名馬であれば馬のうち

読書、映画、ゲーム、その他。


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小路啓之について。

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 小路啓之が亡くなった。交通事故だった。第一報を伝えた読売新聞の見出しは「漫画家死亡、「リカンベント」型自転車で転倒か」。twitter のトレンドワードに「リカンベント」が浮上し、みなリカンベント自転車についてコメントしていた。小路啓之について言及してる人はそんなに多くなかった。「小路啓之」と「リカンベント」で知名度の比較調査を行ったら、後者が勝つ。デビューから来年でちょうど二十年。小路啓之とは、そういう存在だった。


 ふだんは好きな作家の訃報を聞いても「悲しいけど、まあそんなものか」としか思わない。しかし、小路啓之に関しては、この時期に、この歳で、このクラス(自分にとっての)の人が、これからというときに、とさまざまなファクターが絡み合うせいか、やたらに心乱される。

 出た本はだいたい漏らさず読んできたはずだけれども、これまであまり真剣に小路啓之について考えたことがなかった。

 ひとことでいえば、童貞臭い恋愛話を書く漫画家だ。自意識過剰な男がエキセントリックな女に出会い、まあなんか色々てんやわんやで行きつ戻りつして、最終的に人間的にちょっと成長する。そういうものをポップな絵とサブカル/オタクネタのリファレンスとシニカルな人間観察でかろやかにつなげていく。今風、といえば、っぽいのかもしれない。
 それじゃあ今時ウケするずいぶん爽やかな作風だったんだねといえば、そう簡単にはくくれない。小路啓之の書く「愛」だの「恋」だのは世間一般の基準からすればやや変態的な、ともすれば字義通りの意味で犯罪の域にすら達している。そのねじくれ具合がついにアニメ化なんなりという形で大衆性を獲得し得なかった大きな原因だったのかもしれない。


 たとえば、『ごっこ』。
 三十歳の独身無職である「ボク」が三歳のパワフルな女児「ヨヨ子」を育てる、というガワは『よつばと!』みたいなシングルファザー子育てギャグ漫画だ。しかし、二人が出会うきっかけが狂っている。真性のロリコンである主人公が隣家で日々虐待を受けていたヨヨ子を誘拐し*1、「思いを遂げようと」(原文ママ)するが、ギリギリで「ヨヨ子とずっと一緒にいたい」という願いが湧き「ヤッて男と女の関係になってしまえばもろいが、パパになれば関係を永続できる」と考えて「良きパパ」となろうと決意する。

 ギリギリもクソもなくフツーにアウトな設定なんだけど、反動で本編は穏やかに進んでいくかとおもいきや、ヨヨ子を預けた先の保育園の経営者これまたロリコンのおっさんだという危ない綱渡りをガンガンつっこんでいく。単にコードギリギリのところを突いて戯れるだけなら、倫理チキンレースしかできない三流作家で終わるだろう。が、『ごっこ』のおそるべきはまじめに育児マンガとして知見があったところで*2、オムニバス形式の漫画としても一見はちゃめちゃやっているようで、ひとつひとつが賢くまとまっていた。一部のアングラ作家とは異なり、ギリギリで「こちら側」に踏みとどまれるだけの倫理技術もあった。要するに、マッスルがあった。インテリジェンスがあった。

 フィクション作家には自分の創り出したキャラクターや世界や設定に振り回されてしまう人も少なくないんだけど、小路啓之にかぎってそういうことはなかった。彼ほど、過激なキャラクターや設定を前面に出して、かつそれらを飼いならせる漫画家も稀だった。

 『ごっこ』にかぎらず、『かげふみさん』(殺し屋の協力者)、『束縛愛』(監禁)、『犯罪王ポポネポ』(各種様々)とやたらリアル犯罪者をフィーチャーしてくるし、終盤のモチーフとしてよく死を持ち出す。主人公はほぼ例外なく浮世離れした特技や能力やオブセッションを持つ。絵柄と作風で成り立つギリギリのレベルまで極端さを詰めこむ。
 極端を大盛りにしたのは、たぶん、小路啓之なりのテーマを描きたかったからだろう。テーマとはつまり、愛だ。人と人とわかりあう。通じ合う。誰かのために自らを捧げる。与える。奪う。知る。みんな平等にパラノイアックで病んでいる。
 極から極へ振ることで、小路啓之は愛を遠心分離しようと試みた。
『来世であいましょう』や『メタラブ』では、その高みに触れかけた瞬間が何回かあったとおもう。


