名馬であれば馬のうち

読書、映画、ゲーム、その他。


読書、映画、その他。


10月に観た新作映画の短い感想。

一ヶ月分をまとめて書こうとすると結構内容忘れますね。



👎『ジェーン(Jane got a gun)』(ギャビン・オコナー監督)


「ジェーン」予告編

 なにかとマッチョな男ばかり画面にあふれがちな西部劇で、ひとつ女性を主題に据えて撮ってみようじゃないかとナタリー・ポートマンの肝いりで作られたらしい。ところが当初監督する予定だった監督が撮影数日前に突如降板してしまい、出演者のジョエル・エドガートンが急遽オコナーをひっぱってきて代打させることに。
 女性を主役に西部劇、といってもジョン・ウェインの魂をそのままポートマンに注入したようなノリではなくて、あくまで当時の女性のリアリティに沿って、どこまで書けるか挑んだもの。そういう意味で志は高い。志は高いけれども、作劇自体は不必要に回想シーンを多様する構成のせいで、なんというか全体に緩慢におちいっているきらいがあります。
 それでもドンパチシーンがしっかりしてりゃあいいかなと思っていると、二人 vs 十数人の包囲戦で、さあ、どうやって無双して逆境にはねかえしていくかとなったときに、庭に仕掛けた火薬やなんかを家のなかから撃って忍び寄るクソどもを炎上させてしまう。マップ兵器を使ってしまう。
 細腕の女性とエドガートンのタッグだとそんなもんですよ、と言いたかったんだろうけど、そこはポートマンなんだから、単騎で十人ぶち殺すくらいの気概が欲しい。っていうか、夫に重傷を負わせたクソやろうどもがやってくると知るや、おやかな妻の装いからシュッと雄々しいガンマンの装いへ変身する序盤のシーン見たら期待するでしょ。クソどもに勝つのもわりとスムースというか、あっさり風味だし。

 それでも、ジョエル・エドガートンがらみのシーンはよかったかな。クソどもの斥候を話術で交わしつつ撃つシーンの緊迫感、逆に広大な平原に潜む姿なき敵たちに撃ち抜かれるときの絶望。オコナーの悪い言い方を緩慢な、良い言い方をすると丹念でエモい演出は総体的にはマイナスだったと思うけれど、こういうところではある種の無常さを醸し出すのに貢献していた。*1
 キャラもいいしね。戦争に行って帰ってくると子どもを亡くし、奥さんを寝どられていた元夫。それが奥さんに懇請されて、奥さんと今の奥さんを助ける羽目になる。もちろん、簡単に呑み込める感情じゃない。最初は、重傷を負って寝込んでいる今の夫に地味な嫌がらせしたりしちゃう。こういう「小物感あるけど根は良い人」を演じさせるとエドガートンはハマる。
 そのエドガートンの特質をよく活かしたのが、『ザ・ギフト』だ。


👏『ザ・ギフト(The Gift)』(ジョエル・エドガートン監督)

映画『ザ・ギフト』 予告篇 スマートフォン版

 今月のベスト。
 プロデューサーとエクゼクティブ・プロデューサーにジェイソン・ブラムとジェイムズ・ワンを迎えたおおよそ間違いのない布陣で、しかも監督はジョエル・エドガートン。長編初監督ですが、短編はいくつか既に撮っていたそう。
 あんまり筋をバラせない系のお話なんだけれども、いちおう説明しとくと、ロサンゼルスの郊外に引っ越してきた夫婦(ジェイソン・ベイトマンレベッカ・ホール)が夫の高校時代の同級生だという怪しい男ゴード(ジョエル・エドガートン)と再会する。高校で生徒会長までつとめた人気者のベイトマンは、陰キャラだったエドガートンのことをよくおぼえていないのか、ひさしぶりの対面にもどこかぎこちない。「あいつは、まあ、良い奴だよ」と妻に紹介するセリフもふわふわしている。
 それをきっかけに、エドガートンは夫妻に対してプレゼントを送ったり、何度も訪問して些事を手伝ったりとやたら親身に接してくる。妻のホールは「ちょっとコミュ障っぽいけど、親切で良い人じゃない」みたいなスタンスなんだけど、夫のベイトマンはそんな彼女に対して「あいつは俺が会社で出ているのを知ってて、昼間にやってくるじゃないか。きっとお前を寝どろうとしているだ」とやたら刺々しい。
「知ってるか? あいつは高校時代『ウィアード・ゴード(キモいゴード)』ってあだ名つけられてたんだぞ」
「ひどいあだ名ね」
「高校生ってのはそんなもんさ。俺だって『シンプル・シモン(アホのシモン)』だった」
 ベイトマンの無神経さがにじみ出ていてなかなか生々しい。
 ともかく、ベイトマンは過剰なまでにエドガートンとの付き合いを拒絶する一方で、ホールは夫がエドガートンを遠ざけようとすればするほど憐れみからか彼に付き合ってあげようとする。
 観客は「ベイトマンはたしかにヤなやつだけど、まあでもリアルでああいう間合いの詰め方するコミュ障にあったら警戒するよな」と漠然と考える。成功したビジネスマンであるベイトマンに比べて、エドガートンはみすぼらしい格好をした正体不明の男。どう考えても無職。傍から見たら、一方的にベイトマンにすりよろうとしているようで、そういう人のキモさってあるじゃない?

