優がすごい!

ベン・メンデルソーン - 『ワイルド・ギャンブル』、『ローグ・ワン』、『スロウ・ウエスト』
 『ザ・ギフト』のあいつ(ネタバレにつき)
 マイケル・シャノン - 『ドリームホーム 99%を操る男たち』
 ベン・フォスター - 『疑惑のチャンピオン』
 ホアキン・フェニックス - 『教授のおかしな妄想殺人』
 アダム・ドライバー - 『ヤング・アダルト・ニューヨーク』
 アレクサンダー・スカルスガルド - 『ミニー・ゲッツの秘密』
 佐藤健 - 『何者』
 シャーリーズ・セロン - 『ダーク・プレイス』
 本木雅弘 - 『永い言い訳


 昨年に続き、ベン・メンデルソーンが連続受賞。『ワイルド・ギャンブル』の情けないギャンブル依存症の男と、『ローグ・ワン』の哀しい中間管理職役が光りました。

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 『ドリーム・ホーム』のマイケル・シャノンや『疑惑のチャンピオン』のベン・フォスターはクズはクズでもアメリカン・ドリームの狂気の化身って感じである種の崇高さがありました。その点でいえば、『ヤング・アダルト・ニューヨーク』のカイロ・レンことアダム・ドライバーも現代のアメリカが生んだ新手のクズみたいな感じでしたけど、まだこっちは良心ない系のサブカルクズ野郎として卑俗な普遍性があったかな。
 ホアキンは、まあいつものウディ・アレン映画のクズ。六十や七十になってニーチェドストエフスキーをひきずっているのもどうなんだと思わないでもないですが、こういう芸風なのでしょうがない。
 『ミニー・ゲッツ』のアレクサンダー・スカルスガルドは付き合っているシングルマザーの娘(まだ中学生かそのくらい)と関係を持つという、まあこれだけでクズとわかるクズですが、グダグダと責任のがれをしたがる様もなかなかポイント高い。
 『何者』の佐藤健、この人のクズさはユニバーサルさではダントツなので、誰も逃れられないでしょう。反面、本木雅弘は元祖日本のめんどくさいクズ男子といった趣。
 『ダーク・プレイス』のセロンさんは原作よりクズさが薄まっていた気がしますが、やはり一家惨殺事件に同情したひとたちの寄せてくれた募金でニート暮らしをするインパクトは一級品。

クズ野郎映画アンサンブル賞トップ10

☆『日本で一番悪い奴ら』
 『アンフレンデッド』
 『ミストレス・アメリカ』
 『クリーピー 偽りの隣人』
 『エブリバディ・ウォンツ・サム!!』
 『ヤング・アダルト・ニューヨーク』
 『人生はローリング・ストーン』
 『人と超人』
 『淵に立つ』
 『何者』

 基本的にここに挙げた映画に出てくるキャラは漏れなくクズです。でもまあ一口にクズといっても色んなタイプがあって、『日悪』のクズたちは犯罪者だけど犯罪者である点さえなければ気のいいアンちゃんばかりなのでほのぼのします。犯罪者なんですけどね。
 『アンフレンデッド』の人らはホラー映画に出てくる典型的なクズティーンなんですけれど、そのクズっぷりの演出が半端じゃない。胸くそ悪いクズどもが無残な目にあってスカッとしたいアンチクズ野郎映画ファンにもオススメです。
 『エブリバディ・ウォンツ・サム!!』の人たちはクズっていうか、大学内では割りとエリートなんですけれど、まあ愛嬌のあるクズで、むしろバカと言ったほうがいいのかな。『日悪』と似ていないこともない。

姉映画賞

☆『ライト/オフ』(姉弟)
 『ブルックリン』(姉妹)
 『ミストレス・アメリカ』(義姉妹)
 『ブレア・ウィッチ』(姉弟)
 『ドント・ブリーズ』(姉妹)
 『この世界の片隅に』(姉妹・小姑)
 『スーサイド・スクワッド』(姉弟)