 考えてみればただの自転車でも自動車でもなくリカンベントでクラッシュする、というのはいかにも小路啓之の漫画っぽい死に方かもしれない。ただ漫画のような生き方をしている漫画家はおもしろいかもしれないが、漫画家だからといって漫画みたいな死に方をしてもらってもなんだか困る。
 自分の好きな作家はできるだけ死なないでいてほしいと思う。なんか人生がつらいだとか、もう人間やめたいだとか、そういう精神的に自殺をねがうだけの理由があったら仕方ないけど、本人が死ぬつもりもないのにいきなり死なないでほしい。勝手な希望かもしれないが。

 遺作は『ミラクル・ジャンプ』連載の『雑草家族』と『月刊コミックフラッパー』連載の『10歳かあさん』の二作。単行本にまとまるときには、『10歳かあさん』のほうには今年二月に掲載された読み切りも収録されるだろう。
 それでお仕舞いというのも、なんだかさびしいよ。

*1:誘拐当時は二才であるからロリコンというよりはペドフェリア

*2:たぶん実生活で子育てした経験が作品に反映されていたのだろう。こんな設定の漫画にそんなもん反映させていいのかみたいなところはあるけど

不可能とアンビバレントによる快楽 ―― ジュンパ・ラヒリ『べつの言葉で』/千字選評(3)

 そろそろお気づきかと存じますが、フフフ、本連載は〈新潮クレスト・ブックス〉全レビュー企画です。フフフ、ウソです。


ジュンパ・ラヒリ『べつの言葉で』(中嶋浩郎・訳、新潮クレスト・ブックス、2015年9月30日)

べつの言葉で (新潮クレスト・ブックス)

べつの言葉で (新潮クレスト・ブックス)



 ある特定の場所に属していない者は、実はどこにも帰ることができない。亡命と帰還という概念は、当然その原点となる祖国を必要とする。祖国も真の母国語も持たないわたしは、世界を、そして机の上をさまよっている。最後に気づくのは、ほんとうの亡命とはまったく違うものだということだ。わたしは亡命という定義からも遠ざけられている。


p.86, 「二度目の亡命」



 『停電の夜に』などで知られるベンガル系アメリカ人作家ジュンパ・ラヒリが、二十七歳で初めて行ったイタリアに魅了され、その後十数年に渡ってイタリア語を学び、四十代で一念発起してローマへ移住した。本書はそんな彼女がイタリア語で書いた初のエッセイ集(と二編の掌編)だ。
 日本人で海外移住して現地語で作品を発表している作家といえば、まっさきに参照されるのは多和田葉子だろう。その多和田でもドイツへ移住したのは作家デビュー前の、二十代前半のときだった。そこへきて、ラヒリはローマに移住した時点ですでに立派に名を成した大作家だった。
 いわば英語という言語のプロなわけで、その彼女がなぜまったく縁もゆかりもない未知の言語を学び、未知の国へ飛びこんだのか。その動機の謎がイタリアでの生活を通じてゆるやかに解きほぐされていく。

 ラヒリは来歴は複雑だ。カルカッタ出身のベンガル人の両親のもとでロンドンに生まれ、幼いころにアメリカへ移住した。両親の言語であるベンガル語を彼女はうまく話すことができず、自分のネイティブである英語を両親はうまく話すことができない。ベンガル人にもアメリカ人にもなりきれない。
 そんな二つの言語と国に引き裂かれたアイデンティティに対する不安が彼女を創作に走らせた、とラヒリは自己分析する。「書くことは長期にわたる不完全さへのオマージュなのだ」と。つまり、小説とは執筆しているあいだは常に未完成なものであり、完成に向かってるはずなのに完成できない感覚を持ちつづけなければならない人生の状態に似ている。小説はいつかは書き終わるものだが、完成したらしたで出来そのものの不完全さを痛感させられる。「ある種の頂点には立てないことを知ることは極めて有益です」とは本書で引用されるカルロス・フエンテスの言葉だ。この世には完璧な小説も完璧な人生も存在しない。

 母語ではない言語の学習も不可能性の点では小説や人生と変わらない。厳密には母語ですら完璧に体得するのは無理なのだけれども、外国語の学習はその不毛さがより際立つ。おぼえても、おぼえても、知らない単語が出てくる。単語や文法のテストで百点を取れたとしても、書いたり話したりするとどうも不自然になる。
 ラヒリはだからこそ、まったく自分に関係のない言語だからこそイタリア語に恋をしたのかもしれない。彼女はその不毛さを愛している。その距離感を愛している。その完成しない不完全さを追い求める熱情がラヒリという作家の動力源なのだろう。

(1025文字)

あなたが選んでくれた国――千字選評(2):『陽気なお葬式』リュドミラ・ウリツカヤ

『陽気なお葬式』リュドミラ・ウリツカヤ(奈倉有里・訳、新潮クレスト・ブックス、2016年2月25日)




 ここにいる、ロシアに生まれた人々は、生まれ持った才能も受けた教育も、あるいは単に人間としての素養も、何もかも違ったが、ひとつ共通点があった――みんな、なんらかの事情でロシアを出てきた人々だ。ほとんどは合法的に出国していたが、なかにはもう国に戻れない者もいるし、いちばん無茶な者は不法に国境線を越えてきていた。けれども国を出てきたのだという共通項が、彼らを繋いでいた。いくら考え方が違っても、亡命後の人生が違っても、亡命という一致はゆるぎなくひとつだ――それは越えた国境線であり、途切れた人生であり、また先端の切り落とされた古き根を、成分も香りも異なる新しい土地に貼り直すことである。


 p.117

 画家が死にかけている。1991年、夏、ニューヨーク。彼の容態を聞きつけて、かつての恋人や愛人を含む友人たちがアパートの一室に集う。ロシア正教に帰依している妻は、天に召される前になんとか不信心な夫を改宗させたいと考える。それを夫に伝える。夫は妻の要求を呑むが、正教の司祭といっしょにユダヤ教のラビも呼びたいという。彼は亡命ロシア人でもあり、ユダヤ人でもあるから。「別の可能性を検討させてもらう権利だってあるだろう……」。
 こうして物語の登場人物は増えていき、現れるごとにその人の来歴が語られる。

 イリーナは老画家の元恋人で、サーカス一家に生まれた。彼女はサーカスを脱け出すと、ユダヤ教徒を夫に迎えて二年ほど信仰篤く生きたのち、ここからも脱け出して弁護士になる。彼女は老画家に対して妙な未練を抱いている。悪徳画廊に騙されて困窮している夫婦を陰ながら援助したりもするけれど、無邪気な画家夫婦はそんなこととはつゆ知らず、放埒な生活に明け暮れる。彼女はほのかな嫉妬を燃やす。
 そのイリーナの元夫を介して招かれたラビは、イスラエル建国翌日に生まれてからというもの人生の大半をイスラエルで過ごしてきた生粋のユダヤ人。大学でユダヤ学の講座を受けもつために訪米して、まだ三月だ。ユダヤ教を教えられずに育ったユダヤ人たちが「本物のユダヤ人」たちより多くなった現状を半ば嘆きつつ、「私は生まれたときからユダヤ人だった」と枕元で言う彼に、老画家は「こいつも選択しないで生きてきたのか。なぜ俺には山のような選択肢が与えられてきたんだろう」と考える。
 実はラビにも選択の機会がないではなかった。彼は若い頃に西洋哲学を学ぶためにドイツへ留学し、のちに宗教へ回帰した人物だった。ニーチェマルクスショーペンハウアー、夜の乏しきドイツ哲学は無神論の本場だ。彼はドイツを通過してイスラエルへと帰還し、彼より一世紀前に生まれた哲学者の裔たちはロシアで神なき国を興した。

 あまねく人生は選択の連続であって、その小さな選択の集積が歴史になる。生き死にはどうにもならない事柄だけれども、それでも「どう」生まれたり死んだりするかに関しては各々の裁量に委ねられるところも多い。亡命や逃走や脱出といった行動もまた選択肢のひとつであり、そして言ってみれば、アメリカやニューヨークとは亡命者たちの国だ*1。選択したものたちによる、可能性の国。
 そんな人たちの人生が、老画家の死を中心にして十数人ぶん、ウリツカヤ一流のやわらかなタッチでスケッチされていく。

(1050文字)

陽気なお葬式 (新潮クレスト・ブックス)

陽気なお葬式 (新潮クレスト・ブックス)

*1:まあもちろん、自らの選択によらず連れこられた人々も多いわけだけれど、それはあんまりロシア的な視点ではないんだろう