 そんなこんなである晩、夫妻はエドガートンに食事へ招待される。ベイトマンはとうぜん行きたがらないんだけど、ホールの押しでしぶしぶ出席することに。教えられた住所に車を飛ばすと、そこに建っていたのはベイトマンや観客が予想もしていなかった豪邸だった……。
 ここから物語がものすごい勢いでドライブしだす。

 ネタバレをさけつつ評するならば、「ウソをつくと閻魔様に舌を抜かれる」という道徳訓であり、「物語を利用するものを物語に仕返しされる」というビブリオフィリックな寓話でもある。お題目やひとつひとつの要素はシンプルだけど、その「ウソ」の描き方の深度がものすごい。ウソをつく方はどういう戦略にもとづいてウソをつくのか、ウソをつかれるほうはそれがウソだと気づいたときにどういう心情になるのか、それは人間関係にどのような影響をおよぼすのか、そのあたりのゲームを繊細にエドガートンは描いている。

 俺監督俺主演系の映画って、監督が自分の役者としてキャラクターを極端に勘違いしてるか、深く理解できているかのどちらかになるんだけれども、これは圧倒的に後者。
 善人と悪人、異常と正常のあいだを振り子のように行き来するゴードという人物。その得体の知れなさに、エドガートンという役者が完璧にフィットしているし、ひいては『ザ・ギフト』という複雑怪奇な物語に一貫した説得力を与えている。
 そして、なによりその存在感。冒頭の夫妻とブティックだか家具屋だかで邂逅するシーンで、楽しげにショッピングする夫妻の後方、大きなガラス窓の外でぼやけている人影。ほんとうにぼんやり映ってるだけなのに、ひと目で異様な雰囲気な発してるヤツがあそこにいるぞ!!! とわかるんですよね。あれはすごい。
 一歩間違えれば捻りすぎたしょーもないクソ映画になりそうな材料をよくここまで極上にしあげたものだ。ジョエル・エドガートンの才能はいくら賛美してもしたりない。(((まあ元々ぼくがジョエル・エドガートンびいきだという欲目もあるけれども))

 夫妻の夫役であるベイトマンも卓絶している。
 『モンスター上司』にしろ『アレステッド・ディヴェロップメント』にしろ、もとから気弱で受け身な巻き込まれ型なようでいて芯はクレイジーなキャラがうまいという印象はあったんだけど、本作ではそんな魅力を史上最高級に発揮している。ここもキャスティングの妙だとおもう。『ズートピア』に続いて、今年の主演男優賞ものだ。


👏永い言い訳』(西川美和監督)

映画『永い言い訳』本予告

 長い間本を書かずにテレビタレントと化していた小説家(本木雅弘)がスキー旅行へでかけた妻(深津絵里)の不在をいいことに、若い女(黒木華)と倫セックスにしけこんでいたら、突然岩手県警を名乗る男から電話がかかってきて「奥様がバスの事故に巻き込まれたようでして……」と言う。
 バスの事故? テレビのニュースでやってる滑落事故のことか? まさか? 妻は旅行に行くと言っていたけれど、たしか……たしか……どこへ行くと言っていたんだっけ?

 その通り、本木雅弘はクズ野郎だ。
 この映画は本木が美容師でもある深津絵里に髪を切ってもらうシーンからはじまるのだが、そこから観客に本木のクズ男っぷりが余すところなく提示される。
 鏡を見つめながら、耳で自分の出演しているバラエティクイズ番組の音声を聞いていた本木は深津に「観てないんだったら消せよ」と要求する。深津は本木が嫌がっていることをなかば了解しつつ、「え〜観てるもん」と冗談っぽく拒否する。ここまでなら仲のいい夫婦のじゃれあいだが、本木が「俺をバカにしてんだろ」とばかりにマジギレして無理やりテレビを消して、空気がなんとなく不穏になる。
 イライラしながら本木は、「幸雄くん」と自分の本名を人前で呼ぶのをやめるように深津に言う。本木の演じる男のフルネームは衣笠幸雄。元広島カープの「鉄人」衣笠祥雄と漢字違いの同姓同名だ。往年の名プレーヤーを想起させるこの名前が嫌で、小説家としては別にペンネームを持って、それで通すようにしていた。
 「そんなこと言われても、私にとって幸雄くんは昔から私にとって幸雄くんだし……」
 深津は本木と大学時代に知り合い、小説家デビュー以前から本木を支え続けた、世に言うところの糟糠の妻だ。そこも本木は気に入らないらしく、
「俺が食えなかったころに食わせてやってたのは誰だ? って言いたいわけか?」
 と妙につっかかる。
 自分の快不快で妻に対して物事をまかりとおそうとする様子は、亭主関白というよりはむしろ聞き分けのない子どものわがままっぽい。
 そういう印象を受けるのは、本木がブータレているあいだじゅうずっと深津に散髪してもらっているからだ。
 家で誰かに髪を切ってもらうのは、信頼と言うか甘えがないとできない。のちに判明することだけれども、本木は結婚以来ずっと深津に髪を切ってもらっていた。
 結局、本木は肥大化した自意識を深津のお母さん性に丸抱えしてもらっているだけのガキなのだ、彼が本当に関われる(と自分で思い込んでいる)のはと妻だけなのだ、この冒頭の五分そこそこだけで観客に飲み込ませる。

 で、その疑似お母さんを失った四十路の大きなこどもがどうやって社会(西川美和作品のナガレからいえば「世間」)と健全な関係を構築していくか。それを手探りで求めていく話だ。その過程で、妻とは自分にとってどういう存在であったのか、逆に自分とは妻にとってどういう存在であったのかがわかっていく。わかったところで死んでしまっているので、どうすればいいんだよってなるところはなんとも西川美和っぽいというか。

 まあ他にも同じ事故犠牲者遺族であり妻の友人の夫でもあった竹原ピストルの子どものお守りを代行することを通じて「そして父になる」っぽい感じなる筋もあるんだけど、そこでも本木のフェイク野郎感が露呈する瞬間が描かれていて佳い。もっとも、予想していたよりはずいぶん本木に対してやさしい仕上がりになっているけど。
 本木はヤなやつだし、テレビマンは無神経だけど、全体的に悪人がいない系のお話だ。みんながみんなが完璧にオトナや人間やっていけてるわけじゃないけど、でもパーフェクトでないことに絶望する必要はない。要はおもいやりなんだよ。想像力なんだよ。人と人の(適度でわきまえた)関わり合いなんだよ。そういう感じ。


 あと映像的には、テレビドキュメンタリーを撮影してる最中にカメラのまえでキレだした本木に対してタックルをかますマネージャー(池松壮亮)の水平な横運動、ある諍いからリビングを出ていった本木を追いかけるときに椅子を蹴ってガタンと立つ竹原ピストルの垂直方向の縦運動、そのふたつがやたら快楽的に、自分のフェティシズムの在り処がまたひとつわかった感じです。


👍『ディア・ホワイト・ピープル(Dear White People)』(ジャスティン・シミエン監督)


Dear White People (2/10) Movie CLIP - Dining Hall Dispute (2014) HD

Dear White People Official Trailer #1 (2014) - Comedy HD

 ネットフリックスで視聴。
 アメリカの名門大学の学生たちが調子こいてミンストレル・ショー(白人が顔を黒く塗った黒人の装いで行うショー)にちなんだ仮装パーティを開いてめっちゃ怒られた実話をもとにした黒人青春群像劇。
 エスタブリッシュメントを目指して「いい子ちゃん」ヅラするエリート学生、リアリティ・ショーに出演して名声を得ることを目論む Youtuber 女子、「ディア・ホワイト・ピープル」という学内ラジオ番組でえんえん白人をディスりまくるDJ(『クリード』でマイケル・B・ジョーダンの恋人役をつとめ、『マイティ・ソー』シリーズの新ヒロインにも内定しているテッサ・トンプソン)、記者志望のゲイ、といった個性豊かな面々が、学校のダイバーシティ推進方針にもとづいて白人学生も住むようになった元黒人学生寮を中心としてドラマを展開していく。
 かなり黒人差別問題にコンシャスな作品で、当然、ステロタイプに批判的だ。ただ、単純に「こういうステロタイプはよくないよね」と言うだけじゃなくて、「こういうステロタイプはよくないよね」と言明することによって生じるある種のアイデンティティポリティクスのあやうさや、逆にステロタイプジョークの種に使わないと白人社会でサバイブできない哀しさなんかも描かれていて、なかなか一筋縄ではいかない。ここのあたりのバランス感覚は映画としては無類だとおもう。
 白人側(名門大学だけあってガワだけはリベラル)の描写にも「もう十分"譲歩"したじゃないか、これ以上なにが望みなんだ」というポリコレ疲れが反映されていてとても現在的。挙句の果てに「おまえら黒人は本当は公民権運動前が懐かしいんだろ? 戦うべき相手がいるから」などと運動家の学生に言っちゃう。
 映画というメディアの特性か、『フルートベール駅で』やスパイク・リー作品みたいなバリバリ社会派でさえ、日本人から観てて黒人差別のリアリティは伝わりづらいところが多い。スラムを舞台にしたギリギリな状況の作品が多いからかもしれない。そんななかで、中流以上*2における現在的な黒人の肌感覚を憑依させてくれる映画はなかなか貴重だ。

 ちなみに、ネットフリックスはこの映画をドラマ化する予定らしい。監督は同じくシミエン。主演はタイラー・ペリー*3のテレビコメディなどに出演していたローガン・ブラウニングや、歌手のブランドン・ベルなど。こちらもたのしみ。


👍『13th 合衆国憲法修正第13条(the 13th)』(エヴァ・デューヴァネイ監督)

 ネットフリックスで視聴。
 サブタイトルの「合衆国憲法修正第十三条」とは奴隷制を禁止した修正条項のこと。もちろん、黒人奴隷を解放する意図にもとづいた条項で、エイブラハム・リンカーンが1865年に制定した。この憲法修正を議会にどう通すかの駆け引きを濃密に描いたのが、スピルバーグの『リンカーン』だった。
 解放されても差別は残り、残った火種がKKKだったりセグレゲーションだったりして、公民権運動につながっていく。そうした対立の歴史を乗り越えて、2008年、ついに初の黒人大統領が誕生し、合衆国民はいつまでも仲良く末永く暮らしましたとさ、めでたしめでたし……。

 もちろん、嘘だ。差別は残りつづけ、なんとなれば奴隷制が存続してさえいる。
 現代の奴隷制、それは刑務所だと本作は主張する。
 全世界の囚人の25%がアメリカ合衆国国内に収監されており、その大多数は黒人だ。これだけ聞くと「やっぱり黒人は貧しい人が多いから、それで犯罪に走りがちなんだろうなあ」と安易に考えがちだが、話はそう単純じゃない。
 アメリカの抱える超長期的かつ構造的な黒人抑圧の歴史が暴き出され、わたしたちが漠然と抱いていた「黒人差別って要するにこういうことだよね」というイメージが刷新されていく。
  
 アメリカでは早くも今年を代表するドキュメンタリー映画という評価を受けているようだけれど、かなりコントラバーシャルな作品だから『ハンティング・グラウンド』や『ゴーイング・クリア』同様アカデミー賞レースにはもしかしたら絡まないかも。


👍『サイレンス(Hush)』(マイク・フラナガン監督)

Hush Movie Clip 1 - Netflix descriptive video, sign language, and subtitles

 ネットフリックスで観た。
 人里離れたコテージで過ごす聾唖の女性がイカれた殺人鬼に狙われるサイコ・スリラー。
 と言ってしまえは一行でコンセプトの説明はすむけど、結構テンプレを外してきてなかなかにユニーク。
 まず殺人鬼が仮面をかぶって幽霊みたいに現れる。やたら膂力があったり、気づいたらテレポートしてくる系の超人的なサイコ怪物なのかな? と思っていたら、わりあい序盤で仮面を脱いでしまう。
 女性がガラス窓に「私はあなたの顔を見ていない。しゃべれないから通報もできない。見逃してくれ」と書いて懇願するんだけど、それを見た殺人鬼が仮面を外してこう宣言する。
「これで顔を見たな? よし、殺す」
 ここから籠城する女性と攻める殺人鬼のガチバトルがはじまる。

 素顔の殺人鬼は、眼光こそ常ならぬものを帯びているものの、どこかナヨッとしたアンちゃんだ。
 じっさい、体力や筋力もせいぜい平均程度しかないため、女性が必死になって抵抗すると案外手痛い一撃を食らってしまう。
 いちおうボウガンが上手という特殊技能もあるにはあるのだが、そのボウガンと争ううちに女性に奪われる。
 しかも、攻めあぐねていると女性の友人の恋人であるマッチョ男がやってきて、あからさまに殺人鬼を訝しんでくる。
 体格差は一目瞭然であり、正攻法では殺人鬼はマッチョに勝てない。さてどうするのか――。
 と、「殺人鬼がわりと貧弱」という設定を加えるだけで予想外の方向からドラマがつぎつぎと生まれてくる。
 しかし、この殺人鬼も殺人鬼やっているだけあって殺したいという気持ちは人一倍。その殺る気もとい、やる気でもって全力で殺しにくるから迫ってくると超怖いし、緊張感は出る。

 女性側のドラマ描写も丁寧。弱者がいかに絶望的な状況で道を切り開くかというテーマ性のある作劇も両立できている。


👍『ハイライズ(High-Rise)』(ベン・ウィートリー監督)


映画『ハイ・ライズ』特別映像

 いいかげん書くのつかれてきた……。
 トム・ヒドルストンがイヌを焼いて食っていたり、子どもが暴動を起こしたり、マンションの上階から落下してきた男が車のボンネットにつきささる瞬間をウルトラスローモーションで撮ったり、まあそれなりに愉しい。


👎ジェイソン・ボーン(JASON BOURNE)』(ポール・グリーングラス監督)
 今回のライバルはスナイパー! というわけでスナイプシーンが都合三回くらい出てくるんだけど、どれも中途半端というか、『ミッション・イン・ポッシブル:ローグ・ネイション』のカッコよさをすこしは見習って欲しい。
 ただ、ラストのカーチェイスは「そこまでやるか」とわらっちゃうくらい過剰なんで一見の価値あり。


👍『SCOOP!』(大根仁監督)

【映画】SCOOP! 予告集 “特報”

 大人になれない大人たちの青春がグズグズに崩れていくさまはいつ観てもいいものですね。


👍『グッバイ、サマー(Microbe et Gasoil)』(ミシェル・ゴンドリー監督)

ミシェル・ゴンドリー監督の青春ムービー!映画『グッバイ、サマー』予告編

 夏休み映画のあらたなオールタイム・ベスト。
 よく女の子に見間違えられる少年とやんちゃ系少年の二人組がなんと自分らでキャンピングカーをこしらえてフランス横断の旅に出る。
 ミシェル・ゴンドリー映画の夢遊病めいたガジェットがあの年代特有の可能性と全能感に見事にマッチしていて、このうえないグルーヴを生み出している。


👏『淵に立つ』(深田晃司監督)

『 淵に立つ 』HARMONIUM (2016) Clips

 メトロノームにあわせてパーツごとに描出されるタイトルにやられ、夫婦の平穏な不穏さにやられ、浅野忠信のたたずまいにやられる。
 一家三人+浅野忠信のが朝飯を食うところを長回しで撮っているシーンがべらぼうにいい。浅野忠信だけめっちゃ食べるのが早いんですね。この時点では半分伏せられている彼の来歴(でもまあだいたいのひとはなんとなく察している)からすると当然なんだけど、絵面として見せられるとものすごい異物感。なんだかんだで同期している三人のなかに、ひとりだけBPMの違うやつが投げ込まれる。そのフレッシュさ。


👍『粒子への熱い思い(Particle Fever)』
 ネットフリックス。
 CERNによるヒッグス粒子発見を追いかけたドキュメンタリー。
 対立する二つの物理学理論があって、ヒッグス粒子の発見状況如何によってはどっちかが否定されてしまうかもしれない、というところに物語的クライマックスが置かれる。
「もし、あの理論が否定されたら、俺が五十年やってきたことは無駄になるよなー」と嘆息する老教授が印象的。そういうことだよなあ、新発見って。先日謎のカルトが侵入して儀式を行っていたとして話題になったシヴァ神像が、なぜCERNにあるかもわかります。


👍高慢と偏見とゾンビ(Pride and Prejudice and Zombies)』(バー・スティアーズ監督)

 『ランボー怒りの改新』(読んでないけど)みたいなもので、マッシュアップというのはいかに原作Aと原作Bのあいだを違和感なくスムースに行き来できるかにかかっている。そういう意味で、あらゆる事象がフラットに記述される小説という手段は比較的向いていて、逆に映画はそういうのがちょっと難しいのかもしれない。
 観る前はそんな心配をしていたけれど、無用な心配でした。
 ちゃんとゾンビ世界の世界観で『高慢と偏見』をやれている。


👍『ラスト・ウィッチ・ハンター(The Last Witch Hunter)』(ブレック・アイズナー監督)

 現代ニューヨークで生きる魔女たちの生態、というアイディアだけでノーベル『ジョン・ウィック』賞ですね。


👎『アングリーバード(Angry Birds)』(ファーガル・ライリ&クレイ・ケイティス監督)
 昨今の時勢的に(メキシコ系)移民排斥ととられかねないネタのオンパレードは原作要素をそのまま受け継いだせいらしいですが、それはそれとして洋邦ともに稀に見るアニメ映画の大豊作年である今年にあえて劇場へいって観るようなものでもなかったか。
 とりあえず、鳥が投石機から発射されて街を破壊する絵面はおもしろかった。
 破壊・崩落の快楽という点でも『コウノトリ大作戦!』に劣る気がするけれどもともかく。


👍『ドープ!(DOPE)』(リック・ファミュイワ監督)
 

映画『DOPE/ドープ!!』第2弾予告編

 ヨーロッパが『シング・ストリート』なら、アメリカは『DOPE』だ、ということで今年の青春音楽映画の双璧。
 黒人社会で生きるお勉強できる系オタク(九十年代ヒップホップマニア)を今ドキっぽい撮り方で撮る、というのはむしろ正攻法のヒップホップ映画より日本の映画ファンに伝わりやすいかんじがする。
 リック・ファミュイワはエズラ・ミラー主演の映画版『フラッシュ』を撮る予定だったみたいだけど、つい先日降板したそう。次何撮るんだろ。


👍『われらが背きしもの(Our Kind of Traitor)』(スザンネ・ホワイト監督)

『われらが背きし者』予告

 『ナイト・マネジャー』のスザンネ・ビアといい、ル・カレ映画を女性監督に撮らせる流れでも来ているのかしらん?
 内容自体は仁義〜ってかんじで佳いです。
 あと、『スーサイドスクワッド』の後遺症か、ヘリコプターが飛ぶシーンを長めに撮られると不安がはんぱない。


👍『何者』(三浦大輔監督)


『何者』予告編

 こころがいたい。

*1:ノア・エメリッヒが娼館にとらわれたポートマンを救出するシーンもよかった。

*2:黒人の中流家庭というのはイメージされているよりも割合的に多い

*3:本作の劇中では映画館に活動家の学生たちが押し寄せて「タイラー・ペリーもの以外の黒人向け映画を流せ! あんなクソ映画みたかねーんだよ!」と怒鳴り込むシーンがある

光のほうへ――アンソニー・ドーア『すべての見えない光』/千字選評(4)

アンソニー・ドーア『すべての見えない光』(藤井光・訳、新潮クレスト・ブックス、2016年)

 二千字になっちゃった。



 空気は生きたすべての生命、発せられたすべての文章の書庫にして記録であり、送信されたすべての言葉が、その内側でこだましつづけているのだとしたら。


p.511

すべての見えない光 (新潮クレスト・ブックス)

すべての見えない光 (新潮クレスト・ブックス)


 個性的な佳品から誰もが絶賛する傑作まで取りそろえる新潮クレストであるけれども、毎年一冊は「これぞ」という圧倒的な一冊を出してくれる。二〇一六年のそれは『すべての見えない光』だ。


 一九四四年八月、第二次世界大戦末期。ノルマンディーを始めとした欧州上陸に成功した連合軍はドイツ占領下にあったフランスをつぎつぎと奪還し、西フランスでは海岸沿いの小さな町サン・マロを残すのみとなった。
 サン・マロを完全に包囲した連合軍は居残るドイツ軍を追い出すべく、爆撃を開始。激しい砲火にさらされる市街に、十六歳の盲目の少女マリー=ロールと十八歳のドイツ工兵ヴェルナーがいた。
 この二人の少年少女がいかにして一九四四年のサン・マロまでたどりついたか、その足跡を軸に十年に及ぶ鮮烈な物語が語られる。

 本国アメリカでの大ベストセラー、ピューリツァー賞オバマも読んだ! そんなセンセーショナルな売り文句に反して、本書はなかなかにトリッキーな構成をとっている。
 複数の視点人物をおいて基本二、三ページからなるごく短い断章をならべつつ(短編「メモリー・ウォール」でドーアがものにした手法だ)、奇数章で一九四四年八月のサン・マロ、偶数章で一九三四年からはじまる二人の過去話を交互に叙述していく。


 内容は、ありていにいってしまえば戦時下でのボーイ・ミーツ・ガールだ。
 ボーイであるヴェルナーは、ドイツのとある炭鉱町の孤児院育ち。拾いもののラジオから流れてきた謎のフランス語科学教育番組に魅了され、科学者を夢見るようになる。だが、ナチス政権下では、孤児たちはみな十五歳になると鉱山へ送られる運命にあった。そんな彼の人生は、町に赴任してきたナチス青年将校のラジオを修理したことがきっかけで変転する。エンジニアとしての才能を見込まれ、将校の推薦で国家政治教育学校*1という党員養成のためのエリート校へ入れられる。そこで鳥好きの内気な少年と友情を育んだり、数学の才能を発揮して特別な実験に駆り出されたり、凄惨ないじめを目撃したりする。だがいつまでも学園生活は続かない。日を追うごと戦況は悪化していき、彼もまた否応なく戦場へと駆り出されていく。
 一方、ガールたるマリー=ロールは病気で光を喪うが、貝の専門家である博物館の研究員に導かれてこちらも科学に魅了される日々を送る。が、ナチスのフランス侵攻で父子ふたりのつましい生活も一変、金持ちだが精神を病んだ大叔父エティエンヌの住むサン・マロへとおちのびる。
 科学に通じたエティエンヌは読書好きな彼女のためにダーウィンを読み聞かせるなどして距離を縮めていくものの、ある日彼女を絶望へと叩き落とす大事件が起こる。やがてサン・マロもドイツに占領されてしまい、マリー=ロールも対独レジスタンス活動に巻き込まれていく。
 この二人の他にもう一人、定期的に現れる視点人物がいる。死病を患った元宝石職人のドイツ軍下士官フォン・ルンペルだ。彼は「所持者に永遠の命を与えるが、その周囲の人々をすべて奪い去る」という伝説を持つ宝石〈炎の海〉を血眼で追い求める。そして、宝石を所蔵していた博物館の館主がマリー=ロールの父親へそれを託したと知るや、サン・マロへと向かう。
 三人とそれを取り巻く人々の運命が一九四四年八月に交錯し、大きなうねりへ変わる。


 本書をたのしむにあたっては多様な切り口がある。
 ギムナジウムもの、戦争文学、ボーイ・ミーツ・ガール、科学少年少女の成長物語、レジスタンス/スパイ、宝探しのサスペンス。
 そうしたサブジャンル的な枠組みの連続がアンソニー・ドーア的なモチーフ(科学、鳥、貝殻、記憶、古典冒険小説 and etc)と彼一流の叙情的な文体に彩られて読者へと供される。いわば、作家としての集大成的な作品だ。
 とはいえ、『メモリー・ウォール』や『シェル・コレクター』などといったドーアの既作を知っておく必要はない。むしろ、これをドーアの入門編にしたほうがいいぐらいだ。ドーアの作家的感性や特質がいかんなく発揮されつつも、丁寧な描写と訳者の努力のおかげで非常に読みやすく仕上がっている。
 ドーアの特質、といったが『メモリー・ウォール』(新潮クレスト・ブックス)の故・岩本正恵による訳者解説によれば、「科学と文学の融合が挙げられる」ことにあるという。ドーア本人曰く、「ぼくにとって、文学と科学はけっして遠く離れた別々のものではない。どちらも『われわれはなぜここに存在するのか』という問題を扱っているのだから」*2
 ドーアのテーマがもっともよく現れるモチーフは、おそらく「記憶」だろう。本作の終盤でも、記憶が極めて重要な役割を演じる。

 ドーアは技術に詩性を見出す。光も音も文字も記憶もすべて、技術によって伝わり、交わるからだ。神が宿っていない行は一行たりとも存在しない、まごうことなく今年の新潮クレストを代表する傑作。

(1981文字)

小路啓之について。

www.yomiuri.co.jp


 小路啓之が亡くなった。交通事故だった。第一報を伝えた読売新聞の見出しは「漫画家死亡、「リカンベント」型自転車で転倒か」。twitter のトレンドワードに「リカンベント」が浮上し、みなリカンベント自転車についてコメントしていた。小路啓之について言及してる人はそんなに多くなかった。「小路啓之」と「リカンベント」で知名度の比較調査を行ったら、後者が勝つ。デビューから来年でちょうど二十年。小路啓之とは、そういう存在だった。


 ふだんは好きな作家の訃報を聞いても「悲しいけど、まあそんなものか」としか思わない。しかし、小路啓之に関しては、この時期に、この歳で、このクラス(自分にとっての)の人が、これからというときに、とさまざまなファクターが絡み合うせいか、やたらに心乱される。

 出た本はだいたい漏らさず読んできたはずだけれども、これまであまり真剣に小路啓之について考えたことがなかった。

 ひとことでいえば、童貞臭い恋愛話を書く漫画家だ。自意識過剰な男がエキセントリックな女に出会い、まあなんか色々てんやわんやで行きつ戻りつして、最終的に人間的にちょっと成長する。そういうものをポップな絵とサブカル/オタクネタのリファレンスとシニカルな人間観察でかろやかにつなげていく。今風、といえば、っぽいのかもしれない。
 それじゃあ今時ウケするずいぶん爽やかな作風だったんだねといえば、そう簡単にはくくれない。小路啓之の書く「愛」だの「恋」だのは世間一般の基準からすればやや変態的な、ともすれば字義通りの意味で犯罪の域にすら達している。そのねじくれ具合がついにアニメ化なんなりという形で大衆性を獲得し得なかった大きな原因だったのかもしれない。


 たとえば、『ごっこ』。
 三十歳の独身無職である「ボク」が三歳のパワフルな女児「ヨヨ子」を育てる、というガワは『よつばと!』みたいなシングルファザー子育てギャグ漫画だ。しかし、二人が出会うきっかけが狂っている。真性のロリコンである主人公が隣家で日々虐待を受けていたヨヨ子を誘拐し*1、「思いを遂げようと」(原文ママ)するが、ギリギリで「ヨヨ子とずっと一緒にいたい」という願いが湧き「ヤッて男と女の関係になってしまえばもろいが、パパになれば関係を永続できる」と考えて「良きパパ」となろうと決意する。

 ギリギリもクソもなくフツーにアウトな設定なんだけど、反動で本編は穏やかに進んでいくかとおもいきや、ヨヨ子を預けた先の保育園の経営者これまたロリコンのおっさんだという危ない綱渡りをガンガンつっこんでいく。単にコードギリギリのところを突いて戯れるだけなら、倫理チキンレースしかできない三流作家で終わるだろう。が、『ごっこ』のおそるべきはまじめに育児マンガとして知見があったところで*2、オムニバス形式の漫画としても一見はちゃめちゃやっているようで、ひとつひとつが賢くまとまっていた。一部のアングラ作家とは異なり、ギリギリで「こちら側」に踏みとどまれるだけの倫理技術もあった。要するに、マッスルがあった。インテリジェンスがあった。

 フィクション作家には自分の創り出したキャラクターや世界や設定に振り回されてしまう人も少なくないんだけど、小路啓之にかぎってそういうことはなかった。彼ほど、過激なキャラクターや設定を前面に出して、かつそれらを飼いならせる漫画家も稀だった。

 『ごっこ』にかぎらず、『かげふみさん』(殺し屋の協力者)、『束縛愛』(監禁)、『犯罪王ポポネポ』(各種様々)とやたらリアル犯罪者をフィーチャーしてくるし、終盤のモチーフとしてよく死を持ち出す。主人公はほぼ例外なく浮世離れした特技や能力やオブセッションを持つ。絵柄と作風で成り立つギリギリのレベルまで極端さを詰めこむ。
 極端を大盛りにしたのは、たぶん、小路啓之なりのテーマを描きたかったからだろう。テーマとはつまり、愛だ。人と人とわかりあう。通じ合う。誰かのために自らを捧げる。与える。奪う。知る。みんな平等にパラノイアックで病んでいる。
 極から極へ振ることで、小路啓之は愛を遠心分離しようと試みた。
『来世であいましょう』や『メタラブ』では、その高みに触れかけた瞬間が何回かあったとおもう。


 考えてみればただの自転車でも自動車でもなくリカンベントでクラッシュする、というのはいかにも小路啓之の漫画っぽい死に方かもしれない。ただ漫画のような生き方をしている漫画家はおもしろいかもしれないが、漫画家だからといって漫画みたいな死に方をしてもらってもなんだか困る。
 自分の好きな作家はできるだけ死なないでいてほしいと思う。なんか人生がつらいだとか、もう人間やめたいだとか、そういう精神的に自殺をねがうだけの理由があったら仕方ないけど、本人が死ぬつもりもないのにいきなり死なないでほしい。勝手な希望かもしれないが。

 遺作は『ミラクル・ジャンプ』連載の『雑草家族』と『月刊コミックフラッパー』連載の『10歳かあさん』の二作。単行本にまとまるときには、『10歳かあさん』のほうには今年二月に掲載された読み切りも収録されるだろう。
 それでお仕舞いというのも、なんだかさびしいよ。

*1:誘拐当時は二才であるからロリコンというよりはペドフェリア

*2:たぶん実生活で子育てした経験が作品に反映されていたのだろう。こんな設定の漫画にそんなもん反映させていいのかみたいなところはあるけど