 姉映画はやはりホラー映画が強いわけですが、直球の姉弟愛を見せてくれた『ライト/オフ』に栄冠を。
ホラー姉映画といえば、姉はだいたい味方サイドに位置することが多いわけですけど、『ブレア・ウィッチ』は敵対サイド(厳密には違う気もするけど)に立っていて興味深い。
 『ドント・ブリーズ』のどこが姉映画だ、という意見は多いかもしれません。しかし、考えてみてください。物語後半で大金を手に入れた主人公(姉)が異常なまでに金に執着するあまり、脱出の選択を間違えてしまう。傍から見ると、単に金に汚い女の自業自得です。が、ここに姉映画という視座を導入することによってシーンの意味合いが変わる。そもそもなんで主人公に金が必要かというと、最悪な家庭環境から妹を救い出すためなわけです。つまり、彼女にとって老人の金とは妹の命や未来とイコールなのです。そういう目で観てみると、醜悪な狂態が崇高な愚行に見えてきませんか。見えませんか。ならいいです。
 『スーサイド・スクワッド』はラッキー姉映画(姉映画と期待してなかったのに姉映画だった姉映画のこと)でしたね。弟が倒されると一気にヘナヘナとしおらしくなる魔女姉さん、百点。

ドラマ

☆『シリコンバレー』シーズン1〜3
 『ファーゴ』シーズン2
 『ストレンジャー・シングス』シーズン1
 『ゲットダウン』シーズン1(半分)
 『ハウス・オブ・カード』シーズン4
 『Empire 成功の代償』シーズン2〜シーズン3途中
 『レディーダイナマイト』シーズン1
 『ロンドン・スパイ』
 『Veep』シーズン1
 『ホロウ・クラウン 嘆きの王冠』シーズン2

アニメ

☆『リック・アンド・モーティ』シーズン1〜2
 
proxia.hateblo.jp

 『ボージャック・ホースマン』シーズン3
 『アドベンチャータイム』シーズン5
 『シンプソンズ』シーズン27
 『フリップフラッパーズ』第一期
 『ぼくらベアベアーズ』シーズン1
 『くまみこ』第一期
 『宇宙パトロールルル子』第一期
 『ユーリ!! ON ICE』第一期
 『FはFamilyのF』シーズン1

*1:ここでいうサスペンスとは、つまりウソや隠し事がバレるかバレないか、というハラハラドキドキのことだ。人は誰しも致命的な秘密を抱えながら、そしらぬ顔で他人と会話に興じている。致命的な秘密、といっても何も人を殺したとか実は狼男だとか、そんな大層なものでなくていい。
たとえば、さっき勢いでナンパした主婦と偶然飲み会で一緒になって、その場の流れで自分が相手の不倫で離婚する羽目になったバツイチだと告白する羽目になるだとか。夫である編集者との不貞が疑われている女性作家が、その妻の前で不倫と関係あるようなないような短篇を朗読するだとか。  観客は登場人物たちの抱えたささやかで致命的な秘密を神の視点から把握し、その秘密が露呈する一歩手前のハラハラを楽しむことができる。『ハッピーアワー』が卓抜しているのは、観客が知れるのはその秘密のガワの部分だけで、核心部のところは巧妙に隠されている点だ。
さっきのたとえでいえば、ナンパした主婦とバツイチの男は飲み会のあいだじゅうアイコンタクトっぽい視線を交わすが、そこのあたりの二人の本心はわからない。朗読劇にしても、本当にその編集と作家が一線を越えてしまっているのかについては、妻と観客には伏せられている。
各自の「行為」までは覗き見できても、「心」までは覗けない。この作劇のバランスが、テーマとも合致して、本作を豊穣な群像ドラマに仕立てている。

*2:原作は小説だけど

*3:たいていまあ挑発で相手の失言を誘って大勝利、みたいなガッカリ展開が多いじゃないですかそういうの

*4:言ってない

*5:元曲は1967年版から

*6:元曲はナット・キング・コール

*7:元はTM

*8:限定公開・特集上